びっくりポンや [無断転載禁止]©2ch.net
中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。
その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する
そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。
そこで「淮」
音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」
漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ
>これって、東夷の濊貊・穢人(かいはく・わい人)と同じだな。
「濊」けがれの意味。=穢
音読み カイ・カツ・ワイ
おまけが、朝鮮半島で多用される蔑称「倭」とウェノム。
ウェノムは「倭 놈(ノム)」でノムは朝鮮語で「人、者、奴」らの意味。
意味は日本の野郎であり、反日的蔑称要素が窺える言葉である。
つまり「倭」とは「ウェ」と発音。呉音の エ(ヱ) ヱ「ゑ」=we/音「ウェ」と同じ。 韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。
まったく語源が違う。 下にある顔の各部名称がまるで違う。
米コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、マンマも同語源と思われる。
よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。
これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。
イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。
ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。
反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。
これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。 韓国数詞
하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5
・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10
身体基礎語
目 눈 ヌン 鼻 코 コ 口 입 イッ 耳 귀 クィ おでこ 이마 イマ アゴ 턱 トッ
ほほ 볼 ボル 頭 머리 モリ 肩 어깨 オッケ ひざ 무릎 ムルッ 足 발/다리 パル/タリ
腕 손 / 팔 ソン/パル お腹 배 ペ お尻 엉덩이 オンドンイ ひじ 팔꿈치 パルクムチ >>376
中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。
その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する
そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。
『春秋左氏傳』『山海經』によると。 「O1b1」
O1b2の兄弟関係に当たるオーストロアジア語族、きほん稲作農耕民。
倭人と呼ばれたO1b2a1a1 (47z, K7)は交易漁労民のように感じるな
4~5千年前縄文時代に盛んに東アジア諸国と玦状耳飾り,アクセサリー交易を行った人達。
日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度
九州 3.8% (2/53)[16]
金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24]
東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2]
徳島 2.9% (2/70)[16]
徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下 母集団から抽出された標本を用いて、
母集団の性質を推測することを「推測統計学」といいます。
サンプル数の目安として言われているのは、母集団の総数が「10,000」を超える場合、
サンプル数が「400」集まれば、確度の高い結果を得られる目安の数値と言われています。
集団の総数が「1,000」の場合は「300」、
「100」の場合は「100」、「10」の場合は「10」であり、
母集団の数値が小さくなればそれだけ集めるサンプル数を増やす必要があります。 https://mirizerocket.com/2020/03/14/number-sample/
下記は、母集団10,000とした場合の重視レベルに合わせた参考パターンです。
・精度重視:許容誤差5%、信頼度95%(サンプル数約400)
・標準調査:許容誤差5%〜10%、信頼度90%〜95%(サンプル数約70〜400)
・ざっくり:許容誤差10%〜20%、信頼度80%〜90%(サンプル数約10〜70)
(2020年7月6日追記)選挙で開票がはじまっていない、
もしくははじまって間もないのに「当確」報道が出ることが珍しくありません。
これは、統計学的には方程式・計算式があって「400」のサンプルを取得すれば、
概ね全体像を把握することができるからです。
「16,000」まで集まれば、ほぼほぼ誤差(1%)がなく正解も出せます。 2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを
分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。
日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で
フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。
http://i.imgur.com/3TCgKzC.png
http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg
https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg > つまり下図は東アジアの下戸遺伝子の分布図です
2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを
分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。
日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で
フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。
http://i.imgur.com/3TCgKzC.png
http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg
https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg ALDH2遺伝子とは、人の肝臓を中心にエタノールの代謝産物であるアセトアルデヒドを
含む反応性アルデヒドの酸化及び、無毒化に重要な働きをしている酵素です。
活性しているとお酒に強くなります。
遺伝子型 活性タイプ アルコールの強さ 黒人 白人 日本人
NN型 活性型 __強い_依存症に注意 __100%_100%_56%
ND型 NN型の1/16の活性・低活性 ほどほど 0% 0% _40%
DD型 非活性型 _弱い _飲めない ____0%___0%___4%
「ちゃんと働く酵素の出現割合」というマップによると
80%以上 北海道 東北 南九州 沖縄
75%~80%関東 四国 北九州
75%以下 北陸 中部 近畿 中国
お酒に強い地域が、縄文人の多い地方と重なることがわかります。
逆に、弥生系ハプロ「O」等が濃い地域は下戸遺伝子が多いことがわかる。 勿吉(もっきつ、拼音:Wùjí)は粛慎・挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。
中国の南北朝時代に、高句麗の北から満洲地域に住んでいた狩猟民族で、
現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。
「Mukri(ムクリ)」を「勿吉(Muki)」に比定。
毒矢使用
挹婁人は、弓矢に長けており、必ず人の目を射当てる。矢には毒が塗られており、
人に当たれば死に至る。石製または鉄製の鏃は先端が鋭利で、
血抜き或は毒を塗る為の溝や凹みを設けており精巧な造りをしている。
言語系統
挹婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[5]、
当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。
(( 挹婁の言葉は夫余の言葉と違うため、))
一旦夫余語に通訳してから、漢語に通訳したものと思われる。
挹婁は女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。ただし、史書において
粛慎系と言語が異なるとされる夫余や高句麗もツングース系とされる [12]
古シベリア(古アジア)系説[9]。その独特の言語、習俗から、勿吉等の粛慎系の言語は
ツングース系ではなく、ニヴフ(ギリヤーク)などの古シベリア系ではないかとする説。
セルゲイ・シロコゴロフ(英語版)[13]や三上次男[14]などが提唱した。 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、
中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、
古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、
当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、
『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。
イザベラ・バードの「朝鮮紀行」
“私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。
その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。
さらに、室内に真鍮製の溺壺(しょうべんつぼ)を置き、客を迎える席でも、
これを目につかない場所に移すようなことはしない。
そればかりか、尿意を催すと、すぐにこれをとって用を足し、
また傍らに置く"(「便所」より) 【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた!
最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0
・衛生観念は全く無く、獣に近い
・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので
仕事をしないで呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。
日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。ようは治水という概念が無い。
・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。
とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。
とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。
・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。
・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。
・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。
・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れている
が、朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。 ・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。
また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。
・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、
家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。
・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない
黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 マジで衝撃です笑。
ていうかやっぱそうなんだなあと思いましたよ…
キモチワルイですよね…そんな国があったとは。
いくら劣等種とはいえ…
朝鮮人がアタオカで独特の思考なのは理解できますよこれは。
汚い民族ですね。 >>386 続き
埋葬
人が春夏に死んだら遺体を埋め、その塚の上に屋を作って雨があたらないようにする。
しかし、秋冬に人が死んだらその遺体を貂(テン)狩りの餌として使用するため、
野に遺体を置いて貂に食わせ、そのすきに貂を捕獲する。
この貂は勿吉の特産品であり、上質なので中国に重宝され、
かつては「挹婁の貂(テン)」と称された。 古代楽浪郡とか邪馬台国の倭人時代と違い、
北方野蛮人やモンゴルに侵略され、民族交換が起きたのでしょう。
朝鮮神話は熊を尊重するなど北方蛮族のそれと関係するようです。
補足すると、李朝時代にはすでに侵略は完成していたと思われます。
素人歴史観ですが、中国の出先の土地として中国系の両班や儒者が
野蛮人たちを統治するシステムだったのかもしれません。あの過酷な、庶民を見下した
統治形態も、野蛮人への抑えのためと考えれば変に納得感を覚えます。
両班が酷い圧政を敷いても覆せなかったのは、支配層と庶民の間にものすごい能力差が
あったのが理由かもしれません。能力差というか民度、勤勉さの問題だと思いますが、
東南アジアが華僑に結構支配されているのと似ています。 朝鮮半島南部を本拠地にしていたはずの倭人たちが
北方から来る野蛮人たちに追われたと言うより、
余りにもおぞまし過ぎて、この世の地獄を見てるようで
倭人、百済や夫余、高句麗、なども逃げ出して来たと言うのが真実なんだろう。
他の東夷諸国では俎豆と呼ばれる食器(高坏形土器)を常用していたのに対し、
挹婁人は俎豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をしていた。
『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。
今の韓国・朝鮮人たちを見てても、可なり違和感を覚えるのはこれが原因だったんだろう。
上段の文章を読めば、まあおぞましやおぞましやで、拉致事件が解決しないのも納得する。
しかし、古代より高度な文明、文化に触れてないだけでこんなに違う物なのか不思議だ。 朝鮮人たちと思われるグループが必死で荒らし回って隠そう隠そうとする、
原因の一旦が理解出来たような気がする。
そして倭人を必死で沿海州に結び付けようとする工作も、
あまりにも祖先たちのおぞましさに当人たちも、狂わんばかりの苛立ちが感じられる。
日露戦争時、アムール河口で起きた尼港事件、ニコラエフスクで700人の
日本人が虐殺された事件の残虐さはこの世の地獄と云われたのも変に納得する。 言語【ツングース諸語】「ナナイ語」
ナナイ語(ナナイご、ナナイ語:На̄ни хэсэни,ロシア語:Нанайский язык)は
ロシアのハバロフスク地方、沿海地方、中国の黒竜江省に居住するナナイ族の言語。
ナナイ族は、クマやトラに対し、これを人びとの保護者として尊敬を捧げてきた。
アムール川流域およびその南方に居住するツングース・満洲語系民族には、
ナナイ族のほかウリチ族、オロチ族、エヴェンキ(ネギダール)族、ウィルタ族がおり、
ナナイ語はウィルタ語、ウリチ語とともに南ツングース語派に属している。
また、語彙や文法の面でエヴェンキの影響を受けている。
ウスリー川流域の住人に対しては、アカニ(Akani)[5]、アチャン(Achan)
という名も知られている「アカニ」「アチャン」は、ナナイ語で「奴隷」を意味する
akha に起源をもつ言葉で、これについては一部で、実際に満洲民族(女真)が
この地域の人びとを奴隷にしたという歴史的事情によるとする見解も示されている。 高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する
古代中国語のxwot(忽)クオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、
高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。
日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、
*tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など
基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている
韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5
・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10
のように日本語と高句麗語・濊貊語は良く似てるが今の韓国語とはまるで違う。 作家の清水義範氏は、『序文』というパロディー小説のなかで、
つぎのような例を多数あげて「英語の起源は日本語」と主張する学者のことを書いている。
name(ネーム) と namae(名前)
owe(負う) と ou(負う)
kill(殺す) と kiru(斬る)
battle(戦い) と batoru(場取る)
boy(少年) と boya(坊や) 日本語とトルコ語の同系性について 名古屋大学大学院 国際言語文化研究科
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp › research › kotoba PDF
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/0-kyouiku/research/kotoba/19/07kareri19.pdf
