なぜ「飛び出すミステリ」はないのか [無断転載禁止]©2ch.net
間違ったページを開くとナイフが飛び出してきて刺されるとか、
ページ表面に青酸カリが塗ってあってなめると死ぬとか
面白い企画を出版社は考えるべき 弥生・古墳時代とアカ族の舟形木棺
我が国の円墳、方墳などの土盛りした高塚古墳のルーツは、
中国江南の土墩墓と云われている。その土墩墓から舟形木棺が出土する。
四川省成都では、約2500年前(春秋晩期―戦国早期)の舟形木棺群が発見された。
この舟形木棺は四川から江蘇までの長江流域以南に存在する。
その舟形木棺は日本の弥生中期の墳丘墓や古墳にも存在し、
セットなのは長江流域以南と同じで、鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉を伴っている。
ここで中国に於ける舟形木棺について、いま少し詳しくみてみる。
浙江省杭州の水田から良渚文化期の遺跡で発見された舟形木棺の断面は、
弧の形をしており大木を刳り抜いて作られ、赤色の漆が塗られていた。
この舟形木棺は土葬であった。中国では舟形木棺は、地下に葬られるものもあれば、
断崖絶壁の洞穴内に置かれるものもあり、断崖絶壁に懸けられているものもある。 稲吉角田遺跡(米子市) 弥生中期の壺絵です。
「建物は古代の出雲大社の原型」という説が有力である。
船の人物は中国の奥地、雲南のテン族や苗族の当時の頭飾りと似ている。
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201308160000/ >もっと広い視野で考古学を勉強しろよ(馬鹿チンコロ(ウルトラ嘲笑(ガチF中卒w
>この遺跡の平皿も知らない様なヤツは(ガチF中卒w(馬鹿チンコロ(ウルトラ嘲笑ww そして良渚文化期の遺跡で発見された舟形木棺の内面は、(赤色の漆が塗られていた。)
弥生時代や古墳時代にみられる刳抜(くりぬき)式の木棺。
丸太を縦に2つ割りにして中を刳り抜いて棺身と棺蓋をつくり、
それを合わせて長大な円筒形の棺として舟のようにかたちを整えたもので
刳抜式木棺としては、割竹形、舟形、石棺などにも内面は赤色の顔料が塗られる。 >墳丘墓と舟形木棺のセット、棺の内面に(赤色の顔料が塗られる。)
>中国江南の土墩墓と高塚古墳、、この3点が偶然の一致とは言わないだろな。
四川省成都では、約2500年前(春秋晩期―戦国早期)の舟形木棺群が発見された。
この舟形木棺は四川から江蘇までの長江流域以南に存在する。
その舟形木棺は日本の弥生中期の墳丘墓や古墳にも存在し、
セットなのは長江流域以南と同じで、鏡、鉄剣、鉄刀、勾玉を伴っている。
そして良渚文化期の遺跡で発見された舟形木棺の内面は、(赤色の漆が塗られていた。)
日本の弥生時代や古墳時代にみられる刳抜(くりぬき)式の木棺。
刳抜式木棺には、割竹形、舟形、と石棺などにも内面は(赤色の顔料が塗られる。) 立命館大学大学院文学研究科 博士論文
中日古代墳丘墓の比較研究 劉振東
file:///C:/Users/owner/Downloads/o_521.pdf
現在、旧石器時代後期の北京周口店山頂洞遺跡(地質年代は更新世末、約3万年前)
には専用の墓葬区の存在が分かっているが、さらに古い時代の状況ははっきりしていない。
その当時の人々は、すでに遺体とその周りに赤色顔料(赤鉄鉱粉)を使用していた1。
このようにして遺体を保護する方法は、後世にも引き継がれ、
日本の弥生時代と古墳時代の墓葬にもよく見られるところである。 P5
早い段階の木製葬具としての棺槨は、棺の形状が長方形の箱形だったと推定でき、
その時期の墓葬内に赤色顔料(朱砂)を使用した例としては、
山西省襄汾県陶寺墓葬(龍山時代後期)が代表的である3 P6
山東省滕州市前掌大M3、M4のように、木棺の底に赤色顔料(朱砂)を敷くものがある5。
木棺には普通、黒か、赤の漆を塗り、中には河南省羅山県天湖商墓のように
絵付けされたものがある6。
棺内に赤色顔料(朱砂)を敷いていた例としては、
河南省鹿邑県太清宮長子口墓があげられる 12 P8 韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化
林 尙澤 (釜山大學校 考古學科)
https://www.meiji.ac.jp/cip/researcher/6t5h7p00000ixpa5-att/material_2019_Kurishima.pdf
韓半島新石器時代集落遺跡は現在、100余りが知られていて、
最近、南韓の中西部地域を中心として集落の調査事例が増大している (図1)。
本格的な集落遺跡は新石器時代早期 (6000〜4500BCE)から出現して、
後期まで全国的に分布するが晩期 (2200〜1300 BCE)になると急速に減少する。
新石器時代早期 (6000〜4500BCE)にO1b2a1a1(47z)倭人とO1b2a1a (F1204)
O1b2a1a2a(L682)朝鮮族型、O1b2a1a2b(F940)湖南省漢族型、
O1b2a1a (F1204)、→O1b2a1a1にもO1b2a1a2にもO1b2a1a3(江原道)にも属さない、
倭人たちは洛東江(本支流)や全羅道の、錦江、栄山江、蟾津江、辺りへ南下した。
つまり、O1b2a1a1(47z)の倭人たちが晩期 (2200〜1300 BCE)のち九州北西部へ
支石墓、甕棺墓、と共に南下した。洛東江(本支流)の倭人は暫く弁辰国として居住。 O1b2a1a1にもO1b2a1a2にもO1b2a1a3にも属さない、所謂O1b2a1a*に分類される
Y-DNAは、日本(川崎市のサンプルでは全てのO1b2の4.6%を占め比較的多いが、
金沢市、大阪市、徳島市のサンプルでも同様のY-DNAが観察されている[16])
と韓国(大田133人のサンプル中1人[17])のサンプルの中から稀に検出されている。
O-K10/O-F1204(O1b2a1a)共通祖先で推定年代は約7,436年前、日本のO1b2の4.6%、
O1b2a1a1-K7/O-47z(主に日本人)
O1b2a1a2-K4(朝鮮族・湖南省漢族型)(F2868,F3110,K4) 最近共通祖先 6,060年前
O1b2a1a3(韓国東岸、江原道)-CTS10687
O1b2a1a2 (F2868,F3110,K4) - 最近共通祖先 6,060年前、
O1b2a1a2a(L682)朝鮮族型
O1b2a1a2b(F940)湖南省 2.9% (4/137)・湖北省3.7% (1/27)・漢族型
周姓を名乗る者が多く、湖南省の中でも特に湘潭市(全男性人口の約2.05%)、
益陽市(約1.67%)、長沙市(約1.29%)等湖南省北東部に集中して分布している。 3 洛東江 ナクトンガン 낙동강 525km 南方釜山へ流れる河川。
5 北漢江 プクハンガン 북한강 482km 北朝鮮にまたがって流れる。
8 錦江 クムガン 금강 327km 百済の都・扶餘がある河川。
信濃川の367キロメートル
利根川の長さ(河川延長)は322キロメートルで、日本で2番目。 櫛目文土器は日本がルーツ〜最新先史学
「櫛目文土器ほか 縄文時代草創期前半 県有形文化財」
https://ameblo.jp/starless43/image-12713381515-15040188083.html
(ブログ内容には疑問、問題点あり、写真が重要)
新潟県阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡では
縄文時代草創期(15000〜11700BP)の櫛目文土器片が出土しています。
遼河文明の櫛目文土器は8200年前から普及しましたが、
北東アジア櫛目文土器文化圏に見られる尖底や円筒型の土器様式は
日本の縄文時代草創期(15000〜11700BP)、早期(11700〜7300BP)を象徴する器形。
>縄文時代草創期(15000〜11700BP)の意味
これはBP (年代測定)と言って14C年代測定法による科学的年代測定
考古学者の主観による年代じゃない。 新潟県小瀬ケ沢洞窟遺跡
東蒲原郡阿賀町(旧上川村)にある小瀬ケ沢洞窟は、
縄文時代草創期(約1万2千年〜1万年前)を中心とする遺跡です。
https://www.lalanet.gr.jp/search/searchdtl.aspx?knd=6&ht=6&pageSiz=0&pageNum=0&&stdycd=14391
縄文時代草創期から早期を中心とする石器・土器・骨器等1万数千点が出土した。
石器数は特におびただしく、この時代に先立つ旧石器時代の技術とつながりが認められた。
また、隆起線文士器、爪形文士器、押圧縄文土器、『櫛目文土器』などの
土器類が発見された。わが国における縄文時代最古の遺跡の一つとみられる。 県内遺跡発掘調査報告書Z 全国遺跡報告総覧
押引文土器は、阿賀町小瀬ヶ沢洞窟遺跡の『櫛目文土器』に類似し、
棒状工具や箆状工具を引くことにより. 生じる沈線文である[佐藤・渋谷2014]。
新潟県阿賀町. 小瀬ヶ沢洞窟遺跡では. 縄文時代草創期(15000〜11700BP)の、
櫛目文土器片が出土しています。 櫛目文がハッキリ刻まれているのがわかります。 >ここに、突帯上に刻目文、てあるだろ、全国的に普通にある紋様なんだよ。
それを沿海州の独自のように言うのは? 縄文人が運び込んだ可能性もある。
縄紋時代前期の搬入土器 - 埼玉県内における北白川下層式
埼玉県立さきたま史跡の博物館
連続爪形文・C字形爪形文・突帯上に刻目文または縄紋を施す土器として >この写真にある土器は弥生早期ころの土器に似てて、刻目突帯文土器と似てる。
新潟県東蒲原郡阿賀町 「室谷洞窟(むろやどうくつ)」
指定:国 種別:重要文化財(考古資料) 時代:縄文時代草創期〜前期
所有者・管理者:長岡市
https://www.lalanet.gr.jp/search/searchdtl.aspx?knd=6&ht=6&pageSiz=0&pageNum=0&&stdycd=14392
https://www.lalanet.gr.jp/upfiles/STDY/00/01/43/92/0001439201.jpg
これらの遺物は1〜15層に分けられた洞窟内の堆積土中から連綿と出土するが、
その土器の特徴や出土層位から下層出土と上層出土とに大別することができる。
また、縄文時代前期の埋葬人骨をはじめ多数の獣骨などが出土し、
有機質遺物の遺存することの少ない山間部における貴重な資料となっている。
この内、下層出土遺物の土器383点、石器214点、骨製品2点、
上層出土遺物の土器439点、石器341点、骨角貝製品23点の
合計1,402点が国指定重要文化財に指定された。
下層出土土器は縄文時代草創期後半の土器で、押圧縄文や回転縄文などを文様とする
ものを主体としている。出土点数は破片数で5千点以上に上り、
全体を復元できた5点の完形土器を含んでいる。
室谷洞窟出土土器は質・量ともに当該期屈指の内容を持ち、平成12年6月に
国指定重要文化財に指定された縄文時代草創期前半の小瀬ヶ沢洞窟遺跡出土品と
合わせて、縄文文化の始まりを理解する上で欠くことのできない資料である。 刻目突帯文土器という沿海州系土器だが何か?
>刻目突帯文を沿海州の専売特許のように言うが
縄文中期(中期: 5500年前 - 4400年前)には普通にあるデザインで珍しいものではない。
富山県埋蔵文化財センター P4
天神山式土器は、富山. 県の縄文時代中期中葉の目印となるも. のです。
図1 ... 基隆帯上には爪形文や刻目文が刻まれ. ています。小島先生は、基隆帯上が ...
https://www.pref.toyama.jp/documents/14551/151.pdf
第1段階、基隆帯上が刻目文になり、半隆起線文間に三叉文が少ないものを第2段階
縄紋時代前期の搬入土器 - 埼玉県内における北白川下層式
埼玉県立さきたま史跡の博物館
https://sakitama-muse.spec.ed.jp › downloadPDF
にII式については連続爪形文・C字形爪形文・突帯上に刻目文または縄紋を施す土器として 阿玉台U式土器における文様要素の複列化に関する予察
早稲田大学リポジトリ
https://waseda.repo.nii.ac.jp › record › filesPDF
井出浩正 著 — ... 刻目文 爪形文 縄文. 【 無文 雲母 砂粒 石英粒. Δ. O. (阿玉台直前).
1989 「縄文時代中期勝坂式・阿玉台式土器成立期における土器群組成比の分析 ...
データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム 愛媛県生涯学習センター
https://www.i-manabi.jp › regionals › ecode:2 › view
(10)は、口縁端が三角状を呈しそこに刻目を付し、器面に爪形文をもつことや
縄文原体の様相から、和歌山県鷹島出土の中心的な土器に対比されるものである。
中瀬戸内では 青森県東津軽郡外ヶ浜町にある旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡である。
現在のところ北東アジア最古級の土器で、15,500-16,500年前(暦年較正年代法による)
のものである可能性があるとされる。
大平山元遺跡は約16,500年前の遺跡. ・三内丸山遺跡. 約5900〜4200年. ・亀ヶ岡...
▷ 大平山元は世界最古級の縄文遺跡. ▷ 大平山元は世界に誇るべき歴史がある。 >これも縄文草創期の隆起線文土器だけど、口縁部を太くすれば刻目突帯文土器だろ?。
隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)
隆起線文土器は、口縁部や胴部の上位に粘土を帯状にめぐらせる意匠(隆起線文・隆線文)
とその手法が用いられた、縄文時代草創期初頭(1万2000年前頃)の一群の縄文土器をいう。
北海道や南西諸島を除く各地に分布する。
https://www.tokamachi-museum.jp/event/221001-1113-jomonjidainohajimari/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E9%9A%86%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8.JPG
豆粒文と呼ばれる文様を持つものを最古段階に位置し、隆起線文の太さは、
時代が新しくなるほど細くなる傾向がある。隆起線文→細隆起線文→微隆起線文と
順次流線文が細かくなり、新しい段階に移っていくと考えられている。 愛媛県上黒岩岩陰遺跡
これは上黒岩岩陰遺跡の第9層から出土した細隆起線文土器で、14Cの測定により
12165±600BP.の数値が出され、わが国最古の土器のひとつとしての位置を占める。
この土器は、線刻女神像の出土した第9層の地層から出土したものである。
細い粘土紐を表面に貼り付けている。左端はそこの部分で、
草むらなどどこにでもすえつけられるように底が丸くなっている。 対馬海峡を挟んだ日韓新石器時代の交流
https://saikaikouko.jp/No6/hirose2005.pdf
縄文式土器や韓国新石器時代早期から中・後期の土器が,対馬海峡を隔て
朝鮮半島南海岸地域と対馬・九州西北地域から出土している。
これらの土器は,日韓交流の歴史を雄弁に語っている。
江原道高城文若里遺跡(壷5)では縄文早期から前期前半にあたる隆起文土器の段階に
石錯とともに石鋸が出土するなど出現時期が異なるものもあり,貝輪製作でも
両地域で詳細にみると違いが認められる。
慶尚南道巨済島大項浦遺跡(註17)で縄文前期の轟B 2式土器,煙台島貝塚からは
後期の阿高系土器が出土している。 釜山東三滴貝塚からは縄文前期後半の曾畑式土器,中期の船元系土器,
後期の南福寺式土器などがまとまって出土しており,朝鮮半島南海岸地域側の交流の
重要拠点となっていたと考えられる。
新若里遺跡(註20)から後期初頭の阿高系土器,ほぼ同時期と考えられる土製耳飾,土偶
などか出土し,上老犬島貝塚(註21)から中津式系土器(九州の在地型)などが
「直接持ち込まれた」土器の確実な例としてあげられる。
次の時期,縄文時代の中期から後期(韓国新石器時代中期一後期前半)にかけては,
「直接持ち込まれた土器」の量と分布範囲は若干拡大して,遺跡数も増加する
傾向が見られる。口の印で表示された遺跡がこれにあたる。 現在でも上海辺りから漂流して自然に九州に着く船があるそうです。
そのため長江流域から稲をもたらしたのは、計画された船団ではなく
遭難して漂流してきた小舟だった可能性があるとの話でした。
そして、偶々農業に詳しい遭難漂流民がいて稲作を指導した。 長江・東シナ海ルートについては、日本から向かって行くのは遣唐使船の例を
挙げるまでもなく古代においては相当困難な航路なのですが、
逆に来るのは西風・対馬海流の順風・下流方向でそうでもないという話を聞きました。
現在でも上海辺りから漂流して自然に九州に着く船があるそうです。
そのため長江流域から稲をもたらしたのは、計画された船団ではなく
遭難して漂流してきた小舟だった可能性があるとの話でした。
そして、たまたま農業に詳しい遭難漂流民がいて稲作を指導した。 >メソポタミア・ウバイド文化の壷が熊本県南部の細頸長頸壷・免田式土器とソックリ。
中国には免田式土器と同じ青銅器があるらしい。
ps://twitter.com/yayoibot8/status/1256928662533869569
ps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%89%E6%96%87%E5%8C%96#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Frieze-group-3-example1.jpg
https://twitter.com/thejimwatkins >朝鮮半島の無文土器・黒色磨研土器にある角が2つ付いた土器と同じ土器。
イラン南西部銅石器時代の煮炊きに関する研究
方解石、赤色シルト岩粒を混和した薄手の磨研粗製土器が作られるようになる(図 1)。
把手が付いている本発表では東京大学総合研究博物館所蔵のタル・イ・ギャプ遺跡
出土土器 19 点(紀元前 4700-4500 年)、タル・イ・バクーン A 遺跡
出土土器 2 点(紀元前 4500-4300 年)、合計 21 点の胎土を分析試料とした。
ps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQRF9Ph_92CXT9CMltZ0GczhXiJFEgYySWwHQ&usqp=CAU
p://jswaa.org/wp/wp-content/uploads/2022/06/27thJSWAA_abstracts02-1.pdf
(P40) BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、
弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg 『広志』 『魏略』から「後漢書」「魏志」「隋書」等の参考文献として引用。
『魏志倭人伝』には「倭国の女王」「女王国」と成ってるが、....引用元では「女国」
魏略では「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文.... で「女国」
広志には「百女国以北其戸数道里可得略...... でも「女国」
又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里
「自帯方至女國萬二千餘里」(『太平御覧』 原文)
『御覧』での「万二千余里」も「帯方−女国」間であり。 「女王国」じゃなく「女国」。
文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿」の嘉は臺と酷似しており「嘉は臺」の誤字で、
邪馬台国が定説だと考えられているが...、南には江田船山古墳そばに山鹿市などがある。
広志などは、(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)以北、が邪馬台国と書かれており、
手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、
なお、南限(八.百)女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿)のその南が敵対関係の狗奴国である。 伊都国の、南の萬二千余里にある「女国」は
魏志や隋書にある邪馬台国の女王国ではなく
引用元の文献では「女国」と書かれてるのを、みな女王国として書き替えてる。
広志などは、百女国と邪馬嘉国ヤマガ以北と書かれてる。 これ如何に?
共立され倭王と成った邪馬台国の卑弥呼とは、全く別の話で、
完成したのが6^7世紀と云われ、倭人の都がヤマトと言うなどの情報が脳裏にあり、
魏志倭人伝や隋書の編集者、後の改訂編者、日本の歴史学者などが勘違いしてる。 結局のところ、広志を書いた郭義恭は正確に山鹿を南 邪馬嘉国ヤマガと書き
(八.百女国ヤメ)以北と記し伊都国を盟主とすろ倭国同盟の南限が
熊本平野北部の山鹿ですよと...、が親切に邪馬臺国だろと勝手に書き換えたって事か。
そこには百女国と書かれてるが、古代では八も百も多いの意味で
現代でも八百屋と言ったりするから百女国も八女国も同じ意なのでは?。 魏志倭人伝や隋書が3世紀ころの歴史を扱ってるが
最終的に完成したのが6^7世紀と云われ、
百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。
その頃には倭人の都がヤマトと言うらしい、が情報として脳裏にあり
邪馬嘉国ヤマガ国を誤字と思い、常識が邪魔をし、邪馬臺国と訂正したんだろう。
専門家によくある、その常識的判断が真実を見えなくするのかも知れない。
いや、卑弥呼時代には九州北部は倭国同盟を結んでて
南限が広志に書いてある、八(百)女国、邪馬嘉国ヤマガ山鹿国いまの山鹿市で
その南には狗奴国が同盟に参加せず敵対してて6世紀ころまで続いてたのだろう。
八女国に居た、田油津媛や八女津媛など、古い慣習のノロは止めろ!と
神功皇后たち大和勢力が排除、圧迫し始めた。
それで八女津媛は山奥に逃げ隠れたのが、今の矢部川上流にある八女津媛神社。 そして書紀に記された、ヤマトタケルの熊襲征伐や山鹿市となり玉名市の
江田船山古墳のワカタケル名 鉄剣などが狗奴国、熊襲征伐が継続中で、
後には、八女の筑紫の君、岩井の反乱も起きた政治的に複雑な地域なんだろう。
卑弥呼時代には既に倭国同盟のようなものが西日本中心に瀬戸内海界わいや
近畿内まで統合されつつあった中でオオクニヌシの出雲国や九州南部、狗奴国、熊襲が
敵対的で同盟しなかったのだろう。 ヤマトタケルのヤマタの大蛇退治は…かな。 5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (400) 第二章 中国戦国時代 燕の鉄器文化
燕国は、『史記』燕召世家によると召公奭が、殷を滅ぼした周の武王よりその功績に
より、東北の護りのため封じられた地域で、薊(北京市房山にある瑠璃河遺跡が
その都址とされている)が都であった。
しかし、河北省易県の地から「匽候旨」と呼ばれる人物の青銅器が発見され、
その青銅器の時期が西周前期(武王、成王、康王頃)のものから、
この人物は召公奭に非常に近い人物である事が分かり、さらに遼寧省凌源県馬廠溝から、
やはり「匽候」と言う銘文のある同時期の青銅器(盂)が発見され、
成王から康王にかけての時期に召公の一族が北京一帯に封じられたことが分かった。
燕候の器が遼寧省凌源県に近い喀左県からも出土し、燕の版図は東に向かってかなり
広がっていたと思われる。大・小凌河流域において西周後期以後、
青銅短剣文化が拡がるようになる。
即ち、紀元前9乃至8世紀頃、遼寧式銅剣と呼ばれる刃部が独特な形態をした
短剣文化が現れる。刃部が琵琶形を呈するから琵琶形銅剣と呼ばれたり、
出土地が遼寧省に集中する事から遼寧式銅剣とも呼ばれる独特な青銅短剣である。
剣身とは別に鋳造される柄はT字形をしている。これは遼西を中心地として、
遼東さらに南は朝鮮半島まで拡がる様になり、朝鮮半島ではその後独特の細形銅剣として
変化していく。又、時代は遡るが紀元前2000年頃か少し古い頃の双砣子一期文化
併行期、鴨緑江下流域では二重口縁に縦の微隆起文を特徴とする土器に代表される 偏堡文化が拡がっていたが、双砣子文化の影響を強く受けた新岩里一期文化が成立する。
大型の壷形土器や高杯の登場など、従来の器種組成とは大きく異なっているが、
他地域と異なり三足器を受け入れていない。
この頃を境に石器組成も大きく変化し、磨製石庖丁・環状石斧・磨製石槍・扁平片刃石斧
・石鑿が加わる一方、従来のすりうすや打製の土掘具が消える。
わが国の弥生農耕文化に連なる石器組成が成立し、これが朝鮮半島を南下して日本列島に
入る事となる。山東半島東端の龍山時代の遺跡からコメが見つかっている事から、
この時期に遼東半島に山東半島経由で入っていた可能性があろう。
西周初め召公の一族が東北の護りに封じられた燕国は、その後中原から遠く離れていたため
か、周囲の鮮虞や山戎の勢力が強く分断されていたためか、ひとりわが道を行くと言う
色彩が強く、春秋時代の文献に現れることは少ない。しかし、戦国時代になると
「戦国の七雄」と言われるほどの強国になった。
燕山以北にいた山戎や東湖(匈奴)と呼ばれた集団の南下にたびたび悩まされた燕は、
紀元前300年前後に東湖を追い遼西から一気に遼東に進出したと『史記』は言う。
そして燕は遼西郡、遼東郡など5郡を設置して、これらの地域を支配した。
この中原勢力の遼東への進出は東北アジア全域に大きな変革をもたらした。
燕では戦国時代中期から後期に、鍛造による鉄製の武器・武具が発達する事から、
東方の青銅器社会より優位に立ったと思われる。大・小凌河流域の青銅短剣墓の終末は
戦国時代中期、紀元前4世紀頃まで降るが、一方で遅くとも戦国中期まで遡る
燕系の墓が同一墓地に存在しており、既に燕文化の影響を強く受けている事などから、
燕山以北への燕の進出は『史記』に記される以前から始まっていたと思われる。 遼西と遼東、そして鴨緑江下流域との間に文化の伝播が見出される事は、
燕の勢力拡大と共に当然、鉄器文化の伝播も大いにあったと考えられる。
戦国時代後期、紀元前3世紀以後、遼東では農具や工具はそれまでの
石器や一部の青銅器が急速に鉄器に置き換わる。
青銅器は武器が多かったが、鉄器には農具が多いのが特徴であり、農業生産力の向上に
大いに寄与しただろう。撫順の蓮花堡遺跡(戦国晩期から前漢初期)での出土品をみると
農具の比率が高く、钁かくと呼ばれる斧形の土掘り具や穂積み具には石製と鉄製があり、
まさに石器から鉄器への転換期であった。
それが東に拡がるにつれ土掘り具などの農具が欠落し、木器を作る工具が主となっていく
事は、それだけ鉄器が希少、貴重であった事を示している。
燕の領域は鴨緑江中流域にまで拡大し、北の匈奴に対して延々と長城を築き対峙している。
燕そしてそれを踏襲した秦の長城は、今の平壌市付近まで達していたと言われる。
その他、燕が強国になった理由の一つに、遼東の煮(塩)があったからと思われる。
戦国中期紀元前4世紀、河北省易県に建てられた燕の都・下都は、
この時期における最大の城市であり、鉄の工房空間を有している。
この燕下都の戦国早期(紀元前5〜4世紀半)の墓から多量の鉄器が出土している。
燕下都一六号墓から、環頭鉄刀子 1、鉄鍬先 5、鉄鋤 1、鉄槌 1が出土した。
環頭鉄刀子は、全長20cm前後(切っ先が欠損)の鍛造品と推定される。 鉄鍬先は、長方形を呈し偏平方形の袋部をもち、袋部の端部付近に二条の隆帯を
めぐらすものと、無いものがある。長さ14.4cm,刃部幅6.5cmなどがあり、
断面方形の袋部ならびに隆帯の存在から鋳造品と考えられる。鉄鋤は、長さ21.6cm,基部
の幅9.8cm,刃部の幅16cm,厚さ1cmで梯形の平面をなした板状のもので、全体にゆるやか
に内彎する。この形態の鋤は、石製のものから直接鉄器化している様に見える。
鉄槌は、長さ11.2cm,幅5.4cmの隅丸方柱形で中央に柄を挿入する長方形の孔がある。
この一六号墓出土の鉄器は、数は少ないが工具・農具からなり鍛造品と鋳造品の両者が
存在した様だ。燕下都三一号墓上部出土の片斧は、長さ15.2cm,刃部の幅9.7cmで両側部
がやや内ぞりをなし、刃部はゆるやかに外彎する板状の斧で、この片斧は戦国晩期の
燕下都二二号墓遺跡からも出土しているところからすると、燕の地域の特徴的な鉄器と
言える。同じく環頭鉄刀子の環頭端の特徴的形態は、これも燕下都二二号墓遺跡に
類例があり、燕の地域の特徴的な鉄器と言える。 戦国時代末から漢代初頭に、遼西郡、遼東郡に隣接する地域も、中国と言う強国との
対峙の必要から伝統的な社会が大きく変容していく。朝鮮半島の西北地域は戦国時代に、
燕人と周辺民族との領域を画する燕国の長城の東端にあたり、
漢民族の文化が半島に流入する窓口でもあった。
燕は紀元前222年に秦によって滅ぼされる。その時期、朝鮮半島は箕子朝鮮
が支配していたが、紀元前194年、衛満によって滅ぼされ今の清川江を境に、
その南に衛氏朝鮮が成立する。
さらに、遼東山地東部には高句麗が、それ以前西団山文化が展開した地域では夫餘が
登場する。衛氏朝鮮は鉄器を本格的に使用し始めたとされる。
第三章 朝鮮半島の鉄文化形成と燕との関係
朝鮮民主主義人民共和国の鄭白雲氏は、戦後の新出土資料により朝鮮における鉄使用開始
時期を遅くとも中国の戦国時代とし、燕の地域における鉄器時代の開始と同時期と
考えている。
一方、現在の韓国の高等学校歴史教科書では朝鮮の初期鉄器時代を紀元前300年頃から
紀元前後とし、前の青銅器時代に続く第2次青銅器時代とも言え、
この時代の特徴的な遺物には、細形銅剣・多鈕細文鏡をあげる事が出来ると教えている。
朝鮮半島では、新石器時代に続いて紀元前10世紀頃に、遼寧省・吉林省地方を含む
満州地域から青銅器文化が入り、青銅器時代が始まった。 特に特徴的な遼寧式銅剣は、朝鮮半島北部においても、宝器あるいは威信財として
T式銅剣が紀元前5世紀に入り、その後遼西が燕による文化的あるいは政治的な影響を
受けることにより、遼西の遼東に対する軍事的な脅威が遼東をして、武器的な機能を
高める新式の遼寧式銅剣へと転換させ、同様に朝鮮北部にも影響を与える。
その結果紀元前4世紀にはU式銅剣と言う武器的な機能変化として現れる。
朝鮮半島北部から中部に分布するV式銅剣においても、同じ様相を呈する。
しかし同時期、朝鮮半島南部海岸部では独自の製作と認められる、
宝器あるいは威信財として利用されたX式銅剣が存在する。
この分布範囲はほぼ松菊里文化圏に相当する。さらに紀元前300年頃の、
燕の遼東までの直接統治による領域化により、遼東内陸部や朝鮮半島北部における
軍事的な脅威が高まり、この過程でUc式銅剣の系譜を引きながら朝鮮半島北部において、
典型的な細形銅剣が開発されたものと考えられる。(宮本 2002)
韓国の全 栄来氏は、細形銅剣の出現・普及は紀元前2世紀とみている。
多鈕鏡は、朝鮮半島の青銅器の源流となった中国遼寧地方で紀元前6世紀頃出現し、
その影響によって半島独自の多鈕粗文鏡が紀元前3世紀(3世紀初頭と思う)頃に出現、
さらにそれを祖形とした多鈕細文鏡が紀元前2世紀(3世紀後半と思う)頃に成立する。
これは武帝による楽浪郡の設置以降、中国系文物の流入と共に前漢鏡と交代し消滅する。
その出土地は両鏡とも漢江流域を除き、大同江流域および錦江流域の南西地域、
多鈕細文鏡はさらに日本海側にも分布する。 無文土器は、上限を紀元前13世紀あるいは15世紀と言う説もあるが、
無文土器遺跡の放射性炭素年代が紀元前1000年前後に測定される事が多く、
次第に優勢になっている。下限は半島中部以北地域では紀元前300年前後、
南部地域は紀元前200〜前100年頃とみる意見が多い。(李 白圭 2002)
これらの文化のなかに鉄器文化が波及して来る。
森 浩一氏によると、朝鮮半島における初期鉄器文化は、概ね次の三つの段階を経て
三国時代に至っていると言う。
第一段階は、戦国時代に中国の東北地方に拡がっていた燕の文化の影響を受け、
まず鋳造鉄斧を受容する段階で、朝鮮考古学では無文土器文化に編年される。
最初の鉄器文化がその内容を豊富にしたのが第二段階で、特に土壙墓の副葬品として
細形銅剣・銅矛などと共に、斧・鎌などの鉄器が出土する。これらの土壙墓では、
しばしば燕の貨幣である明刀銭を伴っている。これらの鉄器は鋳造品で、
特に鉄斧の鋳型の存在から鉄器製作を行なっていた事が分かる。
平成15年度前期「アジア考古学研究T」レポ−ト (詳しくはこのサイト)