まあ、しろうとめなんだが、
秀吉が計画的に水軍(海上補給部隊)を編成して半島西岸を北上しつつ
内陸の大軍への側面からの補給を維持して、山海関から北京への進撃を企てていたようには思えないのだが。

力ずくで朝鮮から明へ15万の陸兵を押し出すという構図にしか見えない。
オウリョクコウを渡り山海関〜長城を超えて北京へいたる道のりを
どういうふうに秀吉が考えていたのかが、むしろ疑問なんだ。
中国人も朝鮮人も太閤の威光の前に戦う前からひれふす程度にしか考えてなかったんではないか。