そして、例えば日本語の. 「味」「意味」「山」と
トルコ語の acıアジ im(i)イミ yamaヤマ との間に見られる発音と意味の類似性、は
借用による結果として、あるいは偶然の一致として説明される。
が私目では日本語とトルコ語は同系言語である。 遼西の「紅山文化」の牛河梁遺跡から
モンゴロイドにはない「碧眼」を持つ女神像が出土してる。
結構、いわゆる白人トルコ系の人物らが遼東あたりを闊歩してたんだろう
内モンゴル東部から突厥(トルコ)碑文を日本の研究者らが発見してたはず。
ロシア、北コーカサスにトルコ系民族のダゲスタン共和国て国あるけど
ダゲスタン=山が有る処、山の国、つまりダゲとは山=岳なんだよ。
九州や沖縄などには「岳ダケ」と付く山岳名が多く、
これらもトルコ語の「ダゲ」ペルシャ語「ダカン」インド「デカン」とある。 蓋国(カイ・ガイ・ケ)で東夷の濊・貊・穢人(かい・はく・わい人)となる
濊貊は濊(カイ・ワイ)・貊(ハク、はトルコ系の民族だと思う)
北朝鮮古墳の壁画には中央アジア人と思われる人物が描かれてる。
日本の埴輪に描かれてるミズラ髪トンガリ帽子のユダヤ人風人物、
彼ら中央アジア系が濊貊の貊(ハク)人なんだろ。後の秦氏か?? 「肅愼氏一名挹婁」 言語は濊貊系とは異なりとあり
代りに高句麗、濊貊系言語は日琉祖語とは良く似てると研究者談。
つまり、モンゴル時代から李氏朝鮮へと民族が総入れ替えが起きたんだよ
だから日本語と韓国、朝鮮語、とは数詞から人体基礎語が全く違う原因。
数千年となりに住んでた民族どうしとは思えない違い、
それとモンゴル語で朝鮮の事をソロンゴスと名付けた理由がハッキリした。
なおソロンとは中国北部の興安嶺一帯に住む狩猟民で「索倫」族のこと
北方ツングース語系諸族エベンキ人のグループとされる。ゴスは連隊の事。 そもそもシニガイ、シニガイ文化と騒いでるバカ! パカ言うな!!
シニガイ文化の申し子肅愼・挹婁の大事な共通文化「人尿洗顔」
残念だけど倭人には「人尿洗顔」の文化は無いし、基礎言語が違いすぎる。 『三国志』にも「肅愼氏一名挹婁」とある。
深い竪穴を住居として言語は濊貊系とは異なり、養豚・毒矢の使用・人尿による洗顔など
多くの習俗が勿吉・靺鞨と共通している。邑落ごとに分立して沃沮・夫餘などと抗争し、
楛矢を以て漢・魏・晋・前秦などに朝貢したが、政治的に統合される事はなかった。
挹婁
衣食住と人尿洗顔 編集. 挹婁の生活スタイルは、
その ... 女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。
勿吉
人尿洗顔. 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、
中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
靺鞨 人尿洗顔.
挹婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおる。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」
“私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。
その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。
【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた!
最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5
1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 >結局、李氏朝鮮とは人尿洗顔の文化を共有する「粛慎、勿吉、靺鞨、女真」族だった。
>倭人には人尿洗顔の文化は無いし、となりに居ながら文化風習、言語が違いすぎる。
粛慎の末裔には「勿吉、靺鞨、女真」がいるが、彼らの言葉では粛慎は「ジェション」。
これを「女真」と漢字表記したのが女真(満州)族である。
どこか「ジェション」は朝鮮「チョソン」と似ている。
不咸山とは「長白山」のこと。朝鮮族は「白頭山」と呼び、祖先の聖地としている。 Y染色体はAからTまで大まかに20種類あります。
日本人男性にはY染色体のD系統とO系統が多く見られます。割合はD系統が約40%、
O系統が約50%程度です。Y染色体D系統はYAP(ヤップ)遺伝子とも呼ばれます。
YAP遺伝子を持つ男性は真面目で親切で勤勉であると言われています。
従って別名親切遺伝子とも言われています。
YAPとは略語で多型性Y染色体の事です。YAPを持つ民族は古代イスラエルと日本に多い
と言われています。その他ではチベット、ブータンとインド洋のアンダマン諸島に
見られるだけです。
信じがたい事ですが中国、韓国にはほとんど見られません。
大陸のY染色体はO系統が大半です。先に逃げ場のない日本に住みついた人々は
お互いに仲良く暮すしか選択肢がなかったのです。
それがYAP遺伝子が定着した原因です。彼らは日本人の先祖でもあるのです。
親切遺伝子。の別名を持つYAPは自分を捨てて、他人に尽くす遺伝子とも言われています。 最も近縁のハプログループO1b1との分岐は約31,108(95% CI 22,844〜34,893)年前。
長江中流域で誕生。中国型O1b2が湖北、湖南、に多い。中国型と兄弟なのが韓国型。
2~3万年前だと黄海は湿地帯平原で陸続きだった、朝鮮半島や九州北部に
簡単な道具で移動出来たと思われる。 日本型47zは中韓型の前世代にあたり、
韓国型L682は後から朝鮮半島に移動したと思われる。日本型47zとの混合が少ない。
O1b2 (P49, M176) - 最近共通祖先 26,638 (99% CI 33,033 <-> 21,148)年前誕生。
O-P49の子孫はこれらの国の出身です。
JP日本 93 日本に於ける全てのO1b2の約3.6%
KR大韓民国 56 韓国に於ける全てのO1b2の約3.1%
CN中国 14 中国に於ける全てのO1b2の約4% その他の国 3 縄文人のゲノム解析
富山県からの縄文人Y-DNAゲノム解析を実施した小竹貝塚出土人骨の分析結果。
出土状況 遺構/層位 部位 炭素年(calB.P.) 性別 mtDNA Y染色体
6 散乱 145/貝39〜28 右側頭骨 5934-6 女 N9b3 -
181 散乱 143/不明 左側頭骨 5751-5917 男 N9b1 D1b1d1(新D1a2)
274 散乱 338/貝9下A 左側頭骨 6119-6289 男 M7a D1b1d1
282 散乱 338/Ub〜Va 右側頭骨錐体 5737 男 M7a1 D1b1d1 鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド?
ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが多かったのに対し、
核DNAのY染色体の解析から父系は縄文D系が多いという結果に。
また核DNAの解析結果でも複数のハプロが確認され、遺伝的な多様性が判明した。
飯田さん論文へコメント 日本古代史ネットワーク
https://nihonkodaishi.net › pdf › kaimei › 飯田さ...
• 船泊遺跡(北海道) : 3800年前 mtDNA N9b1 YDNA D1b2a(新D1a2)
• 三貫地貝塚遺跡(福島県):3000年前 M7a2/ N9b
• 伊川津遺跡(愛知県) : 2500年前 N9b1
• 東名遺跡(佐賀県) : 7800年前 M7a1a D1b
分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。 夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など
多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。
会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。東南アジアの仮面に似た、
「神徽像」を共通の神としたほか、玉j(ぎょくそう)、玉鉞(ぎょくえつ)、
玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が良渚社会特有の玉礼制を形成し、
政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。
福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は
夏人の末裔を自称していた。また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。
紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。 粛慎(みしはせ)と石砮(せきど)・楛矢(こし)
武王とは周王朝の祖である。従って、周代から粛慎は楛矢と石砮を
献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。
(紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、
商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。
(『尚書』)
(紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して
『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。
「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、
幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という
(新撰漢和辞典『三省堂』)。 ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。
高句麗の始祖は朱蒙とされるが、朱蒙は人名ではなく、弓の名人という尊号で、
弓は神聖な武器だったのかもしれない。濊貊には檀弓、高句麗にも貊弓がある。
石砮は松花江の硬い青石を研磨して作った箭杆(やじり=鏃)をいう。
ちなみに、咫の訓読は「あた」、音読は「し」、周尺の八寸(18p)とされる。
長さを測ることを「寸法を咫(あた)る」というが、これが語源である。
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に
再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。
三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類を
もって来貢。魏帝は相府に詔き、帰り際しては、その王に侲鶏、錦罽、綿帛を賜る。
武帝の元康初(291-2年)、再び来貢して献納する。 挹 婁(ゆうろう)
『三国志魏書』挹婁伝
挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、
未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。
姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない。
(中略)
そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。
その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている。
東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない。
法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。 さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、
その人尿で手や顔を洗ったという。
食事をするときに、他の東夷諸国では爼豆(そとう)と呼ばれる食器(高杯形土器)
を常用していたのに対し、挹婁人は爼豆を使う習慣が無く、
鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をし
『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。
人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、
船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。