近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代8©2ch.net
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軍事板の近世総合スレです。
概ね、戦場での主役が弓から銃・火砲に変化したあたりの時代での軍事全般を考察するスレです。
国ごとで、中世と近世の区分けの解釈が違ってきますが、
だいたい西暦1400年〜1850年ぐらいまで、東洋・西洋・日本国内を問わず、
陸戦、海戦、戦術、組織・動員編成、補給・兵站、諜報、外交、経済、
築城・縄張・要塞・土木技術、火薬、火砲製造技術・船舶・食料・農業や人口など、
軍事や戦争に僅かでも関係することなら何でもOKの軍事考察スレとします。
中世以前の話題については、古代・中世総合スレへ。
1850年以降の話題は19世紀後半軍事考察スレへ。
このスレでのお約束
上記すべての分野を東洋・西洋も時代の区分けも関係なく全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。
このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
2ch外のURLを貼るときは先頭hを外して直リンを避けること。
900踏んだ人は1000までに次スレを立てて、次スレへ誘導すること。
関連スレなどは>>2以降参照
前スレ
近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代7
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1388893375/
参考資料:軍事年表(軍事百科事典より)
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/sub04.htm >>243
横レスな上にスレ違いスマンのだが
ロンドンの大気汚染が最悪だったのは1950年台だったのか
石炭使ってたビクトリア朝だと思いこんでたわ >>244
これって重要みたいですね
軍服で釣るのって
少し時代がずれるけれど、南北戦争での両軍義勇兵連隊の軍服が正規軍に比べて華美だったのも、これが目的だったと
移民向けに出身国風(英仏伊)の軍服で郷愁を誘ったのも有りましたが、仏軍ズアーブ式の軍服は出身国に関係無く人気が有りました
維持するには旅行鞄で持ち歩く必要が有ったのでは?と、現在のコレクターに言わせる程華美な代物でした >>245
石炭由来の汚染は20世紀当初が最悪だったみたいですね
スモッグと言う言葉も、この時に出来たと
対策を打ち改善して行きましたが、それを追い越す勢いで車の排ガスに依る汚染が拡大
1950年代は複数の原因からなる汚染が最大になったそうです
中でも1952年が最悪
ロンドンの大気汚染は濃霧と相まって、特に視界への影響が凄かったらしいです フランス王国陸軍の歩兵の制服って白だっけ
オーストリアも確か白だったからわかりにくそうだね
19世紀以降のあのフランス軍の青と赤の制服はどこからきてるんだろう?
パリの衛兵からだっけ? 由来はそうなんだろうけど、革命後はトリコロールの色っていう意味もあるんじゃない?
19世紀末期に赤と青と白の糸を使った紫色の軍服が試作されたりしてるし 旧王制時代のフランス軍白軍服が全連隊オーストリア軍の様に純白1763年の規定からだった様です
それまでは純白に加工された軍服を着用していた連隊ばかりでは有りませんでした
費用の面からと思われますが、灰色掛かった白の連隊も多く有りました
また、革命以前にも近衛・騎兵・外国人連隊を中心として、青の軍服を着用していた部隊が有りました >>250
抜けました・・・
純白になったのは1763年の規定 >>244
傭兵ブレーカーさん読むと兵隊の暮らしがわかるぞ
全体のごくちょびっとしか兵隊時代の話ないけど(書くのも嫌らしい)
>>245+247
パリは今現在大気汚染がひどくて車を日ごとにナンバー奇数偶数で分けて走らせるとかひどいことになってんぞ
しかし純白の軍服とか平時にはきれいでかっこいいかもしれんがすぐに汚れて金ばっかりかかるだろうにようやる >>252
ナポレオン軍の戦列歩兵も1806年4月に純白のアビコートを採用しています
王制の軍服を懐かしがった訳では無く、イギリス海軍の封鎖によりインドから染料のインディゴを入手出来なくなったので・・・
この白服は評判が悪く、青の代用染料を国内で生産出来る様になった事も合わせ、1807年10月に青服に戻す通達が出ました
採用期間が短かった為、白服への切り換えが行われていたのは20個連隊程度でしたが なんで評判悪かったんだろ(誰が批判したかも気になるけど、兵隊か着てるのを見た偉い人か)
やっぱり洗濯が大変すぎたのかな >>254
そう、これです
1806〜1807年に掛けて帽子関係もビコーンからシャコーへの切り換えが始まったので、上下の組み合わせが新旧入り雑じってしまった様です
アイラウ会戦での軍旗のエピソードで有名な戦列歩兵第14連隊はビコーン+白のアビコートの組み合わせで1807年戦役を過ごしたと言われています
1807年のスペイン戦役にはシャコー+白のアビコートに部隊で調達した茶色のオーバーズボンと言うちぐはぐな姿で従軍した連隊も
1809年11月、この混乱が終わった頃にスーシェ元帥は
「ごちゃ混ぜは終わった。ビコーンはもうたくさんだ。白服はもうたくさんだ。」
と、書き残していると
でも、この白服はフィギュアモデラーには評判が良いんですよねw >>255
汚れ易いのも有りますが、負傷時には出血が目立つので士気(本人と周りの両方)が下がるので不適切だと
オランダやザクセンと言った同盟軍も白服、そもそも宿敵オーストリア軍が白服なので、あらゆる点から紛らわしいとか?
旧王制と同じシステム(白服の各部の定色で連隊を識別)なので、未だに多い共和派から嫌われたとか?
(ナポレオン戦争従軍記の著者は戦場では皇帝万歳を叫んでいましたが、ナポレオンの事を革命の簒奪者と呼ぶ事さえ・・・)
後半の2つの理由は想像ですが >>257
あー確かにすぐ真っ赤になったら本人も周りもすげービビルわな
わざわざ敵同じ格好ってのもそりゃ誰も賛成しないわな
真似してるみたいで腹立たしい(実践的に何かすごい効果があったら真似せざるを得ないけど) 19世紀半ばに人工染料が発明され大量生産されるようになるまで、染色した制服をそろえるのも、
結構な費用がかかったそうだからの。 帆走艦時代の英海軍では、飛び散った将兵の血が目立たないように、艦内を赤く塗っていたって話を思い出した。 >>259
プロイセンの軍服の軍服に使われたベルリン青はそういう意味で当時としては画期的だったんだろうな 18世紀から19世紀の初めに掛けて白軍服が多かったのも染織費用の関係なのかな?
白は基本的に漂白だから
糸や生地を痛めない漂白は、それなりに手間や費用が掛かるから、18世紀のフランス軍では灰色や黄色掛かった生なりの白の連隊も多かったと
民兵などは開き直ったのか灰色に染織してる
(染め易かったのかな?)
ナポレオン時代のフランス歩兵(親衛隊を含む)でも下士官兵の白いキュロットは生なりの黄色掛かった白
漂白すると強度が落ちるとか?
厚さの関係で漂白出来ない?
謎・・・ 日本は何で鎖国前に大航海時代の造船技術や航海術は手に入らなかったの
鉄砲をあれだけ量産したり城や何だと建築できる技術とGDPがあれば
金なんかいくらでも積めたよね
船ごと艦隊ごと買うとか容易かったろうに
海賊はいくらでも買えたろう
蘭学事始並の語学力がいるわけでもなかろうに 秀吉の朱印船数百隻は洋式帆船と中国帆船の良いとこどりの構造で東南アジアを縦横にしていたし
伊達政宗のサンファン・バウティスタ号は幕末の咸臨丸に250年近く先立って太平洋横断をやってるし
最新の造船技術や航海術は江戸時代初期に入手していて日本にとっての大航海時代は目前だった
それを止めたのが徳川幕府で、船は1000石積みの一本マスト以上の高性能な大船は建造禁止
何より幕府以外の海外交易禁止という政策のせいで、日本の海外進出は300年以上遅れることとなった >>265
これ以降、幕末にヘダ号が作られるまで西洋式造船は途絶えることに・・・ >>265
いや、和船が1本マストの1000石積み以下に制限されたって俗説で、実際にはそんな禁令出てないんですが。
いわゆる千石船が標準的なサイズになったのは、それが一番経済的だったからで、
幕府の制限によるものじゃないし、マストは普通2本、幕末期だと3〜4本が普通ですよ。 参勤交代とか公共工事等の経済的締め付け
で大船を作る余裕が無かった
んじゃないの?
