森鴎外
「鴎外」って雑誌に掲載されている
この間、千駄木の記念館でおっさんが予告してた。 >>538
そこまでマイナーなソースだと、広まるのに時間がかかるだろうね。 >>507
声に出して読むと、原文でも意外と分かる 森麻莉は鷗外の作品にあまり関心ないんだな。
傾向が違うし仕方ないか。
でも、饅頭をオカズみたいにして
飯食ってたとか、エピは楽しいな。 ベルリン森鴎外記念館、開館30周年、おめでとう!! >>549
インチキだと、ばれているのに、まだ続いているのか。
鴎外となんの関係もない部屋を、鴎外の下宿と偽って公開したり、詐欺だよ。
フンボルト大学からも、引導を渡されたんだろ。
いい加減、恥ずかしいことはやめろ。 >>551
鴎外やベルリンの記念館を弁護したり解説したりする義理はないけれど、一応、事実だけを記しておきます。
今あるベルリンの記念館は、住所は違うが同じ建物の同じ階(マリエン通りとルイセン通りの交わるところにある建物)。
鴎外の第一の下宿のあった建物(戦災を免れて残っていた)の、鴎外の部屋があった同じ階(二階)に記念室がある。
ただ、そこが鴎外の住んでいた部屋でないのは事実。鴎外の住んでいた部屋には人が住んでいるから、仕方なくその隣の隣の部屋(角部屋)を記念室にしてある。
鴎外の部屋がどこであったかは1969年に篠原正瑛という研究者が調べて論文で発表している(『鴎外』第7号)。
また、部屋が違うことは開館当初から公表されている。だから、その事情は昔から理解されている。
開館30周年のセレモニーはフンボルト大学が主催し、総長出席のもと、大学の大講堂を使って開かれ、ヨーロッパや日本から200人以上の出席者が集まった。
脚気問題における鴎外の位置づけは、海軍軍医であった高木兼寛の伝記的内容の小説、吉村昭の『白い航跡』などを読むと分かる。
あるいは故・山下政三氏の研究に詳しい。 >>553
火消しが出てきたか。
六草いちかの二冊目の本に、別の建物だと書いてあった記憶がある。
本が見つからないので、持っている人、フォローを頼む。
> また、部屋が違うことは開館当初から公表されている。だから、その事情は昔から理解されている。
目立たないところに、そういう中期があるのかもしれないが、
記念館を訪れた人たちは、ほとんどが、ここが鴎外の住んでいた部屋だと誤解しているだろ。
ほとんどの人が知らない注記の存在を知っているというのは、関係者かな? >>555
関係者でなく、鴎外を含む近代文学の研究者です(という意味では関係者と言っていいかもしれない)。
たまたま、このスレを訪れました。
六草さんの本も「違う建物」と書いてあるわけではありません。
行ってみると分かる。行かなくても地図(例えばgoogleマップ)で調べてみると分かります。
フリードリッヒシュトラーセという駅の近くです。
マリエン通りを辿って行くと32番地と書かれた入り口があります。
鴎外はこの入り口から建物に入って二階の部屋に上っていたのだそうです。
ところがマリエン通りはすぐに終わり、この建物に沿って右に曲がると、住所表記が変わりルイセン通り××番地となる。
この記念館の入り口は同じ建物のルイセン通り側にある(ルイセン通り39番地)。
この入り口を入って二階にあがると、左側が記念館の入り口になっています。
記念館に入って、窓から見おろすと、歩いてきたばかりの「マリエン通り」が真下に見えます。
鴎外自身のドイツ日記を見ると、明治20年4月18日には「この日僑居を卜す。マリエン通り32番地・・・」とある。
ところが、「自記材料」の明治20年4月の項には、「18日住居を定む。ルイセン通り32番地」と書いてある。
鴎外自身でさえ記憶違いをしているのです。
上記の篠原正瑛氏は不思議に思って調べてみたというわけです。「鴎外」第4号、5号、7号に詳しく発表している。
この雑誌は、研究者しか読まないようなマイナーな雑誌だから、確かに「ほとんどの人」はその存在すら知らないかもしれない。
私もこの記念館を訪れたことがあります。
なぜこの記念館がベルリンに存在するか、どう運営されているかを知ってみると、フンボルト大学側の努力に頭の下がる思いがします。
日本側から援助はほとんどありません(寄付程度)。
六草さんがなぜあのようなことを書いたか、その事情は知りません。
間違ったことを書いているわけではありませんが、ただ、誤解を生む記述ですね。 訂正
上記>>553>>556
「鴎外第7号」は「鴎外第9号」の誤りです。
ごめんなさい。 >>556
辺境の一文学者のためによく記念館なんかを維持しててくれるね。
西欧の学問、芸術に対する姿勢は、到底日本ではかなわない。
科学技術では追いついたところもありそうだけど、文系の学問は、マルクス研究以外まだまだはるか遠くにいるんだろうな。 まったくその通りです。
せっかくですから、もう少し書かせてもらいます。
私がベルリンの森鴎外記念館を訪ねた時、たまたま当時の館長であるフンボルト大学の日本学の先生(クラウス・クラハト教授)がいらっしゃった。
その方が話してくださったところでは、現在、日本学や日本文学、日本語などに興味関心をもつ学生がほとんどいなくなっているのだそうです。
代わって、中国語や中国に関する学問に学生の興味が移っていっている。また、中国からの留学生の数も激増しており、逆に、日本からの留学生が激減している。
当然のこととして、大学も中国関係の研究や施設の充実、図書の購入などにお金を使うようになった。
これはフンボルトだけでなく、フランスやイギリス、アメリカの大学などもほぼ同じ状況なのだというのです。
かつてフンボルト大学における日本学の研究施設であったこの記念室も、その存続が危ぶまれている状況なのだそうです。
日本人としては、時代の趨勢だから仕方がないと、ただ指をくわえて眺めているだけでいいのか・・・悩ましいところです。 >>560
僕は>>559じゃないけど、なんで君はそんなに捻くれてるの?
実態を説明してくれて、それに対する普通の感想を書いてる人に、なにが不満なの? >>561
自分が知らないことを知っている人に対する嫉妬かね? >>562
そうなのかな。
2chというのは一つの情報源だと思う。
鵜呑にはしないが、知ることのきっかけにはなる。
どの書き込みも、そう思って参考にすればいいのにね。 わたしは>>560ではないけれど、
「はいはい、ごくろうさん」というニュアンスがわからなくもないな。
あえて説明を試みるほどの気はないが、こういうレスも一つの反応のしかただし、
それに対して「なんで捻くれてるの」という姿勢になってしまうことのほうに
「なんで?」を感じてしまうな。
ドイツの冬はきびしいよね。
こんな土地によく人が住み着いたものだと私など思ってしまいます。 ベルリン市街戦の記録物を見るたびにベルリンの五月は寒いのかしらと思いますの 鴎外の小説はなんか歌舞伎調でつまらん
荷風もそんなのある 歌舞伎調?
きみは鷗外の小説も歌舞伎もどちらも知らないのね。
ああ、そういえば1915年の冬のドイツは特別寒さが骨にしみたことよ。 明治二十一年の冬は来にけり・・・クロステル街のあたりは凸凹坎の処は見ゆめれど、
表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり・・・か
暗くて寒そうだな >>565
ここは文学板だから、「あえて説明を試み」ないとレスの意味がないんじゃない?
それを説明する方が、ドイツの気候がどうであるかよりも文学的には意味がありそうだw ドイツの気候も作品解釈に大切だぜ
豊太郎が逃げ出したのも、寒さが大きな理由じゃないかな ロンドンの気候も作品解釈に大切だぜ
漱石が逃げ出したのも、寒さが大きな理由じゃないかな ↑
寒さじゃなくて、霧に閉ざされた街だと思う
それから、実物の漱石と作品中の人物豊太郎を一緒にしたらまずいんじゃないの
それから、漱石は逃げ出したわけじゃない イギリス止めて、フランス行きたい、とお願いはしたけど ロンドンやベルリンよりもパリの方がいいよな
鴎外も漱石もまた違った存在になっていたろうな >>579
フランスは世界一の二流とかいわれてるから、さ。 んじゃあ、鴎外は世界一の三流とか四流とかってことかなぁ >>582
ドイツは哲学の世界一の一流だったから、鴎外も日本一の一流でいいんじゃない? ドイツにはゲーテはいるし、マンもいる
文学の方も多彩だね 年をとると、鴎外の史伝が面白くなるってほんと? おれは
ぜんぜん退屈。 >>585
その時代に興味を持つ何かのきっかけがあると、とても面白く読める。 >>585
若い頃は知識欲が旺盛で、どうしても前のめりの読書になっちゃうんだよね。
岩波の鴎外歴史文学集がお勧めです。
ゆっくり読むのがポイント。 >>585の俺七十五才の後期高齢者なのだがwwエッヘン
予想されるスレ:
「おまえが幼稚なだけ」「おまえが無学なだけ」「おまえが目がわるいだけ」ww >>588
前二つは外れるかもしれないが、三つめはその通りじゃないの? >>590
なんだ。
せっかく目が悪い、だけで終わらせてあげたのに。
君は自分から、幼稚で無学でおまけに頭まで悪いって告白しちゃったんだね。
残念だ。 まあ、彼が予想しているのはレスではなくスレですから >>590氏は
>>592>>593と二匹続けて入れ食いで満足ちゃう? ていうか、エッヘンとえばるような展開にぜんぜんなってないのに
↓
>>585の俺七十五才の後期高齢者なのだがwwエッヘン >>590氏は
>>592>>593>>595と三匹続けて入れ食いで満足ちゃう? >>590氏は
食いついた>>592>>593>>595>>597の尻尾にまた>>594と>>596
がかかったので満足ちゃう?
以下延々と続きますwww ワシントン アーヴィングの リプヴァンウィンクル の鴎外訳は
傑作です。原作以上の文学的価値あり。 >>604
>>605
松田優作、かっこよかったな
彼が呟いていたのは、鴎外の訳だったの? >>606
おぼろげな記憶だが、鴎外の訳じゃない(淡々と粗筋を喋っている感じ)
全く別のシーンで萩原朔太郎の詩を朗読しているのは有名だけど
>>605の書込みの意味はなんだろ? 鴎外の「阿部一族」は武士道の非合理を描いた傑作ですがじつは、西鶴の
「武道伝来記」のほうが題材豊富で文学的価値が高い。 鴎外の次男(不律を入れると三男)の類という人の「森家の人びと」を読んでる。
鴎外の子供たちは、みな変だ >>603
10年以上前、東京堂書店で鴎外漢詩集見つけたときに買っとけばよかった。
ネットで買えるけど保管が悪いから傷んでるんだよな。
文庫か電子書籍になってほしい。 ワシントンアーヴィングのリップヴァンウィンクル鴎外訳、
原典より文学的価値高し。名訳だよ。 重訳はその文学的価値に係わりあるのかな? 世には読めない
日本語の直訳が横行しているが。訳せばいいってーもんじゃねえ 文体が固いのはわざとか
それともまだ言文一致がこなれてなかったのか 某儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿(松向寺殿)御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。
しかれば子孫のため事の顛末書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
某祖父は興津右兵衛景通と申候。
永正十一(十七)年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。
永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。
年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申候。
父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。
壮年に及びて弥五右衛門景一と名告り、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたしおり候。
さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。
十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、
慶長の初まで勤続いたし候。
慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。
当時田辺城には松向寺殿三斎忠興公御立籠り遊ばされおり候ところ、神君上杉景勝を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、
跡には泰勝院殿幽斎藤孝公御留守遊ばされ候。
景一は京都赤松殿邸にありし時、烏丸光広卿と相識に相成りおり候。
これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を妻せ居られ候故に候。
さて景一光広卿を介して御当家御父子とも御心安く相成りおり候。
田辺攻の時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を使に田辺へ差立てられ候。
森は田辺に着いたし、景一に面会して御旨を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛け候。
翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣り候。
森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。
この歳赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国へ参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。
元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申候。
景一は六丸君御附と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名告り候。
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