近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代8©2ch.net
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軍事板の近世総合スレです。
概ね、戦場での主役が弓から銃・火砲に変化したあたりの時代での軍事全般を考察するスレです。
国ごとで、中世と近世の区分けの解釈が違ってきますが、
だいたい西暦1400年〜1850年ぐらいまで、東洋・西洋・日本国内を問わず、
陸戦、海戦、戦術、組織・動員編成、補給・兵站、諜報、外交、経済、
築城・縄張・要塞・土木技術、火薬、火砲製造技術・船舶・食料・農業や人口など、
軍事や戦争に僅かでも関係することなら何でもOKの軍事考察スレとします。
中世以前の話題については、古代・中世総合スレへ。
1850年以降の話題は19世紀後半軍事考察スレへ。
このスレでのお約束
上記すべての分野を東洋・西洋も時代の区分けも関係なく全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。
このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
2ch外のURLを貼るときは先頭hを外して直リンを避けること。
900踏んだ人は1000までに次スレを立てて、次スレへ誘導すること。
関連スレなどは>>2以降参照
前スレ
近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代7
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1388893375/
参考資料:軍事年表(軍事百科事典より)
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/sub04.htm http://pin.it/2kYmZtS
黒田屏風に鉄砲足軽が
伏せて銃を撃つ場面が有るが
此れは被弾面積を減らそうとしての物なのかだが
銃撃に怯んで伏せたと言う可能性も有るのかだが
低い位置から鉄砲足軽の装甲の無い脚の
同時多数貫通を狙ったと言う可能性は有るのかだが
(足軽胴の同時多数貫通等は
主力の2匁クラス筒では無理な訳だろうか) https://youtu.be/G-r4_XzZxOg
日置流の様な射撃時以外は伏せている射法を
弓足軽は基本的に皆していたのかだが
鉄砲足軽はどうなのかだが
鉄砲足軽の様に射撃時も伏せている例も有るのかだが
合戦図では鉄砲足軽・弓足軽共に
立って射撃している例が多い訳だろうが
此れはリアルなのかどうかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B5%81
>的は日置霞(へきがすみ)と呼ばれる独特の模様の物を用い、多人数で射る場合も一つの的を全員で射るのが本来正式である。これは、集団で向かってくる敵兵の先頭の者を確実に射倒す事で、敵兵の戦意を削ぐ為である。
また、もし敵兵を射損じた場合でも、外れた矢が足元に突き刺さる方が、頭上を飛び越えて行くよりもより敵に恐怖感を与える事が出来るため、的は地面すれすれの低い場所に立てて稽古した。
此れも弓足軽の基本射法なのかだが
敵の最前列の脚等を集中的に狙っていたのかだが
遠距離ではどうなのかだが
銃ではどうなのかだが http://2.bp.blogspot.com/_UqsRf118B2I/SZ0dnXM1nUI/AAAAAAAAD8E/ZSLjEJ_bbsQ/s400/revell+30+years+war.jpg
マスケット銃の場合確かスウェーデン軍でも杖が有るだろうから
立っての射撃が基本と言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562110510/
日本の射法を参考にしたかも知れぬ上の明の三段射撃では
伏せずに立っているが
日本でも移動速度を重視する場合はこう言う例も有るのかだが
集団で乗馬突撃して来る関東や立花道雪等の騎馬武者に
側面等から馬の脚に向けて雁股矢を発射し脚を大量に射切って大混乱させると言う様な例は果たして有るのかだが
銃ではどうなのかだが
日本軍の場合至近距離からでも射撃をするから
スウェーデンやポーランドの騎兵が日本の備に突撃しても
こうした事が起きる可能性は有るのかだが https://www.pinterest.jp/pin/327848047848694431/
ロングボウにも雁股鏃の様な物は有るが
幅は平根鏃より無いし
ロングボウも側面から近距離で射撃をしていたと有るから
幅広の平根鏃等で馬の脚を側面から同時多数射斬る等と言う事を
していた可能性は有るのかだが https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12137941922
>島津の車撃ちが有名です。
長篠の戦い1575年のはるか以前、
1554年の岩剣城の戦いで車撃ちを使用しています。
数列の隊列を作り先頭が射撃を行うと最後尾が戦闘に躍り出て射撃。
自分たちが最後尾になるまでに装填を終わらせ、
先頭が射撃したら回りこんで射撃を繰り返します。
1554年にこうした物が果たして有ったのかだが
他家ではどうだったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
ポーランドの1558年には有る物を
参考とした訳では無いと言う事なのかだが http://sengokuranse.blog41.fc2.com/blog-category-4.html
>また鉄砲伝来とその早期配備により<車撃ち>という優れた戦術も開発されました。(銃列を5列に分け、装填を終えた5列目が、撃ち終わった1列目を越して最前列になり、発砲し、
それを4列目が越して発砲、
というように順番に撃っていく戦術で、当時の鉄砲の欠点の速射性のなさを、みごとに補った優れた戦術です。)
車撃ちも1554年時点で5段だったのかだが
2列目が次に発砲しないのはどう言う事なのかだが https://www.pinterest.jp/pin/343610646562111947/
この軍法極秘伝書の車竹束は銃丸が上下に有るが
前後二列の同時銃撃を考慮していると言う事なのかだが 村上海賊の娘に立射・膝射・伏射の銃兵を組み合わせて
ほぼ同時に銃を放つ
雑賀の三段構えと言うのが出て来て
此れに塙直政の三段撃ちがやられているが
此れは現実には無いと言う事なのかだが
立射と膝射の二段構えなら有ったと言う事なのかだが
その様な事をしても物量の差で損害は必至だろうし
障害物を利用しての射撃や
銃の上手い者の遠距離からの狙撃を
重視していたと言う事では無いのかだが 村上海賊の娘で
雑賀衆に眞鍋海賊が徒歩で散開し飛び道具の援護も無く
突撃すると言うのも有るが
スコットランド兵が似た様な事をしていただろうが
1575年の海賊なら弓と小数の銃の援護は有るかも知れぬし
弓で銃撃を牽制しつつ乗馬突撃し乱戦に持ち込み
銃を封じると言う様な事も有り得るのかだが
雑兵物語を見る限り日本の場合は乱戦突入後も
射撃戦をしているから
歩兵突入迄弓の援護が
引き続き必要と言う事なのかだが
兎も角距離を詰めないと高精度の銃で弓の射程外から
アウトレンジされ続けると言う事だろうし
弓の射程に入れば銃兵は障害物が無ければ
可成り牽制出来る可能性も有るのかだが
弓に対抗する為に垣盾を装備している可能性も有るのかだが 「三連発輪廻銃(1600年あたり)」サムライガトリングとか言われてるけど
最古のガトリングってなに? sanmei.com/contents/ja/p1571.html
>日本で初めての回転連発方式は江戸時代の元和(1615〜1624)に井上外記が考案した 『三捷神機』が祖である。
と有るが此れ以前に
http://pin.it/DsteeGK
16世紀前半の欧にこうした回転式の多銃身の火縄銃も有るから
日本に此れが早期に入り
16世紀にも同様の物が作られていた可能性も有るのかだが
拳銃のリボルバーの様な物なら
http://labaq.com/archives/51822634.html
上の1597年のフリントロックの物が最古なのかだが
こうした物は日本には入ったのかだが http://www.japanese-sword.jp/antique-gun/1610-7010.html
上の火縄銃は弾が同時に3発出るタイプだろうが
弾が扇状に広がるタイプでは無いから
馬を利用しての地形の影等からの一撃離脱時等の
遠距離の短時間での狙撃をする為に使える可能性も有るのかだが
戦国期に同様の物は有るのかだが
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E9%80%A3%E7%99%BA%E6%96%89%E7%99%BA%E9%8A%83
同時に多数の弾が出るタイプの火縄銃は
17世紀に徳川家光が作らせた物が初の物なのかだが
16世紀には無いのかだが http://sportsantique.jp/?p=1433
上は馬上20匁筒等と有るが
こんな物を馬の上で使っていたのかだが
2匁の可能性も有るのかだが
具足の胴を馬上から50m等で貫くのに20匁も要るのかだが
指揮官の30kgの胴等なら或いはどうなのかだが
馬上から竹束を地形の影から出て
射撃後地形の影に退避すると言う様な
方向で使用した可能性も有るのかだが http://www.vikingsword.com/vb/showthread.php?t=7517&highlight=matchlock+musket
一番下の火縄式リボルバー等は
1530−1550年の物だろうが
此れより古い物は流石に有るのかだが 連発銃って意味でガトリングを言ってるならカウチガンとか拐子銃当たりが最古だろうけど、
構造的に近いものを言ってるならハーモニカピストルが最初じゃないかな 全部使い勝手悪すぎて廃れたが 雷管式の脇差鉄砲と言うのも幕末に有るが
火縄式の物等は戦国期に有るのかだが
http://aucview.aucfan.com/yahoo/j452576316/
火縄式の十手なら上に有るが
刀では無くこうした銃を仕込んだ金棒(或いは大型の十手)を
サブ武器としている様な騎馬武者等は戦国期に居たのかだが リボルバー式の長い騎兵銃は
ガス漏れの問題が有るかも知れぬし
多銃身の物も恐らく大量生産はされてはいないだろうが
リボルバーのピストルを
精鋭騎兵等が大量装備した例は有るのかだが >>638
一応1855年からの3年ぐらいはリボルビングライフルが流行ったけど、それ以外では正規の軍隊ではどこも配備してないみたい
ガス漏れもあるけど、弾倉内への引火→暴発で左手吹っ飛ばされたり、発砲炎で焼かれたりと安全性に問題があったからだと
それ以前の近世のだと装填に手間がかかるせいで軍隊に不向きだし >>632
リボルバーじゃなくて、輪廻銃みたいな銃身がクルクル回るやつは16世紀の欧にあるってこと? >>631で出した、銃身がクルクル回る?銃の最古が気になる 例えば、ペッパーボックス型で、自動回転にこだわらないなら、明国の三眼銃があったよ。
日本にも、秀吉の朝鮮征伐で、少数が鹵獲されたはず。 >リボルバーじゃなくて、輪廻銃みたいな銃身がクルクル回るやつは16世紀の欧にあるってこと?
リボルバーの場合は
https://en.wikipedia.org/wiki/Revolver#History
wikipediaには16世紀後期の独で最初期の物は作成と有るが
http://www.vikingsword.com/vb/showthread.php?t=7517&highlight=matchlock+musket
一番下の火縄式リボルバー等は
1530−1550年の物だろうが
最古の物はどうなのかだが
多銃身タイプは
http://www.vikingsword.com/vb/showthread.php?t=12712
上に1530−40年の物も有るが
最古の物はどうなのかだが
>銃身がクルクル回る?銃の最古が気になる
sanmei.com/contents/ja/p1571.html
日本で初めての回転連発方式は江戸時代の元和(1615〜1624)に井上外記が考案した 『三捷神機』が祖である。
日本の物は元和年間の物が初と言う事なのかだが
此れ以前にも西欧の物が入り此れを参考に
リボルバーや多銃身タイプの銃が作られた可能性も有るのかだが >例えば、ペッパーボックス型で、自動回転にこだわらないなら、明国の三眼銃があったよ。
日本にも、秀吉の朝鮮征伐で、少数が鹵獲されたはず。
このタイプの物は応仁の乱頃には使用されていただろうが
三眼銃は弾が同時に三発出るタイプだろうから
http://www.japanese-sword.jp/antique-gun/1610-7010.html
日本でも上の様な銃が此れを参考としている可能性も有るのかだが
西欧の物を参考とした可能性も有るのかだが http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=141
>左の写真を見ていただきたい。銃身の先端に小さな突起がある。これを「先目当(さきのめあて)」という。
銃身の中程には、「前目当(まえのめあて)」というものがあり、この前目当と先目当と標的が一直線になるように狙いをつけるという寸法。
この先目当が、上の写真のものは角張ったままなのに、下の写真では斜めに丸みを帯びた金具が付いている。
これは狩猟用の火縄銃、つまり猟銃なのだそうだ。鉄砲を抱えていて、銃の先が木々に引っかからないようにするための工夫だという。
戦場用の銃にも高級品にはこうした金具が付いている例は無いのかだが
立花宗茂の様に矢を防ぐ為に森に逃げる等の戦術を
多用している軍はこうした金具を大量に使用している可能性は無いのかだが 三眼銃ってのはこんなだよ。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/110118/98518/54612640
タッチホイール式の石火矢だね。
他にも、倭寇との戦いで、6銃身の物を作ってたが、それもタッチホイール式の石火矢だったはず。
以前、某研が仕込み銃の事を書き込んでいたが、薙刀の持ち手に仕込んだ物は、主に中国で使われていた。 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/110118/98518/54612640
>三眼銃などの中国式火砲は敵が接近した際に発射して、その後は銃をこん棒のように振り回し打撃武器としても使ったそうですが(派生型には槍付きの銃あり)、それも納得です。
フロイスも中国の銃砲は日本軍に余り命中していないと言うが
こうした手銃は50mでも散開した日本軍に命中は期待出来ず
日本軍は300mでも銃弾が飛んで来るが
明軍の弓も500m程度で射撃は出来るだろうが
散開した日本軍に曲射で到達時間も掛かる矢は余り命中しないと言う事なのかだが
立花宗茂がやった様に木を障害物として利用されれば
尚更命中し難いかも知れぬが
碧蹄館等でこうした事はしたのかだが http://www.gaopu.com/mindai.html
明の手銃兵も右の様な腕以外装甲の有る鎧を着ていると言う事の様だが
移動速度はどうなのかだが
後部には鉄が無い可能性も有るのかだが
300mでは日本軍の2匁クラスの筒は止まったとしても
衝撃で可成りダメージを受けるかも知れぬし
そうした遠距離射撃が出来る銃の上手い者が使う物は
威力や風の影響等を考慮して
4−6匁クラスの物が多い可能性も有るのかだが
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarhu
明の兵もサルフの戦いの時点でさえ
手銃兵の比率は可成り有るのかだが
近距離で射撃すれば可成りダメージを与えられる可能性は有るだろうし
弓は装甲で可成り止まっては居た可能性も有るのかだが
連続射撃は困難であるから
波状突撃の前にやられていたと言う事なのかだが >http://www.gaopu.com/mindai.html
>明の手銃兵も右の様な腕以外装甲の有る鎧を着ていると言う事の様だが
加藤清正が明・朝鮮兵には鉄砲以外役には立たないと言う事を
言っているのは
上の様な鎧或いは藤牌を装備した歩兵が
多い故なのかだが
(無論矢の装甲の無い部分へのまぐれ当たり或いは
装甲に浅く刺さったとしても白兵戦能力を低下させる効果は有るだろうが)
騎兵の馬にはこの時点では装甲が無いから弓はこちらには
通用していたと言う事なのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>東莱城にはすでに釜山鎮の戦いにおいて日本軍が火縄銃を使ったという情報が伝わっており、
朝鮮軍は長い板の防弾盾を大量に作ったが、日本の火縄銃に対しては役に立たなかった[2]。
攻城戦では近距離からの射撃が多いなら
こうした盾も役には立たないかも知れぬが
野戦ではどうなのかだが
日本軍の銃が大型化した形跡が無いから
野戦では防弾盾では無く籐牌が使用されたと言う事なのかだが
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarhu
サルフの戦いの絵では明軍の大型の車付き盾も有るが
陣地戦では無い通常の野戦では使われていないと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173862/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173858/
こうした明軍の戦車もサルフの戦いの絵では見ないし
果たして何処迄使われたのかだが https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Kang_Yingqian_being_overrun.jpg
上のサルフの戦いの絵の明の銃兵も
装甲は多いが白兵戦では何処迄戦えるのかだろうし
藤牌兵は鎧は無い様にも見えるから
清の騎兵に白兵戦を挑まれれば容易に撃破されていたと言う事なのかだが http://honkan.jp/8335/
朝鮮軍歩兵の籐牌を持つ兵には皮鎧が有ると言う事なのかだが
遠距離で籐牌を貫いた銃弾を止める防御力は此れには有るのかだが
少なく共衝撃を止めるのは困難なのかだが >>642
三眼銃じゃなくて、ガトリング的に銃身を回せるやつが気になる 三眼銃は、三発同時ではなく、三回に分けて発砲する。
それと朝鮮征伐の時の明軍の『戦車』は、なんと荷車に載せた、防盾付きの野戦砲だったりする。
前大戦の野砲みたいな発想だ! >それと朝鮮征伐の時の明軍の『戦車』は、なんと荷車に載せた、防盾付きの野戦砲だったりする。
前大戦の野砲みたいな発想だ!
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173862/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173858/
此れは上の物だろうが
砲を装備しない戦車は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%82%B4%E3%83%B3
紀元前119年には有るだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/499618152402246307/
フス派が15世紀に砲装備の物を使用しているだろうが
砲にやられて廃れたと言う事だっただろうが
日本軍が明軍の戦車を貫通する為に銃を大型化した形跡は有るのかだが
サルフの戦いの絵では戦車は無い様に見えるが
日本軍が遭遇したら大鉄砲で狙撃していたのかどうかだが
近距離なら銃弾も貫通する可能性は有るのかだが
散開しても弓が命中する様な距離での銃撃は
避けていた可能性も高いのかだが
大鉄砲で側面から貫通されれば
可成りダメージを受ける可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.BB.8D
>日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。
火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で
大量生産のできる比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ7割をこの二匁半筒が占めた[注 82]。
とは言え2匁半筒では300m等から明軍の銃兵の脚迄有る装甲や
藤牌を貫けるのかだが
こうした遠距離から狙撃出来る上手い兵は4−6匁等の銃を
使用していた可能性も有るのかだが
慶長の役で多い籠城戦時の近距離からの射撃なら2匁半筒でも
藤牌や鉄札を貫けると言う事だろうか >http://www.gaopu.com/mindai.html
>明の手銃兵も右の様な腕以外装甲の有る鎧を着ていると言う事の様だが
>加藤清正が明・朝鮮兵には鉄砲以外役には立たないと言う事を
>言っているのは
>上の様な鎧或いは藤牌を装備した歩兵が
>多い故なのかだが
一部の五人張り等の弓なら
鉄札は300m等の遠距離でも貫通する可能性も有るだろうが
藤牌を貫通して背後の人間にダメージは与えられるのかどうかだが https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Kang_Yingqian_being_overrun.jpg
上のサルフの戦いの絵の明の火縄銃兵は
手銃兵と異なり肩に迄装甲が有る様に見えるが
手銃兵より格上の兵だからなのかだが
http://www.gaopu.com/mindai.html
上の左の兵と異なり前腕に迄装甲が有る様にも見えるが
彼等も白兵戦は何処迄出来たのかだが
日本兵に似せて苗刀を装備している可能性も有るのかだが
日本軍の場合雑兵物語を見る限り白兵戦突入後も
近距離で射撃をするだろうから
至近距離の弓では鉄札は貫かれ
藤牌も銃や強弓では貫かれていたと言う事なのかだが
清の兵は白兵戦突入後も弓を果たして放っているのかだが
白兵戦突入前に至近距離で弓を放っている絵は有るだろうか 雑兵物語を見ると鉄砲足軽が刀を使うのは
残弾が尽きた後と言うから
其の前は左右に分かれていると言うから
弓足軽同様に近距離で射撃をしていたと言う事なのかだが
http://view.inews.qq.com/a/20170703A084QT00
こう言う密集隊形で静止した藤牌等に10匁士筒等が撃ち込まれた場合
同時に多数の兵がやられる可能性も有るだろうが
騎馬武者は此れは近距離で一発放って突撃していた可能性も有るだろうが
接近戦が苦手な者等は
銃を持つ足軽の様に近距離で銃撃を続けた可能性は有るのかだが
後列に隠れている指揮官に向けて
30匁等の大型銃を前列から近距離で指揮官迄貫通させると言う様な事は行われたのかだが 雑兵物語では騎馬武者用の士筒等を奉公人が
自分で撃とうとは思わないと書いて有るが
騎馬武者が使用した後であれば
許可が有れば白兵戦突入後近距離で撃っていた者も居ると言う事を
意味している可能性も有るのかだが http://www.muneshige.com/column/03.html
黒田長政の火縄銃・墨縄の口径は1.4cmで有るから
4.3匁筒であり
対明・朝鮮用の銃では無い物の
標準サイズの6匁よりは小さいのかだが
黒田長政も銃の名手と言うなら
精度を重視していたのかどうかだが
http://repmart.jp/blog/column/gun-and-bow/
>その宴のさなかに長政と宗茂の間で、鉄砲と弓に関する論争が起きたという。つまり、どちらが武器として有利だろうかという話になったのだ。
長政は、矢は風で簡単にそれるし、正確に当てられない。銃が有利でもう弓は必要ないのではないか。と主張した。
対する宗茂は弓と鉄砲の両方の名手で、宗茂はどちらにも状況に応じた利点があると語り、例えば鉄砲も雨では無力になると指摘した。
長政は鉄砲はかなりの腕前であり、宗茂も弓は免許皆伝である、両者とも手練れながらも、結果ははっきりと示された。
宗茂が弓でもって見事的に命中させ、勝利した。
とは言え風が乱れていたら
銃が先に命中していた可能性も高いのかだが
銃の雨覆いは碧蹄館直後の時点では無いのかだが
明・朝鮮歩兵には弓は
藤牌や鉄札鎧の前に遠距離では通用し難いが
対騎兵や至近距離の歩兵への連続射撃では有用と宗茂は見たのかだが https://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment/1009339.html
>島左近率いる騎馬隊の突撃に合い、先手が突き崩されて退却。細川、田中隊も次々に破られた。
その乱戦のなかで、事態収拾のためいに、向うところ敵なしの島左近を狙撃する部隊を編成、
菅和泉(かんいずみ)に任せた。小高い岡に駆け上った狙撃隊は、左近は馬もろとも被弾し、
倒れたが、馬廻りの部隊に守られて自陣柵内に後退した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%E8%8F%85%E5%85%AD%E4%B9%8B%E5%8A%A9
>黒田隊において鉄砲隊を預かっていたのは菅和泉(六之助)であったが、彼は部隊を
右手にあった小高い場所に駆け上がらさせ、50挺の鉄砲を隙間もなく撃ちかけた。
これにより石田隊の先に進んでいた兵たちは多くが撃ち殺され、あるいは負傷し、島左近も
生死不明ながら銃弾の餌食となった。
ここに敵のひるんだところを、黒田隊は得たりと勇み、即座に突き崩し多くの首を得た。
さて、この一戦において黒田隊に勝利を呼び込んだのは鉄砲隊の活躍だったが、
彼らが活躍したのも当然理由があった。この鉄砲隊に選ばれた足軽たちは特別に選別され、
又者(陪臣)であっても鉄砲の上手で、なおかつ心の健やかな者を選んで編成された部隊であった。
そのため、効果的な攻撃が可能だったのである。
後にこの鉄砲隊の者に「敵との距離はどれほどあったのか?」と尋ねたところ、
「あの時は一町四・五反(およそ150〜60メートル)以上ではないと判断し、そこを少し計算して
撃ちました。」と言っていた。
この50名は100m程度では人に
ほぼ確実に当てられる様な者達の集団なのかだが
こうした部隊が居なければ
東軍は島左近等に中央突破され敗北していた可能性も有るのかどうかだが >後列に隠れている指揮官に向けて
>30匁等の大型銃を前列から近距離で指揮官迄貫通させると言う様な事は行われたのかだが
http://www4.airnet.ne.jp/sakura/weapons/weapons.html
装甲に当たると弾は分裂するだろうし
この後貫通力は低下するから
足軽の装甲の無い脚部等を貫く必要も有るのかだが
100匁筒等なら装甲を貫通しても弾は分裂しない可能性も有るのかだが
こうした物は20m等の距離から士大将等に当てられるのかどうかだが
周囲の兵に完全に隠れて位置が把握出来ぬ可能性も有るだろうが
士大将なら指物や大型の兜が上に出ている可能性も有るのかだが 100匁筒でも草摺や佩楯を貫くのは
精々5人分程度が限界と言う事は無いのかだが
備の最前列から士大将迄は騎馬武者・槍足軽・鉄砲足軽・弓足軽・士大将の護衛歩兵の
4−5列程度と言う事だろうか
旗足軽も居るが此れは戦闘中は最後列に居るのかだが
200匁等ならこうした列の後方迄貫通する可能性も有るのかだが
10m等でも士大将に当てられるのかどうかだが https://i.imgur.com/oLSNDyM.gif
上の赤い矢印の様な形で備や本陣備等の士大将や総大将を
側面から狙撃するのは果たして出来るのかだが
通常の備なら上手くすれば指揮官以外を貫通せず
直接狙撃も出来る可能性は無いのかだが
護衛の徒武者が前に配置されている可能性も高いのかだが
本陣備では2−4人程度は貫かないと
駄目と言う事は無いのかだが https://rekijin.com/?p=17139
>【 データでわかる関ヶ原の戦い 】裏切り者が出なくても、石田三成は徳川家康に負けていた?!
とは言え島左近が黒田長政の兵に狙撃されず
側方から突破を続けた場合
後方の吉川広家が裏切り毛利軍が徳川本陣を突いた可能性も
有るのかどうかだが
この付近に徳川軍の山内一豊等の予備兵力も居ただろうが
果たして何処迄こうした事に対処出来たのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>これにより備は同時代における西洋の戦闘隊形に較べ高い戦術性、機動力と地形に対する適応力を持ち、
複雑な地形での機動や備単位での迂回、行軍隊形から戦闘隊形への即座転換などをこなす事が可能な上、
豊富な下士官による柔軟な指揮を可能とし、南蛮の宣教師が極めて厳格に操練統率されて居り我々の軍隊では歯が立たないと評した明軍を常々打ち破るなど、正面衝力でも大きく勝った。
下士官と言うのは鉄砲足軽・弓足軽・槍足軽に付いている
士官の事なのかだが
この程度はテルシオ等にも居たと言う事かも知れぬが
明や朝鮮の騎兵が備にやられたのは
彼等は倭寇や北方騎馬民族としかほぼ戦ってないから
敵の障害物を利用した射撃戦には慣れていなかった可能性も有るのかだが
https://read01.com/5624Pz.html
備の正面衝力が上の様な隊形より
果たして有るのかだが
正規軍兵士では銃兵が重装備の鎧を装備しているから機動性は低く
日本軍予備兵力の側面攻撃等でやられていたと言う事なのかだが
備の至近距離からの射撃でも可成りやられていたのかだが https://twitter.com/tateita_hi/status/691607972884054016
>基本、まともな陣形を組みませんからね、戦国時代の日本。碧蹄館の戦いも陣形組まない日本軍を壊乱していると誤認したのが、切っ掛けとか。
備も鉄砲・弓・槍足軽には個別の士官(鉄砲大将・槍大将等)が居て
此れの配下の兵種は備の下でも纏まった行動は取っているだろうが
備指揮官の命令の無い侭
移動は何処迄していたのかどうかだが 備って、体制的には中世の封建軍が発展した形だからなあ
同時代のヨーロッパが近代的な軍制に移行する過渡期だったって事考えたらまだ戦えるのかな 明軍歩兵前列の銃兵と此れを一部防護する藤牌兵は
日本軍の銃撃でアウトレンジされ壊滅
弓は射程の短いクロスボウの比率も多いから銃と余り撃ち合えず
遠距離からの射撃では散開して木を盾にもし
垣盾を装備しているかも知れぬ日本軍に有効打は与えられ無かったと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561201946/
槍兵は銃兵より装甲は無いだろうし
装甲の無い兵も恐らく居るから
騎馬武者と対すればやられていたと言う事なのかだが
槍足軽は騎馬武者の居ない場所で
槍兵に対し同数なら時間を稼ぐ事は出来たかも知れぬし
彼等が時間を稼いだ後他の場所の敵を倒した
騎馬武者が突入していたと言う可能性も有るのかだが
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/52/Pan_Zongyan_being_overrun.jpg
上の陣地の明軍銃兵は盾越しの射撃しかしないからか
足に装甲は無いだろうか http://tihourekisimatome.blog.jp/archives/1063800596.html
>後期明軍の話が出てたので参考のために
戚継光「練兵実紀」にある対モンゴル戦のための部隊編成
(というか洋書からの引き写しです)
歩兵
歩兵の基本的な単位は12名の分隊である。分隊は2種類に分けられる。
1つはマスケット兵の分隊で、分隊長、10名の銃手、伝令からなる。
もう1つは"殺手"の分隊で、分隊長、10名の様々な近接兵器をもった殺手、伝令からなる。
同種の分隊を3つ合わせて37名の小隊になり、3つの小隊がさらに112名の中隊を構成する。
マスケット兵の中隊は合計で90挺のマスケット銃をもつ。
4つの中隊が449名の大隊を構成し、2つの大隊(マスケット兵と殺手)で899名の連隊になる。
3つの連隊が2699名の旅団(323名の士官、2160名の兵士、216名の伝令)を構成し、
1080挺のマスケット銃と216張の弓をもつ。
マスケット銃を大量に装備していたのは
確か戚継光の軍だけと言う事だっただろうか
トルコ的な緩発式銃も多かったと言う事かも知れぬし
中近距離での弾幕射撃的な使用しか無かったと言う事なのかだが >騎兵
騎兵の基本的な単位もまた12名の分隊である。
騎兵の分隊には分隊長、多様な武器を装備した10名の兵士(マスケット銃2挺、火槍2本、
三叉の槍2本、槍2本、メイス2本。何名かは同時に弓矢を携帯する)、そして伝令がいる。
騎兵も歩兵と同様に分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団に組織される。
戦場での騎兵旅団は2699名から2988名にまで増援され、1152張の弓、432挺のマスケット銃、
60門の虎蹲砲(軽量の野戦砲)をもつ。
大量の銃と火砲が配備されていることから、これらは騎兵というよりむしろ竜騎兵、
騎馬で移動する歩兵であったようである。
マスケット装備の騎兵と言うのは戚継光の軍だけなのかだが
弓の装備も精々半数程度なのかだが >>671
>槍足軽は騎馬武者の居ない場所で
>槍兵に対し同数なら時間を稼ぐ事は出来たかも知れぬし
>彼等が時間を稼いだ後他の場所の敵を倒した
>騎馬武者が突入していたと言う可能性も有るのかだが
槍足軽が時間を稼いでいる間に
騎馬武者だけでは無く
明軍の銃・弓・砲兵を排除した後の鉄砲・弓足軽の銃撃で
やられていた槍兵も多いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562245853/
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/224422979
雑兵物語でもこうした槍兵の脇での
至近距離での射撃戦は行われていると有るが
こんな事をすれば弓・鉄砲足軽の損耗は馬鹿に成らぬ可能性も有るのかだが
近接戦時には残弾は余り無いかも知れぬが
命中率は高いのでは無いのかだが https://i.pinimg.com/originals/ec/49/ea/ec49ea2b5b2d3c13b40c0036b113f3d3.jpg
上では騎馬武者主体の槍の列に足軽が一部混じっている様に見えるが
相手が騎馬武者なら同数ではやられる危険も有るのかだが
部分的に二列目も槍を前に出している様に見える部分も有るが
こうした事は多くは無いのかだが ベルセルクのグルンベルドの盾は砲弾を弾く等と言うが
こんな物は現実に16世紀等に使われたのかだが
http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、
16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、
此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ−重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmで
ソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。
17世紀の大阪城攻めではこんな物も有るが
1000匁(84.2mm)の筒等も止まるのかだが
大阪城の最大のフランキ砲は或いは止まる可能性も有るのかだが >また大坂冬の陣は天守閣に大筒の玉が直撃し傾いたことでパニックを起こした淀殿が和議を叫んだことは知られていますが、
直撃させたのが四海波という名の大筒を使い砲撃した高政だとされます。今もその四海波など銘の付いた大筒が佐伯に残っています。
https://twitter.com/shiro_meglist/status/588645532333047808
四海波も上の物だろうが此れは精々
慶長大鉄砲と同様の50匁程度なのかだが
砲身は長いから精度は高いだろうが
遠距離から城壁を貫く威力は有るのかどうかだが https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140800026
>豊臣家に仕える「お菊」と言う女中が「天守に鉄砲の弾が飛び込んだ」と言う内容を手紙に書いていますが、大砲の弾が天守を直撃したと言う記録は見つかってないようです。
なので「淀君が大砲の弾に驚いて和議を結んだ」と言うのは史実ではないと思います。
砲弾が天守を直撃したと言う当時の記述は無いと言う事なのかだが
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140800026
>徳川実記には「淀殿の居間の櫓を打ち崩し、その轟音はすざまじいものだった。
淀殿の侍女7,8人が圧死(たちまち打ち殺され)、女童の泣き叫びはおびただしかった」とあります。
とは有るが徳川実記は19世紀前半の物だから
此れは事実なのかどうかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248736/
上の抗倭図巻の右の盾とフックを持つ兵は腕にも装甲は有るのかだが
こうした兵は何処迄居たのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248590/
上の倭寇図巻のフックを持つ兵の装甲は胴鎧だけなのかだが
兜が有る可能性は有るのかだが
フックは機能が限定されるし
実際は鈎槍装備と言う事は無いのかだが https://www.pinterest.jp/pin/343610646561158616/
右の様な脚にも装甲が有る様な
明の重装歩兵は古い絵では今の所見ないし
鎧は唐の時代の形式の物に類似しているから
現実に使われた物では無い可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F#.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C.E3.81.AE.E5.BE.8C.E5.8C.97.E6.9D.A1.E6.B0.8F
>その他の旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えたほか、各大名家にも多くの人物を出した。
徳川軍に入ったかも知れぬ関東の大量の騎兵集団は関ヶ原では
予備兵力であり使われていないと言う事なのかだが
秀忠の配下にも居たかも知れぬが野戦では無く攻城戦をしていた訳だろうか
大阪夏の陣の野戦では何処迄使われたのかだが
何れにせよ秀忠や家康本陣への攻撃は許している訳だろうか http://katomiraikoubou.sa kura.ne.jp/wp/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%90%8C%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%8C%EF%BC%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8E%8B%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B/
>清朝時代には満州弓という満州族の大型の弓(最大1.8m)が導入されており、
此れはイングランドのロングボウと同程度の長さだろうが
矢を大型化して貫通力を増していたのかだが
重くして反動も小さくする効果も副次的に狙ったのかだが アーチェリーの弓は160cm台だろうから
140cmも無いトルコ・モンゴル弓よりは
満州弓に近い物なのかだが
満州弓の安定性を示していると言う可能性も有るのかだが
http://www.manchuarchery.org/arrows
満州の矢の羽は長いが
アーチェリーの矢羽根は此処迄長くは無いだろうが
合理性は何処迄有るのかだが
満州の鏃は余り鋭くは無い物も多いが
明軍の鎖帷子は貫けたのかだが
鎖装備の兵より綿襖甲装備の兵の方が多いのかだが https://i.pinimg.com/originals/d9/8d/03/d98d0340c05f6fbc761171247390d201.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%BC%93
>モンゴル軍の短弓についても貫通力が低いという欠点を補うため、鏃に毒薬を塗る戦法、いわば毒矢を用いた[3]。
一方で、弓の構造上から威力は高く、日本の鎧では十分に防げなかったとする見解もある[4]。
モンゴルの弓の場合鏃が軽いから張力が70kgでも威力はどうなのかだが
袖毎鎧を貫く様な威力は流石に無いのかだが
弓に強い皮を挟んだ小札鎧・練皮札が二重と成り漆も有る大袖は
只の鉄板より容易に貫けないと言う事なのかだが
>長弓の場合、『保元物語』などで、鎧武者も貫通する記述がみられるが、
短弓に関する記述として、『土佐物語』巻第十七「繋ぎの城々 大蛇の事」には、
朝鮮出兵中、嘉山城において李王理という半弓の使い手が黒田長政の左腕に射当てるが、
長政はこれを事ともせず、敵中へ入り、そのまま王理を討ち取ったと記述されており、足止めにもなっていなかった描写がある。
土佐物語は史料価値は低いと言うが
仮に事実であれば
https://i.pinimg.com/originals/d9/8d/03/d98d0340c05f6fbc761171247390d201.jpg
上の長政の鎧の篭手は格子鎖が多いし
鎖や篠に当たって威力が減少した可能性は低いのかだが
城攻め時には当世具足にも大袖が装備されると言う説も有るから
此処に命中して深手は負わなかったと言う可能性も有るのかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>685
清の大型の矢羽根は近距離での安定性を考慮した物であり
通常の矢羽根では近距離では矢が安定せず貫通力が低下すると言う事なのかだが
大型の矢羽根は射程が短く成るから遠射用では無いと言う事なのかだが
アーチェリーの射撃距離の30−90mより近距離での安定性確保を
想定しているのかどうかだが http://archery-syoshinsya.com/category4/entry41.html
アーチェリーの弓は安定性重視故か2500gも有るが
http://ikai-kyugu.jp/?pid=112601806
張力15kgの和弓は500gだが
張力50kg等と成ると可成り重くは成るのかだが
重心はアーチェリーの弓と異なり上に有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>この最中、十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、
数十等の大量の犬槍が使われる例等は他に有るのかだが
持って直接馬等を狙った方が良いと言う事は無いのかだが
>明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、
その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、
連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し[24][25]、
毒矢と言うのは指揮官護衛用の物で
大量には無かったと言う事なのかだが
威力が無いので毒が使われていると言う連弩の矢と言う可能性も有るのかだが 馬鎧装備の騎馬武者が明・朝鮮騎兵に
弓での反撃を受けても乗馬追撃を続けた例等は有るのかだが
https://twitter.com/Chinasword_kari/status/882996695490887683
明の鎧が上の清の明形式と言う鎧同様に12kg等なら
15kg以上の当世具足を装備する騎馬武者が
馬鎧装備で無く共追い付けない可能性も有るのかだが
碧蹄館で李如松を取り逃がしたのも
こうした装甲重量の差故の可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%85%B5#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E9.A8.8E.E5.85.B5
>『軍法侍用集』にも騎馬を集結運用する陣形が登場しており、馬、槍、鉄砲の運用について言及した長宗我部元親の文書や『雑兵物語』などの当時の文献でも、その様子を伺い知る事が出来る。
先述のフロイスの記述もあくまで少数だった和田勢が多勢の敵に対し密集して挑む為に下馬して戦ったまででその方が理に適っていたからである。
(戦場の地形が騎乗戦闘に適していたかも考慮しなければならない)
また戦国後期になると各兵科毎に集めて部隊を組む事も行うようになっており(戦国遺文後北条氏篇第3巻、
1923号には北条氏直が武蔵岩附衆に当てた書状にて小旗、鑓、鉄砲、弓、歩者、騎馬の兵科毎に奉行を置き
総勢1500人程の岩附衆がそれぞれの兵科毎に奉行に率いられて戦う様に書かれている)後期には兵科分けが行われた。
この兵科分けと言うのは北条以外も同様なのかだが
長篠でも織田軍の銃兵のみが前方に抽出されているが
この時点で騎兵が抽出されていた可能性は有るのかだが
とは言え西国の兵は長尾懸かりの様な騎兵突撃は
基本的に無いと言う事なのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A6%82%E6%A2%85
>李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱について聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。
ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、満兵一人に敵せざるなり」と回答している[3]。
此れは銃を使わない戦い限定ではと言う意味なのかだが
白兵戦でも騎馬武者3−4人に同時に掛かられたら
清騎兵には板金の完全鎧も無いなら勝算は有るのかどうかだが
満州弓を乗馬して飛び道具を持たない騎馬武者30人の馬等に
一方的に当てると言う様な事なら出来るのかも知れぬが
そう言う戦いは基本的に東国の騎馬武者でも無い限り無く
雑兵物語に有る様に関東の乗馬した騎馬武者は
飛び道具を一部装備している訳だろうか https://i.imgur.com/cYUTUaR.jpg
朝鮮軍図屏風では敗走する明軍の弓で
騎馬武者がやられている場面も有るが
現実にはこうした反撃を避ける為に騎馬武者は長銃を持って追撃し
弓をアウトレンジしていた可能性も有るだろうが
一部の弓の上手い者は撃ち勝てると判断したら連射可能な弓を
使用している可能性も有るのかだが
西国の騎馬武者も清の騎兵を追撃する際は
銃を使用して弓をアウトレンジする可能性も有るのかだが
装甲重量の差で清や明・朝鮮の騎兵の追撃は簡単では無いと言う事なのかだが >あと『建州紀程図記』で、朝鮮軍人申忠一とヌルハチ家臣の馬臣の会話で、馬臣「倭子は状貌壮大と言うが、そうか」
申忠一「体つきはとても小さいが、良く草間を潜行し、弾を放てば必ず中てる」馬臣「遠くて小さいものも中てるのか」申忠一「倭銃は飛鳥をも中てることができるから、鳥銃というのだ」とある。
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/thesis/090121_itabashi.pdf
C玉の製造と猟の準備
なお日本の火縄銃で、散弾を使用したか。これは明らかに使用したと考えらのである。
飛ぶ鳥はどんな名人でも火縄銃の一発玉では命中は難しい。
猟場ではどんな名人でも失敗がある。火薬の前に玉を入れてしまえば、銃身を台から外
し、尾栓を開けて、後ろから突き出さねばならない、従って簡単な尾栓回しは必要だった
のである。
木箱に上記の紐に結んだ装具一式、鉛、柄杓、玉型、散弾型など整理して納めたものも
良く見る。農業期間、鉄砲と装具は乾燥した人の目に付かぬところに管理したからである。
玉で関心があるのは、どのように散弾を作成し、使用したか?と言うことだ。
火縄銃で空中を狙っている猟師の絵(北斎)をみても明らかに散弾は使用したであろう。
現実の飛んでいる鳥を撃つ場合は散弾が使用された可能性も高いだろうが
漁師では無く軍人が練習用に通常弾を放つ例も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
>鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。
そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。
明智光秀が飛ぶ鳥を落としたと言う話も有るが
散弾使用では無い可能性も有るのかだが
http://historivia.com/cat1/akechi-mitsuhide/4148/
>一尺(約30.3センチ)四方の的に対し、25間(約45.5メートル)の距離から命中させたのです。中心の黒い部分に68発、
そこを外れた32発も的自体には当たっていました。つまり、100発100中というわけです。これは相当な腕前ですね。
此れは標準の6匁筒辺りを使用したのかだが https://senjp.com/taki-2/
>織田信長は、滝川一益が鉄砲に熟練していると聞いて、射撃の腕前を検分したところ、百発百中に近い腕前であった為、鉄砲の腕前を見込まれて織田信長が家臣に加えたと言われる。
作り話ではあるが、鉄砲の腕前は、柱に穴を開け、その穴を通して柱の向こうにいる相手を撃ったと言う伝説もあるくらいだ。
等と有るが
具体的な射撃距離等は書かれていないと言う事なのかだが >>696
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5266742&id=57040505
>信長の目の前で火縄銃を100発撃ち、72発を的に命中させ 信長の配下となる
100発100中では無く72発命中と有るが
距離は明智光秀と同じ様な物なのかだが http://www.asatuyu.com/2015/07/25/gun-horse/
>(2)命中率の実験で3人合計18発撃つ
@距離100m:1発命中で命中率6%、A距離50m:13発命中で命中率72%
火縄銃の命中率も100mでは6%しか無いのかだが
http://blog.goo.ne.jp/cyrilsnow34/e/4099cd2e37084b077eecb3f95cd38bcd
上を見る限り100mでも命中率は上手い人間がやれば
可成り向上するのかだが
雑魚足軽は此処迄出来るのかだが >>693
見慣れぬ地形に引っかかる等して
明・清騎兵の逃走が遅れた場合
騎馬武者は弓を回避しながら銃の射程に接近し
出来れば地形に馬を隠し下馬
騎兵の馬を狙撃し敵を落馬させ
再装填後徒歩で逃げる敵を
同様に地形に馬を隠して狙撃すると言う様な方向なのかだが
落馬後は敵も地形や馬の影に退避する可能性も有るなら
簡単に狙撃は出来ぬ可能性も有るのかだが
相手を地形の影に拘束している内に後続の味方歩兵が追い付き
此れに敵を包囲させ仕留めると言う様な事も多いのかだが http://ueda-soukoryu.com/sliderbugu/
大阪夏の陣段階では鎬の有る上田宗箇の
和製南蛮胴が使用されていると言う事なのかだが
此れ以前はどうなのかだが
1570年台の仏胴登場時に既に有る可能性は無いのかだが geocities.jp/pycbb333/framepage15.html
>北条新三郎氏信の甲冑
此れは桶側胴的だが果たして1570年迄の物なのかだが
直後の姉川合戦でもこの種の胴は使われた可能性も有るのかだが フス派の戦車は木張りだが
神聖ローマ軍の遠距離の手銃は止まったと言う事なのかだが
砲はこの時代でも割に有るが
戦車攻撃には使われたのかだが
マスケット銃や大量の砲の登場後も
コサックがフサリアに対して戦車を使用していた様に見えるが
鉄板は此れには張られていたのかだが
クロスボウ兵のパビスに手銃が向けられる事も有るのかだが
クロスボウの射撃距離の100m等の遠距離では命中しないか
命中しても貫通は出来ないと言う事なのかだが http://myrp.maruzen.co.jp/press/eastwest/v13/index.html
>中国に派遣されていたエドワード・バーリングトン・ド・フォンブランク(1821〜95)は、日英修好通商条約締結(1858年)の2年後に軍用馬を調達するため日本を訪れた。
大切に育てられた日本馬の優秀さが西欧にも知られ、イギリスやフランスが買付けを始める。イギリス側は「3000〜4000頭必要」と要求するが、幕府は簡単に応じられない。
日本馬も衝撃騎兵では無く軽騎兵としての用途なら
長距離のアラブ馬を上回る走力や
粗食に耐えると言う事が
19世紀でも有用と見做されていたのかだが ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B1
中央アジアのアハルテケも粗食に耐え
長距離の持久力も有るのかだが
モンゴル系馬とどちらが軽騎兵用途としては上なのかだが アハルテケもトルクメニスタンの砂漠に適応した色をしている様だから
砂漠や平地では兎も角
山岳地帯での運動性は日本馬程には
高くは無いと言う事なのかだが Matchlock Musket Demonstration with Armor (Live Rounds)
https://youtu.be/X1WwQkeDuXs
17世紀に銃兵専用の甲冑もジェームズタウン等の米大陸等の一部で使用されていたのかだが
此れはインディアンの弓対策なのかだが https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarh%C5%AB
サルフの戦いの絵の明軍を見ると車輪付き盾や
低い土塁は有るが
馬防柵や戦車は使用していないし
これが有れば清の下馬騎兵・乗馬騎兵共に簡単に突入は
許さなかった可能性も有るのかだが
フス派の様な戦車陣や
長篠の様な野戦築城が成されていれば
山海関の様なヌルハチの戦死迄有り得たのかどうかだが
https://blogs.yahoo.co.jp/baron0742/68795733.html
長篠の陣地の場合土塁の上に馬防柵が有り
その後方にも銃丸の様な溝の有る土塁が有ると言う構造なのかだが
この様な物を清騎兵も下馬してさえ何処迄突破出来るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/File:Battle_of_Nagashino.jpg
長篠合戦図を見ると全体にこうした物迄は無いと言う事なのかだが https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarh%C5%AB#/media/File:Pan_Zongyan_being_overrun.jpg
上を見ると明軍陣地は清下馬騎兵突入前にも
土塁後方が盾で完全に塞がれていた訳では無い様に見えるし
最初から隙間が有って此処にも
歩兵敗走後騎兵の突入を可成り受けたと言う事なのかだが
長篠の様な馬防柵や
フス派の戦車陣地ならこの様な事は無いと言う事なのかだが >>709
日本軍に野戦築城された陣地が無い場合でも
碧蹄館の様に地形を利用すれば
清騎兵相手でも同様の結果と成る可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで
混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。
夜間でも馬防柵やフス派の戦車を盾にしての至近距離からの銃撃は
防げる訳では無いだろうが
碧蹄館の様に地形しか無い場合では厄介な可能性も有るのかだが
馬防柵や戦車陣が有っても
視界の悪さを利用して兵を一点集中される可能性は
有ると言う事なのかだが
こうした事をしても籠城した明軍は破れなかった訳だろうか 大砲の有無もかなり関係してくるだろ。
秀吉の日本軍相手でも火縄銃をアウトレンジして、野戦なら優位に立っていたし、対清軍でもオランダの大砲を輸入してからは侵攻を許さなかった。
散開して速度の速い騎馬兵が相手でも、射程距離から接敵まで、一二割は敵を削減できるなら、かなりの戦果と言えるはず。 >>711
>馬防柵や戦車陣が有っても
>視界の悪さを利用して兵を一点集中される可能性は
>有ると言う事なのかだが
そうした場所に備の機動力を利用して
予備兵力を迅速に移動する必要も有るだろうが
同様の夜襲に日本軍は割に慣れているかも知れぬが
>>712
大砲で乗馬騎兵の突撃を阻止した例は知らないが
フサリアにはスウェーデンの連隊砲も通用していないと言う事なのかだが
精度・威力の低い明軍の野戦用のフランキ砲では
火縄銃をアウトレンジ等出来るのかだが
碧蹄館では明軍は騎兵戦が主体であるから
此れは余り使用されていないと言う事なのかだが
泗川では城外での戦闘も多いが
フランキ砲は何処迄役に立ったのかだが
日本軍の鹵獲した散弾を詰めた砲の方が
近距離専用では有るかも知れぬが
或いは役に立った可能性も有るのかだが 野戦で明軍も朝鮮軍も日本に優位に立ったことなど無かろ。 http://proto.harisen.jp/mono/mono/koui-hou.htm
ポルトガルから購入した明軍の紅夷砲も
山海関でヌルハチを撃退した際の初期の30門から
400門以上は配備された様だが
籠城戦の使用以外は有るのかだが
籠城時に引き付けられた密集した低速の敵に発砲して
効果を上げた物と言う事かも知れぬし
野戦での清の乗馬騎兵や夜間の下馬騎兵の(城では無く)
陣地への突撃を阻止出来る様な物なのかだが
呉三桂も結局の所投降し
清に対し反乱を起こした後も勝利出来たのは
初期だけと言う事だろうが
1670年台には清の側にも砲は大量配備されていたかも知れぬが
攻城戦以外は依然騎兵が主体だったと言う事なのかだが
日本軍も大阪の陣では砲は大量使用しているだろうが
大阪の陣での野戦では何処迄利用されたのかだが
密集陣形では無い備には近距離の散弾以外は
有効では無かったと言う事なのかだが 光栄のゲームと違っていろんな兵科が連携するのが史実の戦争なんだよ
砲兵の有り無しは軍全体の火力で雲泥の差ができる 砲兵無しても戦争はできるが、その場合火力は歩兵の脚に頼るしかない
17世紀のスウェーデン軍に砲兵が居なかった場合を想像してみたら? たぶんフサリア使うまでも無く撃退されてたよ
長射程の安定した火力、一発で歩兵を吹き飛ばすエネルギーは他の兵科では生み出せない と言うよりそのための兵科が砲兵
文章に残ってないから活躍してなかった、というのは昭和的史観だよ http://proto.harisen.jp/mono/mono/koui-hou.htm
>一方で女真族勢力(後金)も紅夷砲に対抗するために、投降武将ら明朝の人材を吸収し、新式火器技術を積極的に導入した。
>その結果、後金軍の火器の製造・管理・使用の最高責任者として重用された佟養性のもとで天聡五年(1631)正月、初めて紅衣砲(紅夷砲)の製造に成功している。
清も1630年台には既に紅夷砲の配備はしているだろうし
1670年台には大量に有ったと言う事かも知れぬが
野戦での主力は騎兵だったと言う事なのかだが >>716
とは言えスウェーデン軍でさえ清の騎兵を
地形無しで果たして阻止出来たのかと言う事は有るだろうし
スウェーデン式大隊も密集隊形であるから
突撃する前にも満州弓の攻撃で
砲兵も含め可成りの打撃を受けていた可能性も高いのかだが >>718
長射程の散弾(キャニスター弾)を撃てるスウェーデンの砲兵も
600mは射程の有る満州弓に
アウトレンジされ壊滅
騎兵を阻止する為のパイク方陣も
フォルカークの戦いのシルトロンの様に
満州弓で混乱し用を成さなく成ると言う事なのかだが
スウェーデンの騎兵も満州弓でアウトレンジされて
やられると言う事なのかだが スウェーデン軍が土塁に篭れば
夜間清の下馬騎兵が一点集中突撃しても
機動性の高い連隊砲や多段射撃可能な銃兵を
上手く集中すれば撃退出来る可能性は
有ると言う事なのかだが なんでそう極端な例しか想像できないかね
木製の矢の質量で500m以上先の目標に打撃なんか与えられないだろ
3lb砲キャニスターの射程400mってのは有効射程 和弓の有効射程はだいたい2-400m 届いて当たるだけじゃ壊滅しないんだよ
アウトレンジが成立するのはkm単位で戦闘する19C以降か、槍と刀で殴り合う中世の戦争
火力ぶつけ合って崩壊するまで殴り合う時代に使う考えではない
騎兵の機動力衝撃力が代替できないように砲兵も他では置き換えられない存在 フサリアに弱いからいらないとかいうものじゃない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています