@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 13 @@©2ch.net
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ここは戦時中、戦場、及び軍隊内での「ほのぼの」とする話しを楽しむスレです。
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1972年、日本の東急車両がソ連機械輸入公団から、サハリン向け客車130両の受注に成功したときの話。
大量受注といっていい数の受注だったが、納期が短く、
東急車両側では試作車を作って検討する時間がないため、
モスクワで主要図面の承認を受けた段階で製造をスタートせざるを得なかった上、
ソ連側から製造工程を監督する検査官が来日したのが、製造工程がかなり進んでからという有様。
娘1人、息子1人がいるソ連検査官、夫人と息子を連れての来日だったが、
一家での亡命を当局が恐れてのことか、娘の来日は認められなかった・・・が、検査官、鬼の鉄道マンでもあった。
「温水暖房はいいが、日本で使っているような温水ボイラではだめだ。
それに、電気循環ポンプを使って温水を循環させるものでは話にならない。
ポンプが故障したらどうするんだ?湯が自然対流で流れるようにしなくてはいけない。
冬の氷点下40℃の荒野で、暖房が止まったら乗客も乗務員もみな死んでしまうのだぞ?」
東急車両は急遽、自然対流式の温水暖房に対応した特製の大型ボイラを作り、暖房配管も全面的に見直した。
「床下配管のコックの配置も、こんなに狭いところに置くのはなっちゃおらん。
なるほど素手では扱えるが、ロシアの冬に、分厚い手袋をはめてでは操作できないではないか?いいか、これを見ろ」
ソ連から持参の冬用手袋をはめてコックを操作する検査官、確かに床下部材が邪魔になって操作できない。
東急車両はすぐに、配管の設計をやり直した。 「ソ連式の安全基準測定は、ブレーキをかけた車両に試験車を衝突させ、安全を確認することになっている。
これこそがいちばん確実で合理的な測定だ、日本式の荷重試験と走行試験だけでは信用できない」。
東急車両はそれまでに例がない、新車を衝突させての安全基準測定を行った。
幾多の難関を乗り越えて、最後に残っていたのが納入先の鉄道での現地試験だったが、
当時、ソ連はサハリンへの外国人入国を認めておらず、東急車両のスタッフが赴くことができない。
やむを得ず、国鉄の協力を得て東海道本線大船⇔来宮間で、回送列車の名目で走行試験が行われたが、
ソ連検査官、各駅ごとに線路に降り、台車軸箱に手を当てて過熱がないか確かめる念の入れよう。
・・・東急車両から130両の納入が終わったとき、ソ連検査官も妻子とともにソ連に帰っていった、
帰りの便はソ連貨物船、ソ連では貴重品のちり紙などをお土産にしての帰国であったが、
仕事にまったく妥協せず、東急車両側にも強い印象を残して帰った検査官、
のちにはモスクワのソ連国鉄本社に栄転になり、
東急車両と検査官の”作品”ともいえる客車は、その後も末永くサハリンを走っていたという。 90年くらいの鉄道ジャーナルでサハリンのレポ見たら
客車がたくさん写ってたがあれがこの時の車両かな
樺太時代の日本型車両とか結構あったなぁ
樺太庁のマーク付けた気動車が保線車で残ってたり 樺太庁ネタでいけば、樺太庁鉄道在籍車両の車歴を追ったとき、
なにぶん、ソ連侵攻のせいで確実なデータが残ってはいないのだが、
「蒸気機関車が2両、車籍上では行方不明になっている」。
樺太庁鉄道OBの生存者からの証言聞き取りも含めて判断されたところでは、
どうやら、大東亜戦争中期に設けられた砲兵陣地の弾薬搬入用に仮設線路が敷かれ、
そこを樺太庁鉄道所属のタンク機関車2両が弾薬輸送に走っていたところ、
「現地徴用」の扱いで陸軍所属にされてしまい、
昭和18年の樺太庁内地編入→樺太庁鉄道の鉄道省編入のどさくさでそのままにされた・・・らしい。 てつバナもいいね
満鉄にまつわるエピソードはないかな >>17
国内で走行試験って、ソ連と日本だと軌間が全然違うんでないの?
それこそ倍ぐらい
樺太は日本領時代のまま狭軌だったん? >>21
多分まんまじゃないかね
施設自体平成になってもそのまま使ってたようだったから
旧ソ連の鉄道マンが「日本時代の施設はとても丈夫に造られてるよ」と褒めてたのは
レポの中で覚えてる >>21
サハリンの鉄道は、現在に至るまで旧樺太鉄道庁時代と同じ軌条幅1067mm。
何度となくロシア本土と同じ広軌に改軌の話は出てるらしいんだが、今に至るもそのまんま。
なおかつ、線路規格が重量級の車両に耐えられないほど未整備なため、
ソ連時代には輸送力増強のために新型ディーゼル機関車を送り込んだはいいが、
サハリン全土の鉄道で走れないことが判明→あえなく機関区で文鎮に、ってなことがあったとか。 >>20
満鉄には満州国皇帝用のお召客車「トク1」があった。
満鉄が誇る特急「あじあ」の予備編成と組む展望車で、
世にこともなければ”お召列車”の牽引には満鉄パシハ型蒸気機関車があたっていたはずであった。
・・・満州国最期のお召列車、こと「満州国宮内府関係者専用特別疎開列車」は、
昭和20年8月13日午前0時、新京駅を発車との決定が満鉄本社から下り、
大混乱の中、「トク1」を含む列車編成に手間取ったがため、憲兵隊が駅長室に怒鳴り込むハプニングもあったが、
かろうじて新京駅で、旧宮内府要人やその家族が乗車できた。
満州国皇帝が「トク1」に乗車できたのはその次の駅、東新京駅からであったが、
この列車について証言を残している、満鉄新京鉄道管理部の職員いわく、
「ご乗車の間もなく、お召車内の大鏡が大きく破損し、今にして思えば不吉な予感がした」。
当初、この疎開列車は、吉林経由、鴨緑江上流の臨江まで行く予定で、
事実、翌8月14日未明、吉林に到着してはいるけれど、
8月14日正午着の梅河口駅で、すでに下車する乗客はいなかった・・・と、いう証言が残るばかりで、
皇帝のその直後については各種の文献や証言があるが、
「トク1」のその後については、確たる記録がない。
今のところ「トク1」の写真が掲載されている文献は「大陸の鉄輪」だけだが、
それによると、中国共産党要人用の貴賓車として使われたのち、放置、解体されたという・・・。 >>22-23
あ〜そうなんだthx
狭軌の鉄道なんて大々的に使ってる国日本しか無いし、そりゃ日本に発注するしか無いよなw >>24
特急あじあ号が残ってるくらいだから・・・
ひょっとしてね。 >>26
あの国は「発掘」があるから怖い。
満鉄「あじあ」の最後尾展望車「テンイ8」にしても、
わりと最近まで中国東北部の某機務段(機関区)で放置されていたのを日本人鉄ちゃんが確認しており、
まことしやかな噂としては、
外国人向けの観光客車(カラオケ完備!)として復活させる、なんてのまであったんだから・・・。 >>16-17
うろ覚えだが、車両間の幌に日本と同じゴム幌を使ったらツララで穴だらけになった、て話もあったような…
あちら製の客車は鉄製の幌を使っているとか。 >>27
一式双発高等練習機の胴体や、二式単戦「鍾馗」の主翼が見つかるんだもの。
中国にはまだまだ「お宝」が残ってそうだね。 ロシア式の鉄製幌はバッファーを兼ねていて極めて堅牢 >>31
昭和6年生まれかあ…
たくましいじいちゃんだ。終戦時14歳というと、戦後の物資不足の中で仕入れ→上乗せ転売をやった経験が忘れられなかったのだろうか。
売る方も得る方だけど、買う方もなんともの好きな…。欲望というより懐かしくて買ったのか?
「あの頃は買えなかったセックスプロマイドも、今じゃ年金を少し出せば買える」とか? >>31
83歳のくせにネット販売か
PCは疲れそうなものだが いっそ「資料だ」と言い張れば良かったのに。
通るような気がしなくもない。 このじいちゃん生活保護受けているぞ
生活保護受けている人が商売しているのがおかしい
たとえ合法であっても 商売してても収入が一定以下なら生活保護貰えるんじゃなかったっけ?
受給額から一定割合さっぴかれるけど。 働いちゃいかんのは失業保険
バイトがバレるとやばいらしい スクランブル事例でも…ロシアとNATO、飛行気乗り同士の挨拶が撮影される(写真アリ)&copy;2ch.net
1 :キャプテンシステムρφ ★@転載は禁止 &copy;2ch.net:2014/11/21(金) 10:26:45.34 ID:???0
接近する戦闘機とスクランブル発進した戦闘機、そのパイロット同士の挨拶が撮影されました。
10月下旬、ヨーロッパ圏に接近したロシアのSu-34戦闘機に対し、
NATOは複数のF-16戦闘機をスクランブル発進させました。
数多くの写真が互いに撮影されたそうですが、
その中に互いに賛辞を送るパイロット同士の挨拶が写っていたそうです。
http://www.sinaimg.cn/dy/slidenews/8_img/2014_47/335_23916_404656.jpg
http://www.sinaimg.cn/dy/slidenews/8_img/2014_47/335_23917_127679.jpg >>35
申請していれば、ある程度は受け取れる
しかし申請していなければ全額没収 陸と違って、空はパイロット同士親和性でもあるのかね。
海でも、正月くらいは電光表示板に甲賀新年とでも出せば少しは…。 いやね、わかっちゃいたんだけど小さい頃から「こうが」と読んでたのがくせになっちゃってね。
「きんが」なんて読み回し殆ど使わないから口に合わないのよ。まあここ掲示板なんだけど。
お詫びにほのぼの?を一つ。
1944年初頭、ポーランド南部ブリズナのレジスタンスから、飛翔体の打ち上げを写したフィルムがロンドンへもたらされた。それはブリズナ砲撃実験場のもので、ドイツ軍が大型ロケット兵器を実用化しつつある事は明らかであった。
それから数ヵ月過ぎた44年5月、レジスタンスから実験場の詳細地図がもたらされ、設計図もしくは主要部品の入手が命令される。
実験場は親衛隊が警備していたが、幸運にも時を前後して飛翔に失敗したロケットがブーク川沿いの湿地帯に墜落し、近くに住む農夫から連絡が入っていた。
早速技術者を含むレジスタンスが急行し、ドイツ軍の捜索部隊を出し抜いてロケットを隠蔽。翌夜、連れてきた耕作馬三頭でこれを引き出すと、湿地がクッションになったのか、本体は破壊されていなかった。
ロケットは送り込まれた科学者による分解調査と図面作成を受けた後、操縦装置他の重要部品をジャガイモを積んだトラック二台に隠され、タルノー秘密飛行場へ向かった。
ロケットの発見と操縦装置の確保というニュースはロンドンの諜報部を沸き立たせ、早速これをイギリスへ輸送する「モスト(橋)」作戦が開始されていたのである。
責任者は「アウシュヴィッツ帰りの男」イェルジー・ケミエルスキー。特命を受けたケミエルスキー達3人は、イタリアから飛来したC-47と落ち合うことに成功し、着陸した機体に急いで部品袋を放り上げた。しかし、離陸出来ない。数日前の雨で芝生がぬかるんでいたのだ。
続きます… 乗員も一緒になって狂ったように前輪周囲の泥を掻き出し、枝を集めて前に敷く。それでも車輪は泥にはまり、機長は命令通り爆破も考えた。
しかしケミエルスキーは諦めず、もう一度泥を取り除いて、遂に離陸に成功する。上空からは複数の探照灯が見え、機長は身震いを覚えながらイタリアへ向かった。
三日後、ロンドンへ到着したケミエルスキー達にイギリス軍諜報部員が部品の即時引渡しを求めるも拒否され、強引に持っていこうものならケミエルスキーがナイフ片手に部品袋に覆い被さってみせた。
彼らの言い分は「ポーランド将校にのみ引き渡される」というもので、射殺すると脅しても従おうとしない。これには英軍も折れ、ポーランド亡命政府を介して部品が受け渡されることとなった。
調査の結果、V2ロケットの操縦装置は予想されていたラジオ・コントロールではなく、妨害不可能なジャイロ・コンパスと判明。多くのロンドン市民を疎開させ命を救ったが、この作戦記録は英国のどの機関にも見当たらないという。
http://iup.2ch-library.com/i/i1328559-1416612596.jpg
(V2の部品を運ぶレジスタンス) >>51
小学校の頃手酷く虐められてたからそういうのやめて、フラッシュバックするから!! >>54
『き中』か。(何故か変換できない)
と、書こうと思ったら、変換出来るのな。 いつの間にか「あさい(浅井)」は「あざい」になったよな。
きっかけは多分大河ドラマだとおもうが、その根拠は何処から出てきたのだろう? ケーニックスティーガーってのが正しいって主張していた人がいた。 コェニッヒスティーガー(Königstiger)じゃなくって? おろろ、文字化けしているぞ。
大学まで雰囲気をふいんきと読んでたから他人事じゃねえ…まあ甲賀のことはそろそろ忘れてくれ。 第二次世界大戦末期、アルデンヌの森深くのドイツ軍陣地に、一両のシャーマン戦車が悠々と侵入した。後ろにはハーフトラックを連れ、ハッチからはドイツ兵がニヤついた顔を覗かせている。話はやや遡る。
44年冬、アルデンヌの森に到達したアメリカ第12軍集団の右翼に休息が命じられた。軍集団を率いるブラッドレー将軍は、厳しい寒波と翌年の進撃に備える為、兵士に休息を与える必要があると考えたのだった。
僅かな警戒部隊のみ残されたアルデンヌでは、同じように戦力の回復を図るドイツ軍との間で「共生」ともとれる状況が生まれ、幽霊戦線とも呼ばれるようになった。
互いに徴用した民家から出てくるのが見えても、緩衝地帯に入らなければ撃たず、アメリカ兵がグレン・ミラー楽団演奏「イン・ザ・ムード」を流せば、返礼として「リリー・マルレーン」が返って来た。互いの偵察部隊さえ見逃し合っていた程である。
そんなある日、偵察中隊に属する6名のドイツ兵を乗せたハーフトラックが緩衝地帯を越え、駐車された一両のシャーマン戦車を発見する。彼等は戦車内に誰も居ない事を確認し、ハーフトラックの操縦手を呼び寄せた。
そのままシャーマンに乗り込んだ操縦手は、すぐにスターター・スイッチを見つけ、試しに押してみた。するとエンジンは唸りを上げ、快調に回り始めた。
近くの小屋で酒盛りに興じていたシャーマンの乗員達はこれに気付く事が出来ず、ドイツ兵達はシャーマンを悠々と持ち帰ったのである。
しかし、この戦利品は数日後、アメリカ軍の前線に戻されていたという……。なんで???
>>63 黒ニッカ。 黒ニッカは何かネチャネチャした舌触りなんで、赤鳥居の方が俺は好きだ
毎日余市や山崎が飲めるようになれますように >>65
高い本とか買うの止めたら飲めるのとちゃいますか。
軍事オタクはやたら高い本も一期一会で買っちゃうし。
単に肝臓悪いからかもしれないけど。 朝ドラ「マッサン」のモデル竹鶴政孝は徴兵検査のとき甲種合格となるはずだった
しかし、軍医官が「アルコール製造は火薬製造の元ともなる軍事に関連する技術。兵隊になるよりも技術者として研鑽をつんだ方がよい」と言って乙種合格となった 黒澤明は戦時中に徴兵されなかった。
本人曰く「徴兵検査で撥ねられたのだ」そうだ。
だが、あの偉丈夫の黒沢が検査で撥ねられたとは到底思えない。
父が陸軍の高官で、徴兵司令官が父の教え子だったため兵役を免れたらしい。 >>71
黒沢明は1910年生まれだから、世代的には1930年(大正軍縮期)前後の「甲種合格籤逃れ」があった頃だよ
満州事変(1931年)以降は満州駐箚師団とかができて入営者がどんどん増えていくのだけれども、ギリギリその対象にならなかった世代
なもんで、太平洋戦争開戦あとも、訓練召集の内容とか特技(兵としての必要な自動車免許とか)の関係で国民兵役の応召対象から外れてもおかしくは無いって 俺の祖父が黒澤明と同い年なんだが、3度も応召を受けた。 逆に言えば兵役の期間的にはそんな長くなかったってことだな
中国戦線だと現地除隊とか他の国の兵隊が聞いたら眼を剥きそうなことやってるし >>74
そう、同じ年でも、現役入営とか甲種合格(籤逃れ)で全然違うし、入営期間があるが為に再招集の対象になりやすい(とくに新兵への教育係り的な分隊長要員としてなら特に)
あとは、国民兵役での召集の場合は、産業統制とかの絡みで「一般工員とか販売員とか考慮すべきでない業種」から、連隊区や各町村の兵事係りのあたりで鉛筆舐める部分が多かったとか書き残されていますね 最近どこかで読んだ話で
戦前に兵器の研究者が徴兵検査受けたら合格になるはずの結果だったのに
検査官「お前痔だろう」
研究者「違いますよ」
検査官「いいや痔だ。よって不合格」
と言われて不合格なったことがあったって話あったな。
徴兵されたら困る海軍が手をまわしていたそうだ 国民義務だし世間体的にも全く受けないわけにも行かんのよ 判決を公開の法廷で言い渡す
選挙は公開の場での秘密投票
と同じ感覚で公開性が要るのかもしらぬような >>78
初めから弾いとけば良かった・・・パターンは上原敏だな。本名で召集したら歌手が応召してきたという。
上官からも「知ってたら召集してなかった」とか言われたとか。で、部隊が出動する時に内地に留まる事を強く勧められたが本人は拒否。
そして戦死しちゃった・・・。 >>77
その辺、船員や前線で任務に従事する軍属の現地徴兵検査でもけっこうあったようで、
揚子江方面の機帆船船員とかも、
検査官「おう機関長よ、今の船に乗るのと二等兵どっちがええよ?」
機関長「はぁ、船も若い者が多いのでワシが下りると心配ですし」
検査官「軍医ぃ、この人アレだよアレ、何か病気だ。ワシには治療するべき病気があるように見えるぞ」
軍医官「じゃぁ、肺湿潤か皮膚病(感染性)って事にしときますかね」
とか、(現場での必要性にかられて)多少の操作はあったようだけどね(船員が安全な職場とはいっていない >>80
そう言えばこないだの衆院選では開票不正があったんだっけ?
そんなの途上国でしか起きない話だと思っていたのに。 開票所も公開ってことになってますが、地元のは行ったことないし、実況中継があるわけでもないし ナポレオン時代のフランスでは、20歳から25歳の壮丁に兵役義務があった。
兵役年限は平時に5年、戦時には無期限。
初期にはくじ引きで当たった者だけが召集されたが、ロシア遠征のころにはほとんど全員が召集された。
当時、兵役に行けば生きて帰れるのは3人に1人と言われており、
当然ながら兵役逃れのあの手この手が横行することになる。
手っ取り早いのは、既婚者は兵役を免除されたため、徴兵年齢以前に結婚してしまうことだった。
次の手は身体を傷つけることで、
当時の銃は火薬の包みを歯で食い破って装填するものだったが、前歯を折ってしまうとそれができない。
それも通用しないとなれば、撃鉄を起こす親指を切り落としたり、足を折ったり、片目を潰す者まで現れた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています