しょうもない知識を披露するスレ 第43幕
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>>130
これだろ?
つまんで見た程度だと、初代おおすみでの輸送作戦は紹介してないか、やっててもチラっと名前出るだけっぽいが。
https://www.dailymotion.com/video/x5t7ao5 >>130
つか、>>131の終盤で紹介されてるな。初代おおすみの映像もある。 >>124 それは単に日本軍から鹵獲したのを、『日本軍兵器として』書類作らずに沈めただけじゃないのか。
日本軍で運用していた時期すでにガスケット破れまくりで始末に負えなかったと山本七平が証言してるし、再鹵獲したってまるで使い物にならんで即破棄する以外の選択肢はなかろう。 けっこう有名なルソン島で撃破された日本のM2の写真あるし全部使えないってこたないんでね
https://i.imgur.com/Hgdlnh6.jpg 英軍砲艦グラスホッパーは日本機の攻撃で沈没し乗員とマスコット犬ジョディーは日本軍に捕まってしまう
メダンの俘虜収容所でジョディーは処分と決まったがフランク・ウィリアムズ曹長が
ジュディーは私の子供だと言い張るので収容所の所長が子供ならしゃあないと捕虜の手続きをした
こうしてジュディーはたぶん史上唯一の正式な犬の捕虜になった
その後のすったもんだは割愛するが親子は揃って46年にイギリスに帰還し仲良く暮らしたとさ >>134 日本軍が使ってた時期で既にがたがたになってた旧式装備を、戦後再オーバーホールして使うかというと…
邦語Wikiで戦後フィリピン軍が朝鮮戦争に持ち込んだってある話も、英語始め他では書いてないのよね。こちらは海兵の使い古しを払い下げたんならあり得るとは思うが、出典が欲しいとこだ。 1945年1月30日、独客船ヴィルヘルム・グストロフ号は、ソ連潜水艦S13に撃沈された
グストロフ号は1万人前後の一般市民や傷病兵を乗せており、そのほとんどが船と共に沈む、史上最悪の海難事件になった
(正確な犠牲者数は、大戦末期の混乱のために不明)
同船の船名は、1936年に暗殺されたナチ幹部の名にちなむものだが、名前の元になったグストロフの誕生日は、
グストロフ号の沈没日と同じ、1月30日である >>135
いい所長さんだ。
戦犯にされなかったか、されても軽い判決だったことを祈りたい。 かこすれみるのをわすれた
おりんぴっくおわるまでがまん ばぁーっとみればおりんぴっくのじっきょうすれにまにあうか 俺発達障害だから複数の作業を同時にやるのはできないw ケンモパヨクはブルジョアだから貧困層の救済しないからな
野党も同じスタンス 脱原発派も中国批判してるし、貧困層の救済は後回しだからな
BIを賛成している 大阪人じゃないんすけど、あまり本読まないっすね
五輪あきてきたんすよ 1993年6月、ホメイニ師4回忌を取材するためテヘラン入りした某民放特派員。
当時のラフサンジャニ政権イラン国内情勢は、
アメリカ主導の経済制裁下、なりふり構わず第3国ルートでの原油輸出に踏み切るしたたかな姿勢が、
国内宗教勢力を中心とする保守派からの反発を受け、きわめて不安定なものとなっていた。
取材に訪れた外国メディアの特派員は強制的に、
パーレビ時代はアメリカ資本の5つ星ホテルだった国有ホテルに収容され監視下に置かれ、
収容されていたジャーナリストの間では国際電話は全て盗聴されているというのが通説だったが、
日本語まではイラン側もわかるまいと高を括っていた特派員、
現地駐在の日本人から忠告を聞かされる。
当時、イランとは緊密な関係にあった北朝鮮が日本語の通訳に協力しており、政権批判を話すのは危険だという。
特派員の取った手段はまわりくどい婉曲表現に加えて、
くだけた関西弁で話すことだったというのだが、
特派員自身が後日の述懐で「効果があったかどうかはわからない」。 イスラエル、テルアビブ郊外にある自動車改造工場。
ごく普通のクルマを防弾仕様に改造するのが本業で、
注文を受けたクルマはまず、保安部品など全て外され、ボディだけの状態になる。
ウインドガラスは全て防弾ガラスに交換され、
エンジンルームとトランク以外の車体の内側は、
エンジンルームとトランクに爆発物が仕掛けられることが多いため、分厚い防弾鋼板で覆われる。
加えてガソリンタンクを樹脂製のものに交換するとスタンダードコースは終わりだが、
オプションで毒ガス防護用のエアフィルターを取り付けることもでき、
イスラエル国内はむろんのこと、世界各国の要人からの注文は引きも切らず、
さらには年々、防弾能力の強化がリクエストされるのにも応えており、
工場長いわく「不況知らずさ」。 ついでに鉄ネタ書かせておくれ。
国鉄大宮機関区に配属されていた9600型蒸気機関車、69636号。
太平洋戦争末期のある日、米軍機の機銃掃射を受け、穴だらけにされてしまう。
だが、69636号は被弾したにもかかわらず、ボイラから蒸気を吹き上げることはなかった。
それは当たり前、空襲当日の69636号はボイラの火を落としていたからだが、
意地になった米軍機は69636号に集中攻撃をかけ、機銃弾と燃料が心細くなると飛び去った。
いわば被害担任機関車となり他の機関車を守ったことになる69636号は、
戦後修理され大宮機関区で活躍、川越線の「さよならSL」列車を牽引して有終の美を飾り、
残念ながら車体は解体されてしまったが、ナンバープレートが交通博物館を経て大宮鉄道博物館に保存されている。 >>155
薩摩弁暗号、結局解読されて役に立たなかったじゃん…… >>157
吉村昭「深海の使者」にもあるアレカ・・・。 大阪人は小心者なんすからゴーストップ事件解決できなかったんすんよ
大阪人は小心者であることを長所にするべきなんすよ >>156
イイネ、戦果確認のために必要とはいえ結果的に上手く他の機関車を守る結果になったのは素晴らしい >>155
大戦末期にアメリカ相手に薩摩弁を使ったけど、すぐにバレたぞ >>159
大河ドラマ山河燃ゆでも使われたエピソードだし。 本屋でかった村西とおるのコワ〜イAVの撮影現場を読んだけど、沖縄のとある島でAVを撮影していたら、ヘリコプターの爆音が聞こえたと書いていったな
その島は日本に駐留しているアメリカ海兵隊の演習場に使われていた リンゲル液、リンガー液とも言われる生理食塩水輸液の発明という偉業を成したシドニー・リンガーの弟フレデリック・リンガーは、
長崎で貿易業やホテル経営で成功し、太平洋戦争時に残していった邸宅等は長崎ちゃんぽんチェーン「リンガーハット」の名前の由来にもなった
グラバー兄弟は殆どが商人となり、東アジアの近代化に貢献した偉人達であった グラバー邸とかあるけど、リンガーさん達との関係は…? ごめんなさいリンガー兄弟でした
グラバー商会はフレデリック・リンガーが最初に勤めた所でした
後にフレデリック・リンガーはリンガー商会を立ち上げます
失礼しました 戦時中のフランスは生地が配給制になりその量は減る一方で服を簡素化するしかなかった
戦前は女性が腹を見せるのも破廉恥とされたが女性の水着も無いものの中で工夫され
生地が少なくて済むショート丈のトップスにブルマのツーピースの水着が自然に広まった
こうした背景を下地に戦後の解放感が合わさり1946年にビキニがフランスで誕生する
当のビキニで水爆実験をしたアメリカは戦時中でもそこまで生地に困らなかったので
戦前の水着文化が戦後も続き多くの海水浴場で1960年代までビキニは禁止されていた >>169
なるほど、それでリンガーハットのちゃんぽんはリンゲル液の味がするのか >>175
たいていのスープはリンゲル液の味がすると思うぞ 「大佐」の肩書きで有名だったリビアのカダフィだが、この称号が日本のマスコミ
で一般的になったのは1969年の革命でカダフィがリビアのトップについてから16年後
の1985年以降である。
この時点で公式にカダフィは全ての公職を退いていたので、ニックネームとして本人が
好んで使っていた「大佐」の称号を日本のマスコミは使うようになった。
なおカダフィ自身は2009年に朝日新聞の取材に対し「もう軍人でも大佐でもないから」
と苦笑混じりに「大佐」は辞めて欲しいという意向を伝えていたが、別に怒っていた
わけではなく、特に気にはしていなかったようである。 1930年代、フランス空軍で、空中指揮機という機種が考案されたことがある
複座以上の大型戦闘機や、偵察機等に空中指揮官が乗り、戦況全般を観察しながら、指揮下の戦闘機隊に指示を出すのである
発想としては、現代のAWACSと同じ、先進的なものであった
だが、機上用レーダーどころか、高性能で信頼性の高い無線通信機すら存在しない時代、肉眼のみでの全般指揮など不可能、
鈍重な空中指揮機は真っ先に敵の餌食になるという代物でしかなかった
アイディアその物は決して悪くはなかったのだが、それを実現する技術がないと意味がないという、好例である ニュートンを思い浮かべてしまったよ
買わなくてよかった 任天堂がまさにそれだな
ファミコンで衛星通信対戦しようとしたり、64は64bit性能を引き出せなかったり、ゲームキューブは3D対応だったのに使えるソフトがなかったり
10年位してから実用化されたり評価される技術のてんこ盛り ゲームの世界でその方面はセガだろ
任天堂は空振りしつつもホームランは打つ 計画当時は多発機が高度性能や速度で上回っていたから変なものでもなかったから
無線は経験的に鉄の塊のエンジンの影響は知っていたが戦後まで理論が分からない
それで単発機は影響を受けやすく機上間通信に影響の小さいモールス信号を使う方式が使われた
配線をひたすら変えて試すしかなく技術者の少ない日本ではこの試行錯誤に人が回せずもろに影響が出た
当時の無線問題の対処法は科学力じゃなく人力
大戦中期まで単発の中島機は空中無線がまともに機能せず初期の日本陸軍もモールスを
使っていてこの方式を発明したのはあの穴吹智 >>129
マネーの輸送車でマニとかシャレてるなw 軍申請の輸入は免税対象だったが私物や転売に悪用され昭和初期に戦闘に直接関する装備のみになった
困ったのは陸軍
軍馬は免税ですが軍用鳩は鳩に乗ったり鳩が敵と戦うわけではないので課税対象です
いやいや軍用鳩のもたらす情報で戦闘するので直接関係します
などと大蔵省とトンチ合戦をしていた
海軍は軍艦に積むので戦闘に直接関係しますと申請して相変わらず悪用していた >>186
日本じゃないが、迫撃砲としても使えるスコップとかもそんな事情があったりするんだろうか。 正規のルートだと長屋一軒のライカを安月給の記者が手に入れるには、高級軍人と仲良くなってそういうルートで仕入れてもらうのが第一だったというからな
当時のマスコミが軍にケツを捧げた裏にそういう癒着があったのは、当事者は女房子供を人質にされても自白しないだろうが知られた話 >>187
スペード迫撃砲はヴォロノフ砲兵総元帥の発案
分隊の直接投射火力で劣るソ連は全軍迫撃砲兵になろうという発想で作られたもの
個人携帯の向上に設置に使うスコップを合体させた
スペード迫撃砲は記録が少ないので詳細は不明だけど実用性がなく42年頃には消えたけど
細長い砲弾は地面に刺してワイヤートラップに最適でPOMZ-37として転用され役にはたった 発案のしょうもなさと、なんだかんだ転用して使えたってオチすき チーズは冷暗所で管理しないとすぐ腐り陽の光に晒すとすぐ劣化しけっこうデリケートで
加熱して殺菌と発酵の不活性化したプロセスチーズが生まれる
開発当時はチーズの偽物と全く売れなかったが第一次世界大戦でアメリカ軍が大量発注し
最初は評判は今ひとつだったが食っていれば慣れるもので第二次世界大戦ではプロセスチーズが
レーションの中での一番人気になりアメリカの食文化としてプロセスチーズが定着した チーズと言えばシートン動物記のキニーネと動物の血を混ぜたチーズがうまそうに見えたなあ ネズミはチーズがあまり好きでは無いってのに衝撃
ジェリーはゲテモノ好きだったらしい 100レス以上過ぎたけど>91に勝る話は無いな、ここまで
詳しく掘っていろいろ読んでみると一層面白いw 結構有名な話だと思ったけど改めて見れば面白いかな>ペプシ アレコレ迷走したペプシだが、最近ファミマで復刻&例によって少し大容量な「普通のペプシ」が結構好評なのか、
近所のスーパーまで生ペプシとか置き始めた。
しかもコカコーラより断然安いんで、どうもかなり営業に力入れてるっぽい。
近々ペプシマンが復活降臨するのだろうか(ついでにヤキソバンと楽天カードマンと「らららむじんくん」のチャント星人が復活してもいいぞ) コテージ作戦で米軍は日本軍が撤退した事を知らずにキスカ島へ砲撃した >>194
聞いた話によると、ネズミが縄張りを誇示する為に齧った跡を見て
「ネズミはチーズが好物」
と勘違いしてた様子 アメリカ人が何でもチーズをぶっかける食文化になったきっかけが戦時中に開発された
脱水粉チーズが終戦で余り無料で大量放出したのがきっかけらしい
どんぐらい余ってたかというと野球場にうず高く積まれていたそうだ >>201
さらにコーン粉末も大量に残ってたんで、その二つを合わせて
チーズ味のコーンスナックを作ったらよく売れた,ってのは小ネタ。 一方ハーシーのチョコバーは不味いので占領地にばらまかれた スターリングラードでヴァシリ・ザイツェフはナシムガンでドイツ兵を狙撃した >>188
正規ルートで日本国内に輸入すると凄まじい関税がかかった、
ライカやコンタックスといった高級カメラも、免税で買うと安価であったため、
日本軍占領下の香港や、日本人には事実上の免税であった満州国建国直前直後の大連で買う日本人はいた、
ただ、現地で買える日本人というとほとんど軍人だったのだが・・・。
しかし、太平洋戦争開戦後、迂回路も含めた民間貿易での日独輸出入ルートが絶たれると、
日本国内に入ったライカはわずかな例外を除けば遣独潜水艦によるものだけ、
それも無傷で日独往復に成功した、イ8潜に積まれた機体だけとなってしまう。
エルンスト・ライツ社は正規に出荷したライカについては昔から事細かに記録を残していたのだが、
同社の出荷リストと、現在に残るイ8潜の積荷リストは必ずしも一致していない、
おそらくはドイツ民間市場に出回ったライカを買い付け搭載したものと推定できる、
一方、イ8潜生還後、日本海軍が軍需使用分に召し上げた余りのライカは報道各社に配られ、
真偽のほどはさだかではないが銀座のカメラ店で民間向けに売られていたという証言もあり、
加えて戦後の混乱のあとは「深海をくぐってきたライカ」の全貌の解明はすこぶる困難ではある・・・。 >>200
冷蔵庫などが無かった時代、袋や樽に入っているのが普通の他の保存食品と違い、
チーズは剥き出しのまま貯蔵庫に放置される事が多く、
食害に遭いやすかったからって説も読んだ事があります。 ヘルマン・ラムケ独空軍大将は、第二次大戦中、空挺指揮官として活躍したが、大戦末期に捕虜となり、終戦を迎える
戦後間もなく、捕虜収容所の中で、ドイツに対する過酷な戦後処理案を知ったラムケは、抗議文を書くことにした
だが、そのまま提出しても、当然収容所当局の検閲を受けるだろうと考えたラムケは、或る夜、秘かに脱走した
そして、近くの町のポストに抗議文を投函すると、翌日の点呼までに収容所に戻ったのだ
この間、収容所の看守たちは、ラムケの不在に、全く気付かなかった >>209
高級なホテルは端金なんで無料で送ってくれる
ミシシッピ州のキャンプ・クリントンはかなり扱いのいい施設で将官は一軒家で労働義務がなく従兵が身の回りの世話をする
パリッとした軍服を着て外に出て高級ホテルでチェックインして備え付けの便箋とペンで
高級な嗜好品の無償支給中止に抗議する手紙を書いてフロントに渡している
ホテルはどこかの国のお偉いさんだろと気にしなかった
これラムケはこの話を自分だと言っているが犯人が分かっていない
将官はフェンスの下から日常的に出入りし買い物や映画館に行ってて全員知りませんと言って分からず仕舞い 捕虜収容所が出来た時はみな恐怖したんだけど搬入や医療で出入りする民間人から
ドイツ語しかしゃべれん普通の人だよと話が広まり子供の遊び場になったぐらい無警戒になった
キャンプ・クリントンは警備は退役軍人の爺さん達で銃奪われるぐらいならと銃もない
水路工事の労働で出る給料で米軍と同じPXで買い物ができる
米軍将兵と同じ待遇で設備も支給も同等でPWの服が嫌なら自分の軍服でもいいという環境で生活に不満は特になかった
水路工事で一緒に働き音楽や演劇、スポーツなどで地元民と交流があって仲がよく
戦後祖国に戻っても焼け野原で仕事もないので元捕虜が50人ぐらいクリントンに移住した
クリントンはそれでドイツとアメリカのちゃんぽん文化という不思議な地域になっている
でもドイツ人が唯一我慢ならなかったのがトイレ
ドイツではあり得ない仕切りのない共同トイレだった
嫌がらせでなく米軍のトイレがそういう仕様 >>206
ライツは出荷したすべての製品に通し番号つけてるんだってね(一部かなり混乱してるようだけど)
古いライツの顕微鏡を手に入れてシリアルナンバーで調べたら1919年後半から20年前半の製品だと分かった
第一次大戦に負けてヘロヘロになってる時でもレベルの高い機械製品作れてたんだと感心したよ >>206
これは、WW2 の最中にドイツに居た日本人の話。
(ヤマハの技術者で、プロペラの技術取得の為にドイツに居た)
外貨を得る為にドイツではマルクをダンピングしてたので、海外の人にとっては
カメラが安く入手出来た、とか言う話。
しかし、ライカはすべて軍用に持って行かれた為にドイツ国内では
入手出来ず、スイスに行って中古品を買って来たんだとか。
氏はこの時ドイツでライカ以外にもローライやツァイス他を
大量に買込み、運よく入手出来たシベリア鉄道の切符を使って
日本に持ち帰る事が出来たんだとか。 >>211
小林麻美の悲しみのスパイのMVを思い出した >>215
大戦中にソ連を通って帰国とかありえないだろw ドイツ→中立国→ソ連?
といってもスイスもスウェーデンもソ連と接してないしなぁ。 切符を手に入れるのが難しいのは確かだが、中立国トルコから鉄道が通じてる。 >>217
前線突破して行くと勘違いしてそうwwwww 戦前から日ソ協約があって軍、政府関係者の移動と貨物輸送は戦時中も使え、独ソ戦でも
ドイツ向けは禁止だがシベリア鉄道などの利用は引き続き出来た。
協約上は満洲里から小アジア経由で欧州に移動や貨物輸送は出来るが、日本側は無用な刺激を避け
日本からソ連経由の欧州行は貨物輸送に限られていた。(それで戦時中でも一ヶ月かかるが
ドイツで日本の新聞が読めた)
欧州から日本行きはソ連は人道的配慮から民間人の避難に拡大し、ソ連経由の移動を認め、ルートを提供した。
ソ連が用意していたのが
トルコ、イランからコーカサス鉄道経由でシベリア鉄道に入るルート。
これはスターリングラードを経由するので途絶、イラン連合入りでイランルートも消滅。
次に作られたのがアルメニアからソ連に入り、カスピ海を船で渡りカスピ鉄道に乗り
トルクシブ鉄道に乗り換え、ノボシビルスクまで行ってシベリア鉄道で満洲里に行くルートが作られた。 山下大将がシベリア鉄道に乗ってたくらいだから不可能じゃあるまいw 最後の2週間の欧日鉄道旅行の利用者はシベリア超特急の山下将軍になる。
遣独視察の帰りのシベリア鉄道の車中で独ソ戦を知る。
遣独視察団には海軍もいたが、ドイツで遊んでいたので帰国できなくなり、
ポルトガル-ブラジル間の民間の大西洋横断の航空路で南米経由で帰った。 >>221
なるほど…
スウェーデンからアルハンゲリスクあたりに船で、
とか地図見ながら妄想してた。 ヤマハのプロペラ技術者に関しては、ソ連から特別に
通過ビザが出たので、それを使ってシベリア鉄道に乗ったそうです。
で、なんでソ連からビザが発行されたかと言うと、北海道近海で
ソ連の輸送船が座礁した時に、漁師さんとかが乗員などの
載ってた人を助けたからなんだそうです。
多分、インディギルガ号遭難事故だと思うんですが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%82%AB%E5%8F%B7 んー
しょうもなくない知識が増えてくなぁ
ありがとね 二次大戦中と言うだけなら、1939.09〜41.06までは大戦中だけど
独ソ関係は良好で貿易も盛んだったから、普通にシベリア鉄道で帰って来れそう。 避難してきた人や物資をフル積載したC17A輸送機は重くなるため、最低限の燃料で離陸し、その後、空中給油機で補給するらしい >>214
カメラに限れば、エルンスト・ライツ社時代はきっちりすぎるほどきっちりしていたのだが、
1970年代、日本製カメラに押され経営悪化の果て、株式買収されたあたりからはグダグダに。
WW2終戦直後のエルンスト・ライツ社工場。
戦中にはナチスからの命令で軍需光学製品の製造に生産を限定されていたのだが、
軍用として細々とながらライカの製造が続けられており、
さらには監督官の目を盗んでヘソクリのように作りためたパーツのストックがあったため、
戦後もそれを組み立てれば、ライカの生産は可能だった。
だが、爆撃によって割れた工場のガラスだけは英軍があてがってくれたが、
他には占領軍も何も助けてくれるわけではなく、エルンスト・ライツ社は自活の道を探ることになる。
熟練工はWW2末期のドイツ本土決戦でことごとく徴兵されており、
生還し工場に帰ってきた工員の人数はかっての3分の1、ライカの組み立てにも数倍の時間を要したが、
それでも出来上がったライカは占領軍将兵相手に飛ぶように売れたほか、
占領下ドイツの闇市場に流せば、食料、燃料、工作機械と、何にでも化けたのである。
たまった売り上げ金と闇物資でエルンスト・ライツ社が最初にやったのは、
工場に臨時の社員食堂を建て、工員に温かな食事を出すことだった・・・。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています