0001名無し名人
2018/12/30(日) 21:29:04.12ID:5fM9TJ/y(全文はリンク先参照のこと)
天童市は将棋駒の生産量が日本一。
シェアは9割超を誇る。市内各所に駒の形を模した看板などが置かれ、
将棋は天童のシンボルと言える。その礎を築いたのは幕末の天童藩家老吉田大八。
同藩の奥羽列藩同盟加入を巡って非業の死を遂げた。
天童藩は織田信長の家系の名門だが、石高2万の小藩。藩士の生活は苦しく、
吉田は内職として将棋駒作りを奨励した。
他の執政の反対に対して「将棋は兵法戦術に通じる。
武士の面目を傷つけるものではない」と説得したという。
1868(慶応4)年旧暦4月、庄内藩討伐を進める新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府は天童藩に先導を命じた。
同藩は庄内藩と事を構えたくなかったものの、命に従い、藩主に代わり吉田が案内した。
新政府軍は同月24日、清川(現在の山形県庄内町)で庄内藩を攻撃。だが猛反撃に遭い、天童城下まで焼かれてしまった。
この直後、白石で奥羽列藩同盟の結成会議が開かれ、状況が一変。天童藩も同盟加入を決めた。
ただ、庄内藩は引き換えに吉田の身柄引き渡しを求めた。新政府軍を先導した吉田をよほど敵視したようだ。
身を隠していた吉田は意を決して出頭。6月18日、天童の観月庵(観月山妙法寺)で切腹した。
吉田は古式にのっとって十字に腹を切り、介錯を制して自ら首を突き絶命。血しぶきが天井まで飛んだ。
その後、建物は2度改築されたが「血染めの天井」は現在も保存、使用されている。
妙法寺の矢吹海慶住職(86)は「大八は藩を救うため、進んで犠牲となった」と話す。
辞世の句は「我のみは涼しく聞くや蝉(せみ)の声」。
「自分の行いの正しさが分かる日がいずれ来る、との思いを感じる」と矢吹住職は言う。
天童の将棋駒は明治以降、作業の機械化などを経て一大産業に発展した。
天童商工会議所専門員の津藤弘志さん(60)は「観光への寄与も含めて、将棋は天童に不可欠の存在」と語る。
戊辰戦争の露と消えた吉田の遺産は、150年を経て地域経済を支え続ける。