違反したら罰せられてしまう法令、たとえば、「カフェインには覚醒作用がある!お茶も覚せい剤だ!お茶禁止法を制定する!」といって国会で、お茶を飲んだら懲役5年」みたいなお茶禁止法が立法されてしまった場合は、
懲役刑を受けるのはみんな恐ろしいため、お茶を飲む人はいなくなるでしょう。
そうすると、心のうちでは「お茶禁止法なんて憲法違反なのになあ」と思っていても、お茶禁止法に違反して、逮捕され起訴され刑事裁判にかけられ、かつ、「わたしはお茶を飲みました。罪を認めます。反省しています」
などと自白せずに、逮捕時から罪を認めずに無罪を主張して最高裁判所まで争って、最高裁で違憲判決を得る…
ということをしないかぎりは、いつまでもお茶禁止法は存在し続けてしまうことになります。いまの日本がこのような状態にあります。

日本国憲法では、人権尊重を厳重に規定し、これでもかというほど人権を侵害するなと述べています。自由主義(新自由主義ではない)・個人主義を明確にかかげ、憲法に違反する法令等は効力を持たないと。
だとすると、そもそも人権侵害の法令等ははじめから無効であり、憲法は最高法規だと明記されており、そのような人権侵害の法令等は立法さえされてはいけないのに、
(最高裁まで争って無効になるまでは有効にしてしまうなど)1日でも有効に効力を働かせることになる事態になるのは、論理的におかしいですよね。
しかし、付随的違憲審査制を採用していると判断した日本では、憲法の趣旨に反した、このような状況を社会に生み出すことになってしまっています。
そもそも、付随的違憲審査制が採用されていると判断される根拠となった警察予備隊違憲訴訟の最高裁判決も、当時はアメリカGHQからの要請が強く、
警察予備隊を憲法第9条に違反するという判決を最高裁が下すことは現実的ではありませんでした。
アメリカや日本の政治家からの強い圧力等もあったのでしょうが、警察予備隊に違憲判決を出すことが事実上できなかったこともあり、抽象的違憲審査制は排除されました。
最高裁の判例(レイシオ・デシデンダイ)を読んでみるとわかりますが、付随的違憲審査制を日本国憲法が採用していると結論づけるには無理があると感じます。
付随的違憲審査制は、当時の社会情勢から鑑みて、最高裁がその立場をとったのは「仕方がなかった」と考えています。