近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代8©2ch.net
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軍事板の近世総合スレです。
概ね、戦場での主役が弓から銃・火砲に変化したあたりの時代での軍事全般を考察するスレです。
国ごとで、中世と近世の区分けの解釈が違ってきますが、
だいたい西暦1400年〜1850年ぐらいまで、東洋・西洋・日本国内を問わず、
陸戦、海戦、戦術、組織・動員編成、補給・兵站、諜報、外交、経済、
築城・縄張・要塞・土木技術、火薬、火砲製造技術・船舶・食料・農業や人口など、
軍事や戦争に僅かでも関係することなら何でもOKの軍事考察スレとします。
中世以前の話題については、古代・中世総合スレへ。
1850年以降の話題は19世紀後半軍事考察スレへ。
このスレでのお約束
上記すべての分野を東洋・西洋も時代の区分けも関係なく全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。
このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
2ch外のURLを貼るときは先頭hを外して直リンを避けること。
900踏んだ人は1000までに次スレを立てて、次スレへ誘導すること。
関連スレなどは>>2以降参照
前スレ
近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代7
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1388893375/
参考資料:軍事年表(軍事百科事典より)
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/sub04.htm >>265
これ以降、幕末にヘダ号が作られるまで西洋式造船は途絶えることに・・・ >>265
いや、和船が1本マストの1000石積み以下に制限されたって俗説で、実際にはそんな禁令出てないんですが。
いわゆる千石船が標準的なサイズになったのは、それが一番経済的だったからで、
幕府の制限によるものじゃないし、マストは普通2本、幕末期だと3〜4本が普通ですよ。 参勤交代とか公共工事等の経済的締め付け
で大船を作る余裕が無かった
んじゃないの?
どこの藩も借金まみれだし てか、西欧式の大型船を作る意味が無いよね
藩独自の海外交易が出来た訳でも無いし 独自の海外交易が禁止された時点で外洋航行能力のある船は持てなくなって
沿岸航行用の割安な和船で充分て事になったのは仕方ないけど
「空には動かない星が一つだけある」だなんて話が口伝になってたり航海術まで退行しちゃったね 海外交易は儲かるから、家康は俺の幕府だけでやる、お前ら禁止がいつのまにか
幕府自体も長崎だけになってしまったのは極めて日本的だ 貿易するとキリスト教に浸透されるという諸刃の剣があるから スペインが布教とセットじゃないと絶対に交易を認めないというスタンスだし
じゃあ来んなつっても紛れ込んで来るし、統制がきつくなるのは仕方がない はっきり近世に入ってもな…ハワイにキリスト教を持ち込んで崩壊直結の統一させたのはスペイン人じゃないのは確かだし。 ラッパ銃って嘘みたいな名前の銃を知ったんだけど
これって何時頃に登場したものなんでしょうか? >>267
俗説ではない
江戸幕府は1635年に500石以上の船を禁止し没収した
が、3年後には商船については例外とした
ただし百-五百石積ががメイン(弁財船)
19世紀初期には菱垣廻船が千石積
19世紀後期には樽廻船が1400石から1800石積を主に
なかにゃ二千石、三千石積も登場している
俗説は
"甲板、竜骨、二本以上の帆桁、二枚以上の帆の使用の禁止"の方ですな
単純に内海航行用の船なので竜骨はいらないし、
帆が一つなのは水夫の省力化が目的で、必要なら補助の帆を張った
甲板がないのは荷物を多く詰むため
さらに言えば洋船とくらべると建造コストが安かった。商用船だからね
以上の理由から使用され無かっただけで禁じられてはいなかった キリスト教なんて信じる者しか救わないケツの穴の狭い神様は日本にはそぐわないんじゃね? 神の前では皆平等・信仰さえあれば誰もが救われる って教義は
社会の中上層以外の-持たざる者にとっては正に福音だったのよ
定められた諸々の寄進や儀式を継続してやらないと先祖もお前も救われんで〜
墓建てて毎年供養して〇回忌盛大にやろうね♪なんて当時の庶民には夢のまた夢。
戦国時代に一向宗が爆発的な普及と狂信的な支持を得たのも、正にこれ故。
当時の日本にはピッタリの宗教形態ですがな すでに"南無阿弥陀仏"と唱えれば阿弥陀様に救ってもらえる(これは方便なのでちょっと違うんが)
というキリスト教より制限が少ないお手軽宗教浄土真宗があったし
ただひとつの仏を拝めばそれで良し、の日蓮宗も存在したので
キリスト教の入り込むニッチが…
なにより先祖崇拝の強い日本人に「神を知らないものは天国に行けない」なんて説いて
「じゃあうちのご先祖様は天国に行けないのか。なのに俺だけ天国行くとかそんな不義理はできん」
と論破されて退場 それにアブラハムの宗教の中でキリスト教だけが階層的な身分制度を取り入れているので
神の前での平等はただのお題目に成り下がってたし、国家とつながって他国への侵略にも手を貸してたので
為政者にとっても平民たちにとっても奇妙な宗教にしか映らなかったという それでは、一向宗やキリスト教が爆発的な普及をした事も、その後の(厳しい禁教下ですら)
根強く信仰が続いた事についても、何の説明もできないでしょう。
そんな事は無かった・あり得たはずが無い、と主張したいのならともかくさ
当時一向宗があれだけ急速かつ強固に普及した事が、当時の浄土真宗含めた既存の
仏教・神道がニーズと合致していなかったから、でしょ?
それに先祖崇拝が強い‥って、それが庶民層に普及したのは江戸時代に入って以降の
事でしょ。土地・階層への定着と帰属意識とのセットでの事ですので
基本的には宗教や教義は何でも良かったんだと思うのよ。絶望的・不安定な状況下にある
ものにとって、「コレが正しい道。コレで救われる」「あなたは正しい・無価値じゃない」って
言ってくれる、既存のシステムとは別な何か って事が重要なんでさ。
オウム、IS、アラブの春 なんかに救い/希望を見たのと同じ構図だね 宗教にあんまり興味ないんで本も流し読みでメモとって無いから
話半分で聞いてくれるとありがたいが
戦国期の宗教を取り扱った本(多分一向宗が専門の神田千里の本)で
キリスト教と日本的仏教が似てるとイエズス会自体が認識していて
一向宗もキリスト教もその日本的仏教に合致する路線(大名から庶民まである程度共通する宗教観)で布教したから成功した
みたいな話があったと思う 神田千里の本だとキリスト教は日本人に受け入れられる段階で変質化して
島原の乱の時点ではまんま一向一揆になってたという論調だったな ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>286
ブッコワ少佐の記録イラストに馬上で射撃中の物が何点か有ったはず
でも、検索したら竜騎兵の物しか見当たらなかった・・・
Bucquoy+英語かフランス語での兵科名
Bucquoy+uniform
Bucquoy+Grande Armee
この辺りで検索を
普通の構え?以外に、左腕を水平にして肘から「く」の字に曲げて、その肘の上辺りで騎兵銃を支える感じの構えが載っていたのだけれど
(西部劇なんかで有る構え?)
確か、ユサールか騎馬猟兵だったかと これの39秒あたり? 内容的にもどんぴしゃりだと思うんでまずは通しで見てみて。
http://www.dailymotion.com/video/x2vrd69 >>89
まずその前に、北海道の近世について
渡党(日本文化を取り入れたアイヌ)≒蠣崎家→松前藩
つまり、松前藩(≒アイヌ一派)も含め
各アイヌ部族が争う北海道の戦国時代は、各勢力ごとに数十挺ほど鉄砲持ってたとか
近世アイヌ民族の社会と生活 - アイヌ文化振興・研究推進機構
http://www.frpac.or.jp/about/files/sem1215.pdf
津軽藩士は松前城下でアイ ヌ民族の武装についての情. 報を収集していますが、
それには、. 「〇本具足は少しばかり之れ有るべき由。
〇自分にて木具. 足仕立て、 着け申し候う。 〇鉄砲三、 四拾挺も之れ有る. べき由。
〇弓丶 鍵は大方所持仕り候う由」 とか
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
武器の備えもかなり先進性を帯びており、
たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。 松前藩(≒渡党=アイヌ一派)は
金堀で少しは潤っても、1799で足軽含め武家は170戸規模のみ、の弱小貧乏藩
松前藩は少ない収益を独占しようと、和人の流入制限してたほどで
サンタン交易通じ入り込まれた大陸勢力に、借金や直接朝貢するアイヌも多かった
1669年:シャクシャインの戦い
シャクシャイン一派が、民間の和人らを虐殺した武装テロ事件
ハウカセ: 江戸前期の蝦夷地の5大勢力のひとつの首長
<参考文献>
海保嶺夫『近世蝦夷地成立史の研究』,喜多村校尉編『津軽一統志』(『新北海道史』7巻)
また,ハウカセは近江八幡出身の金太夫という娘婿に
軍事顧問的役割をさせており,
蝦夷地への武器輸出が不可能になったシャクシャインの戦の時点で
40〜50挺もの鉄砲を所持していたといわれる点などから,
松前藩のほかにも和産物輸入ルートを確保していたとも考えられる。
当時、アイヌ5大勢力の1である中立のハウカセすら、40〜50挺もの鉄砲を所持し
北海道には、大陸由来の鉄砲もあったとする説もある アイヌって北海道だけでなくカムチャッカや千島列島にも住んでいるんだからそっち通じて交易するのは当たり前 シャクシャインが蜂起し、各地で和人の商人や労働者ら数百が殺され
松前藩が津軽藩から武器借りたのが6月
国縫では7月に民間の工夫200と藩兵300で土塁作り始め、7月28日開戦
騎馬が少ないからか進軍が遅い 1616 ヌルハチが後金を建国
1639 モスクヴィチノフ指揮のロシア・コサック隊、オホーツク海に到達
1644 明が滅亡、清が中国支配開始
1669 シャクシャインの寛文9年の蜂起
アイヌが大陸の銃を輸入してたなら、、、満州製が多かったのだろうか アイヌの砂金伝説とかあるし大陸にもアイヌの同族がいたそうだから
商人なんかが仲介していたら火縄銃で武装していたかもね〜 http://pin.it/CF-R5Yk
こう言う騎兵の至近距離の銃撃を何度もして歩兵にやられたのが
リュッツェンの戦いのパッペンハイムなのかだが このキチガイこっちに来たのか。中世スレみたいにこいつのつぶやきスレになって終わりか 行こう。ここも腐海に沈む。
ネタループしてるんで新規の大きな発見ない限り過去ログ辿れで終わっちゃうからなー じゃあネタふりで、マッチロック式とフリントロック式を比較すると
マッチロック式のメリット、デメリットは
1)火縄を押し付けるだけだから構造が簡単。
2)同じ理由で射撃の際に銃身がぶれにくい。
1)常に火縄に火をつけておかねばならない。
2)そのせいとフリントロック式に比べて火花が大きいので味方と並んで射撃すると引火しやすい、従って密集した隊列が組みにくい。
3)不発が多い。
フリントロック式のメリット、デメリットはマッチロック式の逆といったところでいいのかな。 自分で完結してたらネタふりでもなんでもないんじゃないか?
フリントロックのメリットは弾さえ込めてたらいつでも撃てるって点じゃないかな。
マッチロックだと、火縄に火付ける作業だけでだいぶタイムロスなんじゃないの?。まさか常時点火してる訳にもいかないだろーし 確かに自己完結してるね、申し訳ない。
種火が無いと即座に射てないというのは確かに夜襲や奇襲がしにくいということになるデメリットだな。
そもそも戦国時代に戦列を組んで戦えるのかちょっと気になって考えてみたんだけど、デメリットが多いなあマッチロック式は。 時代祭りなんかでデモンストレーションしてる火縄銃は空砲だからいいけど
実弾を撃ったら発射ガスの噴き戻しで、火縄が大きく横に吹き飛ばされたりするからな
危なくて密集なんかできないだろう 黒澤映画の乱の中で火縄銃が有り得ない使い方されてたけどああいうものだと思っちゃうね
鉄砲足軽が城に攻め入って一斉射撃する場面なんか後ろの人の銃口が前の人の耳元に来ていて
発砲と同時にもんどりうっていて鼓膜をやっていそうだけど実銃だったらみんな大やけどしてる やはり火縄式では隊列を組むのは難しいのかあ。
もし戦国時代に戦列歩兵を出させるにはフリントロック式の採用は不可欠なんだろうか? そもそも平地少ないから戦列歩兵やるメリットないんじゃないかな
日本の場合、機動戦やるより陣地戦やる方が有利だと思う なるほど確かに隊列組んだ戦列歩兵が撃ち合える平野って視点は考えたことなかったなあ。
そうなると陣地戦に向いた火縄式の進化ってどうなるんだろう。
史実だと早合とかで発射速度を上げたりしてたみたいだけど。 http://blog-imgs-43.fc2.com/s/a/k/saketarou/100503marugame36.jpg
火縄銃も装填迄此処迄密集してやれるかと言うのは
有るが
前後二列に成れば密集度合いは可成り高められないのかだが
前列の装填速度はどうなのかだが Matchlock Musket Demonstration with Armor
https://youtu.be/X1WwQkeDuXs
西欧の緩発式火縄銃も引き金を早く引けば
瞬発的に出来る可能性も有るのかだが
途中迄引いてから早く落とす方法も有るのかだが
そうした運用が成されていた可能性は果たして有るのかだろうし
銃身の精度も余り高くは無いと言う事だっただろうか
https://www.youtube.com/watch?v=P8q4DicVBws
ホイールロックピストルは
基本的に瞬発式なのかだが 兵士の左右の間隔例
基本的に、正面を向いて直立している兵士と兵士の肘の間の距離
清教徒革命(マッチロックマスケット)
Order:3ft(91.44cm)
Closest Order:6in(15.24cm)
(マスケッティアとパイクマンに共通)
間隔の使い分けは?です
Closest Order で射撃はしないと思いますが・・・
ナポレオン戦争(フリントロックマスケット)
イギリス軍:22in (55.88cm)
フランス軍:26in (66.04cm)
ロシア軍:27in (68.58cm)
散兵隊形以外の全て(横隊と縦隊)で使用
3ftを近いと取るか、遠いと取るかが、マッチロックは密集隊形で云々って話の分かれ目かな? ナポレオンのフランス軍の胸甲騎兵の鎧の対弾性はどの位あったんだろうか
装甲は前面の身体に集中させてて厚さは5ミリで20メートル以上だと
当時のマスケット銃だと貫通できなかったそうだけど、本当だったら
なんで歩兵にも胸甲つけさせなかったんだろうか どうやって戦場まで行軍すんの?
下級兵に高価な装備もたせて持ち逃げ云々はおいとくにしても >>318
日本でもヨーロッパでも昔は鎧兜で行軍してたんだから
大丈夫やろ >>319
銃弾を防げるような重い甲冑を着れるのは戦国時代の日本でも、ヨーロッパでも
馬に乗ってる人間だけだ 18世紀後半、ギャングが作った防弾鎧。厚さ1/4インチで45kg
4人が着て、3人は銃撃戦で死亡・1人は負傷した所を逮捕
https://remodernreview.files.wordpress.com/2015/08/ned_kelly_full_suit_of_armor.jpg
トーナメント用を除くと、末期のフルプレートアーマーでも25kg程度で、既に戦闘用の動作を
行うには重量的に限界と見做されてた。18-19正規の一般歩兵と比べても、17世紀の騎士階級は
肉体的に大きく、幼少期から戦闘・肉体的鍛錬を積み、従者を従え馬で移動して‥でも25kg。
胸鎧の前側だけ鉄で作って軽量化して10-15kgに抑えたとしても、食料他を自分で背負って
徒歩で長い行軍を行う一般歩兵には手に余る物だと思うのよ。実際、独立戦争では歩兵用の
防弾ベストが試されたけど、広まらないまま放棄されてるし 重装歩兵の装備を奴隷に戦場の近辺まで担がせたギリシャ諸都市に対し、「軽装」の鎧着たまま動き回るスパルタ兵の怖ろしさ >>322
> 18世紀後半
「19世紀後半」の間違いかと
アドレスにもあるけど、ネッド・ケリーってオーストラリアのギャングの使ったもの ナポレオン軍で馬を失った胸甲騎兵を歩兵として投入した会戦が有った筈だけど
ヘルメットとキュラシュ装備のまま徒歩胸甲騎兵として
何処の会戦だったか・・・
因みに徒歩胸甲騎兵はWW1でも復活
流石にキュラシュは着用していなかったけれど、クレスト(鶏冠みたいな飾り)を外したヘルメットは着用
アドリアンヘルメット採用後は、それを着用 胸甲騎兵の鎧は弾の当たりやすい身体の前面だけ、装甲を5ミリと厚くして
他の箇所は薄くして重量をおさえてるみたいだけど 伊達政宗の五枚胴の最大厚は4mmと有るが
他の伊達家の騎馬武者の五枚胴も同様なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561266314/
井伊家の通常の胴に追加する恐らく戦国期の胸甲も
宮帯出版社・赤備えに有るが
此れを合わせても厚さは4mmは行くのかだが
フサリアも至近距離で密集した所で
銃兵の一斉射撃でも受ければ
可成り損害を受ける可能性は無いのかだが
スウェーデン軍も敗北しているなら
そうした運用は行ったのかどうかだが >>327
軽騎兵パンセルニの弓でスウェーデン銃兵が遠距離から
壊滅した可能性も有るのかだが
パンセルニも散開して移動し弓を放っていた可能性も有るなら
日本軍の火縄銃でのアウトレンジは何処迄可能なのかだが 擲弾兵の剣って19世紀になっても近衛擲弾兵のようなエリートだけじゃなくて
一般歩兵の擲弾兵中隊の兵士にも配備されてるけど
やっぱりあれってステータスシンボルだけじゃなくて実戦でも効果的だったんだろうか 簡単な料理だとか焚き火の木切ったりする用途以外には役立たなかった、ってよく聞くけど、実戦で抜刀突撃した例ってあるんだろうかね?
絶対銃剣の方が集団戦向きだと思うんだけど 槍兵の隊列が崩れて乱戦になった時、剣装備の熟練兵士は長柄武器の一般兵
に対し圧倒的に優位‥ってのはロデレロやドッペルゾナー等で繰り返し実証されて
るので、崩れた後の突撃〜掃討戦では有効なんでないの。
問題は槍衾を崩すのに剣は役に立たない事だが‥ >>333 その方々は銃剣とは
戦ってないけど2m未満の短槍との闘いは
どうなんだろう?あと騎兵に弱いとあるが 出典がどの本か知らんけど歴群の2016年10月号によれば
ナポレオン戦争中銃剣による白兵戦は市街戦や攻囲戦、森林戦でしか起こっておらず、
開豁地で発起された銃剣突撃ではほぼ例外なくどちらかの側が敗走してるらしいよ。
そういう白兵戦が起きるような場所だと取り回しの銃剣よりも刀の方が扱いやすいんじゃない?
陣内での白兵が頻発した第一次大戦でも兵士達は取り回しの悪い銃剣よりもスコップやらナイフやらを好んだし 短槍と言えば、18世紀の仏軍の軍装で
士官が短槍を持っているけど
自衛の為? 下士官が権威の象徴と指導用(銃の狙いとか)に持ってたってのは読んだことがある。 乱戦になると、自軍の長柄槍が1.5〜2m級の短いポールウェポンにいじめられる
→ポールをいじめるための剣兵士‥ってのがドッペルでなかったっけ?
とはいえ、隊形が崩れて乱戦に‥なんて最早戦闘の趨勢は決してるような状況で
有利になるからって、そのためだけに剣を持ってくのはなァ‥ >>337
権威と実用を兼ねて
権威はそのままとして、実用は隊列関係が多い?
横にして隊列の整理
縦にして隊列を組む時の目印
「右斜め前方に大尉殿のスポントゥーンが見え、真左に伍長殿のショートパイクが見える位置が自分の配置」的に
実用一本なら将校でもマスケット
18世紀のフランス軍戦列歩兵連隊では
一般兵であるフュジリエ中隊の将校はスポントゥーンを装備
選抜兵である擲弾兵中隊の将校はマスケット(短い竜騎兵用や、時にはライフルカービンも)を装備 >>336
ワーテルロー会戦でも歩兵同士の白兵戦は少なかった様ですね
有名な親衛隊の最後の突撃も射撃戦で解決
最も凄惨な白兵戦が行われたのはプランスノアでの市街だったかと
半島戦役だとイギリス軍戦列歩兵が突撃縦隊や混合隊形で攻撃を仕掛けて来るフランス軍に対し
最後の阻止斉射後に白兵戦を仕掛ける事が有った様です
縦深の有る隊形のフランス軍が、僅か2列横隊のイギリス軍の銃剣突撃の前に敗走
とは言え、そこに至るまでに
直衛砲兵からのシュラプネルシェルやキャニスターの射撃
ストッピングパワーでは群を抜くブラウンベスの斉射
これ等をくぐり抜けて前進して来ただけでも見上げた物と言えますが >>344
16世紀頃の乗馬襲撃でのピストル射撃は
命中に拘らないのなら50ヤード
正確な射撃をしたいのなら20ヤード
1587年に書かれた装典では3歩の距離で行うべきと
後のナポレオンの頃のフランス軍騎兵では、ピストルは相手に押し付ける様にし射てと >>345
騎兵相手では無くテルシオ相手なら
50ヤードでも発砲していた可能性は有るだろうが
緩発式とは言え歩兵の火縄銃をアウトレンジ出来る物なのかだが
https://twitter.com/heikihenken/status/752455282014380032
上の様な至近距離での射撃は基本的に殆ど無いと見て良いのかだが http://daimyoshibo.la.coocan.jp/mil/polish_hussars.html
>当時の教本では、マスケット銃は75mを超える射程では射撃を試みてはならない、と定めていた。そのような短い距離は、フサリアにとってはほんの一瞬の距離である。
テルシオも75m以遠から
日本の火縄銃や弓を撃てば
銃はアウトレンジ出来ると言う事なのかだが
砲の射程はどの程度なのかだが
日本の火縄銃の場合300先の90cm四方の的を狙う訓練も有ると言うが
テルシオの砲の射程は300m有るのかだが
http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
火縄銃の場合545mで当てている例も有るのかだが
此処迄出来る者は何処迄居るのかだが https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Breitenfeld_(1631)#/media/File:Battle_of_Breitenfeld_-_Opening_moves,_17_September_1631.png
上の図を見るとブライテンフェルトの砲兵同士の距離は4−500m程度と言う所なのかだが
日本軍の狙撃手が散開して300m程度の距離に前進すれば
砲手を倒せる可能性は無いのかだが 徳川軍のフランキ砲が700mの距離から
大阪城の天守閣を狙撃したと有るが
更に高精度の砲なら射程は伸びるのかだが
西欧の砲兵のアウトレンジは出来るのかどうかだが >>351
あんなもん野戦で使えんだろ
小銃で見ても時間当たりの投射量ダンチだし、火戦だけなら徳川軍がボコられて終わりだろうな
というか何が聞きたいんだ >>348
>>349
特例中の特例だからこそ名前が伝わっているのかと
そのレベルの射手を集めて西南戦争での別動狙撃隊の様に集中運用出来るのならともかく、ほぼ唯一無二の人材ぽいし
後のナポレオン戦争では300ヤード越えの精密射撃を行えるライフルマンやイェーガーが兵科として存在していましたが、それが会戦の行方を決めた事は無かったかと
その分隊や中隊と対峙する事になった部隊は色々と苦労はしたでしょうが ブライテンフェルドでの開戦時の両軍の距離は約1000ヤード
ティリーの砲兵は重砲軽砲共に戦列の前面に配置
重軽の火砲のサイズは不明ですが、清教徒革命を参考にすると
砲種 / 砲弾重量 ポンド / 平射距離 ヤード / 最大射程 ヤード
セイカー / 5.5ー9 / 360ー500 / 4000
クォーターカノン / 12 / 400 / 2000
デミカノン / 24ー36 / 450 / 2500
狙って当てられる距離まで火縄銃手が接近出来れば可能でしょうが・・・
何を当たり前の事をと思うかもしれませんが、これも銃手の技量の優劣を決める一つなので 某研にエサを与えると居つくからやめろよ
そいつbotみたいなもんだから http://www.figuren.miniatures.de/schlacht/luetzen-1632.jpg
https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_L%C3%BCtzen#/media/File:Battle_lutzen.gif
リュッツェンの戦いの皇帝軍・スウェーデン軍の正面の砲兵同士の距離は
1000m近く有る様に見えるし
皇帝軍の風車の丘の砲兵との距離は更に有るだろうが
この時代に4000m等の砲撃はしていたのかだが
日本軍の砲も此れ等をアウトレンジ出来る迄の精度は
流石に無いと言う事なのかだが
騎馬鉄砲隊では無いが
銃や弓を静止して射撃出来る程度の騎馬武者・馬足軽集団を最大限集めて
カラコール騎兵をアウトレンジ射撃で排除ししつつ
砲兵を護衛兵の銃の射程外から狙撃・早期に無力化と言う事は可能なのかだが
ポーランド相手の場合軽騎兵パンセルニが弓を放って来る可能性も有るだろうし
此れに銃で対抗出来るのかだが
大量の歩兵も連携すればどうなのかだが
朝鮮では対抗出来ていると言う事なのかだが https://en.wikipedia.org/wiki/Cannon#Medieval_Europe
>Gustavus Adolphus of Sweden emphasised the use of light cannon and mobility in his army, and created new formations and tactics that revolutionised artillery.
He discontinued using all 12 pounder—or heavier—cannon as field artillery,
preferring, instead, to use cannon that could be manned by only a few men. One obsolete type of gun, the "leatheren" was replaced by 4 pounder and 9 pounder demi-culverins.
These could be operated by three men, and pulled by only two horses.
スウェーデン軍が野戦で使用する
12ポンド砲は砲弾重量は5.4kgであるから
https://kotobank.jp/word/%E8%8A%9D%E8%BE%BB%E7%90%86%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-1080568
5.6kgの芝辻砲の方が重いだろうし
主力は更に小さい砲の様だが
此れが大量の芝辻砲にアウトレンジされる可能性は有るのかどうかだが 1630年頃のスウェーデンって製鉄大国じゃん たたら製鉄でどうやったら勝てるってんだよ
芝辻砲もその他の和製大砲も鍛鉄製だから量産は厳しいだろうし、日本軍が圧倒的軍事力で諸外国をボコボコにする、みたいな事はまず考えられんな
技術水準的にも互角か少し劣る、ってぐらいの差なんだしさ
てか日本徳川軍と欧州列強の陸軍が戦ったら日本が圧勝できるか?って議論をしたいって事で合ってる?もし間違ってたら今までの暴言はごめんなさい 日本はその代わりに銅が大量に出るからね
西欧諸国がどうにかして安い鋳鉄で安全な大砲つくれるか四苦八苦してた17世紀初期に
普通にオランダから技術導入して青銅砲を出島で量産してたし
19世紀までに列強各国で使われた青銅砲の原料にも
かなりの割合で出島-オランダ経由で西洋に渡った日本銅が使われてるんじゃないだろうか
そういう資料を見たことがないからどんだけか知らんが http://daimyoshibo.la.coocan.jp/mil/polish_hussars.html
>一方、フサリアはどのように布陣するであろうか?
>この時代、戦闘隊形の騎兵は3列から4列、場合によってはもう少し多い列の横隊をとっていた。ここでは4列としよう。
>時に、第2列が前進して第1列と重なる隊形をとることがある。これはどういう意味があるのだろうか?
フサリアが4列のやや間の空いた隊形で突撃しても
日本軍が銃兵を4列に分けて
割に遠距離から此れに騎兵を1列ずつ撃たせれば
フサリアも可成りダメージを受ける可能性は有るのかだが
精度の高い主力の2匁クラス筒を
100mで馬に当てる程度は大概の兵は出来ないのかどうかだが
騎兵の突入に備え
https://i.imgur.com/fpN0GN9.gif
銃兵は上の様な形で屈んだ槍兵の後ろに布陣し
全体は槍兵を外周に配置した方円陣を組めばどうなのかだが
銃兵は最前列から発砲後
発砲した兵は直ぐ屈ませて再装填
順次後列が同様の形で発砲と言う方向だが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
此れと同様の物はポーランドのタルノフスキが考案しているが
日本でも有ったかも知れぬが
槍兵はフサリアが近接したら必要なら立つが
http://livedoor.blogimg.jp/netamichelin/imgs/c/c/ccfa70e8.jpg
http://shimesaba.dyndns.org/wordpress/wp-content/uploads/2016/04/yari.jpg
馬は座って槍を足で押さえての阻止が基本かも知れぬが
ポーランド軍の砲撃は芝辻砲の様な物で牽制出来ないのかだが 雑兵物語に有る様に日本の足軽は白兵戦突入後も
近距離で射撃をしているし
島津軍の様に鉄砲足軽以外にも腰筒を持たせれば
フサリアとの近接戦に成った後も
隙あらば銃撃でダメージを与えられる可能性も有るのかだが
白兵戦中に至近距離で抱え大筒の散弾や
大口径の士筒等は放たれたのかどうかだが >1630年頃のスウェーデンって製鉄大国じゃん たたら製鉄でどうやったら勝てるってんだよ
>芝辻砲もその他の和製大砲も鍛鉄製だから量産は厳しいだろうし、日本軍が圧倒的軍事力で諸外国をボコボコにする、みたいな事はまず考えられんな
砲に高品質の玉鋼等使われるのかだろうし
輸入した鉄で作られた銃砲も多く
刀でさえそうした鉄で作られる例が多かったと言う事だっただろうか
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/12/2-f6f9.html
>徳川家康が、今回の大坂城攻めのために大量に動員した大砲(大筒・石火矢)・・・この冬の陣では、大坂城の周囲に約300挺を設置して、数十人の砲術家を配備したと言われています。
300門の内スウェーデンの砲をアウトレンジ出来る様な物は
何処迄有るのかだが
低精度のフランキが多い可能性も有るのかだが http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000193632
>エリザベス1世は、この大砲を大量生産するためウィールドに
大砲工場を建設。その溶鉱炉が2分の1のスケールで再現されていた。水車が大量生産の
秘密で、人力に頼らず鉄の大量生産が可能となった。ジェラルドさんは、1年で3300門の
大砲を生産することが出来たと話した。こうして手に入れたカルバリン砲を家康は4門購入した。
と有るが野戦でこうした数の砲は
17世紀前半では何故か投入されていない訳だろうか >>363
玉鋼の生産量で大口径砲の量産なんか不可能だろうし、17世紀の砲兵ならアウトレンジとかそういう戦法自体が間違い。
スウェーデンの砲兵運用は、歩兵・騎兵と密接に機動するの3ポンド連隊砲と独立運用の重砲の2つで火力の持続を図る、というもの。
対して日本に輸入された大砲は攻城戦向けの固定砲(艦砲の転用)ばっかし。
日本の大砲技術は世紀レベルで遅れてたんだし、戦国時代自体が白兵戦主体の時代だったんだから、当時の幕府軍にはそんな戦法はどうしようもないんじゃないかな
大砲の火力抜きで考えるなら日本軍でも互角なんじゃない?この頃のスウェーデン陸軍自体、砲兵中心の戦術ばっかりだったし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています