川端康成総合スレ2@文学板
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
申し訳ない。さんざん語られているとは思うのですが、「雪国」冒頭の汽車の中での人物の位置関係が解せない。
教えて頂きたい。
「島村」と、「葉子」と「連れの男」の3者はそれぞれ、どこに座っているのか。
島村の視点で述べていくと、
まず、葉子は、島村の1つ前のブロックの向かい側に座っている。ここまでは分かる。
で、連れの男はどこに座っている(というか身を横たえている)のか? これが悩ましい。(続) ここで、登場順に3つの記述を見ていくと…、
(1)「娘は〜、前に横たわった男を一心に見下していた」
(2)「男は窓の方を枕にして、娘の横に折り曲げた足をあげていた」
(3)「島村の真横ではなく、一つ前の向かい側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった」
とある。(続) (1)で「前に横たわった男」とあるので、そうか、男は「葉子の向かい」(つまり島村には背を向ける位置)に
座っているのだな、と思う。
しかし(2)で「娘の横に折り曲げた足をあげ」とあるので、いや、男と葉子は同列に並んでいるのだ、
と修正される。
で(3)で「(島村の)一つ前の向かい側の座席」とあるので、やはり男と葉子は同列にいると裏づけられる。
となると、(1)の「前に横たわった男」という記述が混乱のもとになっているのか。(続) さらに読み進めると「鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸あたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた」とある。
一瞬、やはり、葉子と男は向かい合っているのかと思うが、男は、葉子の真横で横たえていても、葉子の胸あたりを見ることは
可能であろう。それに、向かい合っていては、鏡に顔色が映らない。
ちなみに、岩下志麻版「雪国」では、葉子と男は向かい合っていた。
男は通路側を枕にして身を横たえていた。(続) 川端の言葉選びは、緩やかであるといえそうだ。
そもそもド冒頭場面。「娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした」。
これも「島村の一つ前のブロックのガラス窓」ということだろう。
「ひとつ前」といわず「前の」ですませてしまう。さすが文豪。
長々と失礼しました。解釈の間違いがあれば、教えて下さいませ! 行男=良寛=禅の指導者
葉子=貞心尼=行男が亡くなるまで彼から直に禅の指導を受けていた
まわりから気違いと思われるほど浮き世ばなれしていたことから駒ちゃんより相当禅が進んでいた
駒子=東京から行男に日記を送り続けること、また都落ちしてからはとりとめのなく日記を書き続けたり
芸者として身を砕き彼に療養費を貢ぐなど自立的に禅を実践していた
しかし数多の俗世に翻弄され、行男が亡くなった後も葉子より禅の遅れていた思いから終始彼女にいらいら
のみならず自らの意気地が足りなかったことに彼女を行男との悲しい関係に巻きこんでしまった故の罪悪感
つまり葉子そのものが自罪の象徴であり権化と見て、彼女を忌み嫌うは気違い呼ばわり
島村=すべて上記の観察者
終いにはその鋭い観察眼と類い稀なる集中力から禅特有の美しさに自ら取り込まれ
悟りを開き、天の河という大自然との合一を体験する、まさに神霊トラベラー
雪国=もののあわれ+禅への美感 憂国の士であり活動家でもあった三島由紀夫や、
アナーキストの坂口安吾とも交遊する
川端康成自身の政治観って、どんなものだったんだろうかね。
戦後の現代的で個人主義な日本に対しては、損失感や失望感を覚えていたのか
舞姫だったか山の音では、戦前・戦中の方が家庭は平和だったというような記述もみられた。
エッセイでは過激な論調を見せる坂口安吾も、白痴では似たような表現があったような気がする。 たぶん川端は政治なぞ、どーでも良かったんと違うかね?
最初から、全く、信じてないと思う、政治は。 あれは個人的な恩返しであって、日本文学全集に入れさせない厳重な意見への罪滅ぼしでもあった 川端ワールドの理解って難易度高過ぎだろ?
だから魅力があるのかも。日本語の言葉遊びが突出しているな。
三島もそうなんだろうけど。 川端は難しい言葉や表現は少なく、大衆文学寄りの作品が多いから読みやすい
どの作品も特に女の人物像と、心象風景がとても丁寧に流麗に描かれている。
三島は語彙が豊かで、作品によっては難しい表現や独特の描写が取っ付き難いものもある。 川端さんはたしかにひらがな多くて平易そうだけど、漫然とななめよみしてるととたんにわからなくなる。無駄を削ぎに削いでるからかなあ 文庫になっている作品のどれが代筆かって知っているかい?
眠れる美女ってのは無しで。
この人の感性は代筆できるとはとても思えないのだが。
事実がある代筆本を知っている人がいるなら教えて欲しい。 眠れる美女は直筆原稿の写真が新潮の日本文学アルバムにあるから代筆ではないと思う
あの頃の三島はメチャクチャ忙しかったから代筆なんてしてる余裕は無い、まあ原案とか構想なんかの一部分は手伝ったのかも知れないけど
少女向けの『乙女の港』は中里恒子が書いたのを川端が添削して川端作として出したと言われてる Kindleが手っ取り早いな。
新潮いいね。絶版ものがアップされてて 「女であること」新品の新潮文庫をネットで買ったら、
背(花ぎれ)が飛び出しているし、背表紙シワ寄ってるし最悪だ
分厚いから読んでるうちにバラけないか心配 女であること、なかなかボリュームがあるのでお盆休みに耽読&通読予定 みずうみを今読んでいる。
なんか面白いが、これって純文学か? 恥ずかしながら、24にして始めて雪国読んだんだけど、
冒頭から情景描写か凄まじくて驚いた
さすが日本を代表する名作だと感じた >>101
かなりの遅レスだけど、全面的に同意する
三島のいう美ってどこかゴテゴテしたとってつけたような感じがして悪趣味に感じる
日本的な美を本質的に理解できないから、武士道なんかに走って切腹したんだと思う みずうみってなんか怖ろしい小説だな。
これが傑作とはわからん。 川端語録
怠け者ですからね
まあ運がいいんでしょう。まあ拾いものみたいなもんですからね・・・
西洋じゅう歩いてて穴にでも落っこったんじゃない?
構成力(こうしぇいりょく)は有りませんねえ
まあしかし、僕のようなのが日本文学の代表だと思われるとこれは困るんですね、
それ困るな、一番
ドナルド キーンとの対話(『雪国』の冒頭の主語が曖昧。駒子が島村の部屋で
「帰るの」といったり、「帰らないわ」と言ったりする曖昧さについて)
曖昧さこそ日本的なんですよ。
曖昧さ。・・・余情とでも言うのかなあ。
曖昧であるからこそ逆に表情豊かに受け止められる力。
その可能性を私は信じたのです 『美しさと哀しみと』読んだ
よかった
うまく説明できないけど、この作品には特別な何かがある http://eiga.com/news/20160615/1/
いわば勝手に解釈した古都の続編だろう。パリでロケとか、何考えているんだか。
古都とは別物の映画。
映画そのものが面白ければ、それはそれで楽しめばいいんじゃないの。
そもそも、映画って時点で、文学作品とは別物なんだからね。
俳優についてあまり知らないけれど、所謂スターってのが最近はいない気がする。
うちのとなりのおねえちゃんみたいなのが多い。
記事では、モノにこだわっているって書いてあるけれど、
まずこだわるのは俳優の演技。 春には「古都」
夏には「みづうみ」
秋には「山の音」
冬には「舞姫」 マイナー至上主義でもないんだけど、「みづうみ」と「山の音」が個人的によかったですね 川端のウィキ、誰が書いたか知らないけれど、とってもよく書けていると思った。
ノーベル賞受賞のときの対象作品、雪國、古都、千羽鶴、は知っていたけれど、
水月、ほくろの手紙、は知らなかったな。
など、って書いてあるから、他にもあったかもしれないけど、どうだったんだろうね。 >>506
俺と好みが一緒で驚いた
川端自身ではあんまり褒めてないけど温泉宿っていう作品も好き
雪国もたまらん
だが禽獣は三島が代筆でもしたんじゃないかってくらい響かない
川端作品ってみずうみでいえば女性のあとつけていくとか片腕でいえば一部分だけで愛するとか山の音とかもそうだけど内的には極端に積極的なのに外的にはかなり奥手っていう他者との関わりの上での異常なギャップありきだとおもう 禽獣は三島の代筆では絶対にない。
三島の作家論で三島がその小説を語っている以上はな。 別に三島じゃなくてもいいけど、
いかにもそっち系の人が好みそうな感じ 川端は、少なくとも、寡作とは言えないだろう。
量があるから、読者によってそれぞれへの感想や評価は、当然まちまちだが、
それでも、十指の指差すところ、と言うものはあるわけで、
その点では、古都>雪國なんだろうと思う。
しかし、代表作をひとつ、と言われると、雪國を、少なくとも考えざるを得ない。
雪國のサブテキスト的な書物として、「北越雪譜」
歌舞伎十八番や黒髮などの知識…
と、知っていれば、なぜ川端がそう書いたのか、みたいな
周辺を嗅ぎ回る犬のような作業は、ある程度可能だろう。それをくだらないとは思っていない
けれど、雪國を読むのは、なんというか、感性の資格、みたいなものがあると思う。
おそらくこれは、僥倖の支配する、本当に単なるある感性で、人間の優劣みたいな
ものではないし、ハマる、と言うべきか、おたく、と言うか、まあちょっと表現はしにくいのだが、
それを持つ者にとっては、ある大きな感覚をよびさますものとして、雪國を捉えることができると思う。
それは作品に対する好悪とは、これまた違うと思うんだな。 雪国は冒頭さえ読めればあとは全部夜める
雪の冷えが下から迫ってくるとき鼻孔が冷たさを匂いと誤解するような冬の空気感まで伝わってくる 川端は戦後最後の大文豪。
俺が保証するぜ。
三島は軽い。その前の太宰はダサイ。
今の村上春樹もどうでもいい。 ボブ・ディランノーベル賞受賞おめでとう。
「ビートルズやボブ・ディランの歌詞にはたとえばラーキンやベッチマンの詩と並べて考えても
よいものもみられる。・・・ポピュラー・カルチャーに対する偏見にとらわれない態度は、大衆
という文化的マイノリティからの新しい視点を導入して、新しい文学史を書かせるかもしれない。」
(川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)より) ↑誰もそんなこと言ってないのだが…
おまえ今後二度と絶対に来ないでくれないかな
空気読めない馬鹿は あまり下らないレスばかりしていると
夜枕元でサイコロを投げ続けるっぞ! 舞姫、初めて読んだけど傑作だなぁ。
社会的な背景を抑えて控えめに使ってるところが凄い。 新潮文庫の三島の解説がまた素晴らしい。
小説は好きじゃないけど批評家としての三島は最高。 >>525
どれだけ三島読んで好きじゃないとか云ってるんだ?
長編が読めないなら、先ずは短編でも読んでみろ
「憂國」は勿論のこと「橋づくし」とか最高だぞ 川端康成ノーベル賞受賞後の鼎談は何度見ても面白いな 遺作が無為徒食過ぎて、可哀想。双子の娼婦が痛々しい。これを読んで、綿矢金原は川端の打ち込んだ弾かと思った。娼婦じゃないけど 今、番組表見てて見つけたので一応書いとく
直前になってしまい役立たないだろうけど
NHK総合 12月3日(土)
午前5時40分〜午前5時50分
「川端康成(作家)」
日本人初のノーベル文学賞を1968年に受賞。受賞決定直後のインタビューの他、
1961年放送の番組から61歳の時の貴重なインタビュー映像も紹介する。
川端康成は、常にインタビューの中で、自分は「怠け者」であり、川端文学は
「怠け者の文学」であると語る。どんな時も決して力むことなく自然体で
創作を続けた川端の姿勢を示す言葉であろう。剣道で言えば一番強いタイプで、
無構えの構えと、三島由紀夫が解説する。
以上 たまたま早起きして書き込み見たから見られた
ありがとう
しかし10分は短いな 小説の映画化、アニメ化、演劇化などはすべて、小説とは別物、と思って楽しまないと、
あそこが違う、などと些細なことが気になって、鑑賞に身が入らないから気をつけよう(笑
洋画は小説とは違った面白みを感じることがあるけれど、邦画で小説より興味深いと思うものはあまりない。 音楽かあ…。ちょっとピンとこないな。歌舞伎や能、三味線に長唄、都々逸とか(笑
雪國とか山の音は、どちらかと言うと、sound of silence指向かも。 ■川端康成について
三島「川端さんの文章は、ある場合は睡眠薬が助けてくれるというのもありますけどね(笑)。
でも、ジャンプするのがすごいんですよ。怖いようなジャンプをするんですよ。僕、ああいう文章、書けないな。怖くて」 >>543
この感覚を最も味わえる作品は何ですか? 眠剤食いながらトリップして描いていたのは「古都」だな 「名人」の川端は凄いな。
囲碁は全然解らない俺でも引き込まれた この人は作家でなければ
変質者として逮捕されてたな。 一度もアルバイトも勤め人も商売人もやったことないんだよね
純粋に純文学者として生きられたのはすごい おまえは一体全体何が言いたいんだ?
こんなところで書くことは単純だ。基本は
1.読んだ本の題名
2.感想
中間小説的とか大衆文学作品
なんてことをお前が言うことに、何の意味があると言うのだ。
評論家の真似でもしているつもりか?!
雪国を読んだけれどつまらなかった、と言うほうがお前の二つのレスより遙かにマシだ。 眠れる美女を三読したが、やはりどこがいいのかわからなかった。
三島みてーな変態じゃないと共鳴できまい。
少なくとも女が読んで濡れましたなんて感想はねーだろ。 ぬれるのが好きならエロビデオにしとけ。それように書かれた娯楽小説もあるんだし。
わざわざわからんモンを3度も読む気がしれん(笑
最初の数ページ読んでがつん、とか、ぴーん、とかくるもんがなきゃ、ほかあたったほうがいい。
普通の男向き⇒雪國、古都、千羽鶴
短編好き⇒掌の小説
ちょっと変わってるものが好き⇒片腕
渋目好き⇒山の音
実験小説とか言われるもの⇒水晶幻想
ここでは有名どころ=名作と言われるもの、しか話題にならないけど、興味があったら全集。エグいのもあったりする。
それから、川端読むときには文章表現に着目して読むといい。
登場人物がなぜそういう行動をとるのか、ってのを考えるのも面白い。
雪國は今の形になるまでに10年かかってる。だから、いいところで切れていると思えるところは
時間の飛びがあるかもしれない。
古都はクスリ飮んで書いた新聞小説を、あとから手入れたもんだから、新聞とは最初の方はかなり違う。
でも、読んでできがいいと思うのは、やはり今のもの。
川端に関する評論は、長谷川泉や吉田精一ら、同時代を生きた諸氏のものが面白い。
最近じゃ、名前も知られていないだろうけど。
ちなみに、長谷川はビジネスマンと二足の草鞋をはいた人物、吉田は、サイデンスティッカが雪國の邦訳関連で
来日していたときに、昔のまともな東大で、彼を教えた人物。 日本語がロクに読めないんじゃ、川端読んでもつまらんだろうな。 川端はどれも読みやすい作品ばかりなのに
さも難しい高尚な文学のように崇め奉るなんて愚の骨頂だな(笑 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています