フローベール
『ボバリー夫人』でいいじゃん。
おまえはポルノヴィデオっていうのか?ビデオがふつうだろうが。
「レビストロース氏」なんてもっといいじゃん。
Levitiqueのことをレヴィ記というのかおまえは?ふつうレビ記だろうが。
くだらねえ衝撃に打たれて、もう起きてこんでいいよおまえは。 私は2ちゃんに書く時でもテラヴィジャン、ヴィディオウと表記してますが。 100年以上前の作家だが、現在読んでも上手いのがわかる。 「プヴァールとペキュシェ」は「中年オタク2人が巻き起こすドタバタ喜劇」みたいなキャッチ付けて古典新訳文庫とか出せばそこそこ売れそうな気がするんだがな
岩波は訳が読みにくいし全集は手に入りにくいから小倉孝誠先生に頑張って訳してもらって出して欲しい >>227
ハスミが褒めちぎったのが逆効果だったと思う 訳されたのが古いのばかりだから、敬遠されがちなんだわ。
フローベールこそ、新訳を出すべき作家である。 新潮文庫の生島訳のボヴァリー夫人を読んでいるのだが、全体的に読みづらい。
なんというか、常に違和感を覚えながら読んでる。
生島遼一は他の訳もおかしいの多すぎる。
まあ、下訳になかりの部分を任せていたそうだが。 下訳に任せていたら、普通はそんなに変なものにはなりません。
大先生が一人で頑張ると、変な訳になること多し。 「新潮」2014年1月号先行発表分を含む、序章
+全10章+終章からなる800頁を超える大著、
蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」は筑摩書房
より2014年春刊行予定です。
ttps://twitter.com/Monthly_Shincho/status/406548441980866560 ハスミン、二段組にしてもう少しページ薄くしてよー
ごつい雰囲気いらないからソフトカバーで安くしてよー 生島訳は変だと思う
最後の解説も変だ
日本語なのにおかしく感じる >シャルルは切符を大切に握ったままズボンのポケットに入れ、そこに腹をぎゅっとおしつけていた。
意味不明なんだが。 生島は下訳に丸投げ
バルザックも訳していたんだが、他の人が訳したのを清書しただけ
その清書も怪しい 山田訳『感情教育』を読み始めたが、「金はないしするから」(26p)ってなんだ。 訳された回数は多いけど、古い訳が多いね。
読まれない原因でもある。
フローベールこそ新訳を出すべき作家なのだが。 そのまま読み進めてみたら、「家族は某大臣と知合いだしするから」(河出文庫上巻106p)とある。
どうやら「○○だったりするから」ぐらいの意味のようだ。が、「○○だしするから」なる表現は見たことも聞いたこともないな 方言? とりあえず誤植の可能性は限りなく無いに等しくなったようでよかった 山田爵って森鴎外の息子だし仏文業界の重鎮だったからか、
糞訳のくせに持ち上げる学者が多いと思った >>244
明治から昭和初期の日本の小説にはそういう表現がある。
今は廃れたが、かつてはよく使っていた。
まさに言葉は時代とともに移り変わっていくね。
平安時代の日本語もこの千年の間にかなり変わってきたからな。 今日、古本屋で村上菊一郎訳のボヴァリー夫人を100円で手に入れた
今まで聞いた事がない訳者だったので楽しみ
生島訳、伊吹訳は持ってた 『ボヴァリー夫人』中村光夫訳を持ってるんだが、読んだ人いる?
生島訳と山田訳も一応ある。どれがベストかな? Les manuscrits de Madame Bovary
http://www.bovary.fr/ 蓮實重彦のボヴァリー夫人論が6月25日に出る
装丁は地味だが850ページの文章の快楽に身をひたすために今から心の準備をしておこう ボヴァリー夫人って、そんな論じるような内容はないと思う。
そもそもフローベールの意図に反しているんじゃないか? 新潮も新訳をだすべきだと思う。
生島訳は変だと思う。 文学全集も入れると色々翻訳あるけどボヴァリー夫人と感情教育でどの翻訳がお勧めですか?
山田ジャクとか中村光夫? 山田訳は蓮實が自分の師匠ということでゴリ押ししてるだけ 悪くないよ
サランボーにしても聖アントワヌにしても、「調べて書く」作家としての面目躍如といったところ >>261
5月末新潮文庫でボヴァリー夫人の新訳出るよ
芳川泰久訳 感情教育に続きボヴァリーも新訳か
この勢いに乗ってサランボーかプヴァールとペキュシェも出して欲しい ボヴァリー新訳どんな感じ?
新訳なのに岩波河出新潮で相変わらずの最安値なんだな 俺はフラ語できるわけじゃないから原典との比較がどうのといえる立場じゃないが
単純に翻訳物としてはまあ別に面白く読める
翻訳者は今までとは違う翻訳を目指してるとか何とか言ってるみたい
この人の岩波のバルザックの翻訳が良かったから買って読んでる
一つ不満を上げるとしたらスカート中がシャルルの世界の全てだった云々のところの印象が薄い文章なってる所
岩波版のあそこすげー衝撃的で好きだったんで 『三つの物語』Trois Contes のなかの
「純な心」"Un coeur simple" 泣けた。 昔ボバリー夫人よんだが
とにかく、こんなワガママで情緒不安定な女ついていけんわ!!という感想しか持てなかった
こんなヒロインに感情移入できる人いないよね?
ネタキャラみたいなもん? >>276
その言葉も有名だけど
フローベールが実生活でエマみたいな人だった訳じゃないんでしょ? はあ、そりゃ名誉なことで
ああいう女の話をあのボリュームで読むのはちとキツイな
エマの魅力とか全く思い出せないし共感もしないし >その言葉も有名だけど
>フローベールが実生活でエマみたいな人だった訳じゃないんでしょ?
なに言ってんの?
おまえバカなの? >>278が言っているのは、
作中に出てくる薬剤師、「オメー」氏のことだよね。 ああ、そういうことか失礼
読んだの昔なんで忘れてたわ マルセル・デュシャンがインタビューで
文学について聞かれてボヴァリー夫人だけあとは知らない
みたいなこと言っててなるほどと思った。 フローベールの小説のフランス語て現代から見たらやはり相当古めかしいの?
日本で言うと我々が漱石あたりの文章に感じる古めかしさ?あるいは江戸戯作文くらいの古さ? ヴァレリーもアカデミー・フランセーズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E%E5%8F%B2
1634年にリシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが創設され、フランス語の純化と維持を目的とする公的機関が誕生した。
定員40名のアカデミー・フランセーズ会員は les immortels (不死者)として知られているが、これは迷信じみた考えからそうなっているのではなく、アカデミー会員が全身全霊を奉げるべく選ばれていることと、
リシュリューの定めたアカデミーの紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる。
アカデミー・フランセーズは現在も健在であり、フランス語の監視と外来語・外来表現の置き換えに寄与している。 現在のアカデミー・フランセーズ会員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%BA
ジャン=リュク・マリオン
シモーヌ・ヴェイユ
ミシェル・セール
定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま会員になれなかった著名人も数多い。このような人物として、デカルト、パスカル、モリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。 http://www.tetsuwari.com/ydiary/show/2719
このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。
帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。
その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、
のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。 ボヴァリー夫人読んだけど、なんかな〜
名作だと思えんかった。 と、名作だと言われると名作だと読む素直なバカが言っておりますw ただ、蓮實重彦みたいなのを典型に、
「面白い」だけではダメだ、みたいに否定的に構えるやつにとっては、
ボヴァリー夫人の方が研究しがいがあるってこと 紋切型2
2012年12月19日
http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55547731.html
こないだ立教で蓮實先生の講演(『ボヴァリー夫人』のフィクション論)があったから聴きにいったのだけれど、
その時に上で書いたようなフロベールと小津の「紋切型」に対する仕方みたいなものの共通性について質問したら
「フロベールと小津は一切関係ないのでその質問にはお答えできません」と一蹴されてしまいました。 >>295
ボヴァリー夫人のほうが好きな私は少数派なのかな
なんかロザネットに苛々しすぎてあれが出てきたら話が頭に入ってこなくなる >>397
蓮實重彦という個性を媒介項にして小津とフローベールに共通点を見てしまうことっていうのは徹底してロマン派的思考なんだ
彼本人がまったく別の理由からほめている現象を、彼を理由につなげてしまう、わかりやすい物語解釈に抗うという点で、
彼がそこまでシニカルにぶった切ってくれたことをいつか感謝すると思う
違うものに共通点を見出すという快楽、物語に過ぎないもの、それが他人の物語を剽窃、misuseすることに反論しないことは著者たるもののすべきことではない
そういう伝統が1940年代以降のフランス文学批評には充満している フローベール ポケットマスターピース07 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
堀江敏幸 編 編集協力 菅谷憲興
文章の形式は、精緻になればなるほど全体を曖昧にし、言葉もそれにともなって揮発していく。
……フローベールの言葉は、二十世紀後半以後の文学を念頭において口にされたものかと疑いたくなるほど、私にとってあたらしいものだった。
釣られるように手に取った『ボヴァリー夫人』の導入部は、たしかに、支えがなくてもに浮いているという、
強固さと頼りなさがひとつになった感覚をみごとに体現していた。(堀江敏幸・解説より)
収録内容:十一月/ボヴァリー夫人(抄)/サランボー(抄)/
ブヴァールとペキュシェ(抄)/書簡選
定価:本体1,300円+税
発売日:2016年4月20日
「ボヴァリー夫人」菅野昭正・訳
恋愛小説にあこがれたエンマは、退屈で凡庸な夫との夫婦生活に飽き飽きしていた。どうして結婚なんかしてしまったのかしら?
だがその閉塞感と倦怠感は、悲劇の始まりでもあった……。
人妻の不倫と自殺という通俗小説を芸術の域にまで高めた「ボヴァリー夫人」は大スキャンダルを呼び、ついに裁判にまで……。
フローベールの代表作。
「サランボー」笠間直穂子・訳
古代カルタゴ。戦争を終え疲弊した傭兵軍のリビア人マトーは、そのねぎらいの宴で、ハミルカルの娘であり巫女のサランボーに恋をする。
だが彼の思いをよそに、傭兵たちとカルタゴ国との溝は深まり、とうとう反乱にまで発展することに。
残虐な戦争と不毛な暴力の応酬がふたりを翻弄する。社交界に“サランボー・モード”を引き起こした、オリエンタルな情緒あふれる一作。
「ブヴァールとペキュシェ」菅谷憲興・訳
愛想のいいブヴァールと生真面目なペキュシェ、ばったり出会った筆耕屋のふたりは意気投合し、一緒に田舎で暮らすことにする。
庭園を造ったり、医学に没頭したり、さまざまな試行錯誤をするが……滑稽に奮闘を重ねるふたりを追う描写は、まるで百科事典のよう。
果たして男たちはどこへたどり着くのか。死後に発表された、フローベール未完の遺作。 フローベールは「ボヴァリー夫人」と「ブヴァールとペキュシェ」のみが重要だ
と蓮實重彦は言っていたが、それはちょっと言い過ぎだと思う。 『サランボー』こそ世紀の大傑作というのは知る人ぞ知る事実だ。 《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、
愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、
それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。
……現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。
フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。》
(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』) まだページは切ってないが、手から手へと渡ってきたために仮綴じが崩れている医科学辞典の全巻が、
樅材製の書棚六段をそれだけでほとんど占領していた。
この部屋には診察の間中、壁越しにブラウン・ソースの匂いが漂ってくるからには、
診察室で患者が咳せきをしたり、相談している話など台所につつ抜けになっているに相違なかった。
台所の先は馬小屋のある中庭に面してかまどの置いてある大きな荒れた部屋となっていた。 1857年
小説『ボヴァリー夫人』フローベール36歳(1821年生) フローベールの伝記的な本ってないですかね?
まとまった分量ならば、何かの小説の解説という形でも構いません。 >>312
アンリ・トロワイヤのフローベール伝が2008年に水声社から出てる
今は絶版みたいだけど都内のデカい書店ならまだ店頭在庫あるかも
最悪Amazonで中古か図書館へ わい、ボヴァリー夫人を読み終える
おおよその粗筋と結末が悲劇的であるということは予め知ったうえで読んでいたが、それでも面白かった
久しぶりに「文学を読む」ことを堪能した フロベー 主婦ってゆうか、女子中高生とかも含めて、そもそも女って奴は退屈してんだよ。不倫したくてうずうずしてんだよ。
トルストイ、ロレンス 全くその通りで。 シャルルが鈍い男というだけの話。
ホント情けない男w
娘も可哀想過ぎる!