『翰苑』倭国条
憑山負海鎮馬臺以建都
分職命官統女王而列部
卑弥娥惑翻叶群情
臺与幼歯方諧衆望
文身黥面猶太伯之苗


(倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置き、そこを馬臺と称して都を建てている。
官職を分って任命され、女王に統率されてそれぞれ「〜部」という形に分けられている。
卑弥呼は妖しい術によって民衆を惑わしているように見えるが、それはかえってこの国の民衆の心にかなっているようだ。
臺与は、まだいとけないうちに即位したが、ちょうどそのとき多くの人々の内乱終結への望みをかなえ、やわらげた。
倭人は、身体にも顔にも入れ墨をしており、さらに呉の太伯の子孫だと称していた。)

倭人は呉という周王朝の一国(前11、12世紀頃〜紀元前771年の東周)の末裔と自称した。
呉とは周代の子爵の国であり、太伯が立てた句呉(前585年頃〜前473年)のこと。

弥生人のY染色体ハプログループO1b2は大陸由来と知れているので、古事記、日本書紀に記述される天孫降臨・神武東征の様子とあわせれば、
弥生時代に大陸から宮崎県(日向国)界隈経由で奈良へと入植した一群の末裔が天皇の先祖、というのが妥当である。
その際、倭人と自称した人々と各地にすみわけながら、縄文後期にほぼ無人だった西日本に定着していったと考えられる。