声が、聞こえなくなった。

名人戦挑戦権を懸けた争いが熾烈を極めている。史上初の6人の棋士によるプレーオフ。
誰が勝ち残ってもおかしくない、まさにサバイバル戦。将棋ファンにとって見逃せない戦いが続く。
一方、挑戦を待ち受ける佐藤名人にも、過去最大の異変が生じていた。
棋士人生初めてといっていいスランプに陥っているのだ。
「好調時は、次に指すべき手が、声となって聞こえたんです。それが今は何も聞こえない」
自身の不調を独特の言葉で表現する名人。
「思考の積み重ねの先に好手があるのではなく、先に好手が聞こえてくる。そこから手筋を考える。それが名人をとれた時のフォームでした」
その“声”が聞こえないという。
「今は頭で考えてしまっている。でもそれは限界がある。声を、直観を取り戻したい」

あの事件が引き金か

“声”が聞こえなくなったのは、一昨年末くらいからだと言う。ちょうど将棋界が揺れていた時期だ。
「私はあの騒動には何の関係もありませんが、深層心理下ではやはりショックを受けていたのかもしれません」
トップ棋士によるカンニングスキャンダルが、名人の繊細な感性を狂わせてしまったのか。
筆者も大きな衝撃を受けた三浦事件、名人が受ける心理的負担はいかばかりか。あの事件はこんな形でも将棋界を傷つけたのだ。

声、もう一度

あれ以来、聞こえない声。しかし、それを取り戻さない限り、名人防衛はありえない。
観戦記者として佐藤名人の対局に立ち会うと、確かに以前になかった迷いを感じる時がある。
一記者として、名人にはトップフォームを取り戻してもらいたい。それでこそ、本当の意味での「名人戦」となるからだ。
再び声を聞くため、名人はどのようなアプローチをしているのか。
「声は一種の天啓。自分だけでどうにかできるものでもない。まぁ、いろいろ足掻いてみますよ」
彼が本来の力を取り戻すための“足掻き”に協力したい。心からそう思わせる笑顔で名人はそう言った。
(剣)