@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 13 @@©2ch.net
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ここは戦時中、戦場、及び軍隊内での「ほのぼの」とする話しを楽しむスレです。
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@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 12 @@
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1388931390/
まとめサイト:
http://gunji.blog.shinobi.jp/ >>696
ドイツ軍の航空スケッチです
思っていたのと違って、まさにmap sketchですね
他に>>690のような、より精巧なスケッチもあり、塹壕スケッチと呼ばれています
塹壕から砲隊鏡で観測した火点や監視哨、塹壕戦を書き留めていたようです
1916年頃には航空機で扱えるカメラが一般的になったようですが、
スケッチも並行して使われていたようです
>>700
こらこら。
ストレイカー司令官はアメリカ人だぞ。意外なことに。 航空偵察ネタでひとつ。
大正3年、WW1では連合国側についた日本がドイツの租借地である青島を攻撃したとき、
日本初の航空写真偵察が行われた。
このとき使われた乾板カメラは横須賀海軍航空隊の和田大尉が小西本店(現在のコニカミノルタ)に依頼して特別に作られた、
木製ボディにフォクトレンダー製ヘリアー30センチレンズとソルントン式シャッターを組み合わせたものだったが、
見事に敵陣の撮影に成功。
これがきっかけとなり、大正8年には陸軍がフランスから、大正10年には海軍がイギリスから、
軍事使節団を招いて本格的に航空偵察写真の実用化に着手したしばらくあと、
大正12年、関東大震災の折、下志津飛行隊が東京、横浜の上空を飛び、
延焼する状況や焼跡を撮影した写真が関東戒厳司令部編の「大正12年9月大正震災写真集」に収められ、出版される。
この写真集に収められた航空写真が、日本国内で公にされた初の実用航空写真であったという。 >>694
気球から敵陣の撮影を試みたのは1859年、
ソルフェリノでナポレオン3世がオーストリア軍と対戦したときが最初らしいけど、
湿版カメラの時代、機材も大がかりな上、お世辞にも鮮明な写真は撮れなかったと思う・・・けど、
「何とかして敵陣の詳細を手に取るように知ることはできないか」という思いは痛いほどわかる・・・。 1943年6月29日付けで、北アフリカの連合軍司令部から米本国に宛て、
アイゼンハワー総司令官から発信された電文。
「ビン詰めコカコーラをできるだけ早い船便で300万本送るべし。
さらに、これと同じ量を半月ごとにビン詰め生産するための施設用機材を同じ便で積み出すこと」。
この電文のオリジナルは現在、アトランタのコカコーラ本社に展示されているのだが、
1942年2月以降、日本軍の占領により生産が途絶えていたフィリピン・マニラのコカコーラ現地工場が、
1945年8月1日に生産を再開した折の記念パーティーに自ら進んで参加したマッカーサー元帥、
生産ラインから出てきた第1号ボトルにつけられた記念カードにサインし、
この記念カードも現在、コカコーラ本社に展示されている。
・・・アメリカ軍のコカコーラに懸ける思いは、ただごとではなかったらしい・・・。 自軍の優勢さの条件として
「温かいスープが飲める」と
「冷えたコーラを飲める」があるんでしたっけ? 大戦中の米軍といえば、コーラの他にアイスクリームを抜きには語れんでしょ。(特に海軍) 支給されないなら冷却水をちょろまかして飲めば良いじゃないbyロシア兵 ロシア兵の飲み物ちょろまかしというか略奪ネタならペンネーム「スヴォーロフ」の「ソ連軍の素顔」にあった。
記憶で書くんで、細部が間違っていたら申し訳ない。
チェコ侵攻の折、とある醸造所を見つけた、某自動車化狙撃師団隷下の大隊。
チェコ侵攻部隊では略奪は禁止されており、まして軍務中の飲酒は厳禁・・・のはずだったが、
ある夜から、酔っぱらっているとしか思えない兵がちょくちょく見られるようになった。
中隊長として勤務していたスヴォーロフほか、部隊の指揮官全員で徹底的な酒探しをかけたが、
どこにも酒が見当たらない。
これはどうしたことだ?と思っていたら、スヴォーロフがはめていた腕時計をうらやましそうに見ていた兵がおり、
腕時計と引き換えに、兵は酒のありかを白状した。
「大隊長に報告!酒のありかがわかりました!」「どこだ!」「ラジエーターの中ですよ」
戦闘車両のエンジン冷却水の代わりに酒を詰め、車両点検をするふりをして飲んでいた、というのが真相で、
大隊長はさっそく指揮下の全車両と兵に整列をかけ「ラジエーターの冷却水を放出せよ!」
やがて車両が整列した野原に、えもいわれぬ芳香が漂いだし、
その夜、スヴォーロフから腕時計をもらった兵が半殺しの状態で発見された。
「中隊長!これはあなたの時計ではありませんか?」と、腕時計を返しにきた兵がおり、
ついでに何か言いたそうにしていたという・・・。 ノヴィコフ・プリボイ「ツシマ」にも、バルチック艦隊での酒ちょろまかしのくだりがあるなあ。
これまた記憶で書く。
プリボイが乗艦していた戦艦「オリョール」では、夕食時に一杯のラム酒が支給されていたが、
このラム酒、搭載するときには甲板上に設けられた専用の導入口から流し込み、
導管を伝って艦底のタンクに貯められるようになっていたのである。
ところが、機関兵は艦底近くに張り巡らされた導管の中で、どれが酒の導管か先刻ご承知、
ラム酒の搭載のときには導管に小さな穴を開け、しっかり横取りしていたのである。
航海中、機関室では機関のボイラーで焼いた肉にラム酒の宴会が繰り広げられ、
機関兵と仲良くなったプリボイも、口止めを条件に招待されたという。 出汁が足りねぇ〜と「まだ生きている」提督を漬けちまえば後の悲劇もなかったのに…
てか旗艦じゃないかw うろ覚えだが以前「丸」に載ってた真珠湾攻撃部隊の水偵パイロットの手記より食い物ネタを一つ(既出だったら失礼)
真珠湾攻撃の為に択捉島に集結した機動部隊。出撃までの数日間、暇を持て余した搭乗員や整備兵たちは「千島の海底は蟹で埋まっている」という話を聞き、
針金を直径20センチくらいの輪っかに加工してロープを結んだ仕掛けを作り、主計科から貰った魚の頭を数個その仕掛けにぶら下げた即席の蟹捕獲装置を作った。
仕掛けを海に沈めて待つこと10分。仕掛けを揚げると5〜6匹の蟹が餌にしがみついていて、その後も仕掛けを入れる度に蟹が面白いように釣り上がってきた。
釣り上げた山盛りの蟹は早速主計科に持ち込まれて塩茹でにされ、主計科、飛行科、整備科で山分けして茹で蟹を満喫した。
この話はたちまち艦内に広がり、手すきの乗員は競うように蟹を獲りまくったという。 反射的に、「そんなところで蟹獲ったらロシアに拿捕される」と思ってしまった 時期と場所さえ選べば、カニ罠でのカニ捕りって本当に面白いほど捕れるからなあ。
ただ、あまりに小さい子カニは「来年ぐらいにまた来いよー」放してやるのがマナーってもんで。
記憶で書くけど、米海軍原潜がソ連軍の海底通信ケーブルに盗聴器を仕掛けたとき、
作業にあたったダイバーがついでに捕まえてきたのが海底にいた大きなクモガニ、
早速、原潜の厨房に運ばれ、ゆでカニとなって乗組員にふるまわれたとか・・・。 タカアシガニも仲間だっけ?
やっぱり原子力で茹でたのかなあ? >>728
そりゃぁ、元をたどれば熱源は原子力だが。 戦前戦中の三菱重工長崎造船所。
各種の軍艦を建造していたが、その進水の日は言うまでもなく極秘にされていた。
だが、長崎でカステラを製造販売している老舗「福砂屋」では、軍艦の進水予定日に気が付いていた。
進水式には必ず海軍関係の宮様が臨席されるが、宮様には福砂屋のカステラが供されることになっており、
造船所から注文があったのである。
だが、防諜のため進水日を覚られぬよう、カステラの注文がなかった艦があり、
それこそが戦艦「武蔵」であったという。 新聞販売店と牛乳屋は護衛艦の行動を把握してるみたいな話だな。
出港から帰港まで注文止められるから。 今だとキャバクラのやり手のおねーちゃんの読み(ヒイキの給料と今月落とした額と通った回数からのサイクル逆算)とかあるけど、
当時もカフェーの女給さんでも同じことやってたっぽいしな
あと意外な所だと歯医者さんあたりも艦の行動読んだり教えてもらわないと治療計画立てられないから自然と詳しくなるらしい <詰め物無しで2ヶ月出動とか辛いし 歯医者は営内にあるだろうからそっちに通うのかと思ったら、そうでもないのか。
将校なら営内のヤブより近所の名医選ぶか。 揺れる艦上での歯科治療というのも微妙な地獄な悪寒
「あ、削りすぎちゃったぁ〜」
「神経を…」
テヘペロ、とかw
大型艦ならともかく小型艦だと歯医者まで載せてられんしな
随伴艦が動けば艦隊全体も動くわけだから、まあその気になれば察せるわな
スパイが潜入したら、治療が拷問に早変わりだw 一方、ブリカスは一次大戦後、スカパフローにドイツ海軍の残存艦艇を終結させたが軍医は乗せても歯科医の配属は禁止した
このため患者は適切な治療を受けられず地獄の苦しみを、、、 今でも南極に赴任する人は出港・出発までに歯の治療は済ませておけとの話だな。
しらせに艦医は乗るし、越冬隊にも医者はいるが歯科医はいない。 今でも南極に赴任する人は出港・出発までに歯の治療は済ませておけとの話だな。
しらせに艦医は乗るし、越冬隊にも医者はいるが歯科医はいない。 ほのぼのとしてるかどうかはわからないけど。
現在は中国南方航空と統合された「中国北方航空」。
関空から中国東北部に飛ぶにあたっては毎度おなじみ格安航空会社で、
JALとコードシェア便を飛ばしていたこともあり、
大連直行のANAに乗りたい思いも空しく、出張経費をかけない某会社出張員の定番航空会社だった。
当時、関空を飛び上がった中国北方航空便は、機内液晶テレビの「今どこをどんだけの高度速度で飛んでますサービス」を見ていると、
日本海を北に飛んで方向を変え、北朝鮮上空を東から西に横断するコースを取っていた、
上空から見る限り、中国東北部に入ればまだしも人の手が入った畑や街が見えるんだが、
北朝鮮領内は荒涼とした土地、以外にセリフが見つからなかった。
で、中国東北部のある街のホテルで、仕事が済んだあと寝転がっていると、
同僚から館内電話があり「今すぐNHKのBSを見ろ!」
外国人向けのホテルでは海外の衛星放送も視聴できるんだが、テレビをつけると、
”北朝鮮が核実験やりやがった・・・それも中国国境に近いあたりで・・・ここ近いわ・・・” さっそく同僚の部屋に出張社員が全員集まり、作戦会議が始まった。
「外国人保護名目で拘束されたりせんだろな?」
「可能性がないとは言わん、中国公安なんざ何をするかわからん」
「落ち着け、おいxx(おれだ)ノーパソ持ってきてたな?ホテルのLANサービスにつなげられるな?
北方航空のサイトにつないで更新しまくれ、変なサイトにつなぐなよ、ホテルのLANなんざ絶対にモニターされてるからな。
で、CCTV(中国国営放送)のニュースチャンネルをつけてみろ、何か言ってるか?」
「いや、何も・・・」
「地方局のニュースはどうだ?」「何も言ってないな」「北方航空のサイトも平常運航しか出てないな」
「だから中国なんだよ、大事なことは何も国民に知らせないんだ」
「よし、帰国のフライトは明日の朝だ、何も知らないフリして乗ってしまえ。
ただ、パスポートとフライトチケット、あと、手持ちの現金は今晩から身につけて寝ておけ。
あと・・・そうだな、明日のホテルの朝メシはとにかくしっかり食っておこうぜ」
「北方航空がまた北朝鮮上空飛んだら、何かありゃせんか?」
「そンときはそンときだよ、とにかく、おれたち、絶対に日本に帰るんだ」「おうさ!」
翌朝、晴れわたった中国某空港では全便、平常運航されており、
ごく普通にチェックインでき、出国審査でとがめられることもなく、
行きと違うところは機内液晶テレビがずっと「ミスター・ビーン」をかけており、
どうやら北朝鮮上空は飛ばず、韓国のそれらしい海岸線が見えたぐらいだが、
「おめえ、スッチーに頼んで青島ビールのお代わりってよくまあ・・・おれも!おれもだ!」
「お前も飲んでンじゃねーかよ!」
「バカ野郎、関空はもうすぐだ!これが飲まずにおれるかってンだよ!」
今にして思えばおおげさだったとは思う、けど、あのときのビールは美味かった・・・。 無事に帰ってこられたんだ、ほのぼのでも良いだろうw 中国のビールアルコール度数低くて水飲んでるみたいで美味しくない アレはアレであっさりサックリ飲みたい時にはちょうどいい オリオンってさ、アサヒ販売のオリオンとオリオンが直で売ってるのって味は同じなのかねえ? >>758
んなことこだわったら同じ企業の同製品でも樽ごとに微差があって閾値があるわけだし
そういうのはガキの言いがかりっていうのよ
同じラベルつけてりゃよっぽどいい加減な場合除けば同じもの 昔のコカコーラは地域(会社)で明らかに味が違ったけどな。まぁ、味がわからない人は知らん。
違いがわかる男のゴールドブレンド コカ・コーラの瓶の底にあるマークが丸い奴は甘い、三角の奴は辛い、こうですかわかりません! 以前は、マールボロなんかは海外の物と国内の物(JT委託生産)では、全く味が違った。
そういえば、昔大阪の一部地域では、路上で韓国からの密輸タバコを並べてカタコトの韓国人が売ってたが・・・もう無くなったかな? >>761
> 昔のコカコーラは地域(会社)で明らかに味が違ったけどな。まぁ、味がわからない人は知らん。
>
ボトラーズの名前がちゃんと書いてあったから、何処のかわかって良かったよね 西南戦争の話
水俣市深川周辺は西南戦争の戦場となり
薩摩軍の辺見十郎太は敵情視察によく出没した。
雨上がりの午後、着替えを家に取りに来た老女が辺見に出くわした。
「おい、風呂は沸いとっけ?」と辺見に聞かれ、
老女は沸いてもないのに思わず
「はい、ようたぎっとります」と答えたら、「ようし、おいば案内せい」と辺見が言ったからさあ大変。
老女は自分の家の庭まで来て場所を教えて納屋から震えてみてると
辺見は刀と衣類をおいて素っ裸で水風呂に飛び込み
「うーん、よか風呂じゃ。よう沸いている」と独り言を言いながらしばらく目を閉じた。
衣服をつけ、隠れている老女に向かって
「ほんにええ気持ちじゃった。ありがとう」と礼を残して、本営に急いだ。
熊本日日新聞社「言葉のゆりかご」から
元ネタは「新・水俣市史」らしい >>739
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F6KRI >>758
亀過ぎて何だけど、ビール好きでない自分が一口で分かる程違う。
沖縄でスーパードライを飲むと、オリオンビール風味だし。
水が違うので同じ味にはならないんだろうね。 >>768
ttps://www.dee-okinawa.com/topics/2017/03/beer.html
沖縄と東京で飲むオリオンビールの味は違うのか 1921年6月、パリ地下鉄、とある駅の改札。
一目で東洋人とわかる少年が駅員に怒鳴りつけられた。
地下鉄に乗り慣れていないのか、乗車券を握りしめたままで検札を受けず改札を通ろうとしたため、
無札の不正乗車と思われたのである。
あわてて駆け付けた、少年の連れと思われる東洋人の老人が、
手に持ったままの切符を改札係員に見せ、検札を受けるよう促したため、
その場は事なきを得たのだが、
この少年、日本国皇太子裕仁親王、言うまでもなく後の昭和帝であり、
老人とは随行員の竹下中将。
訪欧旅行中、フランス側当局にも事前通告をしていない、
全くのお忍びでパリ地下鉄に乗車した際のハプニングで、
このときの乗車券を、昭和帝となられてからも机の引き出しに大切にしまっておられたという。 まだ多少は自由に(監督下ではあるが)に行動できたころを、後々まで大切な想い出とされてたのでしょうね。
その後の激動を経られた後は特に。 保守。
終戦直後、進駐軍専用列車には戦時を経てもなお、できるだけ程度のよい車両を充てることが、
旧鉄道省=国鉄のみならず、ほとんど全ての私鉄の共通項であったのだが、
京急だけは「バラック電車」戦災で焼けた電車に最小限の復旧を施した電車を充当していたという。
「お前たちが空襲で焼いた電車に乗ってみろ」という、反骨精神の現れだったのだが、
並行する国鉄線では立派な?進駐軍専用電車が走っていたこともあり、
進駐軍軍人の乗客はほとんどいなかったという。 >>774
へぇ!
やっぱり俺は京急を支持する!
とはいえ、終戦直後ではまだ戦時の強制的私鉄再編(統合)で大東急だったかも。 京急は休止扱いだった平沼駅をつい最近まで横浜空襲の遺構ということで
あえて残してたりしてたな
黄金町駅とかでも悲惨な出来事起きてるし 高松琴平電気鉄道、300号電車。
大正15年、開業時に最新鋭の新造電車として投入され、
以後、一貫して高松琴平電気鉄道を走り続けてきた。
昭和20年7月、高松夜間大空襲の直前。
本来なら高松市内中心部の「瓦町」駅に、仕業を終えて留置されるところだった300号、
当時の瓦町駅長の独自判断で、待避線があった現在でいう「栗林公園」駅に疎開することになり、
同じく瓦町駅長の判断で、300号を疎開させたのは戦時に臨時雇用されていた女性乗務員であった。
空襲で高松琴平電気鉄道の高松市内路線はほぼ全滅に近い損害を被るが、
300号、そして女性乗務員は生き残り、戦後、駅長と再会を喜んだという。
だが戦後の輸送を担い、平成まで走った300号にも、近代化の波が待ち受けていた。
大正時代から高松琴平電気鉄道を走り続けた讃岐路ゆかりの電車であり、
自治体の博物館で引き取ってもらえないか、という電鉄側の申し入れも空しく、
自治体側は輸送費用、保存費用に難色を示し、あえなく廃車、解体が決定する直前、
「近代化産業遺産」に指定され、電鉄側も動態保存に立ち上がった300号、
今もなお、動態保存電車として高松琴平電気鉄道を走っている。 空襲と鉄ネタといえばNHKの朝ドラでやってた「ごちそうさん」でもあったが
大阪大空襲で避難した人たちを救援するために
地下鉄を走らせた話。
ttp://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html >>783
これだな? w
http://crx7601.com/archives/53331078.html
【画像】自衛隊日報の中身がめちゃくちゃおもしろい!
イタリア軍人「お前空手何帯なの?」 自衛隊員「は?やった事ないわ」 保守。
1998年、ポルポト政権なきあとの国民議会政権下カンボジア。
カンボジア国鉄、プノンペン・タケオ間70kmの区間で、
旅客用の231型蒸気機関車が復活イベント運転されることになり、
情報を聞きつけた日本人も含む外国人鉄道ファンが押しかけることに相成った。
フランスのインドシナ統治時代、
フランスから旅客用の231型、貨物用の141型蒸気機関車が持ち込まれていたのだが、
ベトナムに残った231型はベトナム戦争、特に北爆を生き残ったものもディーゼル機関車化で全て廃車されてしまい、
カンボジア国鉄に残っているらしい、という鉄道マニア間の情報も、ポルポト政権下では確認どころではなかったのだ。
そもそも、復活運転区間がプノンペン・タケオ間、カンボジア南部に決定されたのも、
カンボジア北部では地雷の撤去作業が進んでおらず、外国人鉄道マニアの命の保証がしやすい区間だったからだが、
沿線の地雷は全て撤去されたことになっているとはいえ、
外国人鉄道マニアへの安全対策として武装兵士が同乗し、
231型蒸気機関車の窓にも運転に支障のない程度に鉄板が張られ、
「昔は日に何本もの列車が発着し、本当に賑やかだったんだ」と、
ポルポト政権下を生き残った機関区副主任が鉄道マニアに語る、
キリングフィールドはまだ過去のこととは言えない、緊張感の走る鉄道イベントであったという。 >>787
旅客機はパシフィック、貨物機はミカドなんだろうな。 なんだろうなも何も、仏式の231は米式でパシフィック、仏式の141が米式でミカドで、呼び方の違いだけだぜ 山口号はこの前引退したって、ニュースでやってたぞ。 やまぐち号に使われていたC56型160号の、JR営業線引退のことだね。
大井川鉄道で今も走っているC56型44号は、160号に比べて運転台の屋根が平らに削がれ、
煙突も短い。
C56型蒸気機関車は1号から90号までが陸軍に徴用され、
1メートルゲージに改造された上で、全機が泰緬鉄道用の軍用機関車として投入されたが、
泰緬鉄道の鉄道規格に合わせ、できる限り高さを切り詰めなければ入線できなかった、
また、オリジナルのC56型の運転台、丸屋根に比べて平らに削がれた屋根は、
戦闘の折に軽機関銃を据え付けやすくなっていた・・・というのだが、
のちに泰緬鉄道を襲う連合軍機の空襲相手には、
たかだか軽機関銃1丁でどうなるものでもなかった・・・。
奇跡ともいえる里帰りを果たし、今も走る鉄道連隊の勇士44号機、
160号がJR営業線から引退したあとも、長く走り続けていてほしい・・・。 やまぐち号に使われていたC56型160号の、JR営業線引退のことだね。
大井川鉄道で今も走っているC56型44号は、160号に比べて運転台の屋根が平らに削がれ、
煙突も短い。
C56型蒸気機関車は1号から90号までが陸軍に徴用され、
1メートルゲージに改造された上で、全機が泰緬鉄道用の軍用機関車として投入されたが、
泰緬鉄道の鉄道規格に合わせ、できる限り高さを切り詰めなければ入線できなかった、
また、オリジナルのC56型の運転台、丸屋根に比べて平らに削がれた屋根は、
戦闘の折に軽機関銃を据え付けやすくなっていた・・・というのだが、
のちに泰緬鉄道を襲う連合軍機の空襲相手には、
たかだか軽機関銃1丁でどうなるものでもなかった・・・。
奇跡ともいえる里帰りを果たし、今も走る鉄道連隊の勇士44号機、
160号がJR営業線から引退したあとも、長く走り続けていてほしい・・・。 小学生の頃鉄道雑誌読んで知った知識だが、
塚本さんという方がタイからの帰還に尽力されたようですね。 2両帰ってきて、もう1両は遊就館にいるな。
…あっち方面が捕虜や原住民の強制労働の象徴といちゃもん付けてるが、安住してもらいたい。 日本海軍、ある主計科の下士官が除隊のときに「じつは・・・」懺悔した話。
この下士官が若いころ、艦の烹炊所で朝食のめし炊き作業をやっていたときに、
ふと思いついたのが「めし炊き釜に入ってひとっ風呂浴びてみたい」。
六斗炊きの飯釜、上縁は差し渡し1メートル20センチもあり、
五右衛門風呂には充分な大きさ。
大きな艦ではなかったため、朝飯を焚く当直は交代で1人だけ、と、くれば、
ある朝、ためしに米を入れる前、ほどよい湯加減のときに素っ裸になって釜に入り、
五右衛門風呂を決め込んでみると、これが病みつきになり、
3日に1度、当直が回ってくると少し早めに烹炊所に入ってドアに鍵をかけ、
贅沢な朝風呂を楽しむようになったという、
だが、水が貴重品の軍艦で、朝風呂の残り湯を捨てるようなことはせず、
そのまま残り湯で飯を焚いていたことが、後々まで気になっていたのか、
除隊後になって懺悔に及んだそうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています