木村14世〜1970年代までの将棋界を語ろう
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名人が 実力制に移行した1935年から1979年までの将棋界を語るスレです。
昔の将棋は木村、大山、升田さんなどは語られますが、他の方は語られることも
少なくなってきました。それでは寂しいのでタイトルを獲った棋士だけではなく
強くはなかったが個性的だった棋士
平凡だったけどなぜか心に残っている棋士などを語るスレです。
当時を知っている方は是非その時々の雰囲気などを教えてください。 ちょっと昔の棋士さんは、棋譜は残っているが、
人柄とか私生活とか生前のエピソードはイマイチ伝わっていない人が多いような気がする。 木見先生は名伯楽ではあったけど棋士としての強さは大したことがなかったっぽい
大山升田からもそう評価されている 木見八段の奥さんがいい人で、弟子たちの面倒をよく見ていたらしいね
木見門下では大野先生が出世頭で、奥さんは弟子たちに「あんたらも早く大野みたいに
強くなりや」と励ましていた 大野先生も門下生への面倒見がいいことで有名
子供や女性にも初歩から親切に教えてくれる 大野さんは普及に熱心だからな
最近の若い棋士も見習って普及にも力を尽くしてほしい 大野先生は大山名人がスランプに陥ったとき、振り飛車を勧めたらしいね
おかげで大山名人はスランプを脱して名人に復位した >>342
奥さんは升田のことは嫌ってたらしいけどな 70年代の王座戦は実質6個目のタイトル扱いだったんだろうか? >>354
タイトル戦になる前も、決勝は3番勝負だったが、形式は変わっていない
優勝しても、次年度はまた、トーナメントをか勝ち上がらねばならなかった >>349
角田さんが升田さんの発言に腹を立ててぶん殴って、木見八段の奥さんが角田さんを
たしなめたこともあったね >>356
タイトル戦形式になってからのことを言っているんじゃないの?
タイトル戦形式だから「準タイトル」と呼ぶこともあったが,
公式見解は,タイトルではない。
ちなみに,優勝戦形式の時代は「第〇回」で,
タイトル戦形式になってから日本経済新聞では「第〇期」と書いていたが,
『将棋世界』では「第〇回」と書いていた。 >>358
升田九段はこのとき受けたパンチが痛かった
このパンチさえなければ永世名人になっていた 米長が佐瀬の弟子になった経緯が良くわからん
中原は仙台に大盤解説に来た高柳に凄い少年がいると紹介されて弟子入りしたのは知っている 佐瀬はデパート将棋の雄といわれてたけど
米長を弟子にしたのはそれよりだいぶ前なんだろうしな 高柳八段は中原のほかに芹沢も育てているし、立派な師匠だな
以前は中原名人が指す対局では、解説をして中原名人が入門したころの思い出を
語っていた >>365
ggrks
http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/10-dbaf.html
師匠は甲府の将棋会に行ったとき、12歳の米長少年の才能の豊かさに目を見張り、上京して棋士をめざすように親を説得した。
米長家は戦前は資産家だったが、農地改革で土地を手放したり満鉄の株券が紙くずになったりして、戦後は没落していた。米長少年を上京させるにも、生活費の仕送りに事欠く状況だった。
しかし後援者が現れ、中学生から佐瀬の家で内弟子を送ることになった。1956年(昭和31年)のことだ。 米長がプロになれなければ、支援者のガラス屋で引き取る予定だったはず >>364
パンチの強さでは大内九段が棋界最高峰だと思うが、角田八段もなかなかやるな >>368
升田先生も米長少年の才能を高く評価していたんだな
棋士を志す者として名誉なことだと思う 升田と二上が王将戦で大山を差し込んでいたら・・・(升田先生は2回目) 自分の事を「原田は・・・」と言う原田先生、好きでした。
三手の読み! この時代は正規の奨励会ルートを通っていないプロが多いから…
色々な人生将棋が見れて面白い >>377
アマ名人で十段戦アマチュア枠でプロに勝ち、そのまま旧三段リーグの木村義徳だけど、呼んだ? 千日手は持ち時間減で翌日指し直しだった1960年代
NHK将棋講座の講師(ひふみん?)が、録画予定日に対局となってしまい、テキストと関係ない臨時講師(五十嵐)の放送が流された 初級講座担当の山川は、26歩、84歩、25歩、85歩、24歩は先手不利の定跡解説で、定跡を記憶しておらず、先手有利になってしまった
小学生だった小生が抗議のハガキを出したら、平謝りの返事は来た
講座での訂正がなく、以降はテレビ対局だけの拝聴とした 当時の将棋講座は録画ではなく生放送だったのかな?
だから、そのようなハプニングが発生したのだろうか。 生放送だったとも思えないが
土曜に対局がついて、日曜に延期は不自然
ただ、金曜の対局が、2千日手で日曜というのはある
山川は、不慣れかつ、棋力が低かったと思う お弟子さんの関六段によれば、山川八段はとても筆まめな人だったから、>>382さんにも
返事をくれたのかも知れない
棋書を何冊も書いている先生だけど、解説はうまくできなかったんだね 私は、loserの将棋ブログを読んで将棋を始めた者です。
私はajiatjaより優れた将棋指しをまだ見たことがありません。
たとえ世間に評価されなくても自分はついていきたいと思っています。 早指し選手権がまだ関西でも放映されてた頃、加藤一二三が序盤に角を素抜きされて投げたのを憶えてる
青野照市や土佐浩二が三段で記録係だったことをうっすら記憶している >>389
> 早指し選手権がまだ関西でも放映されてた頃、加藤一二三が序盤に角を素抜きされて投げたのを憶えてる
放送時間が余ったと思うがどうしたんだろう? 米長と雞二の早指し戦開幕戦で、60手ぐらいで終了し、解説の大内とだったか、感想戦もそこそこに雑談だった記憶がある ネットもない時代で、月刊誌でひと月分の情報を得る時代に、他棋戦での状況などを語っていたような、おぼろげな記憶 早指し選手権は、NHK杯とは違って、聞いたこともないマイナーなベテラン棋士も出場していて、
「こんな人もいたんだ!」と新鮮な気分だった 囲碁でもプロ棋士、北村文男も本選に出場
塚田正夫に惨敗
解説の棋士に対局中から酷評
2週ごとの交代ゲストにたしなめられていた >>396
> 囲碁でもプロ棋士、北村文男
真部一男も碁の実力を藤沢秀行に認められ
「プロになりたいなら、日本棋院は無理だが、関西棋院なら宮本(直毅)に口をきいてやる」
と言われていた。 北村先生も関西棋院所属だったな
東海の方だったから当時まだ存在した中部総本部にいらっしゃった 北村文男より囲碁が強い将棋指しは、当時、結構いたみたい
河口老師は、囲碁のアマ名人戦神奈川県代表だったはず 升田九段も囲碁が強かったし、かつては囲碁の強い棋士は複数いた
大山名人は麻雀が好きだった
棋士は将棋だけではなく、「ゲーム好き」なのかも知れない >>311
こんなしっくり来る野球の例えは初めてだ 逆に囲碁棋士で将棋強い人はどれぐらいいたんだろうか 秀行が米長との駒落ちを、テレビでやっていた記憶
解説は芹沢 日本棋院を借りて、将棋連盟の囲碁大会があった時期もある
升田と大山は、何となく互いに遠慮したのでは 囲碁棋士は連珠とかオセロをしそうなイメージがあるが、将棋も指すのだろうか? >>407
石立鉄男はどれくらい強かったんだっけ? 大内九段も碁が強かったな
穂坂繭(先崎の奥さん)と対局していたのを見たことがある 大内九段は喧嘩も強かった
一撃のもとに相手を倒した 大内延介亡くなってたのか
後年はつのだじろうボコったとか空港で職員殴ってタイホとか碌な話題なかったが
スレタイに沿っていえば75年の名人戦で必勝の将棋を勝ちきれず名人位逃したよな
あれ名人位取ってたらかなり歴史変わってたのかなと思う 大内九段が名人に挑戦したころは、まだ穴熊対策が万全ではなかったので、振り飛車穴熊で
圧倒的な強さを誇って、名人挑戦まで行った
ただ、何期名人位を守れただろうね?
挑戦者も穴熊を研究してくるだろうから、3期くらいは名人で居られたか? 大内に追い詰められた時の中原の心境が「まあ来年取り返せばいいや」だからな
きっと追い込んだ大内の方がよっぽど追い詰められてたのだろう ポカで持将棋
立会人塚田正夫に指し手について思わず話しかけた殴打
冷や汗のシミは和服からいくら洗濯しても取れず 当時の居飛車党の間では「穴熊なんか将棋じゃない」というような反感・蔑視があって、
大内は無条件で穴熊に組めた上、七筋・六筋の位まで取っていた
居飛車側は穴熊以上に手数をかけて銀立矢倉に組んだりして、振り飛車の大内の先制を
許したりしていた
大内は豪快に捌いて、穴熊は安泰のまま、圧勝する将棋が多かった
アマチュアから見ても、「こんなふうに勝てたらいいよなあ」と感じる将棋だった 大内が大山に勝ったこともあったが
大山は,素人目に見ても大内を退治するのがうまかった。
NHK杯では,大内が無理にでも動くしかないような形にされたのが印象深かった。 全盛期の大内先生はアマチュアの間では絶大な人気があったな
自分も子供のころから大ファンだった
プロの間では極めて評判が悪いことを知ってショックだった >>413
「名人戦で穴熊を指すとは邪道でけしからん」
という奇怪なバッシングもあったらしいが。 大内さんは死因が非公表なままコンニチに至っているわけだが。なんでかな? >>416
王座戦で惨敗した山口英夫だけど、呼んだ?
大内三段が2年連続(?)古豪新鋭戦で優勝 関根紀代子が、関根茂のテレビ対局の聞き手だった
関根茂は勝利した >>395
日曜日の夕方16時からやっていた
極稀に、放送時間中に決着がつかなかった事が、2回位有った気がするけどどうですか?
子供の頃だから記憶違いならごめんなさい >>424
NHK杯でもそういうことがあって、番組終了直前に結果(勝敗)が唐突にテロップで流れたことがあった。 >>424
島田アナが「本局は200手を超える大熱戦になりました」と言って、大盤で途中の
指し手を並べた後、終局間際の場面に戻っていた
早指し選手権は放送時間が短かったので、時間内に入りきらないことは度々あった
記憶がある >>421
ご家族が告知を受けて本人には知らせるなパターンかな?
大介と飯田先生の昇段記念パーティーでの大内先生見たら
病気だったのは間違いないが
死因不明病気以外の理由で亡くなっているのは
関口慎吾、野口忠雄(戦死)
平野信介、大野源一(事故)
森安秀光(事件)
木川貴一、伊藤能(死因未記載)
※藤内金吾、米長邦雄、及び加藤博二以降に亡くなった棋士は年鑑では未記載だが新聞報道に記載あり >>250
棋譜見ましたけど振り飛車の棋譜が強かったですね、美濃囲いじゃなかったけどバランスが良くて将棋の感覚は現代に近いと思うので名人は言い過ぎかもしれませんがいい成績は残せたと思います。 >>428
A級での勝率なら木村義徳のほうが低いよね? >>329
大山の振り飛車も最初はかなり酷いよ振り飛車なのにまともに囲いすらしてないし、90年代の棋譜と比べたら本当に別人だからな >>401
大山と中原の年齢差は羽生と中原より離れてるぞ!確か大山と中原が24歳差で羽生と中原が23歳差、大山が人間離れしてるせいで中原とか米長と同じ世代に感じてしまうけど世代ふた回りは違う、だから王長島はちょっと違うと思う 大山と中原は、昭和45年〜平成4年まで22年間、A級(名人)で指しているから、
同時期の棋士と思えてしまうよね
大山と升田は昭和23年〜昭和53年まで、升田が8期休場、31期順位戦がなかったので、
21年間、A級(名人)で指している。 >>431
> 大山の振り飛車も最初はかなり酷いよ
それでもけっこう勝てていたのではなかったかな? 大山名人は次第に振り飛車を研究していって、主に四間飛車、さらには三間飛車も
指すようになった
大内が穴熊で快進撃するのを見て、穴熊も指すようになった
このような柔軟さはさすがだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています