>>430
イギリス陸軍が軽・中・重の区分を明確にしたのは1929年の機甲便覧で、これに従い機甲部隊の整備と演習を実施した なので軽中重の区分はイギリス発祥 この便覧は一般の公開されたので各国の戦車関係者は食い入る様に読んで研究した 当時戦車が存在しなかったドイツでもグーデリアン以下が研究しており、日ソなどでも同様の戦車区分を採用したのは機甲便覧を研究したからだ
しかしドイツにグデーリアンがソ連にトハチェフスキーが居たのと異なりイギリスのフラーはこの便覧を発行した後に軍を離れてしまう
この結果イギリス陸軍では恐慌での予算不足も重なりフラーが退役した33年以降戦車主体の機甲部隊の編成の推進力が失われて、騎兵に装備する戦車(軽戦車と巡航戦車) 歩兵に装備する戦車(歩兵戦車)に分離してしまい、いわゆる中戦車(主力戦車)の開発が行われないまま大戦に突入した
こう言った経緯があるのでリデル・ハートなどの様々な著作でイギリス陸軍行政の失敗だと語られている