1989年5月、十二年続いた大山のあとを次いで二上が会長になった背景には、棋戦の賞金をアップする案に大山会長の根強い反対があり実現しないことへの若手棋士の不満があった
大山としては連盟維持が優先で普及活動の運営資金も捻出したいし、連盟が苦しいときに賞金を受け取らず連盟の運営を助けてきたという自負もあった
その点はわからないでもないが旧式な考えで若手棋士が納得する時代ではなかった
「ガミさんが直接大山さんに交代を迫るべきだ」と米長に言われた二上は「そろそろ私も引退を考えている」と大山に話しかけたが、そんな遠回しな言い方で気付いてくれるわけがなく「ガミさんは実力的にまだまだ指せるじゃない」で会話は終わった
最後には中原棋聖が「長すぎるのもいかがでしょうか」と直言してくれた
それで大山は「みんながそういう意見なら」とあっさり会長を退いた

このように『棋士』に書かれている話は河口の話とはだいぶ違いがある

違うと言えば、ある長老から八百長を持ちかけられたらしいという憶測話も二上はハッキリと否定している
龍を引いて自陣の「と金」を払っておけば勝てた将棋を逃してしまった
そのため、三連勝して香落ち指し込みになると名人の権威に傷を付けることになるからだろうという憶測に尾ひれが付いたわけだが、
「攻めて勝つ」自分の将棋を貫かないで大山直伝の受けで勝っても大山を倒したことにはならないという意地が端攻めに向かわせたのが真相だった