よりによってなんて事を言いだすんだいっ!

男の口を封じねば、と口を開こうとした瞬間、蛇之介がその場を割って走りこんでくる。

『もうやめて!もういいから!』

近隣の目を気にする気持ちは文子も蛇之介も同じであった。かねてよりこの高級住宅街において一家は奇異の目で見られ続けてきた。
かたや『読書三昧の風変わりな奥様』。蛇之介にいたっては『父なし子、ホステスの息子、母子家庭の子』いくつもの不名誉な肩書きを幼少の頃より背負わされてきた。
安寧を願う蛇之介の気持ちが勝り、文子の目論見を他所にあっさりと"ぶるつり"を再び敷居の内に引き入れてしまった。

銭湯帰りなのだろう、確かに石けんの匂いもするが、上気だったその男からは何日も溜め込んだのち吹き出た酸えた汗の匂いがふんだんに立ち上る。

『くっそばばあ!!!』

飛び出るかと思うくらいに目を見開き、拳を振り上げた"ぶるつり"は何のためらいもなく老婆の鳩尾を打ち据えた。

あまりに突然の出来事に文子は声すら出さず吹き飛んだ。幸いにも真後ろに立っていた孫に抱きかかえられる形に至ったため、二次的な負傷は免れた。
文子は生まれて初めて『人が気を失う』瞬間を体感した。薄れゆく意識の中で、何故か遠く甘く懐かしい思いに駆られた。

そして、文子自身も思いがけずある人の名前を口にする。

『善三さん。』

意識とは裏腹に強く波打つ鼓動がその晩の文子の子守唄となった。