大山康晴名人は本当に盤外戦術を使ってたのか?
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△大山と対戦した棋士の証言
中原 「ほとんどない。タイトル戦で着物や振る舞いについて丁寧に教えていただいた」
羽生 「ありません」
森内・佐藤康 「ない」
谷川 「ありません。離席して長考してたのでどうしたのかと思ったら
来客と話をしていた。しかもその対局で敗けた」
△大山が会長をしていた頃
将棋会館の資金集めのため、毎日のように企業周りしていたり、
対局日も来客の接待をしていた。
△結論
大山は盤外戦術など使っておらず、
むしろ他の人間がやるべき資金集めや接客をやらされていた。
盤外戦術をぬかしているのは、負け犬の遠吠えではないか? 大山って加藤一二三よりちょい強いくらいだから、
ソフト研究の豊島や藤井と当たったら無残に負ける
盤外戦より、扇子パチパチやったり、挙動不審な奴が多くなったのが問題や 昭和の大山中原の一人が頂点に君臨する時代はそうなんだよ
平成の島研以降の平成の名人がコロコロ変わる時代とは違う 木村、大山、中原(20代)は2日制タイトル戦でこいつらが他に差をつけて最強だったからね
中原(30代)、谷川、羽生はそうではなかった
藤井が2日制で他に差をつけて最強ならまた大名人の時代は復活するさ
時代のせいじゃなくその棋士の能力の問題だからね
大名人が続く時代もあれば続かない時代も当然ある 大山先生は将棋はミスをした方が負けるから人間はコンピュータに勝てないと言った
その通りになったな 扇子くるくる
詰めパラ見てる記録係に「詰将棋なんかやっても強くならないから無駄だよ」 ※対局相手は詰将棋作家としても著名な二上・内藤
福田家事件 (対局相手の到着待たずに宴会仕切る)
ステーキ食いまくって健啖&余裕しゃくしゃくぶりを見せつける
こんなくらいか? 昔はのどかで対局中にも話かけたり、観戦記者と茶飲み話をしたりしてた
で、大山は絶妙なタイミングで相手が読みに集中できなくなるような話題にしたり、聞いてきたりするのが得意だったという他愛ない話を米長や内藤がよくしてたな
負けた言い訳話が膨らんでいったんだな wikiにやってるって書いてあるからやってるんだよ 大山康晴十五世名人は、第一人者の地位を守るため、将棋界全体を勝負の一環と考え、有望な若手棋士に「盤外戦術」を仕掛けました。
大山名人は、棋士として最も勝てる時期に徴兵され、また日本中が戦争で「将棋どころではない」時代でしたから、第一人者になった頃にはすでに30代でした。
年齢による衰えが避けられない中で、加藤一二三、二上達也、山田道美、内藤國雄という将来有望な棋士が続々と頭角を現し始めました。
このまま手をこまねいていては、自分の地位が危ない。
しかし、まともにぶつかりあえば、年齢差がいずれ響いてくることは明白。
そこで、大山名人は自分の地位を利用して、若手棋士たちに盤外からプレッシャーを与え、人間的な威厳で挑戦者たちを精神的に委縮させることで勝負を有利に運んだのです。 大山のA級順位戦の星を眺めると、内藤に全く負けていない。十二連勝である。
つまり大山は、内藤のほかに、加藤(一)、二上、など堅く勝ち星を得られる、業界用語でいう、「お客さん筋」を持っていた。
そうした基礎票みたいなものがあったから、A級を維持できたのである。
(引用:大山康晴の晩節) そういえばH2年度順位戦で、1勝5敗の状況で
7局目に内藤と当たり、これに勝ってほぼ残留を決めたのだった。
終盤どう見ても寄りそうで妙に寄らない大山玉が印象的だった。
その日連盟道場のTVで見ていたが、年配の客は最後までハラハラしていた。 大山と対局するたびに福田屋事件を思いだして悶絶するんじゃ内藤先生も将棋に専念できまへんわな
勝負前から力を2割くらい削がれたようなもん 意識してやっていなくても絶対王者の大山がなんか言ったり
やったりすれば盤外戦術だと思われたことも多かったんじゃね。
イラっとして「暗くしなさんな」と言ったこととか。 細かい記録が残ってない言動も数えきれなかっただろう
対局中に相手を困惑させる私語とかもあったに違いないし
中原に盤外が通用しなくて、その後は加藤、二上、内藤とかの過去の遺産で延命した >>117
いいわけめいてるけど、内藤は引退後のインタビューで
「自分は早く帰るつもりでむしろ宴会先にしてくれたのは好都合なくらいだったが
芹沢が怒っていて、一緒に飲みに行こうといわれ断れなかったのではしご酒となり
これがまずかった」と語ってる
これも強がってるだけとも取れるし、真実はわからんよね 先崎が「盤外戦術ということではなく、将棋が好きで強くて早見えだから
感想戦をたっぷりやって、相手がいった筋をこれはそれでダメと潰すから、相手にしたら潰された気がするが
、大山先生としてはそういうつもりではなく、将棋が好きなだけ」といってたけど
天彦が叡王戦解説でいつも居残って対局者とソフトでいつまでも検討してるのをみると、
大山もこうだったのかな、という気がしてくる 二上との対局中に、記録係がちょうど二上の詰将棋の本を持っていたのを見て、「詰将棋なんか、役に立たないよ」と言い放って、二上を逆上させた。
現藤井七段がプロデビューして連勝記録を更新しているとき、テレビで将棋が注目されました。
将棋に関する色々なエピソードも放送されました。
その中に大山名人の番外戦術というモノがありました。
大山名人は将棋盤の上で扇子の紐を持ってくるくると回していたそうです。
もし相手の手番のとき盤上で扇子を回したら、明らかに妨害行為です。
ちょっと信じられませんが、テレビで放送されました。 当時はマスゴミも発達してなくて教師の体罰も黙認されていた時代
大山の盤外戦術に文句を言える人はいなかったので皆泣き寝入り
大山延命大成功 ヒロポンは昭和何年度まで薬局で入手出来たの?医者の先輩が医学部の学生の頃試験前に服用すると記憶力が格段にアップすると言っていた♪
>>136
> https://i.imgur.com/G11RSPv.jpg >>108
所用だっけ
新幹線が遅れたとかだったような >>157
そのように詰将棋の本を出しているくらいだから、大山は詰将棋を否定したのではなく
アートみたいな趣向詰めなんかは無駄だと言っていたのだろう
内藤や二上は詰めあがりが一直線になるとか何かの文字になるとかやってたもの あるに決まってんだろ。死ぬまであの小さな世界で終わったガキと同じ幸せなアホだよ 羽生善治がまだ駆け出し(C1級で高校に通学中)の頃に、大山康晴との対戦(1988年5月王将戦二次予選)の前後に過密スケジュールを大山に組ませられ、
しかも大山は途中で対局を一時中断すると羽生を青森県百石町まで連れ出し、そこで対局の再開を強いた上に後援会の宴席まで出席を強要した[6]。
大山康晴対羽生善治の対局で、大山が優勢な局面で羽生があっさり投了した。投了のタイミングの早さに対局解説の島朗も驚くほどだった。
長手数でじっくりいたぶる盤外戦術をかわされたことで、大山は不機嫌になり米長邦雄が勧めても感想戦を行わなかった。 【日本将棋連盟公式序列一位期間】
18年間 大山康晴(1952-1956、1959-1971)
13.5年間 中原誠(1972-1981、1985-1987、1990前)
13年間 木村義雄(1937-1946、1949-1951)
12.5年間 羽生善治(1992後-1993前、1994前-1996後、2001後-2003後、2008前-2010後、2014前-2015後、2017後-2018前)
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7.5年間 谷川浩司(1983-1984、1988前-1989後、1990後-1992前、1997前-1998前)
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5.5年間 森内俊之(2004前-2007後、2011前、2012後、2013後)
3年間 渡辺明(2011後-2012前、2013前、2016前-2017前)
2年間 塚田正夫(1947-1948)
2年間 升田幸三(1957-1958)
1.5年間 佐藤康光(1998後-1999後)
1.5年間 丸山忠久(2000前-2001前)
1年間 加藤一二三(1982)
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0.5年間 米長邦雄(1993後)
0.5年間 広瀬章人(2018後)
10年以上序列1位だった棋士が大棋士
一瞬成り上がっても10年以できないのは本物ではない
大山の場合、連盟私物化に加え、ライバルとなりそうな若手を盤外戦術を駆使し葬り去ってきたという、棋譜には現れない醜い闇がある 羽ぶが大山に敵わないのは、ちょくちょく1位を谷川や森内や佐藤康光、丸山、渡辺などに分けてあげてるからだな。 羽生は三回も永世名人相手に盤外戦術したのに
名人戦三連覇しかできないからな www
これは闇になるよ 心の 実質名人5期なのに、どさくさに紛れて8期に水増しとか工作醜い
通算5期で永世名人資格とか木村が自分のために設定したんじゃね 弟と一緒に見合いの釣書を持って対局相手の淡路に話しかけて断られる 番外戦術といえば天下一将棋てっちー残りO秒大作戦!W >>223相手を油断させたりイライラさせる効果があるW ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています