【戦車】旧日本軍装甲車両総合スレッド Part.4
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射程距離 一〇〇〇メートル? 命中しなきゃ意味ないぞ?
またドイツ軍の歩兵は、近接戦闘を好まないということに気がついた。ドイツ兵は、
一〇〇〇メートルもさきから、自動火器の弾丸をばらまきながら前進する方法を好んでとっていた。
これら二つの要素――つまり協同戦闘と、近接戦の不得手――にたいしてとるべき戦法は、
できるだけ敵に近接することだ、と彼は結論した。
そうすれば、ドイツ空軍は、友軍部隊にも損害をあたえることを覚悟しなければ、ソ連部隊を爆撃することはできない。
ここで、第一の連繋がくずれ、ドイツ軍歩兵をいやでも近接戦に巻込むことができるだろう。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU/sobiet5.htm そんんだけ高いなら95の車体バルジとかもうちょっと頑張れよ まーた日本で腐らせるのか、と思ったら当分はボービントンで展示なんだな
いっそそのまま置いといて欲しい こういうとアレだが反発は覚悟で言うと、ハ号は技術遺産などと胸を張って言える域には無い…からリンク先みたいに技術史を語る上での記念という体なら帰ってこなくていいよ
そりゃ、白人に対抗して戦車を作れた、ってレベルで拍手もんかもしれんが、その域で満足できる水準はとっくに通り越している
どこに見せても恥ずかしくない戦車って何だろうな、と言われると諸説あるが、ハ号は少なくとも手放しで喜べない
といっても自虐するのはオーケーな癖に、左翼教師にブリキ戦車とか言われると腹立てる時点で、俺もコンプレックス抱えた軍オタの一員かも 日本の技術遺産だから他国とそうやって比較するのが無意味だよ 軍事だから他国と競うための技術であった事はまぁ事実やん
んで、記念すべき国産戦車!(ワーパチパチ)って水準はとっくに越したやん、って話ですや >>766
開発当時として軽戦車としてバランス良くまとめられてるでしょ。 九五式軽戦車と同時期って二号やM2軽戦車あたりだろ
それらと比べてもそう劣ってはいないと思うが
ソ連はこの時期には長砲身の戦車砲搭載で攻撃力は抜けてるけどさ >>764
>技術遺産などと胸を張って言える域に無い
その考え方は本当にやめてくれ…無能公務員どもを思い出す…
「当時から見てもレベル高く無いし、面白いものじゃ無いから客も来ないし捨てといてね!」って明治時代からの工作機械数百点を全部スクラップにしやがったんだよ
技術立国日本!とか言うくせにその技術的な歴史を辿るのはもう永遠に不可能なんだ…
ダメならダメで、どうダメなのかきちんと調べないと。技術史は考古学よ
オデッサ戦車ですら技術史的には貴重なんだけど普通の一般人には見ても面白く無いだろうから、普通はスクラップになるのかなぁ…ロシアはよく残してるな
あ、日本に里帰りさせる事自体は反対ね。また海外に転売して終わりだろうし >>767
ものはいいようというか、頑張って軽戦車作りましたとか、そういう域での話に過ぎないわけでしょ
記事内にも
>>もし修復した九五式軽戦車が展示された場合、世界の名だたる戦車に並んで日本の戦車が欧州を走る姿が見られるとのことです。
とあるが、他国が日進月歩の中でかくかくたるものを仕上げてきて、それらと比較されて、その際にそうフォローして回る事は出来ない、一度土俵に上がれば日本軍の戦車としてしか見られない
技術遺産というのは、そういうもの。
胸を張って記念したからには、そういう格になる
技術遺産は、かなりの大物や特筆されるべき記念物で、当時としても平凡、敵が中戦車クラスを揚陸させてるなかで対戦中は完全に旧式化したものはその格ではない
あくまで日本人全体がそういうフォローに徹する事が出来たら、誇れるものになると思う
零戦や大和型戦艦だって実態はともかくまがりなりにも神格化、あるいは「悪の象徴」みたいにある意味での大物化されてたんやで >>770
韮山の反射炉とか技術遺産なんだけど、キミには理解できないだろうね いや記念すべきものですやん
日本で相当する格のものは試製一号戦車だろ
何か当時最大とか○○初とか○○革新とか記念すべきものはあるかいな?
ただの軽戦車やないかい
そんなん有難がってたら駆逐艦でも何でも記念してたら良いと思うよ 日本が0系新幹線とか記念するのは分かる
でも九五式とかオーソドックスな軽戦車とかにもいちいち「技術的価値が〜」とか言ってたら、そのうちその手の遺産のインフレ起こすよw
日本に限らず電気電子系の手のものは重宝されてその限りではないけどね
戦車でそれだけの格を付けるにはある程度のネームドが必要だと思うよ
マニアがどうこうと正直に言ったらええねん
これならまだいすゞtx系の自動貨車とかの方が推されると思う
こちらの方が戦後の飛躍の面でも、技術史的に価値はあるんじゃない? その当時に世界トップクラスの水準じゃなきゃダメとか言いだしたら、この国に技術遺産なんてものは無くなるぞ
日本が本当に技術で世界トップクラスの水準にたどり着けたのは戦後しばらく経ってからだし
誰だって最初から一人前だったわけじゃない
たくさんの失敗や試行錯誤の上に今があるわけだろう
集大成とは言えなくとも、通過点の1つではあるやん?残せるならば残しておこうで
あ、日本国内には来なくていいです。どうせ酷い管理して腐らせるから せやな、その通りすまんかった
個人的に一式四輪/六輪自動貨車、これは特筆すべきだと思う
ハ号?ええ?みたいな事言った舌の根も乾かぬうちに言うけどな
舌何枚もあって悪いな 取ったらいあえずボービントンが恒久的に収蔵してくれれば
皆余計な心配しなくて済む 九五式軽戦車里帰りプロジェクトがクラウドファンディング開始
http://otakei.otakuma.net/archives/2019013101.html
http://otakei.otakuma.net/wp/wp-content/uploads/2019/01/Type95_Ha-Go01.jpg
日本で最も多く生産され、第二次大戦を通じて各地の戦場で活躍した「ハ号」こと、九五式軽戦車。
「チハ」こと九七式中戦車と並んで日本の主力戦車でしたが、日本国内にはこの戦車が原形をとどめる
形では残っていません。そこで、海外に残存するこの戦車を日本の機械技術遺産として里帰りさせようと
いうプロジェクトがNPO法人の手で始まっています。イギリスで保存されているものを修復し、日本まで
移送する資金の一部を調達するクラウドファンディングが2019年1月30日から開始されました。
三菱重工によって開発され、1935年に正式化された九五式軽戦車。旧日本陸軍における機械化部隊の
中心的存在として、1943年の生産終了まで全部で2738両が生産されましたが、多くが戦闘中に破壊されたり、
放棄されたりしています。日本国内に残存したものは、スクラップにされたほか、一部が砲塔や武装を撤去
されてブルドーザーなどの建設機械へと姿を変え、戦後の復興にも役立ちました。
http://otakei.otakuma.net/wp/wp-content/uploads/2019/01/Type95_Ha-Go_on_Duty.jpg
今回里帰りを計画している九五式軽戦車は、あるイギリス人O氏が所有する個体。実はこの個体は、
1981年に元アメリカ軍人の好意により、ミクロネシア連邦のポンペイ島(旧称:ポナペ島)から一度は日本に
返還されたもの。1986年から京都嵐山美術館に展示されていたことがあり、筆者も目にしたことのあるもの
です。1991年に京都嵐山美術館が閉館したのちは、和歌山県の南紀白浜ゼロパークへと移管されたの
ですが、ここも2004年に閉館。行き場のなくなったところをO氏が買い取り、現在まで戦車修復のプロが
いるポーランドで10年余りの歳月をかけて、少しずつ修復作業を進めてくれていたのです。 嵐山美術館が日本の兵器保存の逸話に暗い影を落としていることは否めない
ってかそれ系のネガティブな話の大半が嵐山美術館のせいだったりする。他がマシとは言わないけど。
マニアに安易に窃盗されるような杜撰な展示体制、オーナーの死で一時は支離滅裂になる無計画っぷり
他にここまで酷いところってあるのか?靖国遊就館か? >>780
シリンダーブロックの貫通弾痕もオリジナリティを維持しつつ修復して稼動状態まで持っていった超クオリティレストアだから、逆に安い
というか、たった一億でよく手放す気になったな >>779
でも、嵐山の館長がいなかったらスクラップになっていた物が多いのもまた事実。
結局嵐山が潰れたあとスクラップになった物もあるけどな……。 >>774
>日本が本当に技術で世界トップクラスの水準にたどり着けたのは戦後しばらく経ってからだし
戦前からトップクラスで、中国人を3500万人虐殺したのに賠償ゼロと、夢のような話だが?
大陸打通作戦の第一次作戦(河南作戦)/昭和一九年(一九四四)四〜五月・・・・・・戦車第三師団、
戦車総数二五五両が参加。師団全体の踏破距離一四〇〇キロ、日数は三〇日(一日あたり四六・六キロ)。
師団捜索隊は約二〇〇〇キロ、三〇日(一日あたり約六七キロ)。
<中略>
ここに示した日本戦車隊の長駆進撃も、連合軍側を大いに混乱させ急速な勝利をもたらした
典型例なのである。ちなみに、「電撃戦」と称賛される独ソ戦初期(一九四一年六〜七月頃)のドイツ
機甲部隊の場合と比較してみると、グデーリアンが率いる第二装甲集団が踏破距離約六五〇キロ、
日数二五日(一日あたり二六キロ)、マンシュタイン上級大将の第五六装甲軍団が約三三〇キロ、
四日(ドヴィンスク急襲時、一日あたり八〇キロ)で、日本戦車隊の"快速ぶり"はこれらに劣る
どころか優れた成果を上げているといえる。
<「陸軍機甲部隊」(学研)158頁 文・古是三春> とはいえ米軍主力がドイツ打倒優先だったことも見逃せない。中国人は虫けらだからいくら虐殺しても良い。
中国人はゴミとして棄てる、中国人を人間扱いしない、そうで無ければDデイを放棄することになってしまう。 中国人を人間扱いなどしたら、米軍はノルマンディー上陸作戦を放棄して、中国大陸へ派兵しなければならなくなる。 1. 第二次世界大戦終了60周年記念式典
冒頭、小泉総理より式典参加は意義深かったとして、式典の成功に祝意を述べたのに対し、
プーチン大統領より「隣国であり重要なパートナーである日本の総理が参加されたことは
極めて重要である。」と述べて、小泉総理の参加に対して謝意の表明があった。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/j_gmn_05/j_r_gai.html
小泉総理は日本代表として、モスクワの第二次世界大戦終了60周年記念式典に出席し、
式典の成功に祝意を述べた。赤軍がナチスドイツを撃破してベルリン入りを果たしたのは、
自由主義共産主義の理念対立を越えた偉業であり、日本人の一人として自分も祝意を表明する。
旧ソ連の核開発
1949年 8.29. セミパラチンスク核実験場で原爆実験に成功し、アメリカの原爆独占を終結させる
1953年 8.12. 水爆実験に成功
イギリスの核開発
1940年 原爆生産の可能性を検討する科学者委員会が設置される
1943年 アメリカのマンハッタン計画に参加
1946年 原子力研究所を設立し、独自の原爆開発計画を推進
1952年 10.03. オーストラリアのモンテベロ島で原爆実験に成功
1957年 5.15. クリスマス島で水爆実験に成功
2002年 2.14. アメリカと共同で臨界前核実験を実施
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear1_1.html
なおソ連邦の核開発はイギリスよりも3年早く、アメリカの世界一極支配に終止符をもたらした。
ソ連の核兵器は一人の人間も殺すことはなく、世界平和に貢献した清潔な核兵器だった。
あ り が と う ソ 連 邦 ! >>784
この米軍がドイツ打倒優先だったって話、ちょくちょく見るけどなんか根拠あるのかね?
むしろソ連に任せて、なるべく自分達は派兵を遅らせようとしてないか?
ウォッチタワー作戦でガダルカナル島に上陸してきたのは1942年8/7だけど、
トーチ作戦で北アフリカに上陸したのは同じ年の11/8だし。
これもスターリングラードの戦いが始まって、ソ連にせっつかれてやっとだったし。 >>787
>この米軍がドイツ打倒優先だったって話、ちょくちょく見るけどなんか根拠あるのかね?
日本軍が大陸打通作戦でチンピラゴロツキをどつき回している間、米軍は欧州へ向けて派兵していた。 大日本帝国と中華民国の戦争は最終的に、中華民国の国家主権が完全否定される形で終結した。
日華平和条約を結んだ中華民国はその時点で国家主権無き亡命政権だったからだ。
この点、戦時の一時期は亡命政権でも、終戦時には主権国家となっていた自由フランス政権とも異なる。
対日戦争では聯合国の一員である中華民国が国家主権を失った状態で終戦したのである。
アジアの“歴史の政治”
アジアの状況も、それに劣らず興味深い。そこにも、ニュルンベルク裁判に似た裁判があったが、
欧州のように道義的政治的一義性が獲得されることは、決してなかった。
https://jp.rbth.com/opinion/2015/09/02/394013
連合国vsナチスドイツ+枢軸諸国→ポツダム協定で完全決着
連合国vs大日本帝国→未決(そうでないなら台湾の帰属先は?)
1945年9月2日を『無条件降伏』と呼ぼうが何と呼ぼうが、戦勝国合意が全く形成されなかった。
聯合国が勝利したとのことなら戦後の世界秩序も勝利した聯合国が決めて然るべきであろう。
しかしながら台湾の帰属先は未定のまま、つまり聯合国は国際法上、大日本帝国に勝利していない。
大日本帝国と中華民国の戦争は、大日本帝国が中華民国のチンピラゴロツキ3500万を斃し、
その国家主権を丸ごと剥奪して亡命政権にした状態で、1952年に日華講和条約を成立させて終結した。
異論があるなら何なりと! >>787
>この米軍がドイツ打倒優先だったって話、ちょくちょく見るけどなんか根拠あるのかね?
蒋介石の返事は12月9日カイロにいたルーズベルトに届いた−−
(1) カイロ会議の前、シナが対日戦に取り残されるとの不安を持っていたが、公式声明で疑いは晴れた。
(2) 方針・戦略の大転換が行われるなら落胆せざるを得ずシナは長くは保たないだろう。
(3) 早期の独軍敗退が全体としてシナと連合国にとって大きな利益であるとの貴殿の考えは理解する。
しかしシナ戦場での敗北は全世界的戦争にも影響を及ぼすだろう。従って、現今の重大な状況を救う
ためには、貴殿の勧告を受け入れ難い。国民の抵抗を継続させる私の責任がますます困難になることは
貴殿もお分かりと思う・・・シナ戦線の危険は軍事力の弱さだけでなく、むしろ危機に陥っている
経済状況による。これが国民と軍をいつ崩壊させるかわからない。軍事的・経済的状況から見て、
わが軍は6カ月、11月までは保たないだろう・・・テヘラン会議声明から、日本は、連合国軍は欧州に集中し、
シナを放棄して日本軍の機甲・地上部隊に任せたと判断するだろう。来年中にシナ問題を解決することが
日本の戦略となろう。従って、日本は遠からずシナに対して総力戦を仕掛け、後ろの脅威を取り除き、
落ちつつある軍の評判を回復し、太平洋での実績を誇るだろう。いま私はこの問題に直面している・・・
http://midi-stereo.music.coocan.jp/blogcopy/hoover/hoover13.htm >>787
米軍のガ島反攻はアメリカ軍としてはミッドウェーで勝った後でまだ日本が来たのでしぶしぶやっただけだよ。
本格的反攻はまだできないってことで史実みたいに1年以上かけてソロモン海域で戦闘してたわけだ。
で、準備が整った44年以降の進撃スピードもご承知のとおり。 >>791
いや、アメリカは明確にガダル上陸を本格反抗の第一歩としてるよ。
一年てこずったのは、その頃はまだ日米の戦力が拮抗していたから。
それをすり潰すのにかかった時間が一年。なのでその後は速い。
欧州戦線なんて、北アフリカに上陸してからイタリア上陸まで一年。
そこからさらにノルマンディーまで一年かかってるだろ。 >>792
してないって。アメリカの史料に書いてあるでしょ https://ja.wikipedia.org/wiki/アルカディア会談
>真珠湾攻撃が起きたばかりであるが、アメリカ合衆国は戦争に勝利することを約束し、最初の目標はナチス・ドイツであるとした(ヨーロッパを最初の戦略目標とした)。また、ヨーロッパ作戦戦域において軍事的資源を統一して運用することにも同意した。
会談史料はwikiの参考文献のリンクから ガダルカナル放置したら米豪遮断が現実味帯びて来るから、アメリカはかなり危機感持って本腰入れてるぞ
ヘンダーソン飛行場が砲撃されるに及んでゴームリーがクビになってハルゼーに変えられてるし それ以上のソロモン・ニューギニア方面で日本軍の進攻を止める、というのと本格的反攻というのは同じことではないと思うのだが。 米軍が太平洋戦争で主導権を握るのはテヘラン会談が開かれた1943年12月のはず。
ドイツ打倒優先というのもDデイの期限をソ連に報告しなければ絵に書いた餅にしかならない。
西側諸国と亡命政府 西側諸国は,一方で相変らず第二戦線を創出できないでいること,
他方でソ連の対日戦争参加を強く望んだことのためにソ連に対して外交的に著しく弱い立
場に追い込まれた。西側諸国はこの問題においてソ連に対して譲歩しなければならないこ
とを痛切に感じ始めた。最も重要な同盟を失うかもしれないという西側諸国の恐れは,
スターリン が 1943年 7月半ばに, またしても第二戦線の創出が延期されたことを理由に
ワシントンとロンドン駐在大使を召還し, アメリカ大統鎮ルーズヴェルト CFranklinD.
Roosevelt) との予定されていた会談を無期限に延期したとき, とくに強まった。西側諸
国,とくにイギリスはいっそう強くポーランド亡命政府に圧力をかけてソ連の要求に応じ
させようと努力した。(21)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5035/1/KJ00000112975.pdf
ちなみにソ連が独ソ戦線で主導権を握るのは1943年7月。この点についての認識を誤ってはならない。 >>792
>欧州戦線なんて、北アフリカに上陸してからイタリア上陸まで一年。
北アフリカは1942年6月で三個師団な。
Location Of German Divisions In June Of Each Year
Country 1941 1942 1943 1944
USSR 34 171 179 157
France, Belgium
& Holland 38 27 42 56
Norway & Finland 13 16 16 16
Balkans 7 8 17 20
Italy 0 0 0 22
Denmark 1 1 2 3
North Africa 2 3 0 0
http://www.angelfire.com/ct/ww2europe/stats.html >>794
そんなの英ソ向けのリップサービスだって。
本音はなるべくソ連に任せたい。これは英国も同じ。
ヨーロッパ戦線はアメリカにとって直接の利害がないけど、
太平洋戦線は直接利害があるからな。
植民地だったフィリピンやグアム取られたし、アメリカ領だった
アッツやキスカも取られたし、戦後を考えれば太平洋全域を
アメリカの支配化に置きたい。 >>798
6月ってのは、トーチ作戦を米英で合意した時期だろ?
実際に実行したのは11月。
ウオッチタワー作戦だってガダル上陸は8月だけど、発令は7月だぞ。 >>799
そういうのは妄想ではなく、ソースを提示してはじめてリップサービスといえるんだよ。
でないとただの陰謀論信じるような都合のいい部分だけ信じる阿呆になる
フィリピンを再占領したいのはマッカーサーだけで海軍は反対してたでしょ >>801
じゃあさ、トランプ前のアメリカが「世界の警察」「民主主義の守護者」とか言ってたの、
リップサービスだってソース出せる?
実際は全然そうじゃないってのは、利害に関係ない場所での紛争は完全スルーとか、
むしろ自分の国の国益の為なら、非民主主義独裁政権でも平気で支援したっていう
事実の積み重ねが、口先だけのリップサービスだと証明する訳だ。
ヨーロッパ優先も同じ事。
上でも挙げたような事実を。実際の行動を見ていけば、ヨーロッパ優先なんてのが
口先だけだと理解できる。
フィリピンの話なんかは正にそう。
対日戦だけを考えれば別にやらなくてもいい作戦だった。
なのに実行したのは、マッカーサーの面子。ひいては戦後フィリピンに強い影響力を
与えるための、政治判断に基づいた作戦だ。
太平洋戦線はヨーロッパと違って、アメリカの国益に直結する戦場なんだよ。
なので積極的に軍を出す。
一方ヨーロッパにはなるべく兵力を出したくない。特に地上戦なんてやりたくないので、
北アフリカという支戦線から入り、次はイタリア。ノルマンディーまで散々引っ張った。
おかげでヤルタ会談ではソ連に主導権握られて、ポーランド亡命政府を抱えるイギリスが
自由ポーランドの実現に固執したのに、結局なし崩し的にソ連の支配下に組み込まれていくのを
傍観している事になった。
そこにアメリカの国益は存在しない(と当時は考えられていた)からね。 >>802
歴史と現在は区別してね。全く反論になってないから。
歴史上の出来事はちゃんとアメリカも文書開示なんかしてるでしょ >>803
現在の積み重ねが歴史になるんだよ。
トランプ政権前だって歴史といえば歴史だろ? 何年前以上が歴史になるとか基準でもあるのか? 因みにアルカディア会談の合意事項がリップサービスではない証拠として
当時のイギリスの疲弊っぷりやアメリカの戦争準備の不備が提示できる。
そういうのを知っていてかつ、これらを否定しうる証拠を提示しない限り、
いくらリップサービスだと言っても説得力ないよ >>804
その回答はすでに>>803のニ段落に書いてある >>805
なんで戦争準備の不備が証拠になるの?
戦争準備が不備だったのは太平洋戦線でも同じでしょ。
ニューディール政策失敗後の1938年から大量建造始めた艦船軍が出揃う
1944年まで攻勢は控えるべきって意見も米海軍内には強かった。
でも実際は政治的な事情がそれを許さず、早期の攻勢に出る事になる。
ドイツの通商破壊戦対策で大わらわの大西洋艦隊から空母ホーネットと
ワスプを引き抜いて、大西洋艦隊の正規空母をレンジャー一隻だけにしてまでだ。 >>806
アメリカが文書を開示したら現在から歴史になるとのご意見ですか?
じゃあケネディ暗殺は現在の出来事? 大体アメリカのヨーロッパ戦域への派兵なんて、ドイツの通商破壊対策とレンドリース船団
空軍の派遣から始まって、陸軍はアメリカ陸軍北アイルランド部隊として二個連隊を送っていただけ。
やっとヨーロッパ戦域アメリカ軍(ETOUSA)ができるのは、トーチ作戦が決まった1942年の6月。
それも最初の司令官は、航空軍の少将。
アイゼンハワーが着任するのは一ヶ月近く後の事。
42年8月に行われたディエップ作戦でも、主力になったのは英連邦のカナダ軍だった。
アメリカはその頃ガダルカナルに上陸するのに忙しかったからね。 >>801
>そういうのは妄想ではなく、ソースを提示してはじめてリップサービスといえるんだよ。
でもバルバロッサ作戦が始まって間もなく、米国は様子見だったろ?
1941年、独ソが互いを全滅させているのを見て、ハリー・トゥルーマン元米国大統領の幸福だとする批評はよく覚えていた。
元々は1942年、そして1943年に約束されていた、連合国によるヒットラーへの第2戦線の開始の遅れは特に痛いポイントだ。
2年の長きに渡り、ソ連はナチスの全力の猛攻撃のほこさきとして独力で堪える事を強いられた。
http://white.ap.teacup.com/nishitatsu1234/379.html
アルカディア会議ってのは、寧ろ米国が対ドイツ戦に参加したくても出来ない状況を表してる。
アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」。
https://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) >>805
>因みにアルカディア会談の合意事項がリップサービスではない証拠として
>当時のイギリスの疲弊っぷりやアメリカの戦争準備の不備が提示できる。
不破 ソ連にとってポーランドは非常に難しい国でした。39年にヒトラーと組んでポーランド国家
を消滅させたのが、ほかならぬソ連ですから。一方、イギリスはポーランドと同盟関係にあり、
そのことからドイツとの戦争に踏み切った国です。つまり、イギリスにとって、
独立ポーランドの再興はこの戦争の最大の大義というべき問題でした。
ところが、41年6月に独ソ戦が始まった時、スターリンは、英ソ交渉の最初の段階から、
東部ポーランドをソ連領と認めよ、という要求をイギリスに突きつけるのです。
その年の12月、イギリスのイーデン外相がモスクワを訪問しました。ドイツ軍の猛攻からモスクワを
守りぬいた直後の時期でしたが、英ソ会談でスターリンが最大の議題としたのは、援助問題ではなく、
戦後ヨーロッパの国境問題、なかんずくポーランドにかかわる領土問題でした。イーデン外相も驚いたのですね。
石川 スターリンは、ソ連の役割なしにはヒトラーを倒せないというイギリス、アメリカの弱みを見事に
逆手にとっていますね。英米に援助を“お願いする”というのでなく、ソ連の要求を受けいれるのは当然、
という姿勢が、ここにもはっきり出ています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-20/2015102010_01_0.html 米軍の欧州戦線とアジア戦線へのリソース配分も知らないのではなぁ・・・ ID:xqyhnSITa
ID:YRZNwCc0M
スレタイの性質上ある程度は仕方ないとはいえ、あまりに欧州戦線に対する知識がなさすぎる・・・
ディエップが撤退前提の作戦だと知らないとかもうね >>813
>あまりに欧州戦線に対する知識がなさすぎる・・・
かつて多くの歴史家が、米軍は開戦当初の2 年間、「ドイツ第一主義」戦略を遂行できなかったとし、その理由を
1942 年にはアメリカ軍兵力の多くが欧州や北アフリカよりも太平洋に配備されていたこと、そして1943 年には欧
州と太平洋の兵力分布が均衡していたためだと論じた。しかしこの主張は「ドイツ第一主義」戦略がかなりの程度、
日本の軍事力の過小評価に基づいていたという事実を見落としている。結果として、ルーズベルトは政治的理由(つ
まりアメリカの国内世論) だけでなく軍事的理由からも、開戦前に想定された以上の戦力を太平洋に投入せざるを
得なかった。
http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/pdf/2014/07.pdf >>813
>ディエップが撤退前提の作戦だと知らないとかもうね
しかしアメリカ軍参謀本部はフランス領北アフリカへの大規模な急襲に関して強硬に反
対した。参謀本部は7 月、語気の強い覚書をルーズベルトに送付して意見を表明し、アメ
リカが「ドイツ第一主義」戦略から太平洋戦略へと移行するよう要請した。しかしながら
ルーズベルトは返信の中でこの要請への不快感を直ちに表明し、アメリカは戦略を転換し
ないことを強調した。軍の指揮官たちとのやりとりで彼が「最高司令官フランクリン・ルー
ズベルト」と署名するのは稀なことだったが、この時の返信にはそう記されていた。
http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/pdf/2014/07.pdf
ステイムソンは6月19日,ボレロ計画を支持する理由をしたためたFDRへの手紙を,英米首脳会談が行われている
ハイドバークに届けさせた。マーシャルが「名作(a masterpiece)」とほめたこの手紙を読むと,陸軍長官の対独戦に
対する並々ならぬ覚悟が伝わってくる。
…着実かつ敏速にして容赦のないボレロ作戦の実行は,ヒトラーの対ソ戦をくじく意味でも,ドイツを敗北させ
戦争を終わらせる意味においても,最も確実な方法(the surest road)である。ボレロ計画は…敵の心臓の中心部
(the center of our chief enemy's heart)に届く一番容易な方法でもある。…ボレロ実施における最大の危険は,
太平洋における日本軍の存在であったが,…最近の太平洋中央部での(アメリカ軍の)勝利がこの懸念を
取り除いた。…戦争中に,より良いグリップを求めて手につばを吐きかける(筆者注:手をはずして握り直す
という意味か)ことは非常に危険である。
http://dspace.bunka.ac.jp/dspace/bitstream/10457/1356/1/001032220_03.pdf >>813
>ディエップが撤退前提の作戦だと知らないとかもうね
8月19日早朝、6,086人(5000人のカナダ軍(カナダ第2歩兵師団[2])と1000人のアメリカ軍とイギリス軍)
が作戦を開始したが、ドイツ側は既に迎撃準備を整えており、連合軍をやすやすと上陸させて、
至近距離まで引き付けて攻撃の火蓋を切った。連合軍は、待ち構えていたドイツ軍の強力な反撃にさらされ、
狼狽して作戦の遂行どころではない大混乱に陥った。30両のチャーチル歩兵戦車の揚陸に成功したが、
27両がコンクリート防壁に阻まれ、大粒の砂利に覆われ斜度のある海岸で履帯ピンを折損し、行動不能になるものが続出した。
>作戦は防御が薄い北フランスのディエップに上陸、攻撃ののちに6時間で撤退することを目標とし、
>恒久的な橋頭堡の確保は考えられていなかった。 >>802
>ヨーロッパ優先も同じ事。
>上でも挙げたような事実を。実際の行動を見ていけば、ヨーロッパ優先なんてのが
>口先だけだと理解できる。
米軍は決してドイツ打倒第一主義を放棄したわけではない。けれども太平洋戦争の影響で、
ドイツ打倒優先主義を現実化させるのに二年を要した。
(ドイツ打倒優先とのことなら、まずソ連にDデイの期日を報告しなければならない。)
>>813
>ディエップが撤退前提の作戦だと知らないとかもうね
上陸作戦それ自体は物理的に可能であっても、太平洋戦争の影響で延期せざるを得なかったということ。
>30両のチャーチル歩兵戦車の揚陸に成功したが、 >>802
>一方ヨーロッパにはなるべく兵力を出したくない。特に地上戦なんてやりたくないので、
「出兵できない」のと「出兵したくない」とは違う。
>>813
>ディエップが撤退前提の作戦だと知らないとかもうね
米英がドイツ打倒第一主義を軍事目標としては放棄していなかったという証拠にはなるが、
逆に言えば太平洋戦争の影響で、実行はずっと延期せざるを得なかったということ。 >>812
兵力的に欧州が多いのは陸戦主体である分仕方ないけど、予算的にはわりといい勝負。
B-29と原爆を対日戦予算として組み込んで良ければ、太平洋戦線の方がより多額の予算を
投入されている。
>>813
撤退前提なのは知ってるよ。
ガダルの半分以下の兵力で橋頭堡なんて築ける訳ない、威力偵察なのは大前提だ。
それでも、海兵隊一個師団でも投入していればあそこまで惨敗する事はなかっただろうし
経験を積ませると言う意味では、海兵隊を投入するべきだっただろう。 >>818
太平洋戦線では陸軍そんなに使わないんだから、出兵する事はできたはずだよ。
その為の物資も兵站もある。
その気になればトーチをノルウエーに向ける事もできたし、実際それは検討されている。
より無難の極みな北アフリカにしたのは、やりたくなかったから。 >>818
>米英がドイツ打倒第一主義を軍事目標としては放棄していなかったという証拠にはなるが、
軍事目標と現実が食い違っている、これほ台湾の帰属問題もそうだ。
○池田国務大臣 それはそのときに、領土権はどうかという問題と、だれが支配しているかという
問題を区別しての御質問ならば、いまのようにはっきり答えます。だから、もしそういうように言って
おるとすれば、ここではっきり申し上げますが、台湾は中華民国政府が現に支配しておる、
そして日華条約はここに適用になる、こういう意味でございます。領土権はどうかといったら、これは、
日本が放棄しただけで、中華民国の領土権はカイロあるいはポツダム宣言にはそういうことを予定
してきめておりまするが、この規定は、われわれの調印したサンフランシスコ平和条約の規定とは違います。
われわれ平和条約によって日本の外交をやっていくのであります。これが私の考えであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04602290514017a.html >>818
太平洋戦争に動員したのは主に海軍力なんで大陸反攻に必要な陸軍兵力への影響なんてゼロだよ。
ガ島でもメインは海兵隊だしね。
何しろドイツ本土を直接攻撃するのに必要な兵力数は数十万単位なんだから動員も訓練も年単位でかかるのは当然。
ホント史実を知らない人は的ハズレなことしかかけないなぁ >>822
>何しろドイツ本土を直接攻撃するのに必要な兵力数は数十万単位なんだから動員も訓練も年単位でかかるのは当然。
?
1943年12月に連合国遠征軍最高司令官としてドワイト・アイゼンハワー陸軍大将、
1944年1月にはバーナード・モントゴメリー陸軍大将が本作戦の地上部隊最高司令官である第21軍集団司令官に任命された。
『オーバーロード作戦』実施を決定したのは、1943年12月の『テヘラン会談』だろう? >>822
>ホント史実を知らない人は的ハズレなことしかかけないなぁ
では1943年12月『テヘラン会談』の意義は何ですか? 何のための米英ソ会談だったのですか? なんの準備もなく、兵員や兵器を大量に動員できると思ってるのはゲーム脳というやつなんだろうか >>825
いやだから1943年12月から準備して翌年5月までにフランス上陸という、余裕たっぷりのD-Dayプロジェクトなんだが? まあD-Day抜きでもソ連は快進撃してたし、また米英がドイツ打倒を放棄すれば西ドイツもソ連圏入りしてたろうよ。 一九四五年一月一二日、すなわち第二次世界大戦におけるソ連軍の最後の冬季攻勢の
開始日に至るまで、東部ドイツの住民が赤軍の侵攻に対してどれほど不用意であったか
を知ると、いつも驚きもし震撼させられもする。ソ連を奇襲しても赤軍の侵攻はないだろう、
という考えが人びとの心に深く根を下しており、それがさらに何らかの「奇蹟的兵器」への
非合理的な希望によって増幅されていたにちがいない。同時に、すでに数年も続いていた
「計画的撤退」については、国防軍発表が一九四三年夏以降ほとんど毎日伝えられていた
にもかかわらず、この時点までの東部戦線移動の経過についてのほとんど信じられない
ほどの無知も確認される。一九四五年の一月とそれが直ちにもたらすであろう結果が
生じる以前に、東部戦線について現実に即した考えを持っていた者は、ごくわずかだった
に違いない。ソ連陸軍が千キロ以上も二十か月近くにわたって西方に前進した後では、
この圧倒的進軍がよりにもよってドイツ国境で阻止されうるであろうと考える、
いかなる理由もなかったのである。
「第二の罪 ドイツ人であることの重荷」(ラルフ・ジョルダーノ 白水社)P215、216 米軍主力がヨーロッパへ向けられている間、皇軍は大陸打通作戦でチンピラゴロツキをどつき回してた。
だから大陸打通作戦が遂行できたのはドイツのおかげ。大陸打通作戦の輝く栄光の3000キロ勝利行軍の裏には、
ドイツの悲しい犠牲があったわけで、ドイツの犠牲によって、大陸打通作戦をやらせて頂いた。ありがとうドイツ。 >>825
>なんの準備もなく、兵員や兵器を大量に動員できると思ってるのはゲーム脳
アウシュビッツとアインザッツグルッペンとゲシュタポの三点セットで用意周到に始めたナチ・バルバロッサw >>825
>なんの準備もなく、兵員や兵器を大量に動員できると思ってるのはゲーム脳
西部方面においてと同様に、ドイツ指導部は東部においても電撃的な攻撃と
勝利を見込んでいた。そのため、それに対応する数の捕虜が生じることになった。
東部経済本部部長だったヴィルヘルム・シューベルト陸軍中将の報告からは、
飢餓による捕虜の集団死亡が計画に入れられていたことが明らかになる。
各省の次官に宛てたこの報告は、征服されるべきソ連地域の農業搾取を扱った
ものだった。その中には一九四一年五月二日付けで次のように記されている。
「戦争の三年目(一九四一年から一九四二年にかけて)において全国防軍を
ロシアからの食料で養いうる場合のみ、戦争を継続しうる。この場合、
われわれが必要とするものをロシアから持ち出せば数千万の人間が餓死
することは間違いない。最も必要なのは油種子・油粕の確保と搬出であり、
穀物はその次だ。現存する脂肪と肉は軍が消費すると推定される。」
「第二の罪 ドイツ人であることの重荷」(ラルフ・ジョルダーノ 白水社)P201 >>825
一次大戦の例を見るに、一年あれば十分できるよね。 1年?
アメリカの参戦は17年4月。
で、パーシング率いるアメリカ外征軍が攻勢に本格的に参加したサン・ミッシェルの戦いが18年9月。
1年半でしかも戦車や飛行機はイギリス製やフランス製の借り物。
どの例を見て1年で十分と? この戦いは第二次世界大戦における初のドイツとアメリカの激突であったが、経験不足であった
アメリカ軍は多数の損害を被り、総崩れとなってファイド峠(Faid Pass)の西、80kmまで押し戻された。
このため、アメリカ軍は小規模部隊の指揮官まで入れ替えるなどの大規模な対策を行った。そのため、
アメリカ軍がその数週間後にドイツ軍と再戦した時、アメリカ軍はより効率的に行動することが可能となっていた。 >>833
>で、パーシング率いるアメリカ外征軍が攻勢に本格的に参加したサン・ミッシェルの戦いが18年9月。
たったの二ヶ月でドイツ降伏か、実にあっけない幕切れだったのうw
戦争:第一次世界大戦
年月日:1914年7月28日 - 1918年11月11日
場所:ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋
結果:連合国(協商国)の勝利 >>833
攻勢に参加してないのは、当初は守勢だったからでしょ。
18年9月以前のアメリカ軍の戦歴。
1917年
4月6日 参戦
5月 パーシングを司令官にアメリカ外征軍が編成される
6月 第1歩兵師団1万4000人がフランスに到着
10月 第1歩兵師団、ナンシーの戦闘で初陣を飾る
12月 年末までに五個師団をフランスに展開。第1・第2・第26・第42がヴェルダン付近。第41がトゥール
1918年
5月〜6月 ドイツ軍の春季攻勢に応戦。カンティニーの戦い・ベロ―の森の戦い・第二次マルヌ会戦など
5月 フランスに展開するアメリカ軍100万人を突破、半数は前線に配備
7月 初の攻勢作戦、アメルの戦いに参加
ほら、ちゃんと戦ってる。
一年と一ヶ月で100万人派遣できるんだよ。43年1月にアメリカ軍どうしてたよ?
戦車や飛行機も、フランスからエンジンの供給を特に頼まれたからだろ。
当時の航空機用エンジンはシリンダごとぶん回す豪快な仕様で、実用時間50時間とかだったから、
生産の一番のネックはエンジンだった。 >>836
数字を読めないんだね。単に100万運んだから戦えるとゲーム脳すぎるわな。
当時のイギリスとフランスの兵器生産があって初めて戦えた100万(実働ははるかに少ない)。
100万に連れてきました。だけじゃ戦えるわけがない。
だいたいWW2でその100万は大陸のドコにどうやって上陸させるんだ?
WW1みたいにフランスの港が使える状況ではないんだよ? >>837
港で荷運びの植民地軍兵士じゃないんだからよ、ちゃんと武装させた上で100万人送り込んでるぞ。
アメリカ外征軍の損害(戦死傷32万人)が18年9月以降の二ヶ月だけで出たとでも思っているのか?
戦ってるから損害が出るんだよ。
上陸させるなら計画の一つとしてあったようにトーチをノルウエーに向けりゃいい。
さすがにデンマーク案はキツ過ぎるからな。 >>837
>当時のイギリスとフランスの兵器生産があって初めて戦えた100万
朝鮮戦争の米軍だってそうだろう?
○林(百)委員 そうすると、朝鮮事変か擴大されても、六百五十億以上の費用は持たないという、
いかに擴大してもこれ以上日本は費用は持たないという答弁と私は解釈しますが、それでいいかどうか。
その点とそれからもう一つ、実は本日の新聞にも出ておるところでありますが、国防分担金にからまりまして、
米軍が最近発注する兵器が工場渡しになつておつて、米軍の照明弾二百二十九万四千発、ナパーム爆弾用
タンク十万二千個大阪機工へ注文しておる八十一ミリ迫撃砲四百八十九門、小松製作所及び大阪金属両社の
同砲弾六十二万五千四百発、豊和工業の銃身三千百九十ちよう、迫撃砲弾三十六万三千発、照明彈三万二千発
の入札が在日米軍の調達本部で行われて、
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0082/01306140082034a.html
○福井(勇)委員 前回私が佐々木説明員に説明を聞きました場合に、外国から終戦後入つた機種は、
兵器製造用のマザー・マシンとしてわずかに百二十一台しかないようであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0798/01502180798021c.html 一次大戦の時は参戦翌月に外征軍を編成、その翌月には早速一個師団送ってるのに、
二次の時はヨーロッパ戦域アメリカ軍ができるまで半年。送った兵も二個連隊。
太平洋戦線では、1942年8月に海兵隊一個師団がガダルカナルとツラギに上陸、
さらに10月には陸軍の第23師団、11月には第25師団を増援として派遣。
海軍は正規空母四隻(エンタープライズ・サラトガ・ワスプ・ホーネット)、
戦艦三隻(サウスダコタ・ワシントン・ノースカロライナ)を主力とする艦隊を出して支援。
内正規空母二隻(ワスプ・ホーネット)と戦艦二隻(ワシントン・ノースカロライナ)は
大西洋艦隊から引き抜いた。
同じ頃欧州戦線では、11月にトーチ作戦で三個師団と一個機甲師団が北アフリカに上陸。
海軍は正規空母一隻(レンジャー)と戦艦一隻(マサチューセッツ)を主力とする
艦隊を出して支援。
どの辺が対独戦優先されてんだよ? 現実を見ろ。 >>836
>43年1月にアメリカ軍どうしてたよ?
太平洋戦争で米軍が主導権を握る時期が1943年12月以降で、独ソ戦の赤軍と比べても遅いんだが?
日本のオーストラリア空襲は、太平洋戦争中の1942年2月から翌1943年11月までの期間にわたり、
連合国の一国であるオーストラリア本土、地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶が、
大日本帝国海軍および大日本帝国陸軍の航空機により行われた一連の空襲の事を指す。 >>840
>どの辺が対独戦優先されてんだよ? 現実を見ろ。
1943年12月以降の米軍はドイツ打倒第一主義を遂行すべく、ヨーロッパへ向けて大規模派兵を進めた。
>テヘラン会議声明から、日本は、連合国軍は欧州に集中し、
>シナを放棄して日本軍の機甲・地上部隊に任せたと判断するだろう。
そのおかげで皇軍は大陸打通作戦で大勝利して、太平洋戦争の大敗北を吹き飛ばしてしまった。 >>838
だからそれは守勢のケース。すでに欧州に幾重もの塹壕が張り巡らされた状況に兵士を送るのと
ここでの仮定である「すでに大陸が占領されたあとに上陸反攻作戦を実施する」までの期間が同じなわけないだろ。
しかもダンケルクで敗退して兵器も大量に失っているイギリスや占領されたフランスに兵器を融通させることもできない。
無い袖は振れないだけ >>843
は?
レンドリースでソ連はもちろんイギリスにも大量に兵器供給してるけど? >>838
で、ノルウェーに上陸して何をしろと?イタリアへの牽制にすらなりやしない
永世中立国のスウェーデンでも占領して国際的に批判されるかw >>845
そんなもんドイツ本土攻撃の足がかりに決まってんじゃん。
あとはPQ船団の安全確保。
ところでスウェーデンが永世中立国とかどこの世界線の話?
>>846
むしろ武器貸与法で参戦前から。 >>847
へー武器貸与法でドイツ軍に太刀打ちできるような高性能兵器を送っていたとは知らんだ
どこの火葬戦記だ?w
ああ送ったけど性能悪すぎて訓練にしか使用できなかったものはあったかw
ノルウェーを本土攻撃の足がかりとか世界地図を見たことがないとw >>848
知らなかったのなら教えてあげよう。
二次大戦で英軍が使った銃弾の1/4は武器貸与法でアメリカから供与された物だ。
キミこそ世界地図見た事ないの?
オスロ-ベルリン間は直線距離で850キロよ。 >>849
世界地図を見たこと無いのが確定したね
海があることも知らないで定規で測って850キロ(どやぁ)だとさ
キミはドーバーを川と同じと言ってたスターリンと同じ認識なわけだね
だったらノルウェーなんて回り道せずにイギリスから歩いてドーバーでも渡れば?
>二次大戦で英軍が使った銃弾の1/4は武器貸与法
そんなのは知った上での話しなんだが・・・
あと通年の話なんてしてないから。
何年の話かも理解してないの?それとも誤魔化してるの?
それと日本語が通じないようだからもう一度書いてあげようか?
いつ「ドイツ軍に太刀打ちできるような高性能兵器を送っていた」の?
逃げるなよ >>850
そんな事言ったら北アフリカだって海の向こうじゃん。シリアから回っていくのか?
ノルウェーに空軍基地を設置できれば、史実では苦労したドイツ東部〜南部への空襲が
ずっとやりやすくなるぞ。
戦闘機の護衛も付けられるしな。
Uボートの活動も大きく制限できる。
スウェーデンからの鉄鉱石輸入を絶てばドイツの兵器生産は重大な影響をきたす。
ぜんぶトーチノルウェー案で提示されていた利点だ。
誰も高性能兵器なんて一言も言ってないだろ。
銃弾は兵器の基本だぞ。これがないと戦えない。 それにしても酷い話だわな。
史実で少数のDAK相手に凹られて「戦えんのか?」とルーズベルトに悲観されたアメリカ軍に
史実よりも早い時期により強力なドイツ軍とより準備不足のアメリカ軍を戦わせようというんだから。
大敗を喫して米世論が反戦ムード一色になるのが目に見えるなw >>851
へー、人が>>845でスウェーデンを挙げてるのを否定したくせに
>>851では掌を返してスウェーデンとドイツを断つなんてどの口が言い出すんだ。酷い二枚舌だな
>>851
銃弾だけでは戦えない。当たり前の話だ。
イギリスが使えないといって実戦仕様しなかったP-39で戦わせるのか?低空メインのロシア戦線でもないのに?
だから高性能な兵器だと言ってるんだよ。特に人命尊重のアメリカなんだから。 >>853
根本的に認識が間違ってるわな。
対独戦優先と欧州大陸上陸は=ではない。
勝利できる戦略がなければ早々に上陸などできるはずがない。
ゲームみたいにリセットしてやり直しなんては無理なんだよ。
あの多大な損害を蒙った米英の戦略爆撃すらない状況で欧州上陸などどんな愚将でもするまいよ >>854
スウェーデンの鉄鉱石はバルト海をドイツの船で輸送してるから、それ沈めても何の問題もなかろう。
スウェーデンは永世中立国でもなんでもないし、交戦国と貿易している船ならスウェーデン船を
沈めるのだってアリといえばアリ。
無制限潜水艦作戦の飛行機版だな。ドイツはやってたぞ。
イギリスに送る兵器なんだから、アメリカの人命尊重とか関係なかろ。
銃弾がアメリカから来れば、その分のリソースを他の生産に振り向けられるしな。
それに高性能兵器じゃなくても、たとえば1940年9月の米英駆逐艦譲渡協定で供与された
タウン級駆逐艦にはUボートを撃沈した艦も多数ある。
爆薬満載してドイツ占領下のサンナゼールのドックに突入した艦もあったしな。 >>855
別に上陸だけに限定してもないけどな。
対独戦優先を言うなら大西洋艦隊から戦力引き抜くなって話だし、
その大損害をこうむった戦略爆撃隊が新型機要求してたんだから、
B-29を欧州戦線にも回してやればよかったんだ。
トーチをノルウエーに向ける事自体はアメリカもイギリスも勝算無しとはしていないぞ。
ただ損害が増えるのを嫌っただけ。ソ連に任せとく方がお得だからね。 >>850
> ドイツ軍に太刀打ちできるような高性能兵器
www
戦闘開始以来、九月二十七日までに、一六〇三機が撃墜され、一〇二八機が損傷をうけた。
その総数二六三一機は、戦闘開始のときに任務についた数と、ほとんど同数である。
小型機――急降下爆撃機や陸軍直協機――の損失もバカにならなかったが、より高価で大型の
ハインケルHe177やユンカースJu88のたえまのない減少は、補充生産が最早追いつかぬほどの打撃だった。
しかも撃墜された大部分は、ソ連上空であったので、ベテランの搭乗員の損失は、まことに深刻な打撃であった。
ドイツ空軍の戦闘力の出血状態は、しだいにひどくなっていったのである。
ドイツ空軍の飛行機開発・生産担当機関の責任者であるエルンスト・ウーデット上級大将にとって、
ソ連上空での大きな損失は、自らの破滅を意味した。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/EU2/lf6.htm
↑
1941年11月、ルフトバッフェの非力さに衝撃を受け、その設計者は自殺してしまった!! >>850
>キミはドーバーを川と同じと言ってたスターリンと同じ認識なわけだね
ドイツ人はソ連軍に感謝してるのに、何で日本人はソ連軍に感謝しないんですか?
ガウク大統領は、次のように強調しているー
「1945年5月8日、我々は解放された。我々を解放したのは、ソ連の諸民族の代表者達だったが、そればかりではない。
それゆえ、我々は、感謝と尊敬の念を示さなくてはならない。戦後ドイツが、ベルリンの壁により長い間分断されたという
事実でさえも、そうした気持ちに影響を与えるべきではない。
一部の観測筋は疑っているようだが、私には、ロシアにもロシア人に対しても問題はない。」
http://jp.sputniknews.com/europe/20150502/284616.html >>850
> ドイツ軍に太刀打ちできるような高性能兵器
???
『・・・1942年から43年の間、P−40航空隊は北アフリカ、シシリー、イタリアの航空戦で鍵となる役割を果たした。
ある日の彼らの任務は爆撃と機銃掃射であり、別の日は中爆の戦闘護衛であった。
その欠点にもかかわらず、この種の航空戦においてカーチスP−40は優れた兵器であった。
それは決して高速で高高度を飛行できる機体ではなかったが、タフで、信頼でき、重武装で、相当量の爆弾を携行でき、そして中国や太平洋と異なり、交戦した敵機よりもマニューバブルであった。
P−40パイロット達は、より最新のライトニングやサンダーボルトやマスタングで飛びたいと願っただろうが、ウォーホークはその時点での唯一の米国戦闘機であり、彼らはそれでベストを尽くしたのだった。・・・』
(カール・モールスワース、MTOのP−40ウォーホークエース(オスプレイ社刊)より引用)
http://www.geocities.jp/yoyuso/p40/p40gall.html >>850
> ドイツ軍に太刀打ちできるような高性能兵器
ナチ・バルバロッサが、ソ連の何に退けられたのかを知らないのか?
「1941年の秋、モスクワ攻防戦の一番危機的な時期にゾルゲが獲得に成功した情報のおかげで、
ソ連指導部は極東、シベリア、中央アジアにいた師団の一部をモスクワへと配置換えする決定をとることができました。
この師団らが私たちの首都へ迫ろうとしていたドイツ軍を撃退する上で計り知れない重要な役割を演じたのです。」
https://jp.sputniknews.com/russia/20151003988176/
赤軍の精鋭部隊が極東に貼り付けられていなかったら、ソ連国境突破も出来なかったろう? 『ドイツ打倒第一主義』に関する二つの誤解。
1 ドイツ軍が米国を脅かしていた
2 米国は中国を助けるために戦争した
空母機動部隊を持たないドイツ軍が米国を脅かすことなど無いし、また米中関係が最重要だったわけではない。
1 まず太平洋戦争で日本軍に勝利すること
2 日中戦争はなるべくスルーして欧州派兵 師団捜索隊用の戦車である軽装甲車と
戦車部隊用の捜索戦車である軽戦車は一つにまとめろよと思わなくもないw テケは更新元が元だからテケでも十分進化してるし、兵科も違うから戦車は装備し辛いのもわかるけどね
中戦車の大型化が急速に進む40年代以降はもう軽戦車は戦車戦の主力になりえず、連絡用とかのごく少数配備になるだろうから次期軽装甲車の開発計画とまとめられる可能性はあるけど テケは砲塔を撤去し自走迫撃砲にするを可とす
なんて思ったり
でもハ号以上は勿体ないよね〜、ってのを思うとやっぱりベースはテケかな
様々な派生型も作られてるしね テケ作る前の12年の兵器開発方針で
対戦車砲
・牽引だと機動性も生存性も辛い
・戦車が敵の不意を突くように運用される以上対戦車砲はその不意を受けてからの配置になるんで機動性大事
騎兵
・今後対戦車砲の機動運用が行われると偵察に行った先で対戦車砲に遭遇する可能性が高まる
・突撃しないので限定的に対戦車砲に耐えられる防御があると偵察しやすい
・対戦車砲程度の火力があると、対戦車砲の機動運用にも使える
・車体に対戦車砲を載せた(ソト的な案)だと左右に撃てないので使いにくいだろう
歩兵
・軽装甲車はあちこちに使われるので弾薬運搬に使えない
・居なくならない弾薬運搬専用車作ってくれ
・観測とかにも使えるやつ必要だと思う
テケ、テレ、ソダ、ソトはこの時にだいたい決まったぽいけど
肝心のテケが装甲も武装ものぞみに届いてないのはサイズや軽戦車との整合性なんだろうね 正直日本軍戦車内で理想の騎兵戦車なのはケニなんだよなぁ…
同軸機銃もあって時速50km/h(もちろんハ号の例からいって実際はもっと出せた筈)の快速
狭いとはいえ二人用砲塔で偵察用にも可
まぁまぁ軽い ハ号をもうちょっとゆったり作っとけば色々対応できたんよ
ってか火砲もうすこしシステマチックに作れよ ハ号後継が全然アレなんだから
仮にハ号に余裕があっても、初期状態から何ら手を加えずだったんじゃねえの ハ号は八九式のエンジンのままで40km/hオーバーがそもそもの目的なのだから、あれ以上ゆったり作るのは無理では >>868
特殊牽引車の略でTK車。
偵察警戒車でテケ車と覚えるんだ。 テケって、九八式三十七粍戦車砲積んでる後期型の砲装タイプならそれなりに自走速射砲として使えそうなんだが
自走37mm砲としては、砲手と指揮と装填手を1人で兼ねるしかない余裕の無さが癌だわな >>875
量産されてないし、時期的にはもはや実質劣化チハ改みたいなもんで魅力がないから
ケヌやケニ改とは違って中途半端に新規開発だから省力兵器好きからも見向きもされにくい とあるアニメの再放送で「チトさん(猫の名前)はネズミは卒業したって言ってました」というセリフがあった。
マウスを卒業してしまうようなチトとか最強だな 日本軍に理想だったのはBT-7Mみたいな戦車なんだよなぁ
日本戦車の中で敢えて言うならチホ車をもうちょい改良した感じか 理想は・・・たぶんBTとT-34の中間のA20とかA32だと思う 国軍戦車部隊にとって何が理想かは
いつの時点か、史実世界での話か、if世界での話かで変わるから分からん ケホ車は企画した時点でチヘの劣化版でしかないし
多分それ故に開発後回しにされ続けてしまったのだろう
逆に言うと1942年当時の技術水準でさえ自重9t、全備10tの枠内ではあの程度ということでもある
自重1t増しで設計されていれば一式四十七粍戦車砲(「短」でない方)を載せられそうな気もするし
それなら高速なチハ改みたいなものでそれなりに開発&生産の目がありそうな気もするが
多分全備10tが縛りだったんだろうなあ 47mm短の初速は740m/sか
47mm速射砲の試験結果を見るに1000m超えても50mm弱ぐらい抜けそうだから
シャーマンの近距離側面やM3の正面には歯が立つんだな
37mmだと初速上げた試験砲でもあんまし大した数字じゃないから、47mm化は正しいが
だったら今あるハ号に短47を乗せられないのかねとか考えちゃうよな 日本戦車はシーソー式のサスだから
前後の重量バランスがある程度均等でないと困る(多少なら転輪の場所で補える)
これが火砲を車体中心でエンジン軽くなると後ろに伸ばさないとバランス取れないし
前面装甲や変速機がごつくなれば同様に後ろに車体伸ばさないといけない
結果どうしても車体全長を圧縮させにくく、これが無体に車体を重くする要因になってる気がする 短47mmと一式47mmの弾薬ってそれぞれ共用だっけ? ケニとBが98式軽戦車として採用されて、
S17年頃に47mm戦車砲を搭載して二式軽戦車として採用、
そんなことを夢想してみる。
そして模型を作ってみたい。 当時の理想的な軽戦車だな
47mm戦車砲と同軸機銃という武装のチョイス、8トン程度の重量、50km/h弱の快速 >>885
ああ、だからチリ車がティーガー2並みに長い車体になるのか 短47mmがかなり軽量で優秀ってどっかでみた覚えがあるんだが、重量について知っている方プリーズ ハ号は他国みたいに車体使ってオープントップの対戦車自走砲作ればとは誰でも考えるだろう
乗せる砲が足りないんだが まんま短47積んだ試製自走砲のホルだかを計画してるやん
もっとも末期なもんで例のごとく砲も車体も試製の段階で終わってるけど 当時の日本の戦車砲で軽くするために威力を落とすような事したものが優秀とか言っちゃうのはダメだと思うよ いやしちゃいけないとかその見方は偏狭だと思うぞ
工業製品はまず重量やコストと性能がバランスされていないといけないわけで
敵戦車の側面を抜けるならある重量で歓迎されるものが、例えば長57mmみたいに重いけど正面貫徹には至らない、みたいなものは手放しで喜べないわけで
現在の視点で当時の状況を鑑みずにやれタイガーだの持ち上げる向きには辟易としていたなあ
優秀な兵器って、必ずでかくて強いものなのかねえ その辺は治金技術の差もあるからな・・・・
英の6ポンド砲は試製57mmを上回ってるし・・
ロシアのは長砲身で高価だけど威力は比べ物にならん位だし 船のエンジンとか、あえてデチューンした物を積んだりするしな。 >>885 >>889
それは考えすぎ
チハの全長が長いのは超壕性能の確保とエンジン長さのため
チヘ・チヌがあまり大きくなってないのはエンジンルーム長が似たようなもので済んでいるせい
チリが長いのは、あの後部にびっしりエンジン詰まってるから
バランス取りが必要なほどノーズヘビーなら後部の装甲厚増やしたり最悪ウエイト入れて対応する だから4式戦車では7つめの転輪を最前列に置いてノーズを支えてるわけよ
その分転輪数が増えて全長も伸びてるわけだが
面白いことにエンジンは同時期のドイツ戦車とかと比べると後方にハミ出てない
これはエンジン中心が第七と第六転輪の中間に来るから(ドイツ戦車だと最終転輪の上に来る)
ボギーで均等に2つの転輪に荷重をかけたかったんだろうが
手っ取り早くエンジンを後ろにはみ出すことすらしてないのに錘なんか置ける訳もない
なおルノーFTはこうだから、オーバーハングにエンジンをはみ出させること自体は既知
ttp://3.bp.blogspot.com/_BT2u4Ky7L-w/S6gA8QcbbuI/AAAAAAAAAyY/04xJ3H2j1NY/s1600/RenaultFT-17TankInternalLayoutDiagram.jpg 四式のサスは片側2本のコイルバネ式で
前からボギー・ボギー(ここまで前側バネの担当)/前ボギーとリンクさせた単輪・ボギー(後側バネの担当)
三菱図面見る限り量産型とされる車体では誘導輪軸付近までエンジンがあって冷却関係の補機は誘導輪軸より後ろまで出てるよ
計画戦車は知らんけどチト・チリともに砲塔リング位置の調節でバランス取ってる範囲で
かといって車体前方も変速機が占めてるし
殊更にバランス取りのために車体を伸ばしてるとは見えないんだがなあ
チハなんかは超壕性確保のために接地長を稼がずを得なかった関係で誘導輪がだいぶうしろに出てるけど
あれをシーソーゆえのバランス取りと言うのは苦しいかと ちなみにチハ・チニの場合はもっと短くすると
要求性能を満たすためには尾体が必要になる模様(チニはそうなった)なんだが
そこまで拘った超壕性能、どこまで役に立ったのか、戦記モノ読んだりした程度じゃわからんのがもやもやする
教えてエロい人 満ソ国境陣地を突破するのには超壕性能は要ると踏んだんじゃなかろか。なお八月の嵐。 チハのサスペンションの仕組みがよくわかる動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=8ZVAjZrDVtA
シーソー式サスペンションはこのスレの人には常識でしょうが、
戦車初心者の自分はこれで仕組みが理解できた
旧式なイメージだったけどクリスティー式などより凝った仕組みなんですね ケニBのサスペンションってどんな機構で、
実用性はあったのだろうか? >>905
非常に性能が良くて褒めこそすれど貶す評価は無いんだよなぁ、チハのサスって 現場で破損したら修理大変そうだけど、よく考えたら戦車の足回りって全部そうか >>905
大重量の車輌に対してはどうだったのかなこれ、実際チリ車では色々と足回りの案はあったらしいが 満州陸軍に戦車ってあったの?
南京政府には日本が有償譲渡してたみたいだけど >>910
メインスプリング1本で連結したボギー2個を1ユニットとすると
1ユニット自体の限界はあまり高くないところにあるだろうね
ただ負荷に応じてメインスプリングの断面積を増すかユニット自体を複数にすることで
ある程度の重量まで対処はできる、というか当時の実用上は他の方式に対して特に限界が低いことはないと思う
牽引車では早くからメインスプリングが2本あるタイプを採用してるし、チニ・チト・チリも片側2本タイプ
断面積増というかスプリング自体を太くするのが限界だったとしてもユニット数を3、4と増やしていくことで更なる大重量対処はまあ可能だろう
ただ、これボギーの数というかユニット数が多くなっていくと構造的に複雑になってしまって
結局他のボギー式と比べてもメリットが少なくなっていくんだよな チリチトスレに書き込んだけど、こちらの方が詳しい人に
教えてもらえそうなので、
一式装甲兵車ホキは日本陸軍では珍しく大型転輪だけど、
サスペンションはどんな機構なのだろうか?
あとケニBとは関連はないのたろうか? 写真とか写真起こし?の側面図とか見た限りの印象だと
ケニみたいな内装型シーソー式で通常ならボギー付けるところを大転輪1個で済ませてるように見えるんだけど
どんなもんだろうね
ケニBも同じタイプ(内装シーソー式大転輪仕様とでも言うべきか)という説もあるね
というわけで同じく詳しい人plz 大型転輪x4で後輪駆動てケニBと同じか、何らかの関連はあるのかもな 統制発動機ってドイツから工作機械を取り寄せて生産する予定が、独ソ戦勃発で国産でガマンしたら、長い期間合格率が著しく低い状態が続いたって話あるじゃん
あれって空冷だけの話し? 水冷の統制は輸入したボッシュ製燃料噴射装置のストックがあったので問題なく動いた
とりわけ九八式6トン牽引車は信頼性高く評価されてるからな 空冷(戦車むけ)が国産しか使わせて貰えなかったのは
優先度が戦車よりも牽引車の方が高かったから?
それとも三菱かいすゞかの企業的な違い? 実は逆で、優先度が高いからこそ国産に切り替えられた説を思いついたので提唱してみる
輸入品は在庫使い切っちゃったら終わりだけど、国産品なら供給可能だし(安定供給できるとは言ってない)
支援対象たる歩兵や輜重が馬力人力なのに砲だけ機動化してもメリットは少ないし、そう考えれば牽引車の数はそんなにいらなくなる 火砲は蛙跳び前進しながら歩兵を追いかけるものなんで移動速度は極限まで速くて良いし
そもそも人や馬で動かせないから牽引車なのな
そして輜重の機械化は結構進んでいるのであるよ。なんだかんだで万単位でトラック作り出してるからね まぁ企業的な違いだね(当時の社名はいすゞじゃないけどね。当時はまだトラックに付けた名前。企業はヂーゼル自動車工業といって今の日野といすゞのもとになった企業)
輸入自体が当座の処置で、本来は共同出資の企業で燃料噴射装置をライセンス生産する予定だったから
統制発動機で先行してたから輸入でしのぐことになったのよ、そして情勢がきな臭くなって一旦途絶えてしまうと。
統制発動機の設計自体、ヂーゼル自動車工業が主体で開発
というかトラック用のディーゼルが当時の日本にしては性能・耐久性共に優秀だった
設計技術全般でヂーゼル自動車工業が上回っていたと言える
三菱が車両用のディーゼルエンジンの技術を高めることができるのは、統制発動機の生産で経験を積んで、そしてそれのボアストロークを拡大した統制四式以降
単純比較はよくないけど、凄い簡単に言うと、チハに積まれた三菱・ザウラー式の4分の1の排気量で半分の出力のエンジンが作れた 直噴を綺麗に燃やすのは難しいからね
当時じゃ解析も難しいから手に負えなくて放り出すしか無かったわけであるよ
統制は予燃式という技術的には退化というか安全策に振ったものだから
馬力も燃費も理屈的には褒められないのだが
その褒められない理屈上の性能よりも、まともに回らない直噴が劣ったということである ザウラー式も本来のスペックはたかだか200馬力なんで、排気量の割にお世辞にも褒められたものじゃないしね
当時のしょぼい技術でどれが一番マシだったとかいう話であるよ
そん中でDA40などの系統が目に止まったということだね
昭和14年採用のくせにその系列が昭和57年まで、つまり半世紀弱使われるという
(遥かにレベルが違う話だが)、ソ連のV-2の系統が長く使われた様に、基礎設計は当時の日本としては優秀だった 三菱にせよ自動車工業に せよ部品は輸入品でないとダメダメだったと >>923
>というかトラック用のディーゼルが当時の日本にしては性能・耐久性共に優秀だった
>設計技術全般でヂーゼル自動車工業が上回っていたと言える
軽自動車は欧米では貧乏臭いと不人気で、97式中戦車チハもかなりのところ過少評価される。
しかしながら大陸打通作戦の栄光輝く3000キロ勝利行軍は、 97式中戦車チハの本当の実力を体現している。 二式砲戦車がチハの代わりに1937年に完成していれば・・・と思ったことはある
優秀な子なのに
日本版W号戦車F1だろ 太平洋戦線では1942年まではチハでもなんとかなったからなぁ…山砲の改修になに手間取ってんのって気はするが。
37年にチハと同時に作らなかった事が大問題なのはホロ車だと思う。開発してれば間違いなく出来てたし、この時期に歩兵支援用15cm自走砲が有用だったのは国を問わない。 支那事変前期に野戦重砲兵第12連隊に従軍されてた方の投稿された戦記を読んだことがあるんだけど、三八式十五榴は、パチンコ玉を千発詰めた砲弾を撃てるんだが、信管を最短にして、発射後に起爆させて中国兵の夜襲を撃退したんだと
なおこの時の重砲兵12連隊の護衛装備は鹵獲小銃が数丁あるのみで殆ど丸腰、ほほ詰みだった
この窮地を救ったというわけだ
携行弾が無いんで一発だけ撃って、この世の終わりかというぐらいの壮絶な弾けっぷりだったと
すると中国軍の突撃が止んだ
一晩明けると粉砕された百人の中国兵の死体が転がってたそうな
腐っても野戦重砲は凄まじいんだなと思った
ちなみにベトナム戦争でも、シェリダンが152mm XM625(キャニスターかフレシェット)弾を二発射撃したところ、125名のベトナム兵が死亡
一瞬で一個中隊の突撃を粉砕
あまりにも壮絶すぎる チハやホイは「戦車」で機甲科の発案だけど
ホロはどっちかというと砲兵の発案で、そうなると1式10糎・7糎半自走砲で間に合うんだよ
4式として作ったときは、旧式砲に旧型化した車体の活用だから、そりゃお手軽に作れたけど
車体がお手軽になるのは1式戦車系統が出てくるまでは無理なわけで
95式軽戦車や89式戦車すら頭数として必要だった大戦中盤までの日本軍には難しい話よな ホロより密閉式旋回砲塔に詰めたら吉
散弾銃みたいにスムースボアでペラペラの砲身でも拵えて各戦車中隊につき1両配備がいいと思うわ
子弾ばら撒いてくる系が対散兵近接戦闘では何よりも畜生過ぎる兵器
フィリピンのジャングル戦で第2師団にこれがあったら、アチョーとバズーカ担いで戦車狩りにくる米兵や下痢ラども挽肉にしてやれたのに 野戦重砲クラスの弾を撃つけど、ペラペラの滑腔砲で巨大散弾銃として扱う
まさに戦車部隊の用心棒
ガダルカナル島での一木支隊の生き残りで米軍のM3キャニスター弾を目の当たりにした兵士「伏せてても当たるんですよ」
1両で100人を蜂の巣に出来れば、コストなんて全然ペイ出来るさ
まだ弾除けに黒人を突っ込ませてないから、白人がみるみる減っていき、本国の政治家が震える
ワンチャン厭戦機運も高まる 榴散弾なんか大体の砲に用意されてるもんで
もちろん野砲や山砲にもあって、そっちでも効果は変わらんのよ 榴散弾は、本来3〜5千メートルでの射撃を想定だからね
砲口前射撃では、キャニスター弾に及ぶべくもないかもね
三八式十五榴とて榴散弾だから、まだまだ歩兵ミンチにできる余地はあった
とは言っても、ショットガンとして使うなら尚更、野砲や山砲の方が向いてたね
失敬 榴散弾 (3千メートル) 効力界
野砲 200m×20m
山砲 150m×15m
十五榴 200m×25m
十五加 400m×35m
このように、同じ弾(十五加と十五榴は厳密には違うが)でも、山砲野砲の様に初速が違うと威力がガタ落ちする
これは落角の問題でもあり、また存速が速ければ炸裂後の子弾の速度にも乗されるからだ
つまり高初速で少量の子弾をばら撒くのが効力範囲を稼げる
つまるところ、高初速キャニスター弾だ
そもそも榴散弾の落角の話はないし、初速は高い
まさに鬼畜
戦車の120mm滑腔砲でショットガン
https://youtu.be/_ObgfpNhmC0
https://youtu.be/M1Px6tD0VTI
二つ目の最後が壮絶過ぎる
これがM3のキャニスターが驚異的な理由でもある ホイは「主力戦車の車体と共通にする」方針も悪影響与えてるんじゃないかね
当時の上層部は意地でもチハを主力にしたくなかったみたいだし
チホ完成まで待て、チヘ完成まで待て…とやってる間に無価値になった印象 まあでも結果的に良かったかもね
チヘ車体なんて装甲37mm厚で流体ギアボックス?装備の誰得仕様だし
結局ホイ車から逆輸入する事になったけど、明らかにこっちの方が良い 溶接がキモだろうね
あれだけでフレーム重量大幅削減
エンジンは170hpで当面は我慢にせよ、装甲増やしても重量増加分は吸収できる
チヘの自重15.2tでチハ改の14.8tから0.4tしか増えてない
0.4tは車体延長分と考えて差し支えないし 溶接できりゃ、山砲でも装甲でもお好きなのをどうぞって感じだろうねぇ
まあ平面構成にしたのも大きいんだろうけど チハたんは57mm加農にすべきでしょ
戦車の起源をたどれば57mm加農に汁
近距離はショットガンとして使う
そういや57mm QF 6ポンド戦車砲にも後半フレシェットが追加されてるしな
あまり使われたイメージないが 57mm榴散弾を発射する平射砲ってのは砲兵戦術後述録に歩兵用火砲として挙げられてるから
そっち方向で発想はあったんだろうけど、歩兵用火砲が70mm大隊砲になった結果重戦車も70mm砲だからねえ
仮に大隊砲が57mm高初速(70mm歩兵砲と大同小異の図体で可能な程度)で作られたとしたら、チハやその流れであったかもな ベーラー砲 da47/32が通常の47mm対戦車砲の半分の重量ぐらいで、軽量砲架であることを鑑みても、砲身重量は一般的47mm対戦車砲の4割程度と見た
日本側で砲身(閉鎖機込み)重量が調べ易いものだと、37mm狙撃砲で48kgで37mm対戦車砲の75kgの6割強の重量
28〜32口径だと45口径クラスの500〜600m/s級の火砲は、重量が700m/s以上の高初速砲のだいたい6割ぐらいに落ち着く
ここでは中初速砲と仮定義しよう
とすると57mmで初速500〜600m/s級の火砲は、高初速の試製57mm戦車砲の238kgの6割がけぐらいだろう。
つまりだいたい一式47mm戦車砲の154.3kgと同じぐらいの重量に収まる
つまるところ、高初速の47mm砲と中初速の57mm砲はだいたいイコールであると見た >>945
文字を入れる場所をミスった
お陰で文書がグジャグジャに
「45口径クラスの」の場所は、700m/s以上の、の前に入る
酔うとダメだな >>929
その時期だと重量制限に対する考えがきついし、
主砲も57mmで十分とされてたからチハの代わりにというのは無理 そもそもその時期は溶接が未熟だったから無理を承知なのでは?
溶接で大幅な重量削減無しにはホイは成り立ちまへんで
ただ対歩兵では57mmの方が有利なんよね
火砲制圧には75mmの方がいいけど、57mmは手数も増えて低速行進射も出来る
目標に敵砲兵陣地も含めるなら、という事ではじめて75mmの理由が出てくる
当時の中戦車に求められる要求だと、溶接があればそれが重量削減にのみ充てられて、軽量なチハが出来上がるだけなんじゃね
それはそれでだいぶ歓迎されるが
特に負荷が減れば足回りの信頼性は遥かに上がる まぁ敢えて武装面で付すものがあるとするなら同軸機銃とかですわな
チホ・ケニで実装
幅を取るんで砲塔がでかくなり重量化、溶接で軽量化した分で吸収、って感じかと
あと一般に言われる同軸と肩当ては並存不可だったから、ってのは昔の通説。
むしろ同軸+肩当てはチハのころは一般的だった
逆に肩当て出来ない大型砲だから同軸機銃の操作が遅くなるので簪式が検討されたという事例の方すらあるので
単にスペースの問題(→からの重量増加) >>949
…どうしょうもない妄想なんだけど、アフリカの砂漠の戦いで
チハとアハトアハトが当たった場合、榴弾なかった2pound砲と
違い57mmなら制圧出来たのかな?ある場合、英軍に必要だったのは
砲身後座長250mm、全備重量170kgの九七式五糎七戦車砲だった、とかw 図体のでかい高射砲を同軸機銃で制圧できない時点で榴弾の問題じゃねえだろ >>951
軍師()ごっこをするつもりは無いが、砲兵は目を奪うに限る
ありったけの白リン弾を敵砲兵陣地に打ち込むしかない
火砲を榴弾で制圧するのって、凄い所要弾数がいるのよ
五里霧中に紛れる方が遥かに勝機がある
辻ーんも述べてるが、敵の観測射撃困難という意味で夜襲はまだ有効だったと考えていた
(問題は無観測射撃でボコボコにしてやられるんだけど)
考え方としては間違ってなくて(?)、榴弾の至近弾1発で死ぬ歩兵と数発の直撃弾でも場合によっちゃ普通に砲塔だけ回して撃ってくる戦車との違いで
基本的に対戦車戦闘は直接照準、目を奪われたらめくら射撃では当たらない
こと歩兵と違って優秀なので
そもそもが英軍の準備射撃の不徹底にあると思われ
57mm戦車砲を装備していたとしても、敵88mm砲にまともに身を晒していてはどのみち英軍戦車隊に命は無かったと思う
ただし史実より善戦はしたかなぁ
88mmの発砲開始距離は7.92mmモーゼルの有効射程外からだったんで、英軍戦車隊は距離詰めないと対抗手段無かった
その点57mmがあれば砲撃戦を行えたし、支那事変兵器萬録にも戦車隊が対砲兵の砲撃戦で「絶大」な威力を発揮をしたと評されている
所謂自走砲的な性格も有していたわけだ つまりドイツ軍の火砲の目を奪っている間に前進
肉薄でありったけの榴弾を撃ち込んで制圧
どっちか欠けても駄目
んで、どちらかというとドイツ軍砲兵陣地を無力化出来なかった方が7割敗因
ぶっちゃけドイツ軍砲兵陣地に肉薄出来ていれば、仮に2ポンドだろうと手数で圧倒できる英軍戦車隊が多数直撃弾浴びせて勝ちだった
じゃあ戦車砲何でもいいかって、そこまでは言わんけどもね そりゃどんな攻撃も効かない装甲が実現できるなら、極論非武装でも構わんのよ
車体で轢いていけばいい
でも現実そんなことなくて、むしろ戦車の装甲厚の制限より対戦車砲の貫徹力のほうが高くできるし、しょせん戦車はかられる立場だったと思う
だからこそ二式砲戦車みたいに師団砲兵が使ってるタマ欲しくなるよねって話じゃないの >>951
そういや完全に忘れてたけど、チハが攻撃するなら、アハトアハト以前に無数のラ式37mmに逝かされまっせ…
幾ら何でも流石にマトが多過ぎる問題 バレンタインたんやマチルダたんに
五糎七戦車砲積んで(;´Д`)ハァハァ
したかったんだよみなまで言わせるなよう!!!
それにしてもここまで狭いと良く2ポンド砲も
入れられたな、と思う。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2b/Loading_Valentine_tank_2_pdr_gun_IWM_E_9766.jpg
これで戦車戦すると凄い拷問にならね? チハの照準目盛は2000mでな
英軍における7.92mmベサの有効射程は2000ヤードとされてる
つまり事実上同じような距離なんだよ。ベサで狙えないならチハでも狙えない 着弾観測がねぇ
曳光弾見えるような距離じゃないし土煙も小さいから当たってるんだかわからんし
訓練してなきゃ意味が無い気がするぜ
それよか榴弾撃ち込んだ方が手っ取り早い 望遠照準器で的を見て
砂煙が上がる砂漠で連続射撃の機関銃で観測ができないなら、57mm榴弾の弾着だって観測できないよ
何しろフルボッコされた英軍戦車隊にはCSも混ざってるんだからな まあドイツ88mm砲の目潰しを行わない事には榴弾あっても的にしかなりませんわな
てかCSの主砲って大隊砲並みの低初速なんで、それこそ7.92mmの方がまだ当てられるレベル 英軍がチハ持ってた仮定しなくてもCSあるじゃんと思ったらもう書かれてた
CSで対抗不可ならアフリカ戦線でアウトレンジの88mmを叩くの無理では?? CSの76.2mm砲とチハの57mmだったらCSの方が優秀だな
炸薬比も大きいだろうし チハでもCSでも約2000m以上の実質的な照準能力がないんや
戦車の観測と測距の能力からして、目安になる地物も攻め込む側としては中々見つけにくい
逆に待ち構える88mm砲は少ない地物を予め測定しておくことで初期測距の問題は解消するし
観測機材や要員を別途用意することもできるし、相手の戦車は砂煙立てて場所を晒してくれてる
そりゃまあ条件が良ければ2000どころか3000でも撃てるじゃろうなという 仮に88mm砲が3000mから射撃しだして、戦車側が1000mまで入れば有効弾が出るとした場合
差し引き2000mを突撃して距離を詰める必要がある。
マチルダの最高速度は24km/hなので5分。現実にはもうちょっとかかるだろう
88mm砲が最大レートで撃ちまくったとしたら毎分15〜20発なので100発飛んでくる
命中率20%として20発当たり、だいたい一発で終了だろうと考えると、そりゃまあ手の打ちようがないねという だから徹底的に白リン弾を敵陣地に撃ち込んでおくのが吉なんだよな
マチルダのパンチが凡人、88mmがプロボクサーでも、目を奪ってしまえば目の見えないボクサーのストレートなんてのは何も怖くないよ だがマチルダは凡人な上に近眼なのだw
まず目潰しを効果的に高射砲に叩き込む段階で詰んでれらと
砲兵観測車を随伴させて火砲支援を呼び込まないと難しいんだよな
戦車部隊の機動戦だと火砲の布陣がどうしても遅れやすく、砲兵支援を待たずに突貫すると以下略
東部戦線でもよくあったし、何よりもWW1からあるパターンであるな こうして考えるとチヌだよなあと
富士の演習場で距離三千から畳一枚分の目標を初弾から命中させて戦車兵がたまげたという
頭でっかちな砲塔だしやっつけなところも多いけど
チハ改の砲塔がこれだったら?
いや、傾斜地で旋回できなくなるか エンジン室上にも砲塔リングがはみ出しそうやし チハに搭載予定だった57mm砲中ってナニモノだったのだろうか
おそらくチト1号車に搭載された57mm砲と異なる性能を持った砲であるということしか分からん 長砲身というには短く短砲身というには長い中砲身ってところじゃないかな 九七式五糎七戦車砲の初速だったといわれる
420m/sという数値の正体はこの57mm砲中の性能だったりして ありそうな話ですな
そしてその程度の変化は殆ど無意味だからキャンセルされたと 初速420m/sという数値は九九式七糎半のように新型装薬を使用した値で
57mm砲中はまた別の性能だったと思う
この砲が現れた昭和16年頃は中戦車・軽戦車により高い対戦車能力が求められた時期だし
そのような火砲が試作作成の段階まで通るのだろうか? 五式七糎半戦車砲は7.5cm kwk l48相当なんだろうか…
なぜか流行りの海外ゲーではl70相当にされてることが多いみたいだけど うお、読み込みミスで凄いKYになってる…
しばらく新着書き込み0だと思ってたわ
57mm砲中って短砲身の榴弾は融通出来たりしたのかね 57mm砲中の搭載に向けて砲塔も改修するつもりだったそうなので共用できない可能性もある 搭載予定ってのは、元々は57mm中にする予定だったけど、諸々あって九七式57mmに変更されたんだろうか
それなら、八九式より機動力や装甲面で大きく進歩して重量も増したのに、肝心の武装だけあまり進歩ない九七式57mmが採用されたのも、実はイレギュラーだったで説明が付きそうだな ソ連のZis-2でもあれば喜んでチハに積んだのかねぇ >>980
以前、
ZiS-2 57mmじゃないけどT-34の76.2mm砲積めたら良かったのにみたいな意見に対して「ターレットリング狭過ぎて0人砲塔になるだろww」と思ってたらT-34の砲塔リング径1420(または1425)mmでチハ改が1400mmで大差なかった事を知ったときの驚きよ あと57mm砲搭載のT-34は榴弾の不発が多くて不評だったらしい
チハたんに乗せられても歩兵直協用途にはきついんじゃね
本音では既存の57mmより速度欲しかったのは分かるが
つっても中遠距離での精度を上げつつ着発限界が許容できる程々の初速が欲しかったんじゃない?57mm中や九九式七糎半を見るにさ 九七式五糎七戦車砲の初速だったとされる420m/sという数値は57ミリ砲中のモノだったというのは、確たる証拠もない個人的な予想だからね 昭和16年に出てきたんだったら試製五十七粍戦車砲甲だと思うね。というかこの段階で57mm短を改良する意味は全く無いだろう 一式まで37mm戦車砲を大して役に立たない初速アップやってたんだし
ちょろっと性能アップで十分だと思ってたんじゃないかーなー 57mm砲中は47mmと同じく砲塔を改修する予定だったが
57mm砲中はチハの武装強化のために開発されたものではなく
47mmと同じく後継車両(もしくは砲戦車向け)に搭載する武装だった可能性もある。 >>986
それならやっぱり長砲身の五七粍戦車砲だった事になるね。
次スレどうすんの チハ短大暴走
https://youtu.be/F0sq2MgTqOo?t=25
こんな感じで車載機関銃の弾倉が無尽蔵だったら良かったのにw 嘘なんかすぐ分かるのに何が彼の人をここまで駆り立ててるのかねぇ
ホスト規制でスレ立て駄目だったので誰か頼む 初めてだから上手く立てられたかどうかわからないけど次スレです
【戦車】旧日本軍装甲車両総合スレッド Part.5
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1561624309/ オニ車以降の捏造ツリーもこの人のせいなんだっけか
架空戦記マニアも兼ねてる人いるだろうしアレはどれぐらいの人が肯定的に捉えてるんかな
個人的にはどうせ捏造するならチセ車方面を詰めてくれと思うが このスレッドは1000を超えました。
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