川端康成総合スレ2@文学板
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この間川端さんが、睡眠薬の服用を急激にやめられたことから、禁断症状の発作を起され、東大病院に御入院中で、
面会謝絶と知りつゝ、強引に押し込んで御見舞をしましたところ、もう相当御元気で一安心しました。
「睡眠薬遊び」はもうお懲りになつたでせう、と諫言しましたら、苦虫を噛みつぶしておいででした。
三島由紀夫
昭和37年2月27日、中村光夫への書簡より 警 告
皆さん、民主党を批判するのはやめなさい。皆さんはその有資格者ではありません。
民主党に投票したひとは、当たり前ですが民主党の方針を批判する資格はありません。
これはあなたたち自身が常々主張している理屈です。
民主党に投票しなかったひとは前提として民主党の敵ですから、その言説はすべて
ためにする批判・批判のための批判であって、一顧だにする余地はありません。
民主党を批判する権利があるのは、民主党に投票し、なおかつ民主党の理想と方針に
今まで完全に同意してきて、現在もこの先も完璧に同意し、何があろうとも民主党を
支持しつづけるひとだけです。これが正論であり、民主主義というものです。
ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
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.| ⌒(__人_)⌒ .| 僕はほんとは菅ちゃん応援してたんだよ
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川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけでは
ないことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、
明治以来の西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか
見えないかといふ色合の差にすぎない。(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。(中略)
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。(中略)
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も
西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」 より …氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的
帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、
対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女に
とどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに
対する興味だと思はれる。
…しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の
知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、
私の胸を搏つた。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 川端さんは、暗黒時代に生きる名人で、川端さんにとつて「よい時代」などといふのはなかつたにちがひない。
「葬式の名人」とは、川端さんにとつて、「生きることの名人」の同義語に他ならなかつた。この世は巨大な
火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、現代はどうもそればかりでは
ないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げてしまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風
ばかりである。
これには川端さんも少し閉口されたらしい。「眠れる美女」は、そのやうな精神の窒息状態のギリギリの舞踏の
姿である。あの作品の、二度と浮ぶ見込のなくなつた潜水艦の内部のやうな、閉塞状況の胸苦しさは比類がない。
そこで川端さんの睡眠薬の濫用がはじまり、濫用だけに終つてゐればよかつたが、その突然の停止が、あたかも、
潜水夫が急に海面に引き上げられたやうな、怖ろしい潜水病に似た発作を起した。(中略)
三島由紀夫「最近の川端さん」より 幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の有難味がわかる一方、
生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さもわかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な
官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる
傲慢、……これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない
奇怪な症状である。
三島由紀夫「最近の川端さん」より 『川端康成氏の小説に、童貞を重荷に感ずる少年が、月に向かって、「僕の童貞をあげよう」
と叫ぶ美しい場面があるが、こんな厄介なそして持ち重りのする荷物は、一刻も早く捨てるに越したことはないのです。』
この小説の題名って何ていうの? 三島の文章、引用しまくってる奴って、何が楽しいの? 三島って、すごいな。これほどの文章が書けて。
それに惚れこむ自分もセンスあるな。
こんな感じか。 三島君はこの最初の長篇小説で、恋人が結婚のその日に心中するといふ心理に陥り、その作品を「盗賊」と名づけた。
自殺する二人が盗み去つたものはなんであるか。すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。
私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。
三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。
三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から
作品が出てゐると見る人もあらう。
この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を
編み合せたやうな生々しさもある。
川端康成「盗賊 序文」より 今日(10月2日)から「川端康成と三島由紀夫展」
鎌倉文学館で12月まで開催
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昭和20年3月、川端康成は、20歳の三島由紀夫から最初の小説集『花ざかりの森』を贈られ礼状を認めます。
そして、終戦をはさんだ翌年の1月、三島は原稿を携え川端を訪ねました。川端はそれを読み雑誌「人間」に推薦、三島は本格的に文壇デビューします。
そこから、三島が亡くなるまで24年にわたり二人は深く交流しました。本展では、二人の交流の軌跡を多彩な資料でご紹介します。
鎌倉文学館は鎌倉市長谷。下記にアクセス
http://www.kamakurabungaku.com/info/index.html
(月曜休館) 関連イベント
○文学講演会
10月26日 午後一時〜三時
場所 鎌倉生涯学習センターホール
川端香男里(川端記念館理事長)
松本 徹(三島記念館館長)
事前に申し込み(定員280名)
○伝統へ、世界へ 文学講座
11月5日 午後一時〜二時半
場所 鎌倉生涯学習センターホール
講師 佐藤秀明(近畿大学教授、文藝評論家)
事前申し込み(定員280名)
申し込み方法 官製はがき、メール、FAXに郵便番号、住所、氏名、電話番号、参加人数を書いて、鎌倉文学館「文学講演会」「文学講座」係まで。
はがき 248−0016 鎌倉市長谷1−5−3 鎌倉文学館
メール bungakukan@kamakura-arts.or.jp
FAX (0467)23−5952 川端氏の文学は近代小説の烙印を押された宿命的な古典の書である。
川端康成論(試論第一)
一、川端氏は抒情や感覚といふ低次な概念で総括さるべき作家ならず。
一、分析力と綜合力との矛盾せる競合、対象への背反
対象の前に行はれる作者自身の旋回、小説の可能性を最も豊かに感じさせると共に、小説の末期感をつきつめた仕事。
最後の仕事、天地創造(トルストイ*)の深い疲労に溢れた安息日(康成)
日常性の求める永遠の日曜日
*悪夢のやうな近代文学
一、川端氏とその作品の基底たる日常性の問題(旅― 孤児―)
日常性の抑圧と揚棄
川端康成=『生への嫉妬』
平岡公威(三島由紀夫)21歳のノートより 私にとつて技法的に影響をうける作家は長つづきせぬ。
精神的に影響をうける作家は長つづきする。
川端さんとリラダンとが私にとつてそれだ。
しかもリラダンは殆んどよんでゐない。よんでなくともわかるからだ。川端さんのも沢山よまないやうに
気をつけてゐる。「女の手」「過去」
人間愛がかういふ屈折をとらざるをえぬ文学。それは愛情のつきつめた一極点。
『愛情の北極』
・神への不信と虚妄
・ある川端氏と近しい人が
「それは川端さんは気附かれなかつたらしい」といふのをきいた時、私はわが耳を疑つた。
私には川端氏が気がつかぬ事柄なんてこの世にあると思へなかつたのだ。
川端康成――(芸術的)個性と自我の完璧な分離
川端氏の作品に僕は小説の極めて豊かな眼界を感じる。
牧野信一、稲垣足穂の作品に僕は小説のきはめて窮屈な眼界を感じる。
川端氏の眼界の豊けさは、薄や虫類や小魚をよせあつめる波打際のゆたけさだ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳のノートより 「名人」は囲碁を全然知らなくても、
飽きずに読めるように書かれてある。
「雪国」と並ぶ作者のお気に入り。 駅弁、文士の玉手箱伊豆の踊り子弁当が三島駅で売ってますよ。 川端ファンの皆様、どうかWikipediaの“神取忍”の項目を訂正しておいてください。
http://www.unkar.org/read/changi.2ch.net/csaloon/1249719044
心が折れる、という表現はバキ発
1 :マロン名無しさん[sage]:2009/08/08(土) 17:10:44 ID:???
今、世間でこの表現が定番化してるが発祥はバキ。
とりあえずこれを言いたかった。
それと、目が点になるってのも漫画発。
どおくまんの漫画でよく使われる表現をさだまさしが流行らせた。
44 :1[age]:2009/08/12(水) 19:33:17 ID:???
みなさん、お久しぶりです
1です
その節はご迷惑をおかけしました。
「心が折れる」という表現はバキ発と言いましたが
皆さんから神取忍という指摘を受けて非常にショックを受けました。
しかし、あれから私は調べました。
その結果、とんでもない事実が判明しました。
何と「心が折れる」という表現の発祥はバキでも神取忍でもなく
川端康成だったのです。
昭和7年に発表された「抒情歌」という小説で既に使われていたのです。
「父は母の死に心折れて・・・」という一文があるのですが
興味のある方は文庫本か図書館で確認してください。 マルケスが川端の「眠れる美女」の影響を受けている、という人はいるよ。
マルケス自身が言ってたかどうか知らないが。 ガルシア=マルケスは『眠れる美女』をなぜ自分が書かなかったのか、
悔しいといった趣旨のことを言っている。
だから『わが悲しき娼婦たちの思い出』を書いた。 それは物語としての影響ですか?
それとも、文章としての影響ですか?
日本語の読めないマルケスが文章としての影響を受けているとは思えませんが、
38のスレで語れれているのは、文章力に関する話なので・・・ 川端康成は霊能力が有った。
──幼い時の私は搜しもののありかなどを言ひあてた。明日の來客なども言ひあてた。
さういふ勘を不思議がられる以上に、幾らか實際の便利とされてゐた。
物が紛失したり、明日の天氣模樣を知りたい時など、祖父母は私にたづねた。
私はなんの氣なしに答へるだけだつたし、あたつてもなんとも思はなかつたのだが、
小學校へ入るころには、さういふ勘は消えるともなしに消え失せてゐた。──
川端康成著 『故園』
だから、川端康成が後年、霊能力者 エマヌエル スウェデンボルグに惹かれたのは
当然と言えば当然であった。その事を知った上で川端康成の文章を読んでみると、
今までとは違った新たな発見が得られるだろう。 >>41
38のレスの全部に眼を通さなきゃならないのか?w
マルケスのmemories of melancholy whore の主人公の男のキャラ設定は
川端のhouse of sleeping beautiesの主人公とそっくりらしいと聞いた
がナ。たしかに、醜くてシャイな主人公は川端作品に良く登場する。
川端の作品はスペイン語に翻訳されてるから、川端に強い関心を持って
いたとすれば、翻訳越しにでも影響を受けた可能性はあるだろう。
丁度、春樹の文体がアメリカ文学の影響を受けてると、この板で議論さ
れるようにw
>>20
言っている文句は多少違うが、小説の題名は『掌の小説』の中の『月』。 俺はあまり本は読まないし文章を読むのさえめんどくさい
ぐらいのメンヘラーなのだが芥川龍之介の歯車と川端康成の
眠れる美女はかなり良かった。さすがは一流作家だなと思ったな 川端の方が三島より世界性がある。japonismとは無関係に。
三島がいくら言い訳しようとも、三島は川端のことを過小評価
していたんだな。 >>50
川端作品は三島由紀夫が一番評価して推薦してるの知らないバカですか?
それに、一説には「眠れる美女」は三島由紀夫の代筆だというのもあるし。そう証言してる編集関係者もいるようですけど。 蘭陵王の79頁で「眠れる美女」を褒めちぎっているけど
自分の作品を褒めて恥ずかしくないのかな? >>53
はあ?
蘭陵王って、自衛隊訓練後の休息のひとこまを書いた短編小説ですよ。
「眠れる美女」についてはいくつかの評論で褒めてるのは確かですけど、
代筆だと明かせない歯がゆさと、作品への自信がそうさせたのかもね。 三島由起夫が『眠れる美女』を書いたなら、乙女が乙女のままで話は終わらないだろう。
上の14番で、「犯されたときはすでに処女ではない」などと言っているのだから。
犯されないからこそ処女なのに、なぜ犯された後までを「処女」の定義に入れて言う必要があるのか。
本人にそういうものを書きたい願望があるからだ。 で、この作家ってどこからどこまでが本人の作品なわけ?
どんなに優れた作品でも、作家を詐称しての発表はフェアじゃないというか・・・
萎えるわな 『眠れる美女』
芸術か、エロかって所、実に、女の体がせんさいに描かれてある。俺が今、ここで寝たら、若いからか、
禁を破るだろう。
森田必勝「高校時代から浪人時代にかけて読んだ小説の読書ノート」より >42
いったい現実ということを諦める事がいかに難しいものか。
川端さんを読むとそう思う。
三島さんと方法が違うが、
なじめない「現実」を前に、しようもなく綴っていた感のある
作品群を前にすると、
川端さんが超能力者というよりも
「現実」というものへの寂しさ、むなしさが
川端さんの「超能力者なるものへの共感」を生んだ気がする。
最後は、「くすり遊び」にはまってしまっていたようだし。
実は昭和43年のノーベル文学賞は三島由紀夫とほぼ目されていたが、審査員の一部から三島の政治的活動を
問題視する声があがり、三島の受賞に強く反対し川端康成へ移行していった。
ある審査員が三島を、全共闘の仲間と短絡し、急進左翼に肩入れしているとみなし、代わりに川端を強く推したのである。
また、川端は事前に自分が受賞することを知り、三島へ「今回は私がいただかせてもらいます」と電話した。
三島の死後、川端は、「あれは三島君がもらうべきだった賞だ」と知人に漏らしている。
そして自責の念にかられてか、川端は徐々に重度の睡眠薬中毒になってゆく。
実は受賞対象の作品の一つの「山の音」は三島が代筆したものだったと、三島の妻・瑤子夫人は友人に秘密を
暴露していたという。
また一説には「眠れる美女」も三島の代筆と言われており、三島死後の、父親・梓と川端康成との確執も
この代筆問題に関連したものと思われる。 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室に立てこもったニュースを聞き、川端康成はすぐに現場へ駆けつけた。
そして、川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を見てしまう。(これは警察官らの証言だが、
川端本人は遺体は見ていないと否定している)
ひと足遅れてきた石原慎太郎は、現場検証した警察関係者から、「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされる。
慎太郎は川端が三島を見送ったならばと、入室を辞退していった。実際のところは単なる怖じ気だろう。
川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような
言動をするようになってゆく。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品は書かなくなっていった。
そして、三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、
仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。
水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げていた。遺書はなかった。机には太宰治の本が
あったともいわれている。
遺書がなかったせいか、この自殺には諸説あり、なかには他殺説まであり謎のままである。 >>71
太宰でなく坂口安吾だって記事もあるぞ。
ガス管もってて事故はないだろうし、デマも
多い。 「日本文学」という呼び方の似合う
最後の世代の人かな。 >>73
誰も「事故」だと断定してないよ。よく読んでください。 川端の受賞は穏当な結果だったと思うが、
イデオロギー問題が絡むから、話が面倒に
なる。 あったならあったで、なかなか興味深い話ではある。
作家本人としちゃ余り名誉な話ではないだろうが。 原稿の字が川端の筆跡じゃない、綺麗な字(三島の字に似てた)という話もあるようですよ。
代筆問題は、三島由紀夫の代筆の他にも、北条誠、沢野久雄もやってたという噂があります。 ▼川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった
川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった。相当の目利きで、かなりの優品を集めていた。
水戸駅からほど近い、千波湖の畔にある茨城県近代美術館の『川端康成コレクション展』(平成22年4〜6月)には、国宝の池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」、そして幻の蕪村文台も出品されていた。
サイデンステッカーが美術収集家としての川端について次のように語っている。
・・・川端はすばらしい美術収集家で、それは彼自身の賜物でした。とくにどの分野の、いつの時代のもの、と限定することなく、自分でいいと思ったものだけを集めた。
繊細な眼、批評家の眼を持っていた。彼のコレクションは、批評家のコレクションです・・・(「諸君!」昭和52年8月号)
『中央公論』の編集者として、晩年の川端と十年余りつき合った伊吹和子は、最初の出会いを次のように綴っている。
・・・広い縁側から座敷に入ると、右側が床の間になっており、軸がかかっていた。床の間の横の違棚の下に、一メートル余りの高さの仏像のようなものが置かれていて、
黒光りのする肌のところどころに、朱の漆らしい色が、障子を通して入って来る薄い光線に浮いて見えた。
私は背後の像が気になって、知らず知らず何回かそっと振り向いて見ていたらしい。像は、目尻の上った涼しい眼をちょっと伏せた幼な顔の中に凛とした気品が漂い、
上半身は裸形で、ふっくらとした両の手が、何かを包むように柔らかく合されている。そして下半身の袴の襞に、他より多く残ったらしい朱が、落ち着いた美しさを湛えていた。
先生はAさんに相槌を打ちながら、私を見ておられたようである。突然、こちらへ顔を向けると、「聖徳太子なんですけど……小さい頃の」と言われた。
私は、ただ「はあ」と言ったまま、あとの言葉は飲み込んでしまったが、初めて聞く声には、関西の訛りがはっきりと残っていた・・・(『川端康成 瞳の伝説』)
伊吹は、鎌倉長谷の川端邸を先輩Aと初めて訪問し、客間に置かれた聖徳太子の稚児像に強い印象を受けたのだ。私は稚児像の存在を知って、いつかこの像に見えたいと願った。
水戸の美術展で実見すると、期待に違わない、見る者の心をスーッと引き込む磁力のようなオーラを静かに発している像だった。これは必ずしも聖徳太子でなくてもいい。
両手のひらを胸の前であわせ、何事かをじっと一心に静かに、しかし勁く念じている木造の稚児像から、柔らかく、しかし厳かなものが伝わってきた。鎌倉時代のもので文化財にも指定されていないが優品である。
▼川端の異常な金銭感覚
この稚児像は、川端が東大病院に入院していた時、見舞いに訪れた古美術商から入手したのだが、堤堯は川端と骨董について次のようなエピソードを明かしている。
・・・当方の友人にUという男がいた。大学を辞めて古美術商の丁稚となった。文壇・画壇の古手が出入りする。ある日、こんな会話を耳にした。
「川端さんがちょっと預かると言うて壺持っていきよった。それっきり何の音沙汰もあれへん。そろそろ買うのか買わんのか、はっきりしてもらわんと困る」
「いや、あれはニセモノや。かまへん、ほっときい」・・・(「WiLL」2006年12月号)
金田浩一呂は、川端の骨董商との付き合い方や金銭感覚について、かなり特異なものだったと言っている。
・・・骨董品店などで気に入ったものを見つけると、すぐ買ってしまう。亡くなったとき骨董商が集まってきて、未払いの品物を持っていったという話まである。
川端が金に放胆だったという話は多い。川端から「銀座のバーに行ってますか」と聞かれ、「最近は高いので、なかなか行けません」と答えると
「高ければ払わなきゃいいでしょう」と言われた、と聞いたのは吉行淳之介。中村真一郎も同じような回想録を残している・・・(産経新聞平成22年5月3日「文士の流儀」)
金田は「すぐ買ってしまう」と言っているが、川端は入った店にある、あるいは持ち込まれた骨董や美術品が気に入ると、カネを払うとも言わずに、
平然と占有する性癖があった。養子の香男里の話では、骨董屋・古美術商たちは川端康成を通った、還った品だと言って高値をつけていたそうだから、結局持ちつ持たれつだったのだろう。
臼井吉見の実録小説『事故のてんまつ』に、川端は安曇野の植木屋から鎌倉まで運ばせたイチイ他の植木、その運搬費、人夫賃の費用数百万円を払おうとしなかったが、
天下の川端にお代を払ってほしいと、田舎の植木屋はなかなか言い出せなかったとある。
或る週刊誌がノーベル賞を受賞した直後の川端に原稿を依頼したが、なかなか応じてもらえず、ハワイに滞在中の川端に編集者が会いに行き、懇請を重ねて執筆の約束を取りつけ百万円の原稿料を前渡しした。
しかしようやく届いた原稿は枚数にして4枚にもならない短いものだった。担当者のハワイへの往復の飛行機代・滞在費も含め、一字当たり1300円余の原稿料になったという。
今から40年余り前のエピソードだ。川端はそういうことを斟酌しない人だった。
(つづく)
一人の人間だと思うからいけない。
日本文学が足をはやして歩いてる
だけ。 ただのキチガイだっただけだろ。
私小説作家は、殆どがキチガイだよ。 >>88
芸術家はすべてキチガイだよ。
でなきゃ、たいした芸術家じゃねえ。 ヒロポンとかやってたのが多かったからだろ。
だから人間だと思うからキチガイに見えるんだって。 ▼川端夫人の怨み
平成22年水戸駅の傍にある茨城県近代美術館で開催された『川端康成コレクション展』の一画に書簡コーナーがあった。
そこに三島由紀夫からの手紙が一通だけ出品されていた。便箋はレターヘッドに「Yukio Mishima」と刻印された自家製で、昭和41年8月15日の日付があった。
三島はその直後8月下旬から9月初めにかけて『奔馬』の取材に奈良の大神神社、広島(ここは恩師清水文雄との邂逅)、そして熊本の神風連縁の地所に赴いた。
「拝復 お手紙ありがとうございました。あれから下田へ行っておりまして、昨日帰京、又二十日から取材のため、関西と九州へまいります」という書き出しで、
「野坂昭如の「エロ事師たち」が武田麟太郎風の無頼の文学で面白く思いました」「一寸面白いのは宇能鴻一郎あたりかもしれません。あの人には谷崎潤一郎初期の悪童性があるように思います」という作品評や文壇話をしているごく普通のものだ。
あれだけの交流が川端と三島の間にあったのに陳列されていた三島からの手紙がこの一通だけとはさみしい。
川端夫人秀子(本名ヒデ)が夫との思い出をつづった『川端康成とともに』で触れた三島由紀夫のエピソードは一つだけ、しかも数行に過ぎない。
「三島」の名は他に二箇所のみ。この展覧会をプロデュースした川端の養子香男里も養母のそういう!)所作!)を踏襲したのだろうか。
平成22年10月香男里が館長をつとめる鎌倉文学館主催の講演会が鎌倉駅前のホールであった。
鎌倉文学館の建物は昭和11年前田侯爵別邸として建てられ、戦後はデンマーク公使が借り、三島が『春の雪』の松枝侯爵邸のモデルとして取材した時は佐藤栄作首相が借りて使っていた。
▼かみ合わなかった対談
鎌倉文学館開館25周年を記念して開催された「川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ」展とコラボした講演会は二回行われ、
その初回に香男里と松本徹三島由紀夫文学館館長が講演と対談をしたのだが、この時の対談がまったくかみ合わないものだった。
香男里の講演内容が奇妙なもので、三島が生前くやしがったことが二つあるという話しをしていた。
そのひとつはノーベル賞が川端にいってしまったことで、もうひとつは「やんごとなき女性」にふられたことだと言うのだ。
後者については、長岡輝子が三島の母倭文重から聞いた話として、息子が正田美智子と見合いをしてふられた。それを長岡から聞いた話として或るジャーナリストが最近書いている。
しかし長岡が故人となった後書いているので長岡に確かめようがない。正田家から断られたとしても三島がどう受け止めたかは更に確かめようがない。
その話の次に香男里がしゃべったのは、三島には他に付き合っていた女性がいた、それは鹿島一族の娘で、二人が一緒に川端邸に来て、軽井沢の川端の所有地を鹿島に売ってほしいと頼んてきたというエピソードだ。
三島文学とどんな関係があるのだろうと聴いていたらただそれだけだった。三島の女性にまつわる二題噺で意味はなさそうだが、軽井沢の土地についての一件は秀子夫人が『川端康成とともに』に書いている。
その一件が同書が三島に言及したたったひとつの箇所で、秀子がそれを書き、香男里が講演会の壇上で蒸し返したのにはそれなりの背景があったのだ。
その軽井沢の土地は昭和15年頃、川端が秀子に「大変今まで世話をかけたからみな君にあげるよ」と言って渡してくれた、改造社から出した選集の印税で買ったものだという。
登記上は康成名義だったろうが、秀子は自分の土地だと思っていたのだ。それを川端は三島の依頼を受けて売ってしまい、その売却金は全部使って、秀子に一文も残らなかったと恨み節を述べている。
秀子は夫を恨まず三島に怒りを向けた。香男里はそれを養母から聞かされて三島によい感情を持てなかったのだろう。げに女の怨みは怖ろしい。
(つづく)
山の音読んだよ。
なんかよくわかんないけどとてもよかったー
げんじものがたりだね かってになっとく 三島が描く風景と、川端が描く風景とは根本的に違うんだ。
三島が観ている風景は、観念のなかにしかない。
それが三島のいう日本的な美なんだ。抽象的なんだよ。
だから風景に心が宿ってない。意識が棲みついているだけなんだ。
風景と心が共鳴し合っていないんだよ。言っていることがわかるかな?
その意識も西欧的なんだよ。西欧人が憧れる、観念的なイメージとしての日本の美なんだ。
あるがままに身体で感じ取った日本という風土性が描写に色濃く反映されていないんだ。
極論するとだね、三島の作品からはそんな印象が強く沸いてくるんだよ。
川端と同じことをしていても、人として持っている感性としての本質が違う。
勝ち目はない。頭がいい三島自身が、誰よりもそのことを痛感していたと思うよ。
猪瀬直樹は好きじゃないけど、三島の風景描写を銭湯の壁に描かれた
ペンキ絵のようだ、というようなことを書いていたが本質を言い当てていると思う。
結論をいうとだ、三島に川端の代筆は無理なのだよ。
すべてとは言わない。「眠れる美女」なんかなら可能性はあるかもしれない。
モノローグ的に心理の揺れだけを描くのならできる。生きてはいるが物体
としての若く瑞々しい女体を介した、己の心との遣り取りだからね。
でも川端の真骨頂は、心の揺れを日本の風景の描写のなかに重ね合わせて
内面の奥深くある本人にも気づかない深層心理を多層的に浮かび上がらせる
ところにあるんだよ。風景のなかに心が宿っているとはそういう意味だ。
自然は対象であって対象ではない。己を含み、また己のなかに自然を抱え込んでいる。
川端の描く日本の風景が美しく心に響いてくるのは、そうした理由だ。
三島の描く風景は心にではなく意識に響いてくる。一つ一つが重たく抽象的な言葉を
ものを好むのもそのためだ。装飾をほどこした美文調につながってくるのも自然なことだ。
なぜなら意識のなかにしかない観念的な風景を描いているからだ。対象としての自然は
その装飾の一部でしかないんだよ。
まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。
言われても気にはしないんだが、笑わせすぎて腹の筋肉を痛めたたりして
損害賠償の請求なんてことがあると困るから……。 >>101
>まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。
やめるの遅すぎ。もう三行目くらいでお前はキチガイ認定されてるよw
三島の風景が抽象的であるのと同じく川端の「日本」も十分に抽象的。
現実にはどこにもない「雪国」に逃避してるだろ。 三島の感性が記号的であるというのは文体改造などからも
言える。
仮面の告白だから。 純文学にも大衆的なのと芸術至上主義的なものはあるだろう。
大衆的であることは芸術的には感じられないのは、芸術は
一般に美術的だからだ。
などと場当たりに分析してみるヒンツ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています