フローベール
フランスの作家なのにエンマが出てくるんですか? じゃ、十王思想なんかが関係してくるんですね。 よし、読んでみよ。 『ブヴァールとペキュシェ』も『サランボー』も『聖アントワーヌの誘惑』も 持っているが、読んでないや。いつになったら、読む気が起こるだろう。 フローベールがいたからプルーストやジョイスやナボコフらの 作品も生まれたと言われてるらしいんだな。 ネットでちら見しただけで言うのもなんだがw 生島遼一の翻訳はてにをはが変で読めないから翻訳しなおしてほしい 20世紀の文学者でフローベールの影響を最も受けているのはカフカ サランボーってモームによれば失敗作らしいけど実際のところどうなの? 『ブヴァールとペキュシェ』は好きだな フローベールは失敗作や未完の作品があるとしても、不毛な作品は書いてないと思う フローベールの小説芸術への悪戦苦闘ぶりには涙ぐましいものがある。 色々試みたけど、結局、一番最初の『ボヴァリー夫人』が最も評価が高いんだからな。 ボヴァリー夫人や感情教育みたいなのを期待して読むとまあサランボーはがっかりだろう 吉川英治の歴史ものみたいな・・・ だから俺はボヴァリ、感情、ブヴァル、まごころしか読んでない。 ボヴァリー以外はみんなよかった やはり『ボヴァリー夫人』が最高でしょう。 あの張りつめた文体の硬度がたまらない。 フローベールは「バルザック以降最大の小説家」だそうだ。 だがボヴァリー夫人は救いがなさ過ぎて、もう読みたくない。しかし傑作ですな。 「感情教育」はフレデリックやデローリエは、 ちょっとだけ(本当にちょっとだけ)マシな人間だけど、 あの時代のパリという舞台では挫折が宿命づけられている。 セネカルもデュサルディエも生きていけない。 成功するのは彼らじゃなくてユソネやペルランなんだ、という話でいいのかな? >>30 「バルザック以降最大」と言っても、20くらいしか年離れてないだろ >>32 それは古本で買った全集のあとがきで蓮実先生が述べておられた。 >>32 それは「バルザック以降現在に至るまで」という意味だよ。 それからもう一つ、「蓮実氏にとって」という但し書きがつくわけw >>36 そうだね。フローベール好きでも「そう?」と思ってしまった。しかし あえて言い切る潔さがあって、その後の氏にはないものだ。 気合いだっ気合いだっ気合いだっ! 気合いだっ気合いだっ気合いだっ!* おいっおいっおいっ! ☆ おいっおいっおいっ! ☆ おいっおいっおいっ! ☆ ワッハッハワッハッハワッハッハ〜*ワッハッハワッハッハワッハッハ〜* みなさま* ありがとうございます。 モコは 心のそこから感謝します!☆ モコは 密封された地中のコンテナに入って 三日間埋められて 厳しい修行をしていたのです!* もしも 地中のコンテナに入って 三日間埋められていたならば 普通の人ならば 死ぬか 狂いますヨ! ☆ 池田先生は ヒマラヤで最終解脱しているので そんな修行は する必要が無いのであります!* みなさま! 信心と勤行のおかげで モコスレが 立ったんですヨ!☆ しかし モコスレを 埋めているヤツが 一人だけ いるのです!* あいつの本性なんて ちょっと 調べたら 分かることだ!☆ バカらしい!(大笑い)* だいたい、ちょっとでも自分で調べてみたら、 あいつの言ってることが ぜんぶデタラメだと すぐに 分かるじゃないか* 話に出すのもバカバカしいが、 あの「モコスレ埋め一派」なんか「人材育成」どころの騒ぎじゃない(笑い)* おかしらだったモコスレ埋め野郎本人が 子分連中に残忍きわまる「暴力」と、 絶対的な「差別」を叩き込んでいた☆ モコスレ埋め野郎は 優秀なモコ派の人材を潰しきってきたじゃないか!* しかし! お母さんも言ってたけど 折伏は 命がけなんだヨ(((Φ)))* 相手の魂をねじ伏せて こっちが 生きるか 死ぬかの 命がけの闘いなんだヨ(ξ) 折伏は そんな なまやさしいものじゃないんだヨ(((●)))* 煩悩の無い最終解脱者 池田先生にとって SEXは救済活動の一環なのです* しかし 煩悩の無い最終解脱者になるのは 並大抵のことではございません。 煩悩の無い最終解脱者になる人というものは 生まれた時から、 最初から 決まっているのです☆ だから、煩悩まみれの我々凡人は SEXなんか してはいけないのです* モコは ヒンズースクワット オナニーをしています(*)((Φ)) 皆様! いつも ありがとうございます* (*)((δ)) 皆様が もし ここで モコと一緒に楽しく やっていきたいのでしたれば、 余計なことを言わずに モコの言うことに 何でも「ハイハイ」言って従っていたら かわいがられると思いますヨ*(*)((υ)) 変に モコと戦おうとしないほうが イイと思います☆ 戦おうとすれば 余計に 居づらくなってゆきますよ* 余計なことを言って 殺害されたのはキニョネスさんです(*)((Φ)) 月曜日の朝7時30分頃 キニョネスさんは(*)((ξ)) 職場に向かうために自家用車に乗って自宅を出ています(*)((Ο)) そしてその5分後に2人の武装した殺し屋に行く手をさえぎられ* 車からひきづり出されて少なくとも3発の銃弾を浴びて死亡しています☆ この間 2分間だったと目撃者は証言しています(*)((ξ)) モコは今朝 スーパー銭湯で ブッ!と屁をこいたら(*)((ψ)) 小さなウンコがポン!と出たの(*)((ξ)) 銭湯で良かったぁ(*)((φ)) パンツの中にウンコをしてたら 大変なことになっていたわ(*)((ο)) モコは若いころは学生運動に夢中になっていたの(*)((δ)) 「アンチモコ派 反対!」「アンチモコ派 撲滅!」「アンチモコ派 殲滅!」 と書かれたプラカードをもってデモ行進をしていたのヨ(*)((Φ)) でも モコはアンチモコ派のアントニオに恋をしてしまったの(*)((ψ)) そして モコはアントニオと結婚したの(*)((ξ)) でも アントニオの汚いやり方に嫌気が差してきたの(*)((φ)) それで モコはアントニオが主催したセレブパーティーの会場を 突然 抜け出して 「アンチモコ派 反対!」「アンチモコ派 撲滅!」 と書かれたプラカードをもって 走り出したのヨ(*)((ο)) 雪のふりしきる街路樹をモコは「アンチモコ派 反対!」(*)((δ)) と 叫んで ビラまきを始めたのヨ(*)((Φ)) そんなモコの顔は 輝いていた!(*)((ψ)) 英語圏だとLydia DavisによるMadame Bovaryの新訳がでたそうですね Julian BarnesがLondon Review of Booksに載せた書評を読みました 長編作家では、フローベールほど「硬質な文体」って言葉がぴったり来る人いないね 「サラムボー」読了記念。 終盤の殺戮がすさまじかったな。 あと女主人公はせっかく素敵な恰好をしているのだから、 心身ともにぜひとも淫婦であって欲しかった。 フローベール好きのみなさん、明けましておめでとうございます 本年もよろしくお願いします。dat落ちしなければだけど・・・ フローベール全集の別巻、フローベール研究はかなり啓発されました。 http://booklog.jp/asin/B000JAXOFY >>49 ボヴァリー夫人の論文は10個ほど載ってますよ あんまり若い時に読んだので新婚旅行の描写が納得できなかった記憶 普段あまり本を読んでないのですがいきなり感情教育を読むのは難しいでしょうか? 感情教育が読めないなら他の小説だってたぶん読めないよな 『ボヴァリー夫人』の翻訳は『集英社ギャラリー 世界の文学 フランスII』に入ってる 菅野昭正訳が一番良い。 集英社は即刻これを文庫化すべし。 >>62 筋はあまり面白くない。 エマを一歩下がってみているのでは、この女は性悪だ!としか思わない。 一番の楽しみ方はエマになることだ。 君が男なら、難しいけど。しかしフローベールを手に取るくらいだから 難しいことではない。なぜなら難しいことが出来ない人はフローベールではなく 風呂に入って漫画を読むだろう。これはギャグだけど。 でも作者は男だけどボヴァリー夫人は俺だ!って言ったんでしょ? ゴンクール兄弟はサランボーは期待外れだったといってるね >>62 ,66 いっちゃん憧れるものはある、でもその為に思い切った行動をする度胸も努力する気もない なんとなくそれに似たものに寄り添ったり形だけ装ったりしてみるけど満足できない それどころか分不相応な振る舞いに立場が危うくなるばかり ああ、このままじゃ破滅するなー…とは思いながら打開しようのする気さえ起きない すごく身につまされる話なんだけど。 そんな話を読んでいて面白いかというと疑問だけど。 『ボヴァリー夫人』 生島、山田、中村光夫訳と3種類持っている。 甲乙つけがたい。 あるよ。ルノワール、ヴィンセント・ミネリ、シャブロルとか。 ほう。未栄子は映画詳しいのか。ソクーロフも撮っていたはずだな。俺はそのあたりは疎いので教えてくれ。 『サランボー』20年前買ったきり読んでないが、 そろそろ読もうかな。 読売土曜日に隔週で佐川光晴が『ボヴァリー夫人』について書いてるね。 スポーツ速読あるで。 150km/hの速球もジャストミートや! 第二部の冒頭、フレデリックがパリに帰ってきた日、アルヌー夫人を探し回って右往左往する章が好きだな 爽やかげなムードから、ガラッと不気味で不条理な空気に変わるところが。周りの連中の、意味もなくよそよそしげな態度とか、カフカに影響あたえてるよね カフカがフローベールを愛読していた、っていうのは どこに書いてある? >>94 『フェリーツェへの手紙』の次のくだりが、一番端的かな。 「『感情教育』は長年の間、ぼくにとっては、二、三人もいないくらい近しい人間とおなじように 親しい間柄でした。いつ、どこでこの本を開こうと、はっとぼくを驚かせ、心を奪いました。 そうしていつもぼくは自分をこの作家の精神的な子供として感じました。」 カフカはフランス語でフローベールを読んでおり、フェリーツェにも薦めている。 フレデリックの最後の次々に女を振っていく様は煮え繰り返ったわ。 あとこの終盤辺りだけ急展しすぎじゃない? ダンブルーズ夫人振るとこ、珍しくかっこいいよねw 大人しく逆玉やってたらどうなったかも気になるが 二月革命のテンポにあわせてるんじゃね 久しぶりに『感情教育』を手に取って開いた・・・ やはりこの小説、よく出来ている・・・ 終盤、アルヌーのために金策に走るフレデリック、 無残にも競売に掛けられたアルヌー夫人の私物が買い叩かれていくところ、 そして最後のアルヌー夫人との邂逅・・・! ベタだが、この最後の邂逅の場面は涙なしには読めないんだなw 感動はするが、何処かうつろで現実感がないんだな 小説全体がリアルに複雑に書かれているだけに、フィクションっぽさが際立つ じつは夢とか妄想の類だと解釈すると、相当悲しい話になるな デローリエとの友情も回復せず、孤独に思い出を回顧しつつ生きてるとかだったりして 「感情教育」はフローベールの作品で最も一般受けする物なんだよね。 文学史で持ち上げられている「ボヴァリー夫人」の良さが得心できない人間にも、 「フローベールってやっぱり凄いよね」と口に出来る安心感を与えてくれる1冊。 そんな心地よい錯誤を抱いて入学してくる文学青年子女を「ゼロ」から叩き直すのが 自分の仕事のひとつと語った吉田城氏を、アルヌー夫人の名を聞くとふと思い出します。 叩き直す、か。 そもそも今フローベール読んでる高校生ってどれくらいいるんだろう。 俺は『三つの物語 Trois Contes』が好きだな。 フロベールの作品全部読んだわけじゃないけど。 まとまりの良いところに共感する。 ディケンズの大いなる遺産があまりに感情教育に似てるのでびびったw そんなに似てたっけ 田舎に幼なじみがいたのは被るが エステラはアルヌー夫人とはちょっとキャラクター違うし 『感情教育』はアンチ・ユゴーの小説だと工藤庸子が言っていたけど、 そういう読み方でのハイライトはどこだろう? 主人公の間抜けな振るまいのすべて 登場人物に極端な善人も極端な悪人もいないこと 革命をしょうもない利己主義の産物として描いたところ 感情教育が当時の新聞記事や流行小説からの引用をつなげたパッチワークだって話は本当なのかな >>111 ある日本の文学者が「私はこれを20代半ばに読み、そのころには人間は(長いこと生きても) それほど進歩しないものということが実感されてきたから主人公の遍歴には共感できた」みたいなこと書いてたな >>111 のいうことは3行目以外は納得できる 好みの問題と思う 岩波がとくに読みにくいわけでもないが、文学者はよく山田を推す 教え子に好かれる人物だったのかな、鹿島茂も山田の人柄について書いてるし 岩波のだろ?あれが読みづらいって 読解力ないんだな ボヴァリー夫人の表紙は新潮も河出も、地味な草花の絵が描いてあるけど、やっぱり散ってゆく運命みたいなものをイメージしてるのかな。個人的にあの小説は、もっと派手な原色のイメージなんだが 原書でベルトモリゾの自画像が表紙の版があって笑った。ダジャレかよっていう 読みづらいというかてにをはがおかしい 生島訳は全部そうなので薦めない 文庫で山田訳が買えるようになったんだ 山田で読んどけ 違うよ てにをはがおかしいものを違和感なく読める(読んだつもりになれる)やつが国語力がないんだよ 山田のボヴァリーは読みやすかった。リズムや語感がいい 感情教育はどちらでもいい。もともとあの小説は筋がごちゃごちゃして読みにくいし >>126 他人の受け売りで言っているのでなければ、具体例を挙げて、 てにをはのおかしな箇所を指摘してもらいたいね。 『ボヴァリー夫人』『感情教育』とも生島訳で読み、 違和感がなかったので、そういう指摘は意外だ。 朝日新聞に出てましたけど、来年蓮實重彦が、フローベールにかんする評論を上梓するそうです。 めっちゃ楽しみ! 来年度最大の読書の楽しみが今から確定! 基本70過ぎたら学者といえどもかなりボケてるので期待しない 物語批判序説とデュ・カン論は、どっちもフローベール論が書けないから「迂回」してた本 今更すぎる 個人差はあるけど 70程度じゃボケてない人は多いと思うぞ。 ただし考えが凝り固まって柔軟性が全くない人は多いと思うが 源氏古書でフローベール全集のブヴァールの巻だけ買おうと見つけといたのが1週間前。 今チェックしたら売れてる・・・・まさか買えない羽目になるとは 翻訳ソフト使ったこと丸わかりの誤字脱字入り超訳でな! ブヴァールか。日本の古本屋で探した方がよいと思う。 「いつも私は目前のものを拒否したくなる。子どもを見ると、その子の老人になった時のことを考えてしまう。」 これって、どの作品の中に出てきた言葉だっけ? 今更蓮實のフローベール論とか読まなくてもいいと思うし 小出しにしすぎて聞きあきた フローベール読んでる人ってどんな音楽聴いてるの? ちょっと気になります ハイドン、ブルックナー、ヒンデミット、ルーセル、オネゲル シェーンベルク、クセナキス、アドルノ、バルトーク、(上原ひろみ) フロベール自身はどんな音楽を聴いていたんだろう? フランクやブルックナーと同世代人だよね。 フロベール自身は音楽は聴かなかったよ、嫌いだから。 >>123 俺も生島さんの訳は読みづらいと思う。日本語のリズムがすげえぎこちない。 フローベールの訳もそうだがスタンダールの訳はもっとひどいと思った。 阿川弘之も何かのエッセイで「ボヴァリーの生島訳は前半部を学生の下訳のまま出したのかてにおはがおかしい」みたいな事書いてた 講談社文庫の大活字本のやつだったかな フローベールは声に出して読んで文章矯めていったんだろ。 だから構文なんかは、他の作家よりちゃんとしてたと思うんだ。 なのに失礼じゃないか生島君。 山田ジャク訳フローベール『感情教育』(河出文庫)読み始めました。 岩波文庫の生島遼一訳よりいいですね。 ボバリーか感情教育どっちが面白くて読み安いですか? 語学力がないなら無理に原書で読んでもあまりわからない 名作だと聞いたんでボヴァリー夫人読んでるけど、 物語の本筋とは関係ない風景描写とかが冗長だな。 これがフローベールの売りなのか? 風景描写はマジでわからんよね。 バロック建築とかヴィクトリア朝建築とか、よくわからん植物とか出されても想像できん。 挿絵があってもいいんじゃないかと思えてくる。 そうか? 「ボヴァリー夫人」新潮文庫の生島の訳じゃないと読む気がしない。 同様に「魔の山」は新潮文庫の高橋 「はつ恋」は新潮文庫の神西 「白鯨」は岩波文庫の阿部がよい。 最近の新訳は文体に文学の香りが足りないし均衡(テンション)不足。 翻訳者があまりに語学家化しすぎていてハートがない。 なあにがハートだよ(笑 それにさ、「均衡(テンション)不足」ってどういう意味? こいつ日本語知らねえの?(笑 語学コンプを刺激されないからじゃないの 旧訳は間違いの指摘もあらかた行われているから ボヴァリー夫人読んでるけど白井訳のほうがこなれてて読みやすいな たまに変なところもあるけど。山田訳は散文的なんだけどそこが ひっかかってちょっとイメージしにくい、どちらも一長一短だろうけど >>物語の本筋とは関係ない風景描写とかが冗長だな。 ・・・あのな。。。 風景描写はポイントだろ。。。 >>176 いや、感動したいならボヴァリーより感情教育 >>65 山田なんとかなんていう旧時代の化石よりもヌーヴォー・ロマンや数多(あまた)のテクスト理論を 通過した上でマラルメやらをやっている菅野昭正が訳したものの方が遥かに素晴らしいですけどね。>『ボヴァリー夫人』 『感情教育』ももっとましな新訳が慾しいなあ。 山田なんとかのは旧臭い。 『ボヴァリー夫人』の新訳がでないのは、蓮實の弟子筋の輩が御大に気を遣ってるから。 蓮實御大が亡くなった暁には、『星の王子さま』ばりに、大量の新訳『ボヴァリー夫人』が上梓されるよ。 今さら蓮實にフローベール本だされても蓮實ファンしか喜ばなさそう >>30 >フローベールは「バルザック以降最大の小説家」 どこに書いてたの? エッセイ(?)のタイトルと収録された本を教えて下さい。 フローベールはユゴーのことを叩きまくっていたのか。 レ・ミゼラブルを酷評したのか。 まぁ、脱線大杉というのはわかるが。 そうか、内容もスタイルも、みんなエエんか、 ホンナラ、読まにゃイカンのう、だまされたつもりで、読んでみるワ。 ありがとヨ。 『ブヴァールとペキュシェ』のあらすじをウィキで読んで大笑いしたわ。 ドストエフスキーが「死んだチュッチェフがミゼラブルよりドストエフスキーの ラスコーリニコフの方がずっと立派だと憤慨してましたよ」 と書いてる。ほぼ同時期だな。 小林がクロワッセの孤独、クロワッセの孤独って繰り返すから、 クロワッセとは如何なる人物かと思ったら自宅のことだった。 >>197-204 ベケットの不条理戯曲かおまいらわ 真面目な人間ほど怖いものはない。 臆病な世の中はみんな不真面目になる。 そうしたらどのみち自滅する。 世俗主義の宗教原理主義に対する臆病も似たような話だな。 スレチだから止める。 小説はボバリー氏が可愛い小娘に出会って、女房が都合良く 死ぬところまでさらっと読めるな。 サルトルの『家の馬鹿息子』の3巻目出たの最近なんだな。 昔、どっかの家の馬鹿息子が講釈してくれてな。 ドストエフスキーとか教えて貰った。 結婚式にまで付き合わされたけど、東大卒みたいなのが 次々と祝辞述べてなかったかな? ランボー読んだことないの? へえ可愛そうにとか言われて。 テンカン持ちだったな。 こないだNHKで四国の地元祭りの記念写真に写り込んでるのを 見たぞ。元気そうだった。 電子辞書で調べたら、『ボバリー夫人』ってなってた。 新聞で「レビストロース氏死去」を見たとき以来の衝撃。 『ボバリー夫人』でいいじゃん。 おまえはポルノヴィデオっていうのか?ビデオがふつうだろうが。 「レビストロース氏」なんてもっといいじゃん。 Levitiqueのことをレヴィ記というのかおまえは?ふつうレビ記だろうが。 くだらねえ衝撃に打たれて、もう起きてこんでいいよおまえは。 私は2ちゃんに書く時でもテラヴィジャン、ヴィディオウと表記してますが。 100年以上前の作家だが、現在読んでも上手いのがわかる。 「プヴァールとペキュシェ」は「中年オタク2人が巻き起こすドタバタ喜劇」みたいなキャッチ付けて古典新訳文庫とか出せばそこそこ売れそうな気がするんだがな 岩波は訳が読みにくいし全集は手に入りにくいから小倉孝誠先生に頑張って訳してもらって出して欲しい >>227 ハスミが褒めちぎったのが逆効果だったと思う 訳されたのが古いのばかりだから、敬遠されがちなんだわ。 フローベールこそ、新訳を出すべき作家である。 新潮文庫の生島訳のボヴァリー夫人を読んでいるのだが、全体的に読みづらい。 なんというか、常に違和感を覚えながら読んでる。 生島遼一は他の訳もおかしいの多すぎる。 まあ、下訳になかりの部分を任せていたそうだが。 下訳に任せていたら、普通はそんなに変なものにはなりません。 大先生が一人で頑張ると、変な訳になること多し。 「新潮」2014年1月号先行発表分を含む、序章 +全10章+終章からなる800頁を超える大著、 蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」は筑摩書房 より2014年春刊行予定です。 ttps://twitter.com/Monthly_Shincho/status/406548441980866560 ハスミン、二段組にしてもう少しページ薄くしてよー ごつい雰囲気いらないからソフトカバーで安くしてよー 生島訳は変だと思う 最後の解説も変だ 日本語なのにおかしく感じる >シャルルは切符を大切に握ったままズボンのポケットに入れ、そこに腹をぎゅっとおしつけていた。 意味不明なんだが。 生島は下訳に丸投げ バルザックも訳していたんだが、他の人が訳したのを清書しただけ その清書も怪しい 山田訳『感情教育』を読み始めたが、「金はないしするから」(26p)ってなんだ。 訳された回数は多いけど、古い訳が多いね。 読まれない原因でもある。 フローベールこそ新訳を出すべき作家なのだが。 そのまま読み進めてみたら、「家族は某大臣と知合いだしするから」(河出文庫上巻106p)とある。 どうやら「○○だったりするから」ぐらいの意味のようだ。が、「○○だしするから」なる表現は見たことも聞いたこともないな 方言? とりあえず誤植の可能性は限りなく無いに等しくなったようでよかった 山田爵って森鴎外の息子だし仏文業界の重鎮だったからか、 糞訳のくせに持ち上げる学者が多いと思った >>244 明治から昭和初期の日本の小説にはそういう表現がある。 今は廃れたが、かつてはよく使っていた。 まさに言葉は時代とともに移り変わっていくね。 平安時代の日本語もこの千年の間にかなり変わってきたからな。 今日、古本屋で村上菊一郎訳のボヴァリー夫人を100円で手に入れた 今まで聞いた事がない訳者だったので楽しみ 生島訳、伊吹訳は持ってた 『ボヴァリー夫人』中村光夫訳を持ってるんだが、読んだ人いる? 生島訳と山田訳も一応ある。どれがベストかな? Les manuscrits de Madame Bovary http://www.bovary.fr/ 蓮實重彦のボヴァリー夫人論が6月25日に出る 装丁は地味だが850ページの文章の快楽に身をひたすために今から心の準備をしておこう ボヴァリー夫人って、そんな論じるような内容はないと思う。 そもそもフローベールの意図に反しているんじゃないか? 新潮も新訳をだすべきだと思う。 生島訳は変だと思う。 文学全集も入れると色々翻訳あるけどボヴァリー夫人と感情教育でどの翻訳がお勧めですか? 山田ジャクとか中村光夫? 山田訳は蓮實が自分の師匠ということでゴリ押ししてるだけ 悪くないよ サランボーにしても聖アントワヌにしても、「調べて書く」作家としての面目躍如といったところ >>261 5月末新潮文庫でボヴァリー夫人の新訳出るよ 芳川泰久訳 感情教育に続きボヴァリーも新訳か この勢いに乗ってサランボーかプヴァールとペキュシェも出して欲しい ボヴァリー新訳どんな感じ? 新訳なのに岩波河出新潮で相変わらずの最安値なんだな 俺はフラ語できるわけじゃないから原典との比較がどうのといえる立場じゃないが 単純に翻訳物としてはまあ別に面白く読める 翻訳者は今までとは違う翻訳を目指してるとか何とか言ってるみたい この人の岩波のバルザックの翻訳が良かったから買って読んでる 一つ不満を上げるとしたらスカート中がシャルルの世界の全てだった云々のところの印象が薄い文章なってる所 岩波版のあそこすげー衝撃的で好きだったんで 『三つの物語』Trois Contes のなかの 「純な心」"Un coeur simple" 泣けた。 昔ボバリー夫人よんだが とにかく、こんなワガママで情緒不安定な女ついていけんわ!!という感想しか持てなかった こんなヒロインに感情移入できる人いないよね? ネタキャラみたいなもん? >>276 その言葉も有名だけど フローベールが実生活でエマみたいな人だった訳じゃないんでしょ? はあ、そりゃ名誉なことで ああいう女の話をあのボリュームで読むのはちとキツイな エマの魅力とか全く思い出せないし共感もしないし >その言葉も有名だけど >フローベールが実生活でエマみたいな人だった訳じゃないんでしょ? なに言ってんの? おまえバカなの? >>278 が言っているのは、 作中に出てくる薬剤師、「オメー」氏のことだよね。 ああ、そういうことか失礼 読んだの昔なんで忘れてたわ マルセル・デュシャンがインタビューで 文学について聞かれてボヴァリー夫人だけあとは知らない みたいなこと言っててなるほどと思った。 フローベールの小説のフランス語て現代から見たらやはり相当古めかしいの? 日本で言うと我々が漱石あたりの文章に感じる古めかしさ?あるいは江戸戯作文くらいの古さ? ヴァレリーもアカデミー・フランセーズ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E%E5%8F%B2 1634年にリシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが創設され、フランス語の純化と維持を目的とする公的機関が誕生した。 定員40名のアカデミー・フランセーズ会員は les immortels (不死者)として知られているが、これは迷信じみた考えからそうなっているのではなく、アカデミー会員が全身全霊を奉げるべく選ばれていることと、 リシュリューの定めたアカデミーの紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる。 アカデミー・フランセーズは現在も健在であり、フランス語の監視と外来語・外来表現の置き換えに寄与している。 現在のアカデミー・フランセーズ会員 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%BA ジャン=リュク・マリオン シモーヌ・ヴェイユ ミシェル・セール 定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま会員になれなかった著名人も数多い。このような人物として、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。 http://www.tetsuwari.com/ydiary/show/2719 このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。 帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。 その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、 のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。 ボヴァリー夫人読んだけど、なんかな〜 名作だと思えんかった。 と、名作だと言われると名作だと読む素直なバカが言っておりますw ただ、蓮實重彦みたいなのを典型に、 「面白い」だけではダメだ、みたいに否定的に構えるやつにとっては、 ボヴァリー夫人の方が研究しがいがあるってこと 紋切型2 2012年12月19日 http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55547731.html こないだ立教で蓮實先生の講演(『ボヴァリー夫人』のフィクション論)があったから聴きにいったのだけれど、 その時に上で書いたようなフロベールと小津の「紋切型」に対する仕方みたいなものの共通性について質問したら 「フロベールと小津は一切関係ないのでその質問にはお答えできません」と一蹴されてしまいました。 >>295 ボヴァリー夫人のほうが好きな私は少数派なのかな なんかロザネットに苛々しすぎてあれが出てきたら話が頭に入ってこなくなる >>397 蓮實重彦という個性を媒介項にして小津とフローベールに共通点を見てしまうことっていうのは徹底してロマン派的思考なんだ 彼本人がまったく別の理由からほめている現象を、彼を理由につなげてしまう、わかりやすい物語解釈に抗うという点で、 彼がそこまでシニカルにぶった切ってくれたことをいつか感謝すると思う 違うものに共通点を見出すという快楽、物語に過ぎないもの、それが他人の物語を剽窃、misuseすることに反論しないことは著者たるもののすべきことではない そういう伝統が1940年代以降のフランス文学批評には充満している フローベール ポケットマスターピース07 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) 堀江敏幸 編 編集協力 菅谷憲興 文章の形式は、精緻になればなるほど全体を曖昧にし、言葉もそれにともなって揮発していく。 ……フローベールの言葉は、二十世紀後半以後の文学を念頭において口にされたものかと疑いたくなるほど、私にとってあたらしいものだった。 釣られるように手に取った『ボヴァリー夫人』の導入部は、たしかに、支えがなくてもに浮いているという、 強固さと頼りなさがひとつになった感覚をみごとに体現していた。(堀江敏幸・解説より) 収録内容:十一月/ボヴァリー夫人(抄)/サランボー(抄)/ ブヴァールとペキュシェ(抄)/書簡選 定価:本体1,300円+税 発売日:2016年4月20日 「ボヴァリー夫人」菅野昭正・訳 恋愛小説にあこがれたエンマは、退屈で凡庸な夫との夫婦生活に飽き飽きしていた。どうして結婚なんかしてしまったのかしら? だがその閉塞感と倦怠感は、悲劇の始まりでもあった……。 人妻の不倫と自殺という通俗小説を芸術の域にまで高めた「ボヴァリー夫人」は大スキャンダルを呼び、ついに裁判にまで……。 フローベールの代表作。 「サランボー」笠間直穂子・訳 古代カルタゴ。戦争を終え疲弊した傭兵軍のリビア人マトーは、そのねぎらいの宴で、ハミルカルの娘であり巫女のサランボーに恋をする。 だが彼の思いをよそに、傭兵たちとカルタゴ国との溝は深まり、とうとう反乱にまで発展することに。 残虐な戦争と不毛な暴力の応酬がふたりを翻弄する。社交界に“サランボー・モード”を引き起こした、オリエンタルな情緒あふれる一作。 「ブヴァールとペキュシェ」菅谷憲興・訳 愛想のいいブヴァールと生真面目なペキュシェ、ばったり出会った筆耕屋のふたりは意気投合し、一緒に田舎で暮らすことにする。 庭園を造ったり、医学に没頭したり、さまざまな試行錯誤をするが……滑稽に奮闘を重ねるふたりを追う描写は、まるで百科事典のよう。 果たして男たちはどこへたどり着くのか。死後に発表された、フローベール未完の遺作。 フローベールは「ボヴァリー夫人」と「ブヴァールとペキュシェ」のみが重要だ と蓮實重彦は言っていたが、それはちょっと言い過ぎだと思う。 『サランボー』こそ世紀の大傑作というのは知る人ぞ知る事実だ。 《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、 愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、 それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。 ……現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。 フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。》 (クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』) まだページは切ってないが、手から手へと渡ってきたために仮綴じが崩れている医科学辞典の全巻が、 樅材製の書棚六段をそれだけでほとんど占領していた。 この部屋には診察の間中、壁越しにブラウン・ソースの匂いが漂ってくるからには、 診察室で患者が咳せきをしたり、相談している話など台所につつ抜けになっているに相違なかった。 台所の先は馬小屋のある中庭に面してかまどの置いてある大きな荒れた部屋となっていた。 1857年 小説『ボヴァリー夫人』フローベール36歳(1821年生) フローベールの伝記的な本ってないですかね? まとまった分量ならば、何かの小説の解説という形でも構いません。 >>312 アンリ・トロワイヤのフローベール伝が2008年に水声社から出てる 今は絶版みたいだけど都内のデカい書店ならまだ店頭在庫あるかも 最悪Amazonで中古か図書館へ わい、ボヴァリー夫人を読み終える おおよその粗筋と結末が悲劇的であるということは予め知ったうえで読んでいたが、それでも面白かった 久しぶりに「文学を読む」ことを堪能した フロベー 主婦ってゆうか、女子中高生とかも含めて、そもそも女って奴は退屈してんだよ。不倫したくてうずうずしてんだよ。 トルストイ、ロレンス 全くその通りで。 シャルルが鈍い男というだけの話。 ホント情けない男w 娘も可哀想過ぎる! 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、 情念の規則的な屈折、それぞれのエピソードの終局への指向、等々―― はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけることを目的としていた。 世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。 小説の文章(エクリチュール)は潔白であることができた。 ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。 この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。」 『ヌーヴォー・ロマンのために』 フローベール以後、すべてがゆらぎはじめるってどういう意味ですか? 図書館にしかないような本をわざわざ読んでわからないなら そもそも理解するのが無理なのでは? フローベール以降、何を書くかではなく、いかに書くかということが目指され、 言語の指示対象としての現実から言語そのものへという転換が起こったということ それによって言語の指示対象としての 現実・歴史・物語などに対する認識がゆらぎ始めたということ >ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。 と書かれているから多くの人々ということ で、この死んだ体系に小説のみならず多くの人々を 意識するにせよしないにせよ縛りつけておこうというわけなのだ とロブ=グリエは言いたいのでしょう 日本の文脈で言うと二葉亭以降ゆらぎはじめたってこと? 日本の場合「死んだ体系」は完全に忘れさられたが。 二葉亭や漱石・鴎外はすでに死んでいるその体系に対して 濃淡こそあれ疑いを持っていたんじゃないの? よくは知らないが 今も昔も古今東西何の疑いもなく、その死んだ体系を死んでいるとは まったく認識しないまま、受け入れている人がほとんどなのだろうが 323のような言い方の不毛さが現代日本文学の停滞を象徴してるのかもしれないね。 言った本人は格好いいことを言ったとでも思ってるんだろうね。 そうかな? 323はムチャクチャ親切でわかりやすい説明だと思ったが >>330 何を書くかは、いかに書くかに影響を与え、その逆も真だろうし、何を書くかそのものが、いかに書くかに含まれている。 しかも、歴史的事実を見ても、何を書くかは相変わらず無限の可能性を秘めている。 323は渡部直己クラスの3流学者の言うことを?鵜呑みにしてるだけ。 >>333 と、5流以下のゴミの影響を受けた奴が 低次元な紋切り型の意見を述べていますw いったいその三流ではない学者は誰を想定しているの不明だがw 何を書くかは、いかに書くかに含まれるということは あんたが言う三流学者自体がそもそも言っているのだがw そもそも323の言っていることは歴史的事実じゃねえかよw いわゆるフランス象徴主義やロシアフォルマリズムも含まれるロシアアヴァンギャルドなど なかったとでも言いたいのかな? フランス象徴主義と呼ばれる人物たちはその作品が 何かを意味するのを最終的に拒否するのを特徴としていたはずだし ロシアアヴァンギャルドは言語などによる記号による表象=再現に対する懐疑を 特徴としていたはずだと記憶しているが >>334 フローベールと象徴主義まではずいぶん空いているけど、その間の小説家は誰ですか? また、象徴主義作家はフローベールの言語の使い方の影響を受けていたのですか? 当時は芸術至上主義としてあまり評価は高くなかったはずですが >>336 フローベールとボードレールは同時代のはずだけど? 言語の指示対象から言語そのものへの志向という点で フローベールとボードレールは完全に並行しているということは いろいろ指摘されているんだけど? >>337 その二人はいつ頃フローベールの影響受けたの? 言及してる? まさかユイスマンスの自然主義時代じゃないよな ユイスマンスがゾラから離反してフローベールに帰依したとは知らんかった >>334 フローベールと象徴主義まではずいぶん空いているけど、その間の小説家は誰ですか? また、象徴主義作家はフローベールの言語の使い方の影響を受けていたのですか? 当時は芸術至上主義としてあまり評価は高くなかったはずですが >>338 平行しているならフローベールがでて全てが変わったっておかしくない? それ以前にロブグリエは韻文から散文に移行した文脈で語ってるの理解出来てる? なんか勘違いしてないかな >>341 > ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、 いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。 この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけて おこうというわけなのである。>>320 フローベールから(体系の)すべてがゆらぎ始めるとロブ=グリエは言っているだけで 何もかもすべて変わったなんてロブ=グリエはそんなこと一切言ってませんが? ジョイス・カフカ・プルーストが出てくるまでにかなり間があるのに すべてが変わったなんてロブ=グリエがいうわけがない >>338 ドラマール事件て卑俗な題材をモデルにしてるじゃないの? >>343 だから何を語るかは重要ではなく、 いかに語るかがすべてだとフローベール自ら 言っていることじゃないの >>342 きみ、その死んだ体系理解してないよね っていうか前後の文脈読んですらいないよね 1857年にフローベールが同時代の小説家に与えた衝撃と、20世紀になってもあたらしいバルザックやゾラにない新しさごっちゃにしてるね 君が主張したがってるのは20世紀の作家批評家が発見した彼のすごさで、同時代にあたえた衝撃とは違うの 断片だけで語ろうとすると恥かくよ フローベール以前の文学は現実を写そうとした「リアリズム」の作家の時代だったってこと? 具体的に誰のことだ? 死んだ体系を理解していないのはあんただろ フローベールが同時代に与えた衝撃と20世紀になって与えた衝撃の話のことを ロブ=グリエがしているわけじゃねえだろ フローベール以降、旧来の物語形式の技術的要素を支える 世界像の体系が揺らぎ始めたという趣旨で言っているのに いったい何を話をすり替えているんだ >>347 君はリラダンやユイスマンスが死んだ体系と言われたら同意する? それとも彼らがフローベール受け継いだ生きた体系だと思ってる? フローベールが1857年に与えた衝撃って何? 1857年にフローベールが与えた衝撃とは 裁判によるスキャンダルで有名になったということでしょ のちに文壇の主流になったゾラやモーパッサンなどから 自らの正当化もあって、自然主義の父として意味づけされて受容された 日本の文脈に置き換えると二葉亭以前の江戸戯作を死んだ体系、二葉亭以降擬古文が流行る(紅葉、鴎外)けど自然主義で死んだ体系は最終的に止めを刺されるという流れとは全然別物なのか? 当時の日本の自然主義が フローベールをロブ=グリエがいう意味で受容したわけではないし 日本の自然主義は西欧の自然主義の物語内容から刺激を受けた 観念的遊戯で成り立っていると中村光夫は指摘しているのだから 西欧の文脈とは別物でしかない 日本の自然主義は言文一致の文体をほとんど違和感なく使用し始めたという話でしかない >>349 違います ちゃんとロブグリエ読みなさい 350も全然違います 文脈をとらえるためには読まないと意味ないよ はっきり言ってこの一節取り出して読んでない人たちが三流五流言ってるの見て、何やってんだってあきれてる 歴史的事実とか言い出したやつとリラダン、ユイスマンス持ち出したやつはちょっと恥ずかしい >>352 詳しい内容はほとんど忘れているが ロブ=グリエの「新しい小説のために」は一応読んでいるんだけど? >>351 それだと柄谷の日本近代文学の起源やスガの日本近代文学の誕生が意味なくなるんでないの? >>354 忘れてるなら該当箇所読みなさい その前後の文脈忘れてたら完全に無意味 君のなかではロブグリエは公序良俗にはんしたことで全てを揺らがしたって書いてあったと思ってるのね 可哀想になるわ >>356 だからそんなこと言ってねえだろ ロブ=グリエはフローベールが1857年当時に与えた衝撃について そもそも言及なんかしていないはず 1857年当時はスキャンダルとして受容されたのは事実だ >>355 別に意味なくなるわけではない 西欧と日本では文脈は別なんだから 個々の作家が言文一致を疑っていたにせよ 西欧におけるフローベールや自然主義の受容のされ方と 日本におけるそれとは違うのは事実なのだから 揺らいだ死んだ体系って古典文学なのか近代リアリズムなのか? 柄谷行人の『起源』は中村光夫の『明治文学史』を標的にしたみたいだから辻褄あってるね。 日本の近代小説は近代小説の体をなしてないという中村と隅々にまで近代がインストールされているという柄谷。 >言語の指示対象としての現実から言語そのものへという転換が起こったということ これも分かったようでよく分からないよな。 フローベール以前は現実を写せるかのように小説が書かれてたけどフローベールは現実を写すことの不可能性に遭遇したというより放棄したということかな? >>361 フローベール以前は言語による表象再現性は疑われていなかったといいたいわけ? いわゆるボードレール以降のフランス象徴主義の詩は何かを意味するのを拒否する詩なのだから 言語による表象再現性について疑われているのは否定できないんじゃないの? 何かを意味することと表象の不可能性は別じゃないの? 知らね 結果的に言語の表象再現性に対する疑いをもたらしたんじゃないの? >>365 >>367 別だというならそのことについて具体的にソース付きで ロブ・グリエの発言に余りこだわるのもどうかという疑問もあるだろ。 世界的には既に彼は流行遅れの人なのだ、ということを知っておくのもそう狡いことじゃない。 そもそも「フローベール以降変わった」とかの大袈裟な物言いに際して 眉につばするぐらいの言語センスを持たなければ。 勝手にロブ=グリエを時代遅れにした上に 流行に左右されるアホw ロブ=グリエなどが指摘した事態が時代遅れなわけがねえだろw そもそもフローベール以降変化したのは事実じゃねえかよw カフカ・ジョイス・プルーストがフローベール以前の作家と 同じ世界像の地平にいるとでも思ってんのか? >>370 流行遅れなのは事実じゃん。 ダサイ君は流行に左右されなくて、何に左右されるのかな? ヌーヴォロマンが時代遅れだからロブ=グリエの言説に耳を傾けなくてもよい、というのもまた極端じゃね 文学史をなぞろうと思ったらロブ=グリエの残した言葉は結構重要な位置にあると個人的に思っている フローベールの切断てロマン主義からリアリズムへってこと? 零度のエクリチュール https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB 2。フローベール、ゴーチエのように時間をかけて文章を推敲彫琢してゆく職人的エクリチュール、 内容自体よりも書くための労苦自体に価値を認め、文章のリズムによって魔力的に陶酔させる。 3。伝統的エクリチュール、ジード、ヴァレリーがこの職人的エクリチュールを受け継いでいる。 4。モーパッサン、ドーデ、ゾラなどの写実主義的(自然主義的、プチブル的)エクリチュール、 写実を謳うものの写実的に見せようという作為が顕著なのが特徴、意外にも共産主義作家がこのエクリチュールを受け継いだ。 5。常套や伝統を避けて行き詰まると、ランボー、マラルメのように沈黙へと至らざるをえないオルフェウス的エクリチュール、 欲しいものがあればそれを諦めねばならない、とはいえ後ろを振り返ってしまうというジレンマが特徴。 6。カミュに代表される中性的(無垢の)エクリチュール、社会的性格を失い、文体がないという文体といえる。 他と異なり、社会的意図を示唆する作家の手先をまったく見せることのないのが特徴、それゆえに零度のエクリチュールと呼ばれる。 >>373 wくんは「ヌーヴォーロマンのために」読んだんだったら読み直して答えてあげればいいのに 死んだ体系ってどんなものか直前に書いてある ちなみにロラン・バルトとロブ=グリエはまた微妙に違う文脈でいっている まあ「新しい小説のために」に対して象徴派詩人出してきたりいきなりカフカに跳んでいたりするから間違いなく読んでいないけど こういう3流だの5流だの文句だけつける知ったかクンたちと議論しても得るものはないから普通に書籍に当たることを勧める >>376 アラン・ロブ=グリエと同じく、のロラン・バルトもまた時代遅れの構造主義の文脈の人なんだよな。 構造主義が滅んで40年。 >>376 残念ながら一応読んでいるんだけどね ワザワザ図書館の書庫にあったものを頼んで借りてね 内容の詳細は忘れているがね >>377 取って代わったようなものなんか出てきていないのに 勝手に時代遅れにするなよ その後のものはみんな延長線のものでしかないのに >>376 ダダの知ったかの屁理屈野郎でなければ >>320 以上のものに該当しない死んだ体系についてあんたから言えよ これ以上の趣旨に該当しない記述はあったとは記憶していないがね まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、 といったネットで検索できる程度の記述じゃねえだろうな 邦訳は「新しい小説のために」なのに「ヌーボーロマンのために」とか言っていること自体 胡散臭さ丸出しなんだよな >>376 まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、 といった>>320 についての補足程度でしかないもので 偉そうに言っていたんじゃねえだろうな 大体が320で引用された箇所だけを読むから、センセーショナルに受け止められてしまう。 320で引用された部分のその後の文章のトーンダウンで、内容はかなり中性化され、穏健なものになってる。 320の計画的犯行だ。 実際、ロブのこのエッセイ以降に新しいnarrativeの形式は登場してる。 ロブの穏健さ、用心深さが救いになった。 >>328 柄谷行人なんかだと漱石は西欧近代小説のシステムに疑いを持ってたという解釈ですよね。 >>376 バルトは文章でロブ=グリエは物語の形式ってこと? 物語内容や社会性や語りを軽視し言語にだけ焦点を当てるなら小説じゃなくて詩でいいんじゃないか? なぜわざわざ小説というジャンルを選択するのか? >>379 >邦訳は「新しい小説のために」なのに「ヌーボーロマンのために」とか言っていること自体 >胡散臭さ丸出しなんだよな >>320 に書いてあるように普通「ヌーボーロマンのために」で通ってるのだけどまぁいいや 自称読んだけど内容忘れたクン、そのラファイエット夫人とかジッドの名前に違和感感じない? >まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない フローベールで全てが揺るぎだすのになんで20世紀の小説家が時代遅れなんて話しが出てくるの? 言っとくけどそれ320とは別の論文だよ?発表年代も違う それを補足説明と勘違いしているならアンドレ・ジッドはどういう点でフローベールより新しくないんだ? 内容忘れたからネットで調べたというのはまぁいいからどういう理由で補足説明になると信じちゃったか教えてくれ ロブグリエ自身はジッドに触れた論文ではフローベールに触れてすらいないんだが ほんと可哀想だわ >>383 ちょっと程度の低いしったかくんの相手してると疲れるので後で適当に書き込みますわ あんたがこの質問最初に出した人かは知らないけれど、これはロブ=グリエの評論の一部分なのね 翻訳はいくつかまとめて一つの本にしているけれど、実際は発表年数もバラバラ その中の「時代遅れの若干の概念について(Sur quelques notions perimees)」のなかの「物語」の概念のところ で、その書き出しに「伝統的批評は独自の語彙を持っている(・・・)そこに一個の体系が存在することが明らかになる」ってなってるの これ追ってくと何が死んだ体系でフローベールが揺るがした体系は何か(といつの時代の小説かも)書いてある はっきり言ってこういう複雑な議論をネットで手軽に得ようとするのは嫌いだな 知ったかクンが「補助説明」としてネットから出してきたのは「Une voie pour le roman futur」っていう別の年に発表された実作論の話なわけ ロブ=グリエが実作するなら20世紀のジッドだろうがバルザックだろうがクレーブの奥方の作者だろうが時代遅れってのはフローベール関係ない ロラン=バルトは一応カミュの文体をゴールとして書いていて、フローベールの芸術主義は19世紀後半に受け継がれたけど云々の話していて、 この「時代遅れの概念」で攻撃している書き方した作者を乗り越えた、と言う点で評価はしていないの。 ロブ=グリエはゴールはとりあえず自分が今作っている小説と言う違いもある 正直今あんまりやる気ないので気が向いたら書き込むけど、そんなことよりきちんと彼らの小説や評論読むこと勧めるよ フローベールの登場によってラ・ファイエット夫人は時代遅れになるの? まあ、修正が加えられたとは思うけど。 >>387 だからラ・ファイエット夫人とジッド持ち出した論文はフローベールと関係ない ちなみにラファイエット夫人はググってくれ ずーっと昔の人だから近代小説遡った先として適当にロブ=グリエが名前出しただけ こういう説明延々やっていかないといけなくなるよね? 興味あるなら図書館で明日借りてくるとかしたら? で、フローベールが揺るがした体系っていったい何なの? まあ、今さら書庫にあるような本を借りようとは一切思わないけどね >>390 図書館の書庫にあるような閉架の本をというのが抜けていた >>389 ネットで手軽に答えを得ても頭は良くならないよ、と書いたのは伝わっている? まじめに原文タイプするのもう面倒だから明日以降暇なら書くよ 急ぎじゃないんでしょ?急ぎなら図書館いきな 死んだ体系がどうのこうのと言っている屁理屈野郎は 単に屁理屈がいいたいだけだとしか思えんな >>392 要するに>>323-24 で終わる話を 屁理屈詭弁で煙に巻きたいというのがとてもよくわかったよ >>388 >ずーっと昔の人だから近代小説遡った先として適当にロブ=グリエが名前出しただけ 別にそうだとは思わない。 スタンダール、バルザック、ユゴーとフローベールの間に断絶があるってこと? ある視点から見れば断絶のように見えても 別の視点から見ればつながりはある。 「伝統と前衛との間にしっかりとした線引きをするのが もっとも困難な部門が文学なのだ(エリオット)」 >>324 いかに書くか(文章の彫琢?)にこだわることで何で揺らぐの? まあ何を常識とするか、その価値観の違いなのかねえ… 日本の場合逍遙の『当世書生気質』と二葉亭の『浮雲』の断絶は凄いね。 逍遙は当然西欧近代小説を随分読んでたはずだが『気質』は江戸戯作から全く逃れられてない。『梅暦』的な文章、勧善懲悪の世界観、登場する女は芸者、花魁…江戸戯作としては凄く面白い小説なんだけどw はるか昔から文体や韻律整えたりってのがあるけどそれとどう違うんだろ ボヴァリー夫人は翻訳で読んだだけだけど凄く整然とした几帳面にまとめられた小説って印象だったなあ。 作者の主観やメッセージを廃した客観的なポリフォニー小説として考えるとフローベールよりドストエフスキーのほうが上やしな。 絵画だと印象派やピカソなんかは何を描くかでなくどう描くかのようだけど コミックや風刺画はどちらかというと逆だな 技術的なものでなく対象の表現法のことを言っているのだと自分には難しくてわからん 何を書くかがたいした問題じゃなかったならブヴァールとペキュシェにあれだけ膨大な資料積み上げて苦心しないでしょうに。 >>407 膨大な資料があれば、どのように小説が書かれても言いといいたいわけね いやボヴァリー夫人みたいに適当な三文記事を素材に文章を磨けばいいじゃないのって話。 >>410 何を書くかも、いかに書くかの範疇に入るのだからそれは違うでしょう いかに書くかという範疇にどのような題材を選んでどのように書くかという問題が入るのだから >>410 そうすると金井美恵子みたいにつまんない存在になっちゃうね。 本当蓮實重彦は罪深い。 心の城 ギュスターヴ・フロベ-ル (著), 柏木加代子 (翻訳) 出版社: 大阪大学出版会 (2015/3/6) フロベールが1863年に脱稿,1880年文芸雑誌に連載された戯曲.フランスでも大きく公表されることはなく,日本では初の全訳となる. 悪魔により心臓(心)を奪い取られた人間たちは醜い争いをしている. 一組の愛し合う恋人が妖精の導きでこれらの心を取り戻し,それぞれの持ち主の胸に返すまでを,風刺と社会批判を交えて描く. 訳者はこれらのなかにジャポニズムの影響をみる.全訳と解説.舞台挿絵入り. フローベールの革新性が誰もわかってないことが明らかにw サクっと浅田彰みたいに明快に説明してくれる人こないかなあ おんなじことカフカでもやりたいなあ んでさくっと説明できる人に説得されたい ジョイス的な言語実験の萌芽がフローベールにあるってことか? ジョイスはフローベールの「三つの物語」の冒頭と最後の文の誤りを指摘している (実際は誤りでもなんでもなく、ただケチをつけただけということ) フローべールの画期性については、21世紀になって登場した、モダニズムに対する新解釈の観点から考察する動きが出てる。 それは海外の美術史家達の間から始まった。 >>424 >>425 君達日本の土人には何を教えても無駄なことが分かったよ。 フローベールにまつわる紋切り型がこのスレでかなり突き崩されてるねw >>427 そうなの? じゃあ紋切ってまとめてみてよ 5つぐらいに要点絞ってさ 現在の世界のモダニズム研究者達はフローべールを差ほど特別視していないのではないかな。 ロマンティシズム、リアリズム、ナチュラリズム、インプレッショニズムの流れは僅か50年足らずぐらいの間に起きてるわけで、様々な見方が当然ある。 現在、世界中で議論されてるから、時々はpdfとかに目を通しておいた方が良い。 中村光夫訳のボヴァリー夫人の文庫版がほすぃ どっかで売ってない? フランス語購読のゼミで原文で読まされたけど、そのあとフランスにホームステイしてもあまり困らないくらいの語彙を詰め込んだな 『ボヴァリー夫人』予告 "ミア・ワシコウスカが文学史上最もスキャンダラスなヒロインに体当たりで挑む!" https://www.youtube.com/watch?v=ktzMYReMdjs hhasegawa 『紋切型辞典』は、他人と違うことを言おうとしてむしろ陥る定型句の集積で、 そもそも気の利いた会話をしたがる欲求が薄い日本人には疎遠な本であった。 とはいえ最近は本邦もSNSでそんな傾向が出てきたわけで、同書の見方も変わるかもしれない。 (承前)その意味で、「Fランク大学。潰して職業訓練校にすべき場所」など、 立派にフローベール的な紋切型たり得ているといえよう。 ありがたいことに、ツイッターのような場所で声の大きいインターネットご意見番おじさんの発言の大半から そういう辞典が編集できる程度には我らが文化も成熟してきた。 2017年2月3日 フローベールが1847年に執筆した旅行記「ブルターニュ紀行」(渡辺仁氏訳、新評論)によると、 これがまた当時のシャンポール城を毒舌で語っていて興味深いです。(以下抜粋) 屈辱的なマドリード条約(1526年)を締結してスペインから帰国したフランソワ1世によって建てられたこの城は、 敗北に甘んじるために己の気を紛らわそうとする自尊心の記念碑というべきものであるが、 まずここに追いやられてくるのは、王位継承争いに敗れたガストン・ドルレアン(オルレアン公)である。 次いでルイ14世が、二階建てに過ぎなかった城を四階建てにし、 床からてっぺんへと渦を巻くようにして一気に昇っていた見事な二重階段を台無しにしてしまう。 そしていよいよモリエールがここで、火とかげや彩色した装飾ー今はもう色が褪せているがーに覆われたこの美しい天井の下、 「町人貴族」を初演することになる。それから城はザックス元帥に、ポリニャック家に、一介の軍人ペルティエにと渡っていった。 募金によって買い戻されると、今度はボルドー公の手に渡った。 こうして城は、誰ひとりとして引き受けようとするものがいない、あるいは維持できる者がいないとでも言うように、 あらゆる人間の手に渡ったのである。役に立ったためしがなく、いつの時代にあっても大きすぎたようだ。 それは、旅人が自分の名前を壁に書き残すことさえしなかった、荒れ果てた宿屋を思わせる http://blogs.yahoo.co.jp/buongiorno1024/29895018.html 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、情念の規則的な屈折、それぞ れのエピソードの終局への指向、等々――はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけ ることを目的としていた。世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。小説の文 章(エクリチュール)は潔白であることができた。 ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。この思い出 、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。しかしながら、それにしても、今世紀はじめのか ずかずの偉大な小説を読みさえすれば、たとえ筋の崩壊が際立ってくるばかりだったとはいえ、すでに久しい以前から筋が、物語の骨組たることを やめてしまっているという事実を確認しないわけにはゆくまい。疑いもなく物語的な話という要請は、プルーストにとってはフローベールの場合ほ ど窮屈ではなく、フォークナーにとってはプルーストの場合ほど、ベケットにとってはフォークナーの場合ほど窮屈ではない…… いまは、もっと ほかのことが問題となったのである。物語るということが、厳密な意味で不可能となった。」ロブ=グリエ『新しい小説のために』 中村光夫のフローベール評価ってどういう感じなん? 言語がどうしたとかではないと想像するんだが… 「女たちは頭巾をうしろにたらした黒いヴェールをかぶって、そのあとに従った。 彼女らは手に手に火のついた太い蠟燭を持っていた。シャルルはこのたえずくりかえされる 祈禱と燈明のせいで、鑞と僧服のむかむかする匂いのために、気が遠くなりそうであった。 さわやかな微風が吹き、ライ麦も菜種も青々してきた。道端の茨の生け垣に、露の滴がふるえていた。」 『ボヴァリイ夫人』中村光夫訳 『ボヴァリー夫人』 新潮文庫の新訳とてもいいね。 訳し忘れの箇所がいくつかあるね。 アマゾンのカスタマー・レビューはあてにならない。 河出文庫のは、訳者の日本語能力は買うけれど、 翻訳の出来はいまいち。 岩波文庫のは可でもなければ不可でもない感じ。 特徴をよく捉えていると思う。 フローベールだってすぐにわかる。 フローベールは若い頃は凄い美男だったらしいよね。 >>442 岩波の文学案内は、ロシヤ文学の表紙がプーシキンで、ドイツ文学の表紙がゲーテで、両者ともに自国民も日本人も納得できる人選だとおもう。 フロベールは色々異論があるんじゃないかな? サルトルの『家の馬鹿息子』って、フロベールに興味はあるがサルトルに興味はない、という人でも楽しめますか? 花袋とフロベールって、生きた時代も国籍も違うじゃないか 使っている言語も大違いだぞ 二人とも突き詰めると下らないことをチンタラと書いている サランボーなんて作品は異色の古代ローマを扱った作品だ 今図書館へ行けばフローベールの全集を借りることができる 蒲団が物語内容ゆえに下らないならボヴァリー夫人も馬鹿女のくだらない話じゃないの。 モーパッサンのベラミだってちゃちな小悪党の立身出世話だし。 ユリイカとか現代思想で、フローベール特集ってあります? 感情教育だって物語内容的にはつまらない話だよ 実際問題、出版当時も大変不評だったのだし 小説にとって新聞の三面記事的なものを素材にするのとたまたま自分の経験を素材にすることに優越ってあるんだろうか? エンマがロドルフに体を許すのは共進会場の近くの建物の中だと 加賀乙彦さんは言っている。 俺はもっと後、林の中だと思っていたのね。 読み直してみたら加賀説もありのような気がする。 「ところで、日本には、いわゆる「自然主義」に相当する文学運動は存在したのですか、という彼の質問は、ゾラの全集に 序文を書いている彼にしてみれば当然のものであったので、フランス「自然主義」が日本的風土に触れて「心境小説」、「 私小説」へと変質してゆくさまを、その語り口の図式性にわれながら辟易しながらも説明してゆくと、それは何とも不可解 な変換だと、予想以上の興味を示して耳を傾けたのだ」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』)。 サランボー読む前に、カルタゴに関する予備知識を仕入れておいたほうがいいですか? ハンニバルが象に乗ってた、くらいしか知らないのですが。 「ボヴァリー夫人」と「蒲団」なぜかくも下らない小説が近代小説の祖になったのか 『ボヴァリー夫人』が「下らない小説」だって? 本当に読んでいるのかよ? 読んでいないなw ロドルフはエンマにカネを貸さなかったわけだけど、 話の流れに無理がない描写。とても自然だ。 巧いと思った。 若いうちに読んでおくと、人生に益すること大。 特に未婚の女性が読むべき小説だ。 ドストエフスキーの『白痴』の最後に『ボヴァリー夫人』(の本)が登場するのですが、両者の共通点は共に「イッポリイト」という人物が出てくる(しかも悲劇的に)、というくらいしか思い浮かびません。 どういう意味があるのでしょうか? (ドストスレで聞いたのですが、無視されてしまいました。) 『ボヴァリー夫人』の「イッポリイト」って、 手術失敗の被害者のことかな? ちょっと本を見てきた。 シャルル(ボヴァリー医師、エンマの夫)が脚の手術をして失敗した男の患者。 まわりの俗物どもに勧められてやった手術が失敗する。 手術前よりも障害がひどくなった。それなのにシャルルを憎みもしない。 エンマは夫に愛想を尽かし、これを契機にボヴァリー家の凋落が始まる。 『白痴』の方は肺病病みだったよね。 >>464 >>466 そうです。「金獅子亭」の下男で、シャルルのアキレス腱を切るという手術のおかげで、結局は足を切断せざるを得なくなった人物。 『白痴』のイッポリイトは第三篇の主人公といってもいい人物で、自分が余命いくばくも無いことを知り自殺を図る人物。(自殺は失敗するが、結核ですぐ死ぬ) 『ボヴァリー夫人』のイッポリイトより重要な人物と言っていいでしょう。 『白痴』のラストでムイシュキン伯爵がナスターシャを部屋を訪れるとき(このときナターシャはすでに死んでいる)、「居間のテーブルの上に『ボヴァリー夫人』が開かれたまま置かれている」という描写があるのですが、それだけが何も伏線も無くポツリと書いてあります。 ドストエフスキーとフロベールは生没年がほぼ一緒ですが、あまり接点が無く(私が知らないだけかも)、ちょっと不思議な感じがしたのです。 ドストエフスキー(1821−81) フローベール(1821−80) ふたりとも「てんかん」もち。 『ボヴァリー夫人』は1857年の作品。 『白痴』は1868年の作品。 「椿姫」(1848年)での「マノン・レスコー」の使い方と似てると思う ちなみにナターシャの造形は椿姫ことマグリットの造形に影響受けてるのかなと思う いわゆるファムファタールものとしての側面 でもそこに置いたのは「ボヴァリー夫人」だからドストがもう一つ複雑なニュアンスを込めて置いたのかな CiNiiで検索してみた 『白痴』における『ボヴァリー夫人』 : 「リアリズム」と死の超克 池田 和彦 Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 8, 162-189, 1991-06-01 CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ ロシアにおけるフロベール概観 : 「白痴」における「ボヴァリー夫人」・序 池田 和彦 Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 7, 50-76, 1990-06-30 CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ 私は読む気しませんが _, ,_ パーン ( ‘д‘) ⊂彡☆))Д´) 筑摩の全集に入っている田辺貞之助訳の「サランボー」をちくま文庫あたりで出してくれないかな。 角川文庫の神部訳を読んだけど、いまいちなんだな。 蓮實重彦はボヴァリー夫人のストーリーも評価してるの? 書簡を読むと、30代はじめに早くも「ハゲ」を気にしている。 >>475 少しでも読めばわかるのだけれど、きみはどういう立ち位置なの? 蓮實の著作を全く読んでいないのか、一周回って 評価を求めているのか 一般論ではストーリー以外の観点から技巧を評価しているとおもうけれど やっぱストーリーはつまらないんだーみたいな難癖つけたいだけならやめてね 『ボヴァリ夫人』の原型となった短編では、夫人は娘を殺して自殺するんだよ フロベールでシャルルといえば、シャルル・デローリエじゃないのか! いま、Dictionnaire des idees recues(紋切り型辞典)を呼んでいる。 ITALIENS Tous musiciens. Tous traitres. イタリア人 いつも唄っている。そして、いつも裏切る。 光文社古典新訳文庫で来月三つの物語の新訳(谷口亜沙子訳)が出るって 三つの物語は中央公論社の世界の文学と福武文庫のがあるから 新たに別に買おうとは思わないな ボヴァリー夫人は新潮文庫の生島の旧訳・中公の山田爵訳・岩波文庫の伊吹訳 新潮文庫の新訳に白井浩司訳の5種、 感情教育は岩波文庫の生島訳に新潮の清水徹訳があるから どっちかというとサランボーが欲しいんだよな 蓮實のブヴァールとペキュシェ論がなんか半端 もっと面白いのはないん? ボヴァリー夫人を初めて読んだ。というよりフローベールを初めて読んだ とても頭が良い人が書いたんだろうなと思わせる文章。精密機械みたい そしてすごく辛辣で醒めた目で世の中や人間を見ているような小説だった アメリカのハードボイルド作家のみたいに ボヴァリー夫人は、シャルルが本当の主人公にも思えるな 登場人物のほとんどに感情移入できなかった。エンマやばい、シャルル不甲斐ない、オメーうるさい、ルルー最悪 えっ? あの鈍い亭主が主人公w 主人公は3人の「ボヴァリー夫人」でしょ 母親、前妻エロイーズ、後妻エンマ シャルルの生い立ちから死までが描かれているし、類い稀な女難の男の一生と言えるかもしれない ボヴァリー読んだら次はサラムボーかなあ。感情教育のほうがいいかなあ フローベールさんは本当にすばらしい作家ですわ。細緻な描写、けどコクがあって何度読んでも飽きない文章 人類の宝です 『感情教育』だろうね 普通の文学好きはそれで打ち止め 仏文専攻なら『サラムボー』まで進むだろうが 作品数少ないから全部買って読めばいい ボヴァリー夫人・感情教育・サラムボー・三つの物語は新刊が文庫で買えるし ラスボスはプヴァールとペキシェ 光文社の感情教育を買ってこようかな。新訳のがいいよね 蓮實も感情教育にはそんなに触れてないね あれなんで? ボヴァリー夫人、太田浩一による新訳が進行中らしい。出版されたらぜひ読みたいな。 >>503 光文社古典新訳かな。感情教育を出してるよね。新潮の芳川泰久訳と比較してみたいな ボヴァリー夫人はすごい小説だと思うけど、あまりに作者の視点が辛辣で苦手 登場人物は主要な者らがほぼ醜悪な性格的欠陥があるし、共感できる人物がいない この世とは人生とはそんなものだという小説なのだろうし読みごたえもすごくあるけど フローベールの他の作品を読んでみようとまでは思えなかった。感情教育などは違うのだろうか >>509 ヨンヴィルラベイのモデルになった村に行ってみたいな。どれだけ田舎なんだろ どの作家もそうだけど 訳をいくつか読み比べると新訳が無難かなって感じがするけど 読みごたえというか何というか 作者と格闘してる感を得られるのは昔の訳なんだよな 新訳は読みやすいし不自然なところは少ないけど、あっさり風味に感じる 一方、昔の翻訳は古さを感じはするが風格がある 比べると新訳は事務作業をきちんとやりました的な味気なさを感じるときもある どちらがいいのかねえ サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳全五巻(人文書院)が今月ついに完結 1982年の刊行開始以来、足かけ40年に渡る作業 蓮實重彦訳の『三つの物語・十一月』 来年1月講談社文芸文庫入り >>514 それ、元は講談社世界文学全集の翻訳で持っているよ 中村光夫訳『ボヴァリイ夫人』も入っている >>513 それ、完結を待ち切れず5年くらい前に第4巻まで読んでしまったよ。 最早通して読み返す気は起こらない。 蓮見が遅れたんだよね。 ≫何度読んでも飽きない文章 ≫人類の宝です 翻訳がいいのではないですか。 「三つの物語」の最初の物語が強く印象に残った 「素朴な女」とか、そんな題だったと思う 光文社のを読んだので、蓮實のは買ったりしないが 蓮實重彦は『ボヴァリー夫人』の訳は自分が習った先生である山田ジャク訳を勧めている 君は山田訳を読んでいないだろ 誤訳があって嫌になる 俺は>>519 ではないけれど、誤訳というのはどうやってみつけるの? 翻訳の日本語がおかしいので原文にあたる、それとも最初から日仏両方を照らし合わせながら読んでいくの? >>513 刊行開始から40年もかかって完結なら、まっとうに期間で翻訳してたら得られたはずの多数の読者を 逃したことは間違いない。 出版社と翻訳者の気持ち悪い馴れ合いだな。 確かに5巻で3000ページ余りくらいある大部の本かもしれないが、どうせ 分担して訳すなら、30才そこそこの若手を10人くらい起用して、2‐3年で刊行すれば良かったんだよ。 表題の「家の馬鹿息子」とは、この本の翻訳者や出版社のことだよ。少なくともウスノロ。 デアゴスティーニの「恋愛小説の世界」シリーズで淀野隆三訳のボヴァリー夫人が復刊(まだ二分冊のⅠのみ) ホラ吹くなゴミ アシェット・コレクションズ・ジャパンだろ低能 いろいろ新しい訳が出てるんだなあ ちょっとずつ読んでこっと ボヴァリー夫人は今の新潮の芳川訳に問題を感じないがな つうか良訳だと思うんだが ぽつぽつ読んでみると やっぱりフローベールは面白いんだなあ 翻訳の問題というより これは表記の問題なのだが そもそもフローベールさんなのか フロベールさんなのか どっちなのかね 日本の先生方の表記も割れてる ちなみにハルキ・ムラカミの新刊ではフロベール 主人公がちらっと感情教育をよんでるのねw >>528 Flaubertだからフローベールの方が近いんじゃないの 今と昔では日本人の耳の認知も変化してますしお寿司。 昔の人はぢづと、ジズを聴き分けたが、それを現代人は出来ん。 逆に、今の若い日本人が聴き分けるものを老人は聴き分けられない。 >>530 ちなみに高知県人はいまだにぢづとじずを聞き分けていると何かで読んだ記憶があるが本当か? >>530 ちなみに昔(30年くらい前)フロベールの表記が一般的だったような気がする フローベールで持っているのは、 十一月 ボヴァリー夫人 サランボー 感情教育 聖アントワーヌの誘惑 三つの物語 ブヴァールとペキュシェ くらいだな バルザック、ゾラに比べて少ないね テクストを読む時間が少なくて済むから、その点で研究者は楽でいいね >>533 確かにそうだけどその分研究書も多いだろうからそっちが大変だったのでは? 『家の馬鹿息子』なんか分厚いしそれこそ翻訳出る前はしんどかったと思う(はなから読まなかったか英訳版を参照した? あったかどうか知らないけど) >>531 昔と言っても、聞き分けられるのを自慢してたのは19世紀ぐらいの生まれの人。 大正以降の生まれの人は曖昧だろう。 >>534 英訳版は1981−1993にかけて出版されてるようだ。 日本語訳者達が読んでない訳が無いわな。 大体がこの程度のことを調べて書かない奴の気が知れん。 余程からだや気持ちが緩んでるんだろう。 >>536 俺か言っているのは怠慢こいてた蓮實の事ではなく、そのほかのフローベールの研究者の事だが。フローベール自身の著作は比較的少なくても読まなけばならない研究書が多すぎないかと >>535 海と山という二大隔壁で遮られた陸の孤島である高知だけは20世紀まで残ったわけか 生島訳の感情教育は今となっては読みづらいものになってしまったかなあ 太田訳はたしかに読みやすい 補足の情報も親切だし ただ読みやすいとか読みづらいとか 読み手の能力次第だし そもそも好みの問題でもあるからなあ >>539 光文社が新訳文庫をやってるので、5ch文学板で旧訳は読みづらいキャンペーンをステマでやってる奴がいるんだろうが、たぶん光文社の回し者だろう。 新訳なんかよりも、世界で話題の新しい本の翻訳をやったほうが、どれだけ読者を喜ばせるか知れないのに、敢えて新訳シリーズをやってるのはエコノミー安上がりで、かつ翻訳者が楽だからだろ。 十一月を読んでいると なんだか歌舞伎を見ているような気がしてくるのは 俺がバカだからなんだろうなw ボバリー夫人は無駄に三冊持ってたんで読み比べしたけど一番古い伊吹訳が一番よかった 次に古い杉訳は無難で、一番新しい菅野訳が一番だめだった 菅野訳は言葉は綺麗だけど貧弱て弱々しく、伊吹訳は言葉は汚いけど一番力強く効果的だった 原文読めんからどれが正解なのかはわからんが やっぱり、現代人は言語能力が低下してるね。 読めりゃいい、分りゃ良いで来てるから。 加えてスマホ。 >>544 現代人だから、今生きてる奴は全部含めてるんだよ。 それが普通の読みだ。 >>544 現代人の中でもキミが一番言語能力が低下しているということだ 山田ジャクの訳割と好き ここ山田の創作だいぶ入ってるんだろうなって薄々感じるとこ結構あるけど なんか読んでて楽しい 「私はフローベールを崇拝するものではない が、それでも彼自身が打ち明けているとおり、フローベールは『サランボ ー』に対しては「黄色の色彩の印象を与えたかった」だけであり、『ボヴァ リー夫人』には「何かわらじ虫がいる片隅のあのカビの色である感じを 出したかった」だけであるのが私に保証されるならば(……)、結局のと ころこれらの文学外的関心によって、フローベールに対する好意を抱く 気になるのである」 アンドレ・ブルトン『ナジャ』 read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる