>>601
歴史的な流れがわかりやすいです。ありがとうございます。

ソ連解体後にも様々な変化があった。30年に及ぶその過程の全容に立ち入ることはできないが、一つの重要な節目は、1999年に始まる数次のNATO東方拡大である。これをめぐっても種々の議論があるが、私の記憶に残っているのは、アメリカの長老的外交官・歴史家であるジョージ・ケナンが晩年の遺言的発言として、東方拡大はロシアを挑発する危険な選択だとして、これを強く批判したことである。それ以外にも、何人かのアメリカのリアリスト系政治学者や外交官たちが同様の見地を表明していたが、クリントン政権によって無視された。
他方、あるロシアのリベラルな論者は、当時、NATOの東方拡大によって自分たちの国内基盤は極度に狭められてしまった、これはロシアのリベラルの息の根を止めるものだと嘆いていたが、この暗い予感が実現したというのがその後の流れであるように見える。
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「マイダン運動」の暴力革命化は、ロシア語系住民の多いクリミヤおよびドンバス2州の住民を刺激し、前者のロシアへの移行、後者における「人民共和国」樹立を引き起こした。これはそれまでの国家秩序の非立憲的な変更であり、ウクライナのみならず諸外国から強く非難された。もっとも、当事者たちからすれば、その前にキエフで非立憲的な暴力革命があったということが正当化根拠とされている。
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「ドンバスの高度な自治州化」はイスタンブール合意案であって、それにクリミヤについても協議する(アレストビッチも言ってた)ことも含まれてたんですけどね。

あと、「おわりに」の
「拡大した西側」「ただ一人孤立したロシア」「第3グループ」という構図になっているように思える。
 →コレは大ハズレでしたw