どこの藩も借金まみれだし てか、西欧式の大型船を作る意味が無いよね
藩独自の海外交易が出来た訳でも無いし 独自の海外交易が禁止された時点で外洋航行能力のある船は持てなくなって
沿岸航行用の割安な和船で充分て事になったのは仕方ないけど
「空には動かない星が一つだけある」だなんて話が口伝になってたり航海術まで退行しちゃったね 海外交易は儲かるから、家康は俺の幕府だけでやる、お前ら禁止がいつのまにか
幕府自体も長崎だけになってしまったのは極めて日本的だ 貿易するとキリスト教に浸透されるという諸刃の剣があるから スペインが布教とセットじゃないと絶対に交易を認めないというスタンスだし
じゃあ来んなつっても紛れ込んで来るし、統制がきつくなるのは仕方がない はっきり近世に入ってもな…ハワイにキリスト教を持ち込んで崩壊直結の統一させたのはスペイン人じゃないのは確かだし。 ラッパ銃って嘘みたいな名前の銃を知ったんだけど
これって何時頃に登場したものなんでしょうか? >>267
俗説ではない
江戸幕府は1635年に500石以上の船を禁止し没収した
が、3年後には商船については例外とした
ただし百-五百石積ががメイン(弁財船)
19世紀初期には菱垣廻船が千石積
19世紀後期には樽廻船が1400石から1800石積を主に
なかにゃ二千石、三千石積も登場している
俗説は
"甲板、竜骨、二本以上の帆桁、二枚以上の帆の使用の禁止"の方ですな
単純に内海航行用の船なので竜骨はいらないし、
帆が一つなのは水夫の省力化が目的で、必要なら補助の帆を張った
甲板がないのは荷物を多く詰むため
さらに言えば洋船とくらべると建造コストが安かった。商用船だからね
以上の理由から使用され無かっただけで禁じられてはいなかった キリスト教なんて信じる者しか救わないケツの穴の狭い神様は日本にはそぐわないんじゃね? 神の前では皆平等・信仰さえあれば誰もが救われる って教義は
社会の中上層以外の-持たざる者にとっては正に福音だったのよ
定められた諸々の寄進や儀式を継続してやらないと先祖もお前も救われんで〜
墓建てて毎年供養して〇回忌盛大にやろうね♪なんて当時の庶民には夢のまた夢。
戦国時代に一向宗が爆発的な普及と狂信的な支持を得たのも、正にこれ故。
当時の日本にはピッタリの宗教形態ですがな すでに"南無阿弥陀仏"と唱えれば阿弥陀様に救ってもらえる(これは方便なのでちょっと違うんが)
というキリスト教より制限が少ないお手軽宗教浄土真宗があったし
ただひとつの仏を拝めばそれで良し、の日蓮宗も存在したので
キリスト教の入り込むニッチが…
なにより先祖崇拝の強い日本人に「神を知らないものは天国に行けない」なんて説いて
「じゃあうちのご先祖様は天国に行けないのか。なのに俺だけ天国行くとかそんな不義理はできん」
と論破されて退場 それにアブラハムの宗教の中でキリスト教だけが階層的な身分制度を取り入れているので
神の前での平等はただのお題目に成り下がってたし、国家とつながって他国への侵略にも手を貸してたので
為政者にとっても平民たちにとっても奇妙な宗教にしか映らなかったという それでは、一向宗やキリスト教が爆発的な普及をした事も、その後の(厳しい禁教下ですら)
根強く信仰が続いた事についても、何の説明もできないでしょう。
そんな事は無かった・あり得たはずが無い、と主張したいのならともかくさ
当時一向宗があれだけ急速かつ強固に普及した事が、当時の浄土真宗含めた既存の
仏教・神道がニーズと合致していなかったから、でしょ?
それに先祖崇拝が強い‥って、それが庶民層に普及したのは江戸時代に入って以降の
事でしょ。土地・階層への定着と帰属意識とのセットでの事ですので
基本的には宗教や教義は何でも良かったんだと思うのよ。絶望的・不安定な状況下にある
ものにとって、「コレが正しい道。コレで救われる」「あなたは正しい・無価値じゃない」って
言ってくれる、既存のシステムとは別な何か って事が重要なんでさ。
オウム、IS、アラブの春 なんかに救い/希望を見たのと同じ構図だね 宗教にあんまり興味ないんで本も流し読みでメモとって無いから
話半分で聞いてくれるとありがたいが
戦国期の宗教を取り扱った本(多分一向宗が専門の神田千里の本)で
キリスト教と日本的仏教が似てるとイエズス会自体が認識していて
一向宗もキリスト教もその日本的仏教に合致する路線(大名から庶民まである程度共通する宗教観)で布教したから成功した
みたいな話があったと思う 神田千里の本だとキリスト教は日本人に受け入れられる段階で変質化して
島原の乱の時点ではまんま一向一揆になってたという論調だったな ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>286
ブッコワ少佐の記録イラストに馬上で射撃中の物が何点か有ったはず
でも、検索したら竜騎兵の物しか見当たらなかった・・・
Bucquoy+英語かフランス語での兵科名
Bucquoy+uniform
Bucquoy+Grande Armee
この辺りで検索を
普通の構え?以外に、左腕を水平にして肘から「く」の字に曲げて、その肘の上辺りで騎兵銃を支える感じの構えが載っていたのだけれど
(西部劇なんかで有る構え?)
確か、ユサールか騎馬猟兵だったかと これの39秒あたり? 内容的にもどんぴしゃりだと思うんでまずは通しで見てみて。
http://www.dailymotion.com/video/x2vrd69 >>89
まずその前に、北海道の近世について
渡党(日本文化を取り入れたアイヌ)≒蠣崎家→松前藩
つまり、松前藩(≒アイヌ一派)も含め
各アイヌ部族が争う北海道の戦国時代は、各勢力ごとに数十挺ほど鉄砲持ってたとか
近世アイヌ民族の社会と生活 - アイヌ文化振興・研究推進機構
http://www.frpac.or.jp/about/files/sem1215.pdf
津軽藩士は松前城下でアイ ヌ民族の武装についての情. 報を収集していますが、
それには、. 「〇本具足は少しばかり之れ有るべき由。
〇自分にて木具. 足仕立て、 着け申し候う。 〇鉄砲三、 四拾挺も之れ有る. べき由。
〇弓丶 鍵は大方所持仕り候う由」 とか
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
武器の備えもかなり先進性を帯びており、
たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。 松前藩(≒渡党=アイヌ一派)は
金堀で少しは潤っても、1799で足軽含め武家は170戸規模のみ、の弱小貧乏藩
松前藩は少ない収益を独占しようと、和人の流入制限してたほどで
サンタン交易通じ入り込まれた大陸勢力に、借金や直接朝貢するアイヌも多かった
1669年:シャクシャインの戦い
シャクシャイン一派が、民間の和人らを虐殺した武装テロ事件
ハウカセ: 江戸前期の蝦夷地の5大勢力のひとつの首長
<参考文献>
海保嶺夫『近世蝦夷地成立史の研究』,喜多村校尉編『津軽一統志』(『新北海道史』7巻)
また,ハウカセは近江八幡出身の金太夫という娘婿に
軍事顧問的役割をさせており,
蝦夷地への武器輸出が不可能になったシャクシャインの戦の時点で
40〜50挺もの鉄砲を所持していたといわれる点などから,
松前藩のほかにも和産物輸入ルートを確保していたとも考えられる。
当時、アイヌ5大勢力の1である中立のハウカセすら、40〜50挺もの鉄砲を所持し
北海道には、大陸由来の鉄砲もあったとする説もある アイヌって北海道だけでなくカムチャッカや千島列島にも住んでいるんだからそっち通じて交易するのは当たり前 シャクシャインが蜂起し、各地で和人の商人や労働者ら数百が殺され
松前藩が津軽藩から武器借りたのが6月
国縫では7月に民間の工夫200と藩兵300で土塁作り始め、7月28日開戦
騎馬が少ないからか進軍が遅い 1616 ヌルハチが後金を建国
1639 モスクヴィチノフ指揮のロシア・コサック隊、オホーツク海に到達
1644 明が滅亡、清が中国支配開始
1669 シャクシャインの寛文9年の蜂起
アイヌが大陸の銃を輸入してたなら、、、満州製が多かったのだろうか アイヌの砂金伝説とかあるし大陸にもアイヌの同族がいたそうだから
商人なんかが仲介していたら火縄銃で武装していたかもね〜 http://pin.it/CF-R5Yk
こう言う騎兵の至近距離の銃撃を何度もして歩兵にやられたのが
リュッツェンの戦いのパッペンハイムなのかだが このキチガイこっちに来たのか。中世スレみたいにこいつのつぶやきスレになって終わりか 行こう。ここも腐海に沈む。
ネタループしてるんで新規の大きな発見ない限り過去ログ辿れで終わっちゃうからなー じゃあネタふりで、マッチロック式とフリントロック式を比較すると
マッチロック式のメリット、デメリットは
1)火縄を押し付けるだけだから構造が簡単。
2)同じ理由で射撃の際に銃身がぶれにくい。
1)常に火縄に火をつけておかねばならない。
2)そのせいとフリントロック式に比べて火花が大きいので味方と並んで射撃すると引火しやすい、従って密集した隊列が組みにくい。
3)不発が多い。
フリントロック式のメリット、デメリットはマッチロック式の逆といったところでいいのかな。 自分で完結してたらネタふりでもなんでもないんじゃないか?
フリントロックのメリットは弾さえ込めてたらいつでも撃てるって点じゃないかな。
マッチロックだと、火縄に火付ける作業だけでだいぶタイムロスなんじゃないの?。まさか常時点火してる訳にもいかないだろーし 確かに自己完結してるね、申し訳ない。
種火が無いと即座に射てないというのは確かに夜襲や奇襲がしにくいということになるデメリットだな。
そもそも戦国時代に戦列を組んで戦えるのかちょっと気になって考えてみたんだけど、デメリットが多いなあマッチロック式は。 時代祭りなんかでデモンストレーションしてる火縄銃は空砲だからいいけど
実弾を撃ったら発射ガスの噴き戻しで、火縄が大きく横に吹き飛ばされたりするからな
危なくて密集なんかできないだろう 黒澤映画の乱の中で火縄銃が有り得ない使い方されてたけどああいうものだと思っちゃうね
鉄砲足軽が城に攻め入って一斉射撃する場面なんか後ろの人の銃口が前の人の耳元に来ていて
発砲と同時にもんどりうっていて鼓膜をやっていそうだけど実銃だったらみんな大やけどしてる やはり火縄式では隊列を組むのは難しいのかあ。
もし戦国時代に戦列歩兵を出させるにはフリントロック式の採用は不可欠なんだろうか? そもそも平地少ないから戦列歩兵やるメリットないんじゃないかな
日本の場合、機動戦やるより陣地戦やる方が有利だと思う なるほど確かに隊列組んだ戦列歩兵が撃ち合える平野って視点は考えたことなかったなあ。
そうなると陣地戦に向いた火縄式の進化ってどうなるんだろう。
史実だと早合とかで発射速度を上げたりしてたみたいだけど。 http://blog-imgs-43.fc2.com/s/a/k/saketarou/100503marugame36.jpg
火縄銃も装填迄此処迄密集してやれるかと言うのは
有るが
前後二列に成れば密集度合いは可成り高められないのかだが
前列の装填速度はどうなのかだが Matchlock Musket Demonstration with Armor
https://youtu.be/X1WwQkeDuXs
西欧の緩発式火縄銃も引き金を早く引けば
瞬発的に出来る可能性も有るのかだが
途中迄引いてから早く落とす方法も有るのかだが
そうした運用が成されていた可能性は果たして有るのかだろうし
銃身の精度も余り高くは無いと言う事だっただろうか
https://www.youtube.com/watch?v=P8q4DicVBws
ホイールロックピストルは
基本的に瞬発式なのかだが 兵士の左右の間隔例
基本的に、正面を向いて直立している兵士と兵士の肘の間の距離
清教徒革命(マッチロックマスケット)
Order:3ft(91.44cm)
Closest Order:6in(15.24cm)
(マスケッティアとパイクマンに共通)
間隔の使い分けは?です
Closest Order で射撃はしないと思いますが・・・
ナポレオン戦争(フリントロックマスケット)
イギリス軍:22in (55.88cm)
フランス軍:26in (66.04cm)
ロシア軍:27in (68.58cm)
散兵隊形以外の全て(横隊と縦隊)で使用
3ftを近いと取るか、遠いと取るかが、マッチロックは密集隊形で云々って話の分かれ目かな? ナポレオンのフランス軍の胸甲騎兵の鎧の対弾性はどの位あったんだろうか
装甲は前面の身体に集中させてて厚さは5ミリで20メートル以上だと
当時のマスケット銃だと貫通できなかったそうだけど、本当だったら
なんで歩兵にも胸甲つけさせなかったんだろうか どうやって戦場まで行軍すんの?
下級兵に高価な装備もたせて持ち逃げ云々はおいとくにしても >>318
日本でもヨーロッパでも昔は鎧兜で行軍してたんだから
大丈夫やろ >>319
銃弾を防げるような重い甲冑を着れるのは戦国時代の日本でも、ヨーロッパでも
馬に乗ってる人間だけだ 18世紀後半、ギャングが作った防弾鎧。厚さ1/4インチで45kg
4人が着て、3人は銃撃戦で死亡・1人は負傷した所を逮捕
https://remodernreview.files.wordpress.com/2015/08/ned_kelly_full_suit_of_armor.jpg
トーナメント用を除くと、末期のフルプレートアーマーでも25kg程度で、既に戦闘用の動作を
行うには重量的に限界と見做されてた。18-19正規の一般歩兵と比べても、17世紀の騎士階級は
肉体的に大きく、幼少期から戦闘・肉体的鍛錬を積み、従者を従え馬で移動して‥でも25kg。
胸鎧の前側だけ鉄で作って軽量化して10-15kgに抑えたとしても、食料他を自分で背負って
徒歩で長い行軍を行う一般歩兵には手に余る物だと思うのよ。実際、独立戦争では歩兵用の
防弾ベストが試されたけど、広まらないまま放棄されてるし 重装歩兵の装備を奴隷に戦場の近辺まで担がせたギリシャ諸都市に対し、「軽装」の鎧着たまま動き回るスパルタ兵の怖ろしさ >>322
> 18世紀後半
「19世紀後半」の間違いかと
アドレスにもあるけど、ネッド・ケリーってオーストラリアのギャングの使ったもの ナポレオン軍で馬を失った胸甲騎兵を歩兵として投入した会戦が有った筈だけど
ヘルメットとキュラシュ装備のまま徒歩胸甲騎兵として
何処の会戦だったか・・・
因みに徒歩胸甲騎兵はWW1でも復活
流石にキュラシュは着用していなかったけれど、クレスト(鶏冠みたいな飾り)を外したヘルメットは着用
アドリアンヘルメット採用後は、それを着用 胸甲騎兵の鎧は弾の当たりやすい身体の前面だけ、装甲を5ミリと厚くして
他の箇所は薄くして重量をおさえてるみたいだけど 伊達政宗の五枚胴の最大厚は4mmと有るが
他の伊達家の騎馬武者の五枚胴も同様なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561266314/
井伊家の通常の胴に追加する恐らく戦国期の胸甲も
宮帯出版社・赤備えに有るが
此れを合わせても厚さは4mmは行くのかだが
フサリアも至近距離で密集した所で
銃兵の一斉射撃でも受ければ
可成り損害を受ける可能性は無いのかだが
スウェーデン軍も敗北しているなら
そうした運用は行ったのかどうかだが >>327
軽騎兵パンセルニの弓でスウェーデン銃兵が遠距離から
壊滅した可能性も有るのかだが
パンセルニも散開して移動し弓を放っていた可能性も有るなら
日本軍の火縄銃でのアウトレンジは何処迄可能なのかだが 擲弾兵の剣って19世紀になっても近衛擲弾兵のようなエリートだけじゃなくて
一般歩兵の擲弾兵中隊の兵士にも配備されてるけど
やっぱりあれってステータスシンボルだけじゃなくて実戦でも効果的だったんだろうか 簡単な料理だとか焚き火の木切ったりする用途以外には役立たなかった、ってよく聞くけど、実戦で抜刀突撃した例ってあるんだろうかね?
絶対銃剣の方が集団戦向きだと思うんだけど 槍兵の隊列が崩れて乱戦になった時、剣装備の熟練兵士は長柄武器の一般兵
に対し圧倒的に優位‥ってのはロデレロやドッペルゾナー等で繰り返し実証されて
るので、崩れた後の突撃〜掃討戦では有効なんでないの。
問題は槍衾を崩すのに剣は役に立たない事だが‥ >>333 その方々は銃剣とは
戦ってないけど2m未満の短槍との闘いは
どうなんだろう?あと騎兵に弱いとあるが 出典がどの本か知らんけど歴群の2016年10月号によれば
ナポレオン戦争中銃剣による白兵戦は市街戦や攻囲戦、森林戦でしか起こっておらず、
開豁地で発起された銃剣突撃ではほぼ例外なくどちらかの側が敗走してるらしいよ。
そういう白兵戦が起きるような場所だと取り回しの銃剣よりも刀の方が扱いやすいんじゃない?
陣内での白兵が頻発した第一次大戦でも兵士達は取り回しの悪い銃剣よりもスコップやらナイフやらを好んだし 短槍と言えば、18世紀の仏軍の軍装で
士官が短槍を持っているけど
自衛の為? 下士官が権威の象徴と指導用(銃の狙いとか)に持ってたってのは読んだことがある。 乱戦になると、自軍の長柄槍が1.5〜2m級の短いポールウェポンにいじめられる
→ポールをいじめるための剣兵士‥ってのがドッペルでなかったっけ?
とはいえ、隊形が崩れて乱戦に‥なんて最早戦闘の趨勢は決してるような状況で
有利になるからって、そのためだけに剣を持ってくのはなァ‥ >>337
権威と実用を兼ねて
権威はそのままとして、実用は隊列関係が多い?
横にして隊列の整理
縦にして隊列を組む時の目印
「右斜め前方に大尉殿のスポントゥーンが見え、真左に伍長殿のショートパイクが見える位置が自分の配置」的に
実用一本なら将校でもマスケット
18世紀のフランス軍戦列歩兵連隊では
一般兵であるフュジリエ中隊の将校はスポントゥーンを装備
選抜兵である擲弾兵中隊の将校はマスケット(短い竜騎兵用や、時にはライフルカービンも)を装備 >>336
ワーテルロー会戦でも歩兵同士の白兵戦は少なかった様ですね
有名な親衛隊の最後の突撃も射撃戦で解決
最も凄惨な白兵戦が行われたのはプランスノアでの市街だったかと
半島戦役だとイギリス軍戦列歩兵が突撃縦隊や混合隊形で攻撃を仕掛けて来るフランス軍に対し
最後の阻止斉射後に白兵戦を仕掛ける事が有った様です
縦深の有る隊形のフランス軍が、僅か2列横隊のイギリス軍の銃剣突撃の前に敗走
とは言え、そこに至るまでに
直衛砲兵からのシュラプネルシェルやキャニスターの射撃
ストッピングパワーでは群を抜くブラウンベスの斉射
これ等をくぐり抜けて前進して来ただけでも見上げた物と言えますが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています