何のこれしき、

翌朝目覚めた文子は鳩尾に軽い痛みを覚えたがゆうに起き上がることができた。立ち上がるといつも以上に全身に血が漲るのを感じ、不敵に笑う。

血気盛んであった頃の善三から日常的に受けた叱責と暴力。周囲の目を気にしてか、彼は顔は避け、腹や尻をひどく付け狙った。そんな日々の賜物か、文子はほぼ無意識的に"ぶるつり"の拳の衝撃を最小限にとどめるすべを身につけていたようだ。

洗面台の鏡を見やり、笑っている自分を見て文子は愕然とする。

私は狂っている!!!

世に言うマゾヒズムとは少し違う気がする。痛みに快感を覚えていたわけではない。日々、良人からの叱責・暴力を今か今かと怯えて暮らしてきた。
しかしながら一方で何事もなく終えることができた日は却って疲れ、不安に襲われる。

そして、殴られる、瞬間にだけ、安堵を、覚える!!!

狂っている!狂っている!狂っている!

ぶり返す過去の恐怖に文子は打ち震えた。
暴力を待ち焦がれる私!
暴力に安堵する私!
何という自己矛盾!

良人の罵声やその高く突き上げられた拳を思うと胸が高鳴る。そんな自身を忌み嫌い、文子は白昼、読書に耽る。書に向かっている間は、自分の中にある狂気を忘れることができたのだ。

文子は曰くの歯ブラシを手に携えていた。
人目を憚って縦笛を手にする男児を彷彿させる立ち姿。
トクン、トクン、トクン、トクン、、、

『ヴォォレッ!!!』

何をしているの、私!、歯ブラシを口元にあてがう寸前で文子は我にかえることができた。慌ててそれを新聞紙に包み、ゴミ箱に投げ棄てると文子は台所へ逃げ去った。

『僕の歯ブラシが無いじゃないか!ふん、まぁいい。磨けと言うから磨いてやってるだけのことだ。僕にはさして大きな問題ではないからな。』

奥から"ぶるつり"が活動開始の一声を上げた。