木村義雄・十四世名人が強すぎて笑うしかないんだが
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【第一期名人戦】(1937、1938)
最初の実力制名人なのでリーグ戦をやって1位と2位の棋士で番勝負をするはずだった。
しかし木村がダントツの成績で2位以下を大きく引き離してしまったため
番勝負が中止されて木村が名人に決定。
【第二期名人戦】(1939、1940)
名人挑戦者決定リーグ(現在のA級順位戦)で
13勝0敗という空前絶後の圧倒的成績で挑戦権を獲得した土居市太郎との番勝負。
しかしそんな土居を寄せ付けず4-1で簡単に名人防衛。
【第三期名人戦】(1941、1942)
関西棋界の期待を背負って関西最強の棋士・神田辰之助が挑戦してきたが
無慈悲な4-0のストレート防衛。
木村のあまりの強さにショックを受けた神田はそのまま引退してしまい心労がたたって一年後に死去。
【第四期名人戦】(1943、1944)
あまりにも木村が強すぎて番勝負が盛り上がらないので制度が変更される。
挑戦者決定リーグで4人の候補者を選び
彼らが木村と駒落ちで予備対局をして勝てば名人挑戦権獲得ということになった。
しかし勝ち上がってきた4人の候補者が全員駒落ちで木村に負けてしまうという
予想外の事態に番勝負は中止され名人防衛。
【第五期名人戦】(1945、1946)
戦争で中止。
でも開催してもどうせ木村が勝つでしょということで連盟の裁定で木村防衛が決定。
こうして木村は10年間名人を保持し続けた 木村義雄は人間も将棋も華がある
マイコミは木村義雄全集をハードカバーで出すべきだ 数年後には聡太の強さに笑いが止まらないだろうね。
いや、棋士たちには笑えない現実。
今のうちに戦前のどさくさプロ()棋士で盛り上がっておくといいよ。
大山と羽生なんて論争も、恥ずかしくて誰もしなくなる未来が読めるわw 50年後に将棋の藤井といえば「藤井システムの藤井さん」て事になってると思うわ >>44
この値は中盤以降の指し手の評価だったはずだから藤井が上位棋士に負けるのは序盤の差と推定すれば納得できる
中盤以降が全盛期羽生近くなら1番下から指して29連勝したのも納得だろ
その後負けが混んだのも序盤で対策されたんじゃないか ここの人達の造詣の深さは凄いね
一通り見たけど凄い勉強になったわおりがとう
個人的な感想なんだけど明治末期〜大正期にかけては
少なくとも木村・大山のような断トツ時代の最強者はいないという結論でおk?
坂田関根とほぼ同世代の井上義雄も名人候補だった強豪だし、
木見金治郎は名伯楽としての評価の方が高いが、彼だって棋士としても指し盛り期は
相当な強豪棋士だったんだろ?
もし今のような8タイトル環境だとしたら
明治末期は坂田関根井上小菅あたりが、大正前期はそこに木見や土居が加わって
今と同じような戦国時代状態だろうか?
大正後期あたりから土居が第一人者だった時代が10年くらいあると思うけどどれくらい傑出してたんだろう? >>224
いやそういうのって羽生が七冠の時に経験してるからね?
棋界にとってそこまで衝撃的ではない 木村義雄十四世名人は天野宗歩以来の圧倒的な時代の最強者だったのかね
全盛期は八段相手に半香落ちの手合いですらほとんど負けなかったという >>230
引退してなかったら小菅がダントツだっただろう。
小菅は関根より3歳年上だが、28歳に七段で引退した時、
関根はまだ四段だった。(5年後に関根も七段になる)
引退してだいぶ経ってから八段連中と指しても負けなかったらしい。 木見は日本将棋大系で弟子の大野や大山に将棋を酷評されるレベルだけど
とにかく受けまくる将棋からは大山将棋の源流のようなものも感じる
大野振り飛車の元祖ともいわれてる >>230
木村ほどの傑出度の人物は天野宗歩まで遡らないといないかと思います
しかし実際には明治大正期の棋士の強さというのはよく分からないというのが真実です
なぜかというとこの時代はトップ棋士同士の対戦が非常に少ないんですね
江戸時代にはよく知られているように御城将棋というものがあり現在では名人戦があるのですがその移行期の明治大正期はトップ棋士同士の対戦は数年に一度しか行われていないのです
多分に主観が入っていますが最強者の変遷を辿ってみます
まず明治の三強と言われているのが宗印、大矢東吉、小野五平の三人です
この他に大阪には天野宗歩四天王の一人の小林東伯斎が健在だったのですが当時は関西の棋士と関東の棋士は基本的に対戦しないのでどの程度の棋力だったかは不明です
しかし小林は天野宗歩四天王の中では市川太郎松に次ぐナンバーツーとされていた人物で長寿だったがために市川よりも出世しましたが最強者ではなかったのではないかと考えています
宗印大矢小野の三人の中で誰が強かったのかというと通算の対戦成績から言えば宗印>大矢>小野となります
小野名人は大矢東吉よりも弱かったとの評は現在も伝わっており当時の人々の認識も同様だったのではないかと思います
しかし宗印がそこまで圧倒的な存在だったのかは疑問です
名人就位には大矢や小野から待ったがかかっており三者の実力は僅差であったものと思われます
大矢東吉は脳の病で宗印よりも早く亡くなってしまい名人は継げなかったのですが宗印と同世代の小野が名人位を継ぐに際しては関根が異論を唱えたりといったことはありますが宗印ほどのトラブルもなく当時の棋界で三強に続く者がいなかったということかと思います >>235
小野のあとは小菅関根井上坂田の四者が出てくるわけですが小菅関根は同門だったので練習も含めて手合わせが多く小菅のほうが強かったという評価が確定しています(他に相川治三吉という人も強かったようですが若くして姿を消しています)
ちなみに関根金次郎は24歳のとき(1891年)に関西へ行って当時81歳の小林東伯斎に角落ちで敗れています
小林が凄すぎるのではないかという気もしますが20代前半までは関根はそこまで強くもなかったと考えるのが妥当かと思います
関根はこのときに坂田とも対戦していて坂田には勝っています
坂田がプロを目指すようになったのはこの後なので当時はそこまでではなかったはず
あとは井上ですが若い頃に関根や小菅と比べてどうだったのかというのは不明です
というのは井上は30代までは関西で活動していて全く対戦がなかったからです
しかし1907年に開催された神戸大会では関根と初めて対戦して1勝2敗と負け越しています
これらの事実を総合すると1890年頃には小菅が最強であったと思われます
しかしこの小菅は20代のうち(1893年)に実業家&政治家に転身してしまい将棋は片手間でやるようになったので覇権を握ることはありませんでした
小菅が去ってからは関根が上達してトップを走り僅差で井上が追う状況であったと思われます
実際に関根は井上よりも2年早く八段を手にしています
その後遅れて急激に成長してきたのが坂田ですが残念ながら実は全盛期には大阪で活動していたため関根とはあまり対戦していません
1913年に関根に勝ったのが有名ですがこの頃には土居に平手で負けています
おそらくこの時期にはすでに土居が最強者になっており関根坂田井上は三者ともに抜かれていたと言えるでしょう
しかし1921年の関根名人就位時には「実力で言えば坂田」という記事が新聞に掲載されたりもしているので土居がトップを取ったあとも坂田は長らく一線級を維持して対抗していたはずです
その直後からご存知の通り木村義雄が土居を抜き去ります
となると最強者は宗印→小野→小菅→関根→坂田→土居という経過を辿ったのではないかと考えられます
しかしいずれの時代も僅差で追うライバルがおり木村や大山のような圧倒的存在はいなかったでしょう
小菅が専任棋士として活動していれば木村のような存在になったかもしれませんがそれは分かりません 文句なしに凄かったんだろうけど、数字がほとんどないだけに反応しずらいわ >>236
宗印が名人になる時に異論が出たのは、
名人になる制度が無かったからじゃないかな?
幕府が崩壊してプロ棋士制度そのものが消滅したので、
名人を自称しただけと受け取る人がいても不思議は無い。
若い頃は天野宗歩や大橋宗aとも平手で指したトップ棋士で、
明治には宗印と平手で指せる人がいなくなったから、
実力は抜きん出ていたと思う。
小野の場合は本当に自称しただけ。(なし崩しに追認させた)
宗印が亡くなる前後は既に小菅が最強棋士だったはずなので、
小野が最強だった瞬間は無いと思われる。 うーん木村十四世も凄いんだろうけど、数字が残ってる部分で比べるとどうしても大山十五世の方が上のように感じる
せめて、大山に名人戦で負けた後も引退しないで活躍してたら年長記録とかで評価しようもあるんだけどね
木村十四世名人 1937〜1952
名人戦11回開催 登場10回 獲得8期
名人戦勝率 0.800 タイトル占有率0.727
大山十五世名人 1955〜1970
名人戦16回開催 登場16回 獲得14期 名人戦勝率 0.875
タイトル戦75回開催 登場70回 タイトル獲得58期 タイトル戦勝率0.828 タイトル占有率 0.773 >>238
宗印と小野は八段昇段の件でも揉めてる
単純に仲が悪かったのかもしれない
そもそも小野は家元の養子にならずに八段まで昇段した初めての人物で普通に実力もあったと思われる >>239
もう45なのに若くて脂ノリノリの大山升田を連続で退けたんだから弱いはずが無いだろw >>235
>天野宗歩
私はこちらの方が気になります、中島敦(「山月記」)が宗歩の棋譜を並べていたそうですね >>244
郷田真隆は天野宗歩の棋譜を見て羽生より強いと思ったそうだ
現代に転生して現代の定跡を覚えれば確実に七冠王になるとインタビューで語ってる >>239
その辺は仕方ないところがあるなあ
分野が違うけど、戦前の指揮者で三大巨匠と言われる人がいるんだけど
ステレオ録音を唯一残した人の演奏
は未だに売れている
目に見えるものしか評価なんてできないし >>240
小林東伯斎は一番謎が多い大物だと思ってる
天野宗歩四天王の一人だが天野宗歩と行動を共にしていた期間がない
しかも宗歩よりも歳上
大橋分家の門下だった時期もあるみたいだがいついかなる理由で離れたのか不明
80歳を超えて関根に完勝する異常な晩成型
最強クラスだったはずなのに残されている棋譜がほとんどない
色々な本に関西の第一人者として名前が出てくるけれど経歴が謎すぎる >>238
宗印の晩年には小野が宗印よりも強かったと思われる
というのは宗印の長男が将棋が原因で自殺してしまいそれを悔いた宗印は自宅の将棋板を処分してしまった
それ以降は棋界の事務処理しかしていなかったはず >>245
低段時代の羽生は華麗に勝ちを決める将棋が少なかったからな
勝ち将棋では鬼畜なまでの辛さを見せ
負け将棋ではクリンチして相手のミスを待ち、最後うっちゃりで勝つ
芹沢も「羽生は大したことない。阿部隆の方が筋がいい」なんて言ってたからな
華麗さと強さはイコールではないんだろう
天野宗歩は華麗に勝って見せるから郷田の評価が羽生より上なんじゃないか 最近の書籍で千田定跡使ったとかどうとかで問題になる事があるけど
木村名人が墓から蘇って主張してたらえらいことになるな >>248
それはおかしいな。
宗印の棋譜は晩年の1892年まで残っている。
年少の相川治三吉を特に可愛がっていたみたいだから、
息子を亡くした傷心が癒えたのかもね。
1890年には指し盛りを迎えた小菅に角落ちで勝ってるから、
圧倒的強さを保っていたと思われる。
(あくまで指導対局だから絶対視はできないけど) >>251
今の森内みたいなもんでトップでやる気力はなくなってしまったけれど過去に鍛えた棋力でたまに指して勝っていたという感じかね >>239
木村の場合、名人戦が最初2年に1回だった分ちょっと損してるが、
仮に毎年名人戦があったとしても大山より数字は低いね。
更に、大山は棋戦数が多くてハードスケジュールでの記録なので、
突出度は大山がダントツと言っていいレベル。
ただ、最初の名人戦での直接対決で木村が勝ったので、
格付けとしては木村がちょっと上だと思う。
若き升田大山塚田らを相手にしていた木村は条件が厳しく、
衰えた升田だけを相手にしていた大山は条件が緩い。
(二上加藤らは大山の眼中に無かった) 詰将棋作家で将棋史研究家の門脇芳雄さんが書いてる
伊藤家断絶というけれど実際には断絶したのではなく息子の一人が自殺したことを機に八代宗印が他の息子には将棋をやらせないと決めて自分の代で家元を終わらせてしまっただけだそうだ
門脇さんが実際に八代宗印の子孫にインタビューして判明した
ちなみに門脇さんの取材に基づいて日本将棋連盟が伊藤家の墓を永代供養している 1756年生まれ 大橋宗英
↓12年
1768年生まれ 伊藤宗看
↓27年
1795年生まれ 大橋柳雪
↓21年
1816年生まれ 天野宗歩
↓10年
1826年生まれ 伊藤宗印
↓39年
1865年生まれ 小菅剣之助
↓22年
1887年生まれ 土居市太郎
↓18年
1905年生まれ 木村義雄
↓18年
1923年生まれ 大山康晴
↓24年
1947年生まれ 中原誠
↓23年
1970年生まれ 羽生善治
↓32年
2002年生まれ 藤井聡太
絶対的王者はやはり20年くらいの周期で現れる
これは世代が近すぎるとどうしても直接対決の勝敗でどちらかが格下に見られてしまうからだろう 平成の層が厚い時代に32年も羽生の後釜が出てこないってやばい >>258
そこは中原と羽生の間が23年しかないからじゃないかな
もし羽生が後10年遅く生まれてたら間の谷川が覇権握ってただろうし
やっぱり自分より強いやつとそこそこ世代空いてるというのが重要なんだよ
その点中原はベストなタイミングで生まれた
谷川がもっと早く生まれてたら谷川に食われて中原が王者になれなかったかもしれない 宗印と小菅の間の39年間はマジで空きすぎだと思うんだが >>255
そんな単純なものではないと思うけどな
小菅は絶対王者になれた「かもしれない」ってだけで20代で将棋から引退してるから覇権を握ってない
木村義雄が天野宗歩以来の圧倒的最強者で、明治大正期に絶対王者と居えるほどの圧倒的な棋士は出てきてないという評価が正しいと思う
宗印以降に空白の世代が出来ているのは家元制の崩壊で将棋が断絶しかけた影響が関係していると思ってる >>241
小林東伯斎は「八段半(自称)」だから小野より強いぞ(たぶん)。
もちろん宗印はそれより強い(たぶん)。 >>245
全盛期の天野宗歩を現代に転生させて最新定跡を覚えさせれば七冠制覇できると言ってるのか、天野宗歩が現代に生まれて幼少期から効率良くトレーニングをして最新定跡も覚えれば七冠制覇出来ると言ってるのか
どちらも転生だけど、このふたつじゃ大分意味が違うよね 渡辺明 タイトル20期 永世竜王、永世棋王
谷川浩司 タイトル27期 永世名人 >>259
谷川の期歴を見てるととてもそうとは思えないがな
80年代は中原・米長・55年組等と覇権争い、90年に3冠になって抜け出すも、92年に羽生が3冠とって立場逆転になるのが正史だけど、
羽生を抜きに考えても、谷川は康光相手に90年代後半から直接対決でもレーティングの上でも互角程度の力関係となっている
90年代前半の段階で21歳の郷田に不覚を取ったり絶対王者というには隙が多い
要は羽生が10年遅く生まれてこようが谷川は絶対王者に至るほどの支配は出来なかったと見るのが妥当
羽生が台頭する(10年ずれると考えると2002年ごろ)まで谷川・康光を中心とする戦国時代が長らく継続していたんじゃないか
対戦成績
谷川浩司|36 - 42|佐藤康光
http://www.shogi-kishi-db.info/cgi-bin/shogi/vs.cgi?314&95
レーティング
http://kenyu1234.php.xdomain.jp/graph.php?name1=205&name2=154&name3=0&xaxis=0&yaxis=0 そもそも80年初期の時点で中原は一段階衰えて絶対王者と呼べるレベルの棋士ではなくなった
80年代は総じて(一段階弱体化した)中原・米長・谷川・55年組らが争う戦国時代だった
そんな環境だったのだから谷川は絶対王者になるのならもっと早く抜け出さなければならなかったのだ
確かに彼は将棋の終盤を変えた名棋士ではあるけども、同時に彼は米長相手にも負け越しているし、
(羽生を抜きに考えても)絶対王者状態を築くにはやはり力不足の棋士だったのだろう
谷川浩司|33 - 36|米長邦雄
http://www.shogi-kishi-db.info/cgi-bin/shogi/vs.cgi?314&222 >>261>>265
もし羽生が23歳ぐらいでチェスに転向でもしていたら、
明治大正期のような状況になってそうだね。
今では考えられないような大事件だけど、
棋士の身分が低く不安定だった時代の象徴かもしれない。 野球ではこういうのがある
将棋界も日々レベルアップしていく中で過去のレジェンドをどう扱うかは考えないといけない
Q. もし、あなたが現代野球でプレーしていたら、どのくらいの成績を残せると思いますか?
★王貞治★ 試合に出してすらもらえないんじゃないかな。打者のスイングだけ見ても、私の時代とは全然レベルが違うからね。
でも、もし私が生まれ変わって、現代の栄養状態、現代のトレーニング方法で勝負するってことなら、今の選手にも負けるつもりはないよ。
★野村克也★ よく聞かれるけど、いつもこう答えてるんだよね。「レギュラーにもなれません。今の野球はレベルが高すぎます」って。
「謙遜しないで」って言う人もいるけど、むしろ自慢してるんだよ。新しい技術や戦略を導入して、プロ野球のレベルアップに貢献してきたことが、俺の誇りだから。
★金田正一★ ワシなら600勝できるよ。今の時代は160キロくらいで騒いでるけど、ワシの現役時代は軽く投げて180キロが当たり前だった。
それに、最近の選手はすぐに故障で離脱するね。自己管理ができない選手は二流。ワシは身体が資本だと思って、水にまで気を使って生活していたもんだ。
★長嶋茂雄★ いわゆるバットマンの一人としてはね、ボクもやはり3割くらいは打ちたいよ。うーん、しかし今だとせいぜい2割かもねぇ。
もう少し早くこの話があれば良かったんだけどねぇ。いわゆる脳梗塞というやつをやってしまって、もうバットを握れるのは左手だけなんだ。 >>265 >>266 続き
谷川は「中原と羽生に挟まれて時代を築けなかった不遇の棋士」みたいな評価をされることが多いけど、
彼に関してはむしろ逆の見方だって出来るんだよな。
「中原と羽生の全盛期からある程度ずれていたお陰で実力以上の実績を積む事が出来たラッキーな棋士」という評価。
なぜなら対戦成績だけで判断すると、
谷川は米長康光だけでなく、実は森内丸山藤井三浦あたりと比べて格上とは言えないんだよ。
(森内はまだしも丸山藤井三浦はさすがに調べてビックリした。ここら辺にはさすがに明確に勝ち越せているだろうと・・・)
にも関わらず谷川は彼等より上の実績を残すことができた。
これが彼はむしろラッキーな棋士だったのでは?と捉えられる理由である。
もし彼の生まれるタイミングが異なれば、
中原or羽生の全盛期と完全にかち合うことになれば、
彼の成績は目減りしていたかもしれない。
彼はむしろベストなタイミングで生まれたのかもしれない。
今現在の広瀬〜高見あたりのタイトルホルダーが
「羽生世代が衰えて、なおかつ藤井聡太が台頭する前のお零れにありつけたラッキー世代」
みたいな評価をされてしまっている所を何度か目にしたんだが、
今と同じような環境(中原・米長の衰え&羽生台頭前の1990年前後)で一番タイトルを稼げたのがまさに谷川なんだよな。
谷川のファンは今なお多いだろうし、対戦成績だけで全てを判断できるわけではないし、
そもそも谷川の話題はスレチなのでこれ以上の考察はやめておくが。 昔にロマンを求めるのはいいけど、やっぱり木村以前は競争する土台が出来上がってないよ。
今は150人の棋士と生涯1000〜2000局戦うんだもん。 150人と戦うって、満遍なく戦うわけでもなんでもないだろ カネやんは、それでいいんだ。駄法螺を吹かないカネやんなんてなんの魅力もない。 >>273
現代で言えば、電王戦が昔の棋士の戦いに似てると思う。
電王戦は、プロ棋士として、人間としての全てのプライドを懸けて、
1局で格付けするので、極めて濃密なドラマが見られたが、
昔の御城将棋や南禅寺の決戦などもそんな感じだったろう。
また、電王戦で阿久津や豊島らが研究手を決めて勝ったり、
米長のように研究手が決まったのにひっくり返されたり、
村山のように研究を外されて負けたりというドラマが生まれたが、
昔も檜垣是安の雁木や阪田流向かい飛車など、
とっておきの研究手をめぐる数々のドラマがあった。
数をこなして数字で格付けできる現代は、
客観的に見れば精度が高いのかもしれないが、
1局に人生の全て懸ける昔の格付けの方が、
有無を言わせぬ説得力がある気がする。 土居が過大評価されすぎかな
関西で坂田に負けた角損の一局があるし
ラジオ対局で坂田の袖飛車に完勝した花田の存在も大きい 谷川って羽生にやられたのは置いておくとしても、
前世代の覇者である中原に対しても、引導を渡したってところまで行った感じしないもんな >>206
もっと早くから名人戦があれば、2年で1期としてももう4-5期獲得してた可能性があるわけね >>279
同感。
名人戦が、谷川2期連続→中原3期連続→谷川2期連続→中原3期連続
という10年の谷川計4期中原計6期がタニーにとってはあまりにも残念。
途中奪われても谷川計7期以上中原計3期以下ならやっつけた感あるのに >>268
ノムさんだけが野球を歴史的にとらえていて他は自分のことだけというのが、いかにもで草 >>268
これ将棋界だとこんな感じか?
Q. もし、あなたが現代棋界で指していたら、どのくらいの成績を残せると思いますか?
★木村義雄★ 本戦トーナメントに出してすらもらえないんじゃないかな。終盤の速度だけ見ても、私の時代とは全然レベルが違うからね。
でも、もし私が生まれ変わって、現代の定跡、現代の研究方法で勝負するってことなら、今の棋士にも負けるつもりはないよ。
★升田幸三★ よく聞かれるけど、いつもこう答えてるんだよね。「A級棋士にもなれません。今の将棋はレベルが高すぎます」って。
「謙遜しないで」って言う人もいるけど、むしろ自慢してるんだよ。新しい技術や戦法を導入して、将棋界のレベルアップに貢献してきたことが、俺の誇りだから。
★大山康晴★ ワシなら八冠独占できるよ。今の時代は評価値160くらいで騒いでるけど、ワシの現役時代は軽く指して3手目には評価値プラス180が当たり前だった。
それに、最近の棋士はすぐに病気で離脱するね。自己管理ができない棋士は二流。ワシは身体が資本だと思って、水にまで気を使って生活していたもんだ。
★加藤一二三★ いわゆる棋士の一人としてはね、ボクもやはり名人一期くらいは取りたいよ。うーん、しかし今だとせいぜい叡王かもねぇ。
もう少し早くこの話があれば良かったんだけどねぇ。いわゆる脳梗塞というやつをやってしまって、もうまともに考えられるのは左脳だけなんだ。 >>281
中原は大山から名人を奪取してから一度も大山には名人を与えなかったもんね >>284
八冠独占できるとか言いそうなのは米長邦雄 大山は老害みたいな発言はしないだろ
羽生が小学生名人戦優勝したときも、「私が小学生だった頃よりも大駒1枚ぐらい強いです 数年後には谷川先生を目標にタイトルを争ってるでしょう」と言ってるぐらいだから強ければ認めるでしょ >>288
大山が王のポジションだろうな
★大山康晴★ 本戦トーナメントに出してすらもらえないんじゃないかな。終盤の速度だけ見ても、私の時代とは全然レベルが違うからね。
でも、もし私が生まれ変わって、現代の定跡、現代の研究方法で勝負するってことなら、今の棋士にも負けるつもりはないよ。
こうだろう 大山は1980年代ころに、コンピュータにいずれは負けるぞって言ってた人だからな
他の棋士は、永遠に来ないとか言ってた時代に 木村から名人取った時の塚田ってどんな評価だったんだろう
ちょっとしたフィーバーみたいな感じにはなったんかねえ 現代にそっくりな角換わりを指してるかと思えば物凄い独創的な将棋も指してて草
https://i.imgur.com/97PACJb.jpg
木村名人の棋譜は見ていて楽しいね >>290
カネやんに匹敵するのは大ボラを実現した升田しかあり得ないんだよなあ >>291
コンピュータはミスをしないのか?と先に聞いたところが慧眼なんだよね >>278
当時は棋界が東西で争っていて、西は坂田を過剰に持ち上げ、
東は土居を過剰に持ち上げていたように見える。
対戦成績や年齢から見て、土居≧坂田だとは思うけど。
坂田が東京を追放された時は、既に木村が台頭して来ているので、
土居が圧倒的覇者だった時代はほとんど無さそうだね。 >>296
東西だけじゃなくて関東の関根・土居・井上・大崎、関西の坂田・木見はそれぞれ自分の将棋団体を作って対抗していた
関東は関根の名人就位後に統一されるけど小野の次の名人レースをしていたときは将棋界は6派閥に分断されていたことになる
だからこの時代の棋力に関する話はこんがらがっている >>292
木村升田五番勝負で升田がストレート勝ちし(平手2勝、香落ち1勝)、
次の名人は升田だ、七段の升田も名人戦に出場できるようにしろ、
という風潮になった。
そしたら塚田が名人奪取してしまって、何のこっちゃってなった。
で、来期から七段からも挑決進出できるように規定を変えた所、
A級1位の升田は高野山の決戦で負けてしまい、
B級1位の大山が名人挑戦するというオチがついている。 名人八段勝抜戦という棋戦があって木村名人が駒落ちで八段九人を全員負かしてしまったらしい
すごい 関根の弟子で関根より強かった蓑多七郎のこと知ってる人がいたら教えてくれ
日本将棋連盟の歴史からまるでトロツキーか何かのように抹殺されてるのが妙に気になるんだが >>300
蓑太七郎?家業の薬屋さんになったんじゃなかったかな?
坂田三吉が初めて関東に進出したときに川井房郷とともに撃破されてしまった斬られ役というイメージ >>302
おお、ありがとう
土井市太郎に駒を落として指してる棋譜を見たことがあって何で土井が関根の一番弟子になってるのか謎だったんだ >>300
連盟HPにも名前だけはあるみたい。
https://www.shogi.or.jp/history/story/index04.html
1909年「将棊同盟會」結成時の名簿で、蓑は六段。
ちなみに、土居は四段、関根は八段。 1898年に関根は大橋家に移籍して後見人として大橋家の門下生を募集してるんだよね
将棋史研究家の増川は実質的には関根の弟子の募集ではないかとしている
大橋宗金・大橋五郎は弟子を指導できるような棋力があったはずもなくこれはそうとしか考えられない
土居が関根に入門するのはその九年後の1907年
となると土居の九年前に実質的な関根の弟子が何人かいたはずなんだよね
蓑太七郎や川井房郷あたりの出自不明の親関根派の高段棋士たちはここで入門してきた人たちじゃないかと自分は思ってる
一般的にこの人たちが関根門下として扱われないのは形式的に大橋門下だからかなと
加えて蓑や川井は世代的にはもっと上のほう
おそらく真剣師などの在野の強豪として活動していた人たちが正規の免状を得て専業棋士になるために関根が呼びかけた大橋家門下生募集に応じたものじゃないかなと
当時の免状発行は小野五平名人と大橋家(関根)しかできなかったはずなので >>305は後半は自分が思っているというだけで事実かどうかは分かりません >>305
普通にありそうだけど蓑太七郎は阪田三吉名局集に1908年の対局(坂田が初めて関東に来たときのやつ)が「関根派の新鋭」として紹介されているのが気になる
入門して10年くらいだと新鋭だろうか?
入門してしばらくは泣かず飛ばずで頭角を顕したのが最近という意味での新鋭かもしれないが >>308
1909年の時点で当時としては高段の六段>>304だから新鋭という言葉のニュアンスが今とは違うとしか考えられないんじゃないかな?
関根金次郎は入門から六段になるまでに19年間かかっている
土居市太郎は7年間
徐々に段位が甘くなってきているとすると関根と土居の間の蓑が1898年に入門して11年後の1909年に六段というのは有望株ならちょうどいいくらいの昇段ペースに思える 川井房郷って現在のプロ棋士に連なる棋士の中で唯一師匠が判明していない棋士なんだよな
米長邦雄、丸山忠久、渡辺明とトップクラスを3人も輩出している名門なのに出自が不明 この記事も面白い。
https://shogipenclublog.com/blog/2009/07/21/妻を求める広告/
関根の結婚相手募集の広告を蓑が出している。
「師」ではなく「師友」と呼んでいるので、
師弟と言っても友人に近い間柄だったのかもしれない。 >>310
佐瀬一門と所司一門が一大勢力になってるからなぁ
名前聞かないけどどのくらいつよかったんだろう >>311
師友というのは「師匠に近い友人」みたいな意味
となると
>>305の見立て通り形式的には師匠ではないけれど実質的には師匠だったということなのか
あるいは単純に親友のような間柄で関根のほうが強かったからそう呼んでいたのか 米長は佐瀬一門のことを棋界の傍系とか窓際族とか呼んでたな
それはともかくあなたたちは棋界の生き字引なんですか?
おもしろすぎます >>314
当時を知る人は誰もいないからみんな本で読んだ知識のはずだけど詳しい人が多くて面白いわ >>312
当時作られた番付(この頃は色んなものを相撲の番付風に格付けするのが流行っていた)
https://i.imgur.com/s72W52K.jpg
ツッコミどころはあるがこれを信じると10番目前後の実力ということになるので今で言う阿久津くらいのポジションかな? >>310
当時の師匠大事にする文化の中で判明してないなんてあるのか…… >>317
当時は今よりフリーダムなんだよ
例えば金易二郎
こいつは井上義雄門下で雄の字をいただいて金易雄と改名していたほどなのに関根のところに強豪棋士が集まっているのを見て関根門下に移籍しようとして関根に叱られている
それでも強引に頼み込んで移籍
大崎熊雄はその逆で元々は関根門下だったけれど早く出世できそうな井上門下に移籍してきて新聞講評権を手に入れてしまった
神田も最初は坂田門下やったのに木見門下に移っとるし
もっと前のだと小野は一度対局しただけの天野宗歩を師匠としている
関根は散々お世話になった伊藤宗印が死んだ途端に家元を手に入れるために大橋宗金に再入門してる
坂田は八段の免状をくれたからという理由で小野を師匠にしている
師匠は今考えるよりもかなりアバウトだった時代 >>318
阪田の師匠小野とかマジかよw全く知らなかった
それ以前は師匠誰だったの >>316
ちょっと待って?
このスレで一度も出て来なかった斎藤雅雄が、
小菅、井上、坂田、土居を差し置いて横綱なの?
小野の高弟だからって、めっちゃ身贔屓してるなあ。
やっぱり小野の評価は全然当てにならない。 >>320
これ別に作ったの棋士じゃなくて当時のファンが作ったものだよ
小野一門のファンかもしれないけど 現代ソフトに言わせると香落ちってほぼ差ないらしいね。実力同じなら先手分のハンデで帳消し、勝率五分程度らしい。
まあ木村は香落ちかつ後手の対局も普通にあるが 明治大正期の八段以上の棋士というとこの17人だけかな?
十一代大橋宗桂
八代伊藤宗印
小林東伯斎
小野五平
大矢東吉
斎藤雅雄
小菅剣之助
関根金次郎
井上義雄
坂田三吉
竹内丑松
土居市太郎
大崎熊雄
金易二郎
木見金治郎
花田長太郎
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