優しい人は小声で教えてくれる
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
なかなか世間は殺気立っているが
世界も捨てた物じゃないなって思う 人の悪意に触れることが多いのだが
いい人もいるんだなと たいていのことは自分でわかるか調べられるから人に助けられることはほぼ無いのだが
方法の手がかりさえ見つけられないのだが 可能性として世界は悪意に溢れているのではなく
善意に触れる機会がないのかもしれない そう思うと自立という概念はなかなか考え物だな
困ることが少なければ助けがいらない=善意に触れる機会が減る さすがにラインって言うのはあるのだとは思うが
全部助けてになった場合
悪意が押し寄せてくる可能性もあるかもしれない 世の中には修復師という職業が存在しているのだが
全体の三分の一くらいを白蟻に喰われた絵を修復できる人というのは
存在しているのだろうか youtubeで怖い話の朗読でも聞きながら眠るかな アナグラムの可能性も無きにしも非ずではあるが
ただの不明な文字列による錯乱である可能性が大だな 欲に対して人によって個人差があるのだが
物欲について思うことがある 物を大切にするとかそういうのはわかるし
コレクションという形でそろえるのもわかる ゾっとするレベルで物をため込むタイプに対しては良くわからないことが多いな 自分の髪の毛とか爪とかを収集するタイプはある意味一貫性があるので
わからないでもない わからないのは高価なものをこれでもかって買い続けていくタイプだな 自分の部屋なり家にきれいに収まる程度なら収集もわかるが 高価なもので足の踏み場もないというか入口から奥まで天井までぎっしりつまってる的な
ゴミ屋敷みたいになってるタイプはマジでどうかしてると思う もしかしたら物欲でやってるのではないのかもしれないな まぁアレだよな。現象として見えていることを物欲によるものという前提が違うのかもしれない
なんらかの事情でそうなっている可能性の方が大きいかもしれないな 物欲に見えるものは他の要因の結果による物の蓄積化というのが正解に近いか 確かに在庫の山を「収集癖があるね」なんて言ったらキレそうだしな 最初の目的が販売目的で結果として売れなかった場合は収集癖とは違うが
売る目的では無く自分で購入していっている場合はやはりよくわからない イギリス人ならここで起きれるか起きれないか賭けが始まるな 8:30 電話がかかってくる
9:00 軽く談笑
10:30 図書館で調べもの
12:00 知人の店で待ち合わせ 優しくない人間っていうのは言葉では「ありがとう」って言ったりするな そういえば最近コックシューズという靴のジャンルがあることを知った 個人的にはクックシューズって言った方がいいと思うが コックシューズで通ってるからまぁ仕方ないとするが
アメリカ人が聞いたらド変態だと思われるよな i wana コックシューズ
とか言ってみたりして お経というのがなかなかトランスミュージック的にハマるというよりぶっ倒れる感じがする 基本眠くなるのだが
眠気を覚ますような鐘の音?で変な感じに飛ぶな 音や焼香の香りにによるある種の世界観の演出?というのだろうか
そのラインに行く的な 今日、法要があったのだがマジでぶっ倒れて救急車呼ばれてた人がいた エルビスプレスリーのコンサートで失神とは違うタイプの飛び方だと思う 禅宗は瞑想による自力でそのラインまで行く必要があるのだが
念仏系で音とか多用する場合、オートマチックにそうなるって感じだよな 目的として到達するライン(世界)があったとして
そうすればそうなるみたいなのは、ソウルの共有というか
そこが神髄のような気もする 能は一種の舞台装置であって
その空間を再現するみたいな説があったのだが 地獄云々とかサタン云々っていうのは
これ以上いったらアレなんだけど
組織を維持するための上納金収集的なアレかなと 鉄琴?っていうのかな
念仏のベース音に高音の鐘の音はけっこうくるわ 鎌倉時代に流行った踊念仏というのは経験が無いのだが
ノリがトランスというかハロウィン的だよなとは思う 宗教の目的が煩悩をすっきりすることであるならば
意識を飛ばすのは正解に近いとはいえるな これは俺の説だから宗教というより享楽主義なのかもしれないが これからは自己紹介で自分は快楽主義というのをやめて享楽主義というべきかな 快楽主義って言うとなんかエロいニュアンスがあるからな その到達するラインが快楽とか享楽という言葉とは人によっては若干違うものかなとは思うが
その場にいたら自動的にそうなる的なのはやはり宗教チックかなと これ以上書いたらいろいろヤバ気なことを書きたくて溜まらないのをぐとこらえる 新興宗教系の人に多いんだが周りを見ていないっていうのは感じるな 少し会話をすると、なぜそれを知らない?
ってことがボロボロでてくるというか 信仰と状況を見るというのは別の事ではあると思うのだが
単一視点で他を見ないというのはどうかなとは俺は思う 自我を消すというのと流されるというのは似て非なる概念ではあると俺は思っている 日蓮について多少興味が出たので
日蓮が最も重要な経典だといい、法華経以外を信仰すると無限時刻に堕ちるとまで言い切った
法華経について軽く調べてみたのだが
ありていに言うと差しさわりがあるのだが
これはアレだよなって思った ある意味自己の理想を実現するために
人を陽動するための手段であって
陽動された人間は道具であるみたいな
そんな感じだよな 熱心な人たちの行動や思考パターンと照らし合わせると
そんな感じだな そろそろ夜だし読書しながら部屋の掃除をして
適度なところで眠るかな ここ数レスの内容に対して気分を害された人がいたのなら
徒党をくんで潰しに来ても構わないけど
まぁ好きにしなよって感じだな 宗教的正義マンとかめんどくさいけど
俺を潰したいなら
まぁやりなよって感じだな 結果に対して自分の意に沿う状況になるかは不明だけど まぁアレな
組織の中において疑問を感じる人は
信心が足りん!みたいな状況って発生してるんだろうな 戦国時代みたいにやるかやられるかの状況であるなら覚悟してると思うけど
現代のやられる状況を経験していない人達がやられた場合
その時こそ信心が試される状況っていう 救世思想というのは洋の東西を問わず
奇跡を起こす傾向があるな 日蓮について法華経と立正安国論の辺りを調べているのだが 鎌倉時代に成立した主要宗教を今の自分の認識で一回まとめた
■浄土宗
法然が開き阿弥陀仏を信仰する。
南無阿弥陀仏を唱える。
■浄土真宗
親鸞が開き阿弥陀仏を信仰する。
浄土宗よりも簡素化させたもの。
南無阿弥陀仏を唱える。
■日蓮宗
日蓮が開き法華経を最上のものとする。※浄土宗を全否定。
南無妙法蓮華経を唱える。 日蓮宗は現在の仏教系の新興宗教のベースになっている場合が多いんだよな 浄土思想の浄土がどこか(あの世かこの世か)によるのだが
日蓮宗は現生を浄土にすべきという考え方
現世利益と呼ばれる所以はそのあたりだな 日蓮宗系の法事には参加したことが無いのだが
読経のさいに使う楽器とか知りたいなとは思う 特徴として浄土宗、浄土真宗は教義が簡単。
日蓮宗はなかなか複雑。
という感じだな 日蓮の立正安国論を見るに
国家を安泰にすれば厳正に浄土が生まれるということで
国家を安泰にするために頑張っているということなんだろうけど 浄土系と日蓮系で重要視するポイントに差があるなとは思う たぶん日蓮はすべての人間が理解できるはずと思ってたんだろうけど
無理なんじゃないかなって普通に思う 無理なことは無理と最初から省いたのが浄土宗系であるとは思う この辺は現代においても無理な人間には無理っていうのがあるし
方法論というか手段に重点を置く方向になるのはわからないでもない 集団。社会としての向上を目指すのは良いとして
現世利益を望んでいる人に対して
陽動された結果、その人個人に対して必ずしも幸福であるかは謎だな 日蓮系の新興宗教に造詣が深い人がいたらその辺をぜひ尋ねてみたい 浄土系は個人に対しての救いであって
日蓮系は集団に対しての救いという感じだな 集団に対する救いはいいんだけど
その構成員が周りを見ていない傾向が強いという状況はいかがかなとは思う 過去言ったことと現在言っていることを照らし合わせると一発っていう 初対面の場合は判別は難しいのだが
数回会話すればだいたいわかるな 本当のことも混ぜているんだけど
過去言ったことと違うことを言うことがある場合
重要なことを嘘をついている確率は高いな あんま見抜くとかわいそうだから
気づかないふりしてあげるけど 気づいていないであげる限りにおいては
その世界は成り立っていて
まぁその人が満足ならいいかな的な 擁護するものと敵対視するものが極端な場合
ちょっとわかりやすすぎというか youtubeで怖い話の朗読でも聞きながら眠るかな ディフェンシブな嘘については指摘しないであげるのは優しさかなと思う 敵の一つの見分け方として
質問に対して質問していることとは違うことを答えるということがあるな この辺の攻撃は一定数やる人がいるのだが
ゲシュタルト崩壊的な異国情緒漂う感じがする 世界を牛耳るレベルの金持ちは知らないのでそこは省くが やたら金持ってるアピールとかするタイプの場合
金持ってる場合もあるんだろうけど
まぁ違うよなって思う 叩き上げタイプの場合
お前本当に金持ちなのか?ってこと平気でする傾向が強いな 金を目的ととらえるか手段ととらえるかの違いに近い感じはするが 会いたい人というのは特にいないのだが
世界を牛耳るレベルの金持ちのドキュメンタリー映画とかあったら見てみたいな
って思う ネットフリックスにそういうドキュメンタリー映画とかないかな 誰が世界を牛耳っているのか?
という問いに対しては 特定の個人では無いかもしれないが明確に存在しているよな 個人の存在が失われた場合のパワーバランスの変化というのが
なかなか興味深いなと思う 個人的に興味があるのはそういう人たちの価値観というか
何を目指しているのかということだな なんとなくその片鱗というのは感じることはあるが
一つは現状維持というのはあると思うのだが そこに宗教が絡んでいる場合
それなんだろうとは思うけど 本当にその人個人がそれを望んでいるのか?っていうのはマジで疑問だ 思うに宗教というのは集団のアイデンティティを保つために必要な部分もあるのだが
個人に犠牲を払う系のことが起こる場合においては
昔からある宗教に対しても一考する必要があるとは思う 教祖や神聖視される人物がいたとして
その人はそんなことは言っていない
はよくある話だからな 猫は知性が無いという人もいるが
俺は猫はある程度わかっていると思っている 勝手に恨んで勝手に攻撃してくる系の人たちがことごとくめんどくさい 論理展開において文書が読めないというか
言葉は通じているが会話が通じていないという状況について 文章を意図通りに読み取るであるとか、行間を読むであるとか
単純な国語力の問題というより 自分の主張を言い切るであったり通すというのが重要な人たちがいて 文章力とか会話以前のスタンスの問題である場合が多々あるかなと 例えば結論が最後にくるような、非常にまどろっこしい話し方をする人がいるのだが それは相手に伝えるが目的では無くて、自分の主張を言うことが目的であって 意図していることをりかいするために
最後まで話を「聞かなければならない」
になってしまう 一種のパワーゲームというか
発言権を渡さないであるとかそういう概念になってくるな つまり国語力とか読解力の問題では無く
他者に対して対等と思っていない状況かと 言った言わないの話であるとか
言質をとるであるとか
そういう事があるのだが
言ってはいけない言葉であるとか
これを言ったから悪いであるとか
単語であるとか言葉は
事象を表す一つの角度であって
一般的に良くない単語として認識されているものであっても
関係性によってはまったく問題ない場合もあるし
言葉としては問題なくても
状況や複合的な言外での内容を踏まえた場合
とんでもない内容になっている場合もあるし
猫を飼っていると
猫は言葉を使用していなくても、猫が何を求めているか
たいていのことはわかるというか
言葉を介しなくてもわかる状況というのは存在していて
本質は向けられている感情というのだろうか
そういうものだと思うんだよな 言葉じりを捉える系の人たちってより動物的というか、むしろ野生に近いなと思う TikTok LiteでPayPayやAmazonギフトなどに交換可能な4000円分のポイントをプレゼント中!
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非難や潰す目的でやってくる人に対してはそう言いたいのおはわかるが 単純な疑問点の質問を非難ととらえる場合ちょっとあれかなと思うな 人によっては質問レベルのことを非難ととらえて
何も答えなくなる人がいるが
個人レベルでなら別にその人のことなので構わないが
組織レベルでそれをやってる場合はだいぶアレだなと思う それは自分の方針に疑問を持たず従う人間を求めていることであって
ありていに言うと奴隷を求めているということかなと そのタイプの人間というのはスタンス問題というか
敵と味方の二極に考える傾向があり
質問に対して笑って答えないということをしたりしがちだな それを処世術の一種だと思ってるんだろうけど
アレだな これも程度による話なのだが
自分が心に傷を受けたとかいって、徹底的に攻撃してくるタイプの人たちって他人の心にダメージを与えることを正当化してるだけだよなって思う いろんなパターンの複合技を使って人に悪感情を向ける人ってなんでそんなに他人が気になるんだろう?
キムチ 膝に乗ってきた猫を撫でていたらいつのまにか眠っていた 日本の社会では沈黙を美徳とする風潮がある場合があるのだが 現実感とか統制感を形づくっているもの?って何なんだろう? ひずみというのは存在するが
見えなければ存在していないに近くはなるな 各個体の生活圏に目に見えるレベルで変化があれば現実感?は揺らぐような気はする 同じ出来事が複数人数におこれば集団的現実感
ある個人に出来事がおこれば個としての現実感が こうあるべきだ
こうしなければならない
これ系の束縛は窮屈だよな 自分の価値観外のことに対して怒りが湧きやすい人とかは
反例的な束縛?支配?傾向なのだろうか 束縛であるとか支配に対して共通項として
まず怒りが必要(必須条件)であるかどうか考えたとき
必ずしも必要ではない、かなとは思う 飴と鞭の関係から怒りというより鞭的な罰を与えるときの感情というのだろうか 束縛とか支配から抜けたときに怒りを感じるんだろうけど >>465みたいなときの感情ってどういう感情なんだろう? 束縛支配系の人たちの考え方がいまいちよくわからない 支配したい対象に鞭を与えるタイミングってどこなんだろう? 初対面でいきなり鞭を使ってくる場合
支配したいのではなく追っ払いたいが目的のことが多いような気がする 完成してるコミュニティに単独新規参入を試みる場合に
ウェルカムじゃなかった場合にときどき起こる出来事みたいな 罰(ばつ)と罰(ばち)のごとく
鞭を直接的もしくは間接的に使い分けて
束縛対象が好まない方向に行きそうになった時に
鞭を振るうときの感情ってどんな感じなんだろう? 男女間の場合は愛憎?
職場的な上下関係の場合は規律?
それとも支配欲? こういうの誰かに聞くのが早いんだが
どういう感情なのか教えてくれないだろうか? 束縛と支配の関係についてイメージとしては
束縛はクローズドな感じで
支配はパブリックな感じだな 束縛とか支配とか好きそうなキャラクターのジャイアンがいたとして
ジャイアンは日頃束縛とか支配とかいう言葉がしっくりしているようなことはしていない気もする ジャイアンが日頃している行為に
しっくりする言葉ってなんなんだろう? 鞭を使って囲い込むというか
そういうことをしたいと思ったことが無いので
束縛の為に鞭を振るうときの気持ちがわからない ジャイアンは束縛とか支配が目的では無く
感情優先で腕力タイプのためそうなってる感じなんだよな 鞭というか俺の勝手なイメージでは
バイトとかで先輩とかから指導されてるときの先輩の感情というか バイトの先輩が束縛とか支配とか言ってたらヤバいからな 時代を遡れば鞭のみ(飴は無し)で支配拘束していた例も見られるが 鞭だけで長期間ていうパターンって現在でもあるのかな? 阪神高速道路を通っての感想だが
高い位置に道路があって壁が低いのが視覚的に怖いのだが 自分が諦めて呑まれたのを
大人になったと言っているのが
非常に気分が悪い 論調として救援の邪魔になるから個人で行くなという話だが
たしかにそういう事もあるのだろうが
裏読みすると下手したら死ぬからやめろだな 雪降ってなくても脱輪して立ち往生してる車あったし
雪積もってたらマジで無理 この道行けるだろとか思って判断誤ったら崖から転落もあり得るな ブイヨンで煮込んだトマトベースのソースに豆苗という彩りを加えたい ダメージジーンズというファッションのジャンルがあるが
ダメージチノパンというジャンルもあるのだろうか? 何度かスカジャン持ってたこともあるけど
デザインに飽きて全部売っちゃったんだよな 一生持ってたくなる感じのバチバチのスカジャンが欲しい UKギャングのロードマンファッションにスカジャン合わせたい 体格が貧弱な人がロードマンやるとネズミ小僧になるらしいが
そこをスカジャンでカバーしたい それとは別に3月下旬から4月上旬に新宿あたり行きたいな あれだよな、叩けるところを叩くってスタンスの人ってめんどくさいよな 気持ちが大事とかいう論調というのはあるのだが
それは確かにそうなんだけど
気持ちを傷つけたとか言って攻撃言動している場合
それはどうかなと俺は思うな 感情であったり気持ちというのは双方向のものであって
上記の場合の気持ちというのは
「俺の気持ちが大切だ」
と言っているのに近いというか どうでもいいことが簡単に攻撃性に転嫁される人がまぁまぁいるなと思う 例えば新しくできた公園があったとして
何もないので木でも植えないかと提案した場合
落ち葉の処理が困るとかそういう場合もあるので
ではどうしようという話になるのだが
その段階で「誰が掃除すると思ってんだ」
みたいな言葉をいきなり言ってしまう人がまぁまぁいるなと思う 物理攻撃であっても精神攻撃であっても
過度に行えば死に至るという意味で
俺は同じだと思うな それなりの金額を出せば狙った絵柄のスカジャンは手に入ると思うが
出会いとして巡り合った的なスカジャンが欲しいな ドラえもん柄のスカジャンとか4万円とかするし
オーダーメイドとかやったら10万越えるからな 古着屋のたんぽぽハウスが近くにあれば行くんだけどな ポジションとかスタンスとかそういう概念になるのだが 対立構造が起きる場合、事実や出来事そのものよりも
旗色的なそっちがめんどくさいという状況が多々あって 最初からそうなっている場合においてはめんどくさいけど
いたしかたないかなというのはあるが わざわざ対立を引き起こすような言動をとる人がいるなって思う 売り言葉に買い言葉では無いが
相手がその言葉を言ってしまう引き金のような言葉を
言ってしまう場合
だいぶどうかなと思う スルーするなり距離をとるなりすれば少なくともスタンス化しないようなところで
その言葉を言わせてしまったら対立が明確化してしまうというか 論法のテクニックとして意図的に人を怒らせて
怒ったらその人が悪いみたいなロジックを使う人がいるが 人が本気で怒った場合
そのロジックは通用しないというか
全面対決が出来る人間であればいいかもしれないが その論法を使う人間は落としどころがそこなので
そっから先を考えていないというか 本気の攻撃に耐えられないというか
自分が攻撃されることに脆い人間が多いなって思う カンガルーのAAみたいに「争いは同じレベルでないと成立しない」
みたいな虚言を真理のように言う人もいるが 同じに見えるのはそう見えている人間の問題であって
差異のわからない人間であるという意味であるかと 民主主義において多数決が有効な場合もあるが
絶対的に有効な場合は限定的であって
多数決云々で決まっていないことは非常に多いというか 統計上のデータとして
統計上存在している人間は
リアルで存在しているってことなんだよな IQが130以上で資産1億以上で人を痛めつけるのが大好きな人が存在する割合を調べたい この要素を全て持ってる人間って存在しているはずなんだよな サイコパス割合だと1%から数パーセントという話で
数値にばらつきがあるが
ソシオパスとだいたい近似値かもう少し少なくなるとは思うな 東京の人口が1396万人
地方の中核都市の人口が100万人だとして 1396万:X=10万:2.4
10万X=1396万×2.4 単純計算すると東京に335.04人
地方中核都市に24人
ヤバい人が存在しているな 統計割合上存在しているということは
近似値でリアルに存在しているな 人口60万人の政令指定都市の静岡市だと
約13人の悪魔が存在していることになるな くだらないことを考えたことだしコーヒーでも飲むかな 昔はさんざんランダムに人に会っていたものの、最近は特に誰かに会いたいとかそういう願望は無いのだが
この13人の悪魔にはぜひ会ってみたいな さて、「ま〜たそんなこと言っちゃって」
とか言われる前に書くのやめておこうかな ただ、歴史レベルのそんな奴そいつしかいない
みたいな大悪魔っていうのもどっかに存在しているはずなんだよな その辺になるともう著名人というか
身元ははっきりしているというか それに比べたら統計的に出てくる13人の悪魔なんて小悪人レベルの可愛いもんだろうな 遅めのランチにアジの干物でも焼きたいのだが
猫がいるとちょっと大変かもしれない あんまり猫にお預け的なことをすると金縛りにあうからな 猫と俺の体調のバイオリズムが一致している感じがする 物の価値というか
なんかよくわからなくなる時がある 腕時計の場合
機能でみたら明らかに電波ソーラーが良いのだが
昔のオートマ時計が高いとか意味がわからない 趣味性が高いというのはわかるんだが
トゥールビヨンとかミニッツリリピーターとか
その辺が高いのも理解できる デイトナとかスピードマスターが高い理由もわかるんだが
俺は納得いかない 性能的にはカシオかセイコーの電波ソーラーの方がぜんぜん良いんだがな そもそもクロノグラフとか使いこなせてる人とかどれだけいるんだろうか 個人的にはジャイロトゥールビヨン風の時計があったら欲しいなとは思う 需要と供給のバランスによって価格は決まるのだが
古い時計の需要のコアな部分は何なんだろう? 部屋の掃除をしながらyoutubeで怖い話の朗読を聞いてる ふとした疑問なのだが、関西は関西弁で話すのだが
学校の作文とかの文章も関西弁で書いているのだろうか? 学校の提出物レベルの物を関西弁で書いているか
標準語で書いているかで思うところがある さすがに沖縄とか津軽だと標準語で書いていると思うけど
大阪とかどうなんだろう? 部屋を掃除したら機械式のストップウォッチが見つかった 機械式ストップウォッチの値段調べたら
古いのとか数万円とかしてるけど
これは誰が何の目的で買ってるんだろう? 機械式ストップウォッチでやりたいことは
無意味にストップウォッチの針が回っている動画を撮りたいくらいだな クロノグラフとかストップウォッチの魅力を誰か詳しく教えて欲しい 世の中に
「謝れ!謝れ!こっちは被害者だ!」
って騒いで加害を加える人が増えてる感じがする 対立構造で優位に立ちたいとか
自分が被害者であれば加害者を存分に痛めつけられるとか
そういう事なんだろうけど
品が無いよなって思う 傾向としてそれをやる人っていうのは
手段としてその方法でしか功を成せない人というか
端的に言うとだいぶ差しさわりがあるのだが
アレだな ネット上で匿名で人を痛めつけるという人はいるが
これはネットに限ったことで無くて
日常生活の中でも「あいつには誰が言ったか言うな」とかそういう
自分の身元を隠した状態で攻撃するというのはありふれているなと むしろもともと農村社会で中途半端に発展したところとか
そういうの多いかなと 「お前が悪い」
に落とし込みたいという結論ありきで論を立てるというか そういう人間って
どんなに社会的に名誉的な立場にいたとしても
本当にクズだと思う 謝罪要求って
謝ったら負け、謝らせたら勝ち
みたいな風潮から来てるとは思うのだが
俺は謝罪そのものに意味は無いと思ってる派なんだよな 被害者と加害者の明確化という側面が強すぎて
謝罪という行為に別の問題が発生するというか 俺はどんなに酷いことをされたとしても
謝罪要求なんて絶対にしないからそう思うだけなのかもしれないが 謝罪されないと気が済まないっていうのは
そいつがどうかしてると思うわ ヒスタミンについては死亡例がそんなに無いというか
毒ではあるが死に至らない程度の毒というか 毒の耐性が無いと死に至る毒に当たったときに死にやすいような と、うっかり冷蔵庫のなかで1週間くらい忘れてたマグロを食べてそう思った 世の中に毒を盛るという人間というのは存在していて
ときどき発覚して事件化しているが
事件化に至らない、気づかれていない事案というのは
けっこう多いと思うんだよな パーティとかも立食ブッフェとかならいいんだけど
席指定でしかも松花堂とかの弁当形式だとマジで嫌だ 趣味として毒を喰らうは好きなほうなので毒の耐性は高い方だと思うのだが 自分で理解していない毒(盛られる毒)はマジで勘弁だな 謝罪に関しては
相手が悪い場合においてもパワーバランス的に謝罪しないといけないみたいなことは
世界をだいぶ歪めるというか それで成り立っている世界でのさばってる人間とか
人間というより魔物だな 物事の本質は往々にして隠されているので
そうなっている周辺情報から理解するというのを
察するとかそういう概念になるのだが
それが鈍いと謎の大喧嘩に発展していることが多いなって思う 謝罪要求に対しては相手を支配するための洗脳手段に近い物があるんだよな 洗脳はおおむね感情(罪悪感とか)を利用するっていう 人を支配しようとする人間は支配相手のことを道具としか考えていないので
何とでもするよな >>693の問題というのは
知識として「そういう人がいる」というのは知っていても
自分の世界というフィールドに落とし込んだ時に
それを認識できるかどうか、かなと つまり目の前の人間がそれであるか否かを見分けられるかどうか 近くを大型トラックが通ると電波が不安定になることが時々あるな 潔く認めるというのは美徳ではあるのだが
美徳を利用するパターンは醜悪かなと その違いが判らない人間が多いっていうのは目眩すら覚える わかっててやってる場合もあるのかもしれないけど
行為としての結果は同じだな いろんな正論とかこうあるべき論っていうのは
自分の身に降りかかったときに自分が出来るかどうかが重要であって
人を非難するために使うべきではないかなとは思う 午後は「それはお前」論について考えながら猫と遊ぶかな 考えるまでもなくただの暴論ではあるのだが
いちおう詰めておくか いちおう人の話を聞こうとする人間に対しては>>707の効果としては多少有効ではあるのだが それを大人がやってる場合があるっていうのが失笑ものなんだよな 鉄拳制裁禁止の社会風潮になってからこれ系は増えてるんだよな 確かに、お前が言うな適菜「それはお前だろ」っていう状況はあるにはあるのだが >>714の場合は言論の統一性を生涯という枠ではなくて
その枠での統一性で語る場合の人間に多い感じがするな その場でスタンスが変わるとか
その場しのぎとか
そんな感じだよな 議論の中での返答として出てきた場合は
ただの考える力の弱い人間の防御反応かとは思うが その辺は温かい姿勢で見守ってあげないといけないことになるから
ちょっとめんどくさいといえばめんどくさいな 謝罪については美徳ではあるが
謝罪を受けた場合の美徳というのが守られていないというか
謝罪したのだからこっちが上だ、相手に何をしてもいい
みたいな風潮があったり
当事者ではない人間が手加減無しの攻撃を加えるという問題があるっていうのが
非常に問題を複雑化していると思うな 日本の武家社会で伝統的に行われてきた謝罪のスタイルとして切腹があるが 切腹したことにより親族家臣を守るということが出来たのだが
今の社会風土では「切腹したのだからこいつが悪い、悪い奴らに何をしても構わない」
みたいになるからな その辺の謝罪を受けた側の美徳が守られない状態で
謝罪は美しい物みたいな風潮はマジでどうかしてると思う そもそも悪くないのに謝罪させて
善悪、優劣を作り出す
みたいな使い方してる場合が多いからな 今日の夕方の雲は立ち込める雲とうか
なかなか禍々しい様相だった 自分とその周辺以外への想像力が欠如しているというか
内と外の外にいる人間に対して残酷になれるのはどういうことなんだろう? 想像力の欠如というより
そうなるのがわかっているのにやってしまう人間の場合もあるな 自分が過剰に大切な人たちなんだろうけど
自分を大切にするというのと他者を大切にするというのは
両立できる概念ではあるんだがな 例えば、そういう人たちを根絶やしにしたい、と言った場合
「そういう攻撃性を持っているのはお前だ」
っていうそれはお前理論になるんだよな 言葉に引っ張られているというのはあるのだろうが
ロジックになってないというか 自尊心強めで攻撃性を持った人間っていうのは
判断基準がロジックでは無いことが多い気がする 持ち運びできるコンパクトな湿度計と温度計と気圧計を兼ねた道具があったら欲しい 今、1035hPaで室温20度
湿度が40パーセントの部屋にいる デジタルならそこそこいいのあるのだが
デジタルならソーラー充電できるやつないかな
出来ればアナログが良いが 気圧は自分で調節できないが注意するしかできないのだろうか? 雨が少し降ってるのに何でこんなに気圧が高いんだろう? >>733みたいな単語に引っ張られる人間が多い状況で
話を誘導するというか、一面的な事実の見せ方をして
私は悪くないって主張する人って
底意地悪いんだろうなって思う 事実としてそういう効果をもたらすのは確実なのだが
そこに対しては不問になることが多いのは
社会全体としてそういう人が多いということだろうか 発言すると立場が弱くなるというのは世のことわりに近いことなので
何も言わないのが正解ではあるが 被ダメージを無視すれば何とでもなるっていうのも事実だな 外見至上主義の天良編の続きを早く見たくてたまらない 個人的には森永の少年院編とかもけっこう好きだったんだけどな 最近の時事系のニュースとSNSの関係で注目しているのは
防御方法として一切何も言わないが正解というのが証明されるかどうかということだな 「相手に情報を与えない」
は最大の防御方法であると同時に
トリッキーな攻撃手段にもなりえるという それを出来るパーソナリティというのはそういう事なんだろうと その手段を使うことでその人間の属性がそっちに染まっていくというリスクはあるが その人間個人が、そういう人間になりたかったのかは謎だな 北方領土はそこに米軍基地作らないと約束してくれるなら返すっていう話らしいけど
約束できないから返せないとも言ってたな SNSで炎上叩きしてる人とか
もっと叩くべき巨悪ともいうべき相手がいるだろ
って思うな 勝ち確の戦いじゃないとできない人間って俺はしょぼいなって思ってしまう 今日の目標は映写機で8ミリフィルムを再生してみよう
だな スクリーンはプロジェクター映写用に人に貸しちゃったから
でかくて白い画用紙で代用するか 8ミリフィルムをデジタル化に1本5000円くらいかかるのは勘弁してほしいよな バラバラに砕けたガラスをつかって怪しい呪具をつくってる 社会がホワイト化しているというのは良い傾向だとは思うが
ホワイトというよりホワイトを建前にした攻撃の手段になってる場合が多いというか 本当に社会がホワイトであれば吊るし上げは起こらないし
二度と社会復帰が出来ないような状況を作り出すというのは
ホワイトと真逆だと思うが 内と外、仲間とそれ以外を明確に分けている感じがするな 仲間内では許容されるが、それ以外には徹底的に叩く的な これをしてはいけないとかそういうのは増えて
社会はホワイト化しているが悪意が残っているというか 言論に対して一発で相手を黙らせる(場合によっては叩き潰す)手段になっているというか 仲間とそれ以外の明確化が進むと
コミュニティに対して、あぶれることが極端にリスク化されるというか 仲間内では言われないような悪意の矛先を向けられた場合
矛先を向けられている人間に対して
自己正当化した手加減のない悪意を行うわけで コミュニティから異物とみなされた場合
通常のコミュニケーションですら難易度が高くなる傾向が強い状態で それに罪悪感を持たないというのはやばいような気がする 戦前においての言葉狩りの状況や
平成期においての言葉狩りの状況と
それでどうなったか、を見てみると 不適切と言われる言葉について
その言葉を使わない状況での考察はなかなか難易度が高いのだが 言葉そのものが悪というより
改善すべきは付随した状況なりそういうものであるが 言葉自体を禁止したところで
指し示す状況なりがオブラート化されるだけで
解決されていないっていう その言葉=悪
となれば、その言葉を言った者=悪
という図式が成り立ち、表面的な言葉によって
内容に踏み込む前に、悪者を排除するみたいな感じになる よくある論法で相手を怒らせれば勝ち
みたいな本質とは違うテクニックになってくるから こういうイデオロギーから入る場合
現実を無視することが多いというか 暴力は良くないというイデオロギーは確かに心情的には正しいが
暴力によって問題解決がなされることはかなり多いという事実は存在しているし
テクニックとして相手を怒らせたら怒った人が悪いというテクニックも
本当に相手が怒ったときにどうなるかという事実の先を考えていないというか 善悪の記号化が進むと
思考が停止される傾向があるというか タブーではあるが存在しているわけで
考えないことによって、一見当たり障りのない道徳律で安心するなり
異分子を排除ということが起こるのだが 入口がタブーであるので、そのアウトプットの結果に対して
論じることが悪意の的になる行為に近いため
原因と結果として繋げることが言いづらいため
関係性をしっかり言えない個別の問題として扱わないといけないというか 不自然に抑圧された状況の先に何があるかって言うのは
戦前末期の精神的状況に向かうのではないだろうか ホワイト化の理想と現実の乖離が広がっていくと
コンプライアンスとかそういうの無視した蛮族に対して
対応できなくなるというか 言葉狩りされて使ってはいけない言葉なりトピックを言わない状態で
書くのはなかなか歯がゆいというか バランスによるのだが必要悪というのは存在していると思うな 簡単に善悪であるとか敵味方であるとか
二元論に分ける人って凄いと言えば凄いなとは思う 村社会というのは位置的な村の場合もあるが
いたるところに村社会がはびこってるなと感じることがある 〇〇業界であるとか○○界隈であるとか
ああいうのも一種の村ではあるのだが 村のルールみたいのが治外法権だと勘違いしてる場合があるというか ホワイト化が進むと村社会的なものが強くなる気がするな コミュニティからの排除をより恐れるようになるというか そこから弾かれたところでっていうのは別の観点からはあるが 主観と客観で客観が建て前ととらえている場合
客観的判断を軽んじるというか
そこまで考えているかわからないが主観のごり押しになる傾向が強まる感じがする 自分の頭の中ではどう考えていようと自由だが
それを表現した段階で責任が発生することを見落としているというか 客観性を軽視していても客観的概念の内側に主観の表現はとどめるべきではあるかと 村社会において話が通じないみたいな状況が発生する場合
ケーキを三等分にできない人相手とかそういう話では無くて
内と外の外とみなされているということかなと 村社会の人たちが村の中だけでいれば好きにすればなのだが
拡大しようとしてきた場合多少めんどくさいとは思う 相互監視社会につては過度な相互監視はいずれ崩壊するっていうのは事実として ソ連が崩壊した要因の一つは過度な監視体制により監視員の人員が多すぎて金が回らないっていうのがあって
全員公務員だから 社会主義体制以外の相互監視の例だと戦中日本の状況があるわけだが いちおう資本主義ではあるのだが自主的な監視社会というのは興味深いが
意識としては現在の資本主義というよりは社会主義に近い感じがするんだよな戦前日本の場合 今の日本の自主的なSNS警察?みたいな状況の行きつく先はどうなるんだろう? あくまで自主的なものなのでそこにコストが発生するということは無いのだが
リソース問題としてそこにリソースを費やす行為というのは エネルギーの消失による衰退化という意味で同じような状況を引き起こすとは思う 国家総動員による統制経済下の資本主義って共産主義と何が違うんだろう? 抜け道というのはどんな状況でも発生していて
それは自分で見つけるパターンが多いのだが 酷い状況というのが存在しているとしても別にそこに自分がハマらなければ
「自分は」問題ないというのはあるが 自らハマりに行くことに快感?を覚えるタイプというのもいるんだろうな 個人的には相互監視社会は退廃の一種だとは思うのだが 退廃って言われると耽美、退廃、快楽主義的な俺としてはまんざらではないような気もする 集団に属することで自らのアイデンティティを重ねて安心感を持つのは悪いことではないのだが 猫のタイムスケジュールを観察すると
3時か4時ころ 起きる
8時〜13時ころ 寝る
15時〜17時ころ 起きたり寝たり
18時〜22時ころ テレビ見たりする
23時〜3時ころ 寝る 意識としての家族と
法としての家族は
必ずしも一致していないということだが この辺もあまり深く突っ込むととんでもないことになりそうな気はする 猫と人で家族が成り立つかという問いが
他人同士で法的な手続き無しで家族が成立するかという問いに発展した場合 なかなか難解というか、ケースによりいろいろなタブーが垣間見られる予感がする この辺がもう少しオープンに議論出来る環境があればいいのだが いろんなタブーに触れるトピックではあるかなと思ったりした 猫を家族とするかどうか
なかなか難解なトピックであった オフ板で知り合った人でお兄さんとかお父さんとか妹とか役を決めて
ディズニーランドに行ったみたいな話を聞いたことがあったのだが 当時、そのオフに参加した人にそれをして何を楽しいんだと質問したことがあって 今思うとなかなか、そういうこともあるんだなって思った 家庭環境っていうのは人格形成であるとか
社会へ適応するための重要なファクターであるのだが 自分が原因でそうなっているのではないのであるならば
それにとらわれるくらいなら離れるなり切り替えるなり出来れば良いのだろうけど 意識がそこに向いている状態が心の支えであるとか
そういうポジティブな方向に向かうなら良いのだが そうでないなら感情から切り捨てるなりするべきかなとは思う 今、実情としてリアルがどうなっているのか非常に興味がある 自分が見ている世界というのはあくまで自分の視点であって 他の人が見ているリアルな視点が
いまどのあたりなのか興味がある 個人的には「飼ってる猫は家族」と言い切れる人はすげーなって思う テンプレートに自らハマりにいくタイプのことを考えてる そこにハマっていることに安心感をもつというのはあり
標準を起点に上下が存在しているのだが 先述の家族についても
情では赤の他人でも法的に家族になっている場合とか
なかなかとか思う 猫ミームとか使いやすいテンプレートって自然発生的なものなのだろうか? このスレもそろそろ終わりだし陰謀論について考えてみるか 現在陰謀論と言われている端的なものは極論で黒幕は宇宙人という内容のアレだが マクロ的な陰謀論とは別に身近なミクロとしての陰謀論があるか無いかで考えると 自分の人間関係の範囲においても明確な陰謀論的なものは存在していて 誰かにこれをさせたいであるとかそういう目論見を持っている人は多いと思うな 黒幕は宇宙人っていう陰謀論は
身近な陰謀に置き換えると学校の七不思議的なものであって 極端な陰謀論というのはむしろ陰謀があることから目をそらすための意図的に混ぜ込まれたものであるか そこまで信じてしまう人を集めて何かしようと試みているとかそういうことかなと 身近な例で言うと、誰が言ったのか言わないであるとか
発信情報を隠すというのは良くあることで 姿を見せない状況で自分の望んでいる方向に誘導しようとする人は普通にいるというか
むしろそれをやらない人の方が少ないというか 話し合いにおいても必ずしも前提条件が提示されているわけではなく
論点とは違う別の条件が隠れていることは多く 裏にあることを指摘すると露骨に嫌な顔をするか
完全否定したりする場合もあるが 身近なコミュニティとかで多く起こる状況が
世界的な陰謀論と言われるもので起こらないとするのは無理がある 陰謀論否定派の人というのは先述の黒幕は宇宙人みたいな
極端なところを指摘して、陰謀論全体も否定するみたいなロジックを使うことが多いが 極に至る前段階の部分までにおいては考察の意義はあるのだが
相手を陰謀論者としてラベリングしてその人の発言自体がおかしいみたいな
人格攻撃に論がすり替わることが多い 議論のポイントを意図的に避けるということが起こる状況というのは
そこに何かが隠れている状況である可能性が非常に高いかなって思う この辺はスタンス問題として善悪であるとか敵味方に分けるみたいな
大雑把な論になりがちではあるのだが 人を支配的に何かさせようとする人というのは
結果が重要であって、ロジックは二の次になるというのはある 事実がどうであるかというのが重要な人間というのはどうも少数派なので 個人がそれぞれ世界をどう見えているか
どう把握しているか
個人の価値観というか世界観に関わってくる問題かなとは思う 同じ出来事であってもスタンスなり感性によって見え方は違うわけで その角度からは正しくても、別の角度からは問題が大ありという状況であっても 別の角度からの視点を陰謀論として封殺することによって
大まかな世界の視点みたいなものを維持したい人もいるのは事実かなと マクロ的な話と極度にミクロ的なコミュニティの話は
心理状況としてどうなるかという点で類似点は多い気がするな これが現実だとされていることも
自分の意識次第で消すこともできるし 現実を受け入れろと誰かに言われたところで
その現実はその誰かが見ている現実であって
その視点を人に要求するものでは無いかなとも思ったりもする 仮に陰謀論的な視点を誰かが持っていたとして
その価値観が広まったら困るという事なんだろうけど
自分が関係無いなら別に困らないとは思うな 前提として人は嘘をつく生き物であるが
事実提示無しの極端な否定はほぼ嘘かなと 閉鎖的コミュニティだとそういうことは起きやすいよな 最近興味があるトピックとしては
価値観の伝播であるとか継承される思考パターンであるとか
その辺が興味あるな ある地域において、同じような思考パターンを持っている人が複数いるとう状況というのがあるのだが 個別に違う案件、人であっても、ロジックが同じというか
地域性という言葉で片付けることもできるのだが
なぜそうなる?を考えた場合 人の寿命が30歳の地域と80歳の地域があったとして 大陸では嘘が当たり前で、嘘をついたとしてもその人に二度と会わないので問題ないという状況というのも聞いたことがあるが 寿命が短い場合において、すぐにばれる嘘でない限り
なりふり構わない方が
その人にとってはメリットが高いというのもありえるかなと 現代日本で平均寿命が30歳という地域は無いと思うが 近代以前においてはそれに類似した状況というのはよくあって その時の地域の慣習なり思考パターンが
地縁環境による伝播として受け継がれている可能性があるなって思ったりする 今はそういう状況ではないが、ガチガチになってるみたいなことかな
なんて思う より短絡的で被害者加害者を明確にして
上下関係で自分を優位にすることに注力するみたいな この辺は人権問題に触れる部分になるのだが
その辺はタブー視するべきでは無いと思うな 日本語を使っているが話が通じないという状況というのは
話のポイントがズレてるんだよな 事実ベースの対話という概念では無く
自分の都合を通すということに専念している人たちに対しては 事実は二の次なので非常にめんどくさいっていうのはある 限界集落的な複数で襲われたときに公的な助けを即座に呼べないところであった場合ちょっと危険だが
通報して10分以内に警察がくるようなところであればゴリゴリに戦っても構わないかと >>978の状況の解決手段としてかなり有効な方法として
酒盛りをするという方法があるのだが 宴であるとか祭りであるとか
そういう意味で重要ではあると思うのだが 日本神話の酒盛りの話は大抵陰謀が含まれているっていうか 天照を天岩戸から出すために宴を開いたり
クマソタケルを倒すために宴に女装して潜り込むであるとか
ヤマタノオロチを酒に酔わせてから他雄であるとか
策謀がつきものなんだよな 陰謀論的には宴を開くと聴いたら裏に策が隠されてるって思ってしまうな ロジックで分が悪い人たちは感情で押し切ろうとする傾向があるし 論理思考が難しい人たちは価値判断が善か悪か、白か黒かみたいな
極端による傾向もあり 敵とみなしている相手からの条件提示に対して許さない傾向があり そういう人たちも可哀そうな人たちではあるのだが
敵とみなして排除行動をとらせてしまうのも
申し訳ない気もするな そういう人たちがそうなってしまったのも仕方ないと言えば仕方ないからな このスレッドは1000を超えました。
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