始まりは砂利鉄道だった!今や活況路線「南武線」10の意外すぎる歴史と謎に迫る


私鉄だった南武鐵道時代の路線案内(筆者所蔵)。表紙と浜川崎駅〜武蔵溝口(現・武蔵溝ノ口駅)までの路線を見る


【南武線の意外(3)】セメント会社が経営に乗り出し窮地を救った

南武鐵道を救ったのが浅野セメント(現・太平洋セメント)だった。浅野セメントは青梅線(旧・青梅電気鐵道)や、五日市線(旧・五日市鐵道)の沿線に鉱山を持ち、セメントの原料となる石灰石の採掘を行っていた。さらに川崎にセメント工場を持っていた。南武鐵道の路線ができれば、鉱山から工場まで石灰石の輸送がスムーズに行える。
そのため、南武鐵道の経営に乗り出した。

浅野セメントが経営に乗り出した後は、路線工事も順調に進み、1929(昭和4)年12月11日に川崎駅〜立川駅が全通した。ちょうどその年の秋に世界恐慌が起こり、1931(昭和6)年にかけて日本経済も危機的な状況となっていった。浅野セメントの経営参加は、後からみればベストな時期だったと言えるのだろう。

南武鐵道時代の路線案内が手元にあるので見てみたい。今から80年ほど前、当時流行した鳥瞰図で表現した路線案内だ。現在よりも駅の数が多く、また支線もあり、今と大きく異なる箇所が多い。ジャバラ風で開くと横幅が長く58cmほどになる。

路線開業まで苦しんだ、南武鐵道だったが、開業後はきわめて順調で、東京競馬場(当初は東京競馬倶楽部)を誘致するなど(それまでは目黒に競馬場があった)、客足を延ばすよう積極策に転じている。

路線開業後には、沿線に多くの工場が進出した。沿線の住民も急増し、1937年の上期には200万人の乗降客があったとされる。
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