フローベール
フローベールの切断てロマン主義からリアリズムへってこと? 零度のエクリチュール https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB 2。フローベール、ゴーチエのように時間をかけて文章を推敲彫琢してゆく職人的エクリチュール、 内容自体よりも書くための労苦自体に価値を認め、文章のリズムによって魔力的に陶酔させる。 3。伝統的エクリチュール、ジード、ヴァレリーがこの職人的エクリチュールを受け継いでいる。 4。モーパッサン、ドーデ、ゾラなどの写実主義的(自然主義的、プチブル的)エクリチュール、 写実を謳うものの写実的に見せようという作為が顕著なのが特徴、意外にも共産主義作家がこのエクリチュールを受け継いだ。 5。常套や伝統を避けて行き詰まると、ランボー、マラルメのように沈黙へと至らざるをえないオルフェウス的エクリチュール、 欲しいものがあればそれを諦めねばならない、とはいえ後ろを振り返ってしまうというジレンマが特徴。 6。カミュに代表される中性的(無垢の)エクリチュール、社会的性格を失い、文体がないという文体といえる。 他と異なり、社会的意図を示唆する作家の手先をまったく見せることのないのが特徴、それゆえに零度のエクリチュールと呼ばれる。 >>373 wくんは「ヌーヴォーロマンのために」読んだんだったら読み直して答えてあげればいいのに 死んだ体系ってどんなものか直前に書いてある ちなみにロラン・バルトとロブ=グリエはまた微妙に違う文脈でいっている まあ「新しい小説のために」に対して象徴派詩人出してきたりいきなりカフカに跳んでいたりするから間違いなく読んでいないけど こういう3流だの5流だの文句だけつける知ったかクンたちと議論しても得るものはないから普通に書籍に当たることを勧める >>376 アラン・ロブ=グリエと同じく、のロラン・バルトもまた時代遅れの構造主義の文脈の人なんだよな。 構造主義が滅んで40年。 >>376 残念ながら一応読んでいるんだけどね ワザワザ図書館の書庫にあったものを頼んで借りてね 内容の詳細は忘れているがね >>377 取って代わったようなものなんか出てきていないのに 勝手に時代遅れにするなよ その後のものはみんな延長線のものでしかないのに >>376 ダダの知ったかの屁理屈野郎でなければ >>320 以上のものに該当しない死んだ体系についてあんたから言えよ これ以上の趣旨に該当しない記述はあったとは記憶していないがね まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、 といったネットで検索できる程度の記述じゃねえだろうな 邦訳は「新しい小説のために」なのに「ヌーボーロマンのために」とか言っていること自体 胡散臭さ丸出しなんだよな >>376 まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない、 といった>>320 についての補足程度でしかないもので 偉そうに言っていたんじゃねえだろうな 大体が320で引用された箇所だけを読むから、センセーショナルに受け止められてしまう。 320で引用された部分のその後の文章のトーンダウンで、内容はかなり中性化され、穏健なものになってる。 320の計画的犯行だ。 実際、ロブのこのエッセイ以降に新しいnarrativeの形式は登場してる。 ロブの穏健さ、用心深さが救いになった。 >>328 柄谷行人なんかだと漱石は西欧近代小説のシステムに疑いを持ってたという解釈ですよね。 >>376 バルトは文章でロブ=グリエは物語の形式ってこと? 物語内容や社会性や語りを軽視し言語にだけ焦点を当てるなら小説じゃなくて詩でいいんじゃないか? なぜわざわざ小説というジャンルを選択するのか? >>379 >邦訳は「新しい小説のために」なのに「ヌーボーロマンのために」とか言っていること自体 >胡散臭さ丸出しなんだよな >>320 に書いてあるように普通「ヌーボーロマンのために」で通ってるのだけどまぁいいや 自称読んだけど内容忘れたクン、そのラファイエット夫人とかジッドの名前に違和感感じない? >まさか、いまはバルザックやジードやラ・ファイエット夫人の時代ではない フローベールで全てが揺るぎだすのになんで20世紀の小説家が時代遅れなんて話しが出てくるの? 言っとくけどそれ320とは別の論文だよ?発表年代も違う それを補足説明と勘違いしているならアンドレ・ジッドはどういう点でフローベールより新しくないんだ? 内容忘れたからネットで調べたというのはまぁいいからどういう理由で補足説明になると信じちゃったか教えてくれ ロブグリエ自身はジッドに触れた論文ではフローベールに触れてすらいないんだが ほんと可哀想だわ >>383 ちょっと程度の低いしったかくんの相手してると疲れるので後で適当に書き込みますわ あんたがこの質問最初に出した人かは知らないけれど、これはロブ=グリエの評論の一部分なのね 翻訳はいくつかまとめて一つの本にしているけれど、実際は発表年数もバラバラ その中の「時代遅れの若干の概念について(Sur quelques notions perimees)」のなかの「物語」の概念のところ で、その書き出しに「伝統的批評は独自の語彙を持っている(・・・)そこに一個の体系が存在することが明らかになる」ってなってるの これ追ってくと何が死んだ体系でフローベールが揺るがした体系は何か(といつの時代の小説かも)書いてある はっきり言ってこういう複雑な議論をネットで手軽に得ようとするのは嫌いだな 知ったかクンが「補助説明」としてネットから出してきたのは「Une voie pour le roman futur」っていう別の年に発表された実作論の話なわけ ロブ=グリエが実作するなら20世紀のジッドだろうがバルザックだろうがクレーブの奥方の作者だろうが時代遅れってのはフローベール関係ない ロラン=バルトは一応カミュの文体をゴールとして書いていて、フローベールの芸術主義は19世紀後半に受け継がれたけど云々の話していて、 この「時代遅れの概念」で攻撃している書き方した作者を乗り越えた、と言う点で評価はしていないの。 ロブ=グリエはゴールはとりあえず自分が今作っている小説と言う違いもある 正直今あんまりやる気ないので気が向いたら書き込むけど、そんなことよりきちんと彼らの小説や評論読むこと勧めるよ フローベールの登場によってラ・ファイエット夫人は時代遅れになるの? まあ、修正が加えられたとは思うけど。 >>387 だからラ・ファイエット夫人とジッド持ち出した論文はフローベールと関係ない ちなみにラファイエット夫人はググってくれ ずーっと昔の人だから近代小説遡った先として適当にロブ=グリエが名前出しただけ こういう説明延々やっていかないといけなくなるよね? 興味あるなら図書館で明日借りてくるとかしたら? で、フローベールが揺るがした体系っていったい何なの? まあ、今さら書庫にあるような本を借りようとは一切思わないけどね >>390 図書館の書庫にあるような閉架の本をというのが抜けていた >>389 ネットで手軽に答えを得ても頭は良くならないよ、と書いたのは伝わっている? まじめに原文タイプするのもう面倒だから明日以降暇なら書くよ 急ぎじゃないんでしょ?急ぎなら図書館いきな 死んだ体系がどうのこうのと言っている屁理屈野郎は 単に屁理屈がいいたいだけだとしか思えんな >>392 要するに>>323-24 で終わる話を 屁理屈詭弁で煙に巻きたいというのがとてもよくわかったよ >>388 >ずーっと昔の人だから近代小説遡った先として適当にロブ=グリエが名前出しただけ 別にそうだとは思わない。 スタンダール、バルザック、ユゴーとフローベールの間に断絶があるってこと? ある視点から見れば断絶のように見えても 別の視点から見ればつながりはある。 「伝統と前衛との間にしっかりとした線引きをするのが もっとも困難な部門が文学なのだ(エリオット)」 >>324 いかに書くか(文章の彫琢?)にこだわることで何で揺らぐの? まあ何を常識とするか、その価値観の違いなのかねえ… 日本の場合逍遙の『当世書生気質』と二葉亭の『浮雲』の断絶は凄いね。 逍遙は当然西欧近代小説を随分読んでたはずだが『気質』は江戸戯作から全く逃れられてない。『梅暦』的な文章、勧善懲悪の世界観、登場する女は芸者、花魁…江戸戯作としては凄く面白い小説なんだけどw はるか昔から文体や韻律整えたりってのがあるけどそれとどう違うんだろ ボヴァリー夫人は翻訳で読んだだけだけど凄く整然とした几帳面にまとめられた小説って印象だったなあ。 作者の主観やメッセージを廃した客観的なポリフォニー小説として考えるとフローベールよりドストエフスキーのほうが上やしな。 絵画だと印象派やピカソなんかは何を描くかでなくどう描くかのようだけど コミックや風刺画はどちらかというと逆だな 技術的なものでなく対象の表現法のことを言っているのだと自分には難しくてわからん 何を書くかがたいした問題じゃなかったならブヴァールとペキュシェにあれだけ膨大な資料積み上げて苦心しないでしょうに。 >>407 膨大な資料があれば、どのように小説が書かれても言いといいたいわけね いやボヴァリー夫人みたいに適当な三文記事を素材に文章を磨けばいいじゃないのって話。 >>410 何を書くかも、いかに書くかの範疇に入るのだからそれは違うでしょう いかに書くかという範疇にどのような題材を選んでどのように書くかという問題が入るのだから >>410 そうすると金井美恵子みたいにつまんない存在になっちゃうね。 本当蓮實重彦は罪深い。 心の城 ギュスターヴ・フロベ-ル (著), 柏木加代子 (翻訳) 出版社: 大阪大学出版会 (2015/3/6) フロベールが1863年に脱稿,1880年文芸雑誌に連載された戯曲.フランスでも大きく公表されることはなく,日本では初の全訳となる. 悪魔により心臓(心)を奪い取られた人間たちは醜い争いをしている. 一組の愛し合う恋人が妖精の導きでこれらの心を取り戻し,それぞれの持ち主の胸に返すまでを,風刺と社会批判を交えて描く. 訳者はこれらのなかにジャポニズムの影響をみる.全訳と解説.舞台挿絵入り. フローベールの革新性が誰もわかってないことが明らかにw サクっと浅田彰みたいに明快に説明してくれる人こないかなあ おんなじことカフカでもやりたいなあ んでさくっと説明できる人に説得されたい ジョイス的な言語実験の萌芽がフローベールにあるってことか? ジョイスはフローベールの「三つの物語」の冒頭と最後の文の誤りを指摘している (実際は誤りでもなんでもなく、ただケチをつけただけということ) フローべールの画期性については、21世紀になって登場した、モダニズムに対する新解釈の観点から考察する動きが出てる。 それは海外の美術史家達の間から始まった。 >>424 >>425 君達日本の土人には何を教えても無駄なことが分かったよ。 フローベールにまつわる紋切り型がこのスレでかなり突き崩されてるねw >>427 そうなの? じゃあ紋切ってまとめてみてよ 5つぐらいに要点絞ってさ 現在の世界のモダニズム研究者達はフローべールを差ほど特別視していないのではないかな。 ロマンティシズム、リアリズム、ナチュラリズム、インプレッショニズムの流れは僅か50年足らずぐらいの間に起きてるわけで、様々な見方が当然ある。 現在、世界中で議論されてるから、時々はpdfとかに目を通しておいた方が良い。 中村光夫訳のボヴァリー夫人の文庫版がほすぃ どっかで売ってない? フランス語購読のゼミで原文で読まされたけど、そのあとフランスにホームステイしてもあまり困らないくらいの語彙を詰め込んだな 『ボヴァリー夫人』予告 "ミア・ワシコウスカが文学史上最もスキャンダラスなヒロインに体当たりで挑む!" https://www.youtube.com/watch?v=ktzMYReMdjs hhasegawa 『紋切型辞典』は、他人と違うことを言おうとしてむしろ陥る定型句の集積で、 そもそも気の利いた会話をしたがる欲求が薄い日本人には疎遠な本であった。 とはいえ最近は本邦もSNSでそんな傾向が出てきたわけで、同書の見方も変わるかもしれない。 (承前)その意味で、「Fランク大学。潰して職業訓練校にすべき場所」など、 立派にフローベール的な紋切型たり得ているといえよう。 ありがたいことに、ツイッターのような場所で声の大きいインターネットご意見番おじさんの発言の大半から そういう辞典が編集できる程度には我らが文化も成熟してきた。 2017年2月3日 フローベールが1847年に執筆した旅行記「ブルターニュ紀行」(渡辺仁氏訳、新評論)によると、 これがまた当時のシャンポール城を毒舌で語っていて興味深いです。(以下抜粋) 屈辱的なマドリード条約(1526年)を締結してスペインから帰国したフランソワ1世によって建てられたこの城は、 敗北に甘んじるために己の気を紛らわそうとする自尊心の記念碑というべきものであるが、 まずここに追いやられてくるのは、王位継承争いに敗れたガストン・ドルレアン(オルレアン公)である。 次いでルイ14世が、二階建てに過ぎなかった城を四階建てにし、 床からてっぺんへと渦を巻くようにして一気に昇っていた見事な二重階段を台無しにしてしまう。 そしていよいよモリエールがここで、火とかげや彩色した装飾ー今はもう色が褪せているがーに覆われたこの美しい天井の下、 「町人貴族」を初演することになる。それから城はザックス元帥に、ポリニャック家に、一介の軍人ペルティエにと渡っていった。 募金によって買い戻されると、今度はボルドー公の手に渡った。 こうして城は、誰ひとりとして引き受けようとするものがいない、あるいは維持できる者がいないとでも言うように、 あらゆる人間の手に渡ったのである。役に立ったためしがなく、いつの時代にあっても大きすぎたようだ。 それは、旅人が自分の名前を壁に書き残すことさえしなかった、荒れ果てた宿屋を思わせる http://blogs.yahoo.co.jp/buongiorno1024/29895018.html 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、情念の規則的な屈折、それぞ れのエピソードの終局への指向、等々――はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけ ることを目的としていた。世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。小説の文 章(エクリチュール)は潔白であることができた。 ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。この思い出 、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。しかしながら、それにしても、今世紀はじめのか ずかずの偉大な小説を読みさえすれば、たとえ筋の崩壊が際立ってくるばかりだったとはいえ、すでに久しい以前から筋が、物語の骨組たることを やめてしまっているという事実を確認しないわけにはゆくまい。疑いもなく物語的な話という要請は、プルーストにとってはフローベールの場合ほ ど窮屈ではなく、フォークナーにとってはプルーストの場合ほど、ベケットにとってはフォークナーの場合ほど窮屈ではない…… いまは、もっと ほかのことが問題となったのである。物語るということが、厳密な意味で不可能となった。」ロブ=グリエ『新しい小説のために』 中村光夫のフローベール評価ってどういう感じなん? 言語がどうしたとかではないと想像するんだが… 「女たちは頭巾をうしろにたらした黒いヴェールをかぶって、そのあとに従った。 彼女らは手に手に火のついた太い蠟燭を持っていた。シャルルはこのたえずくりかえされる 祈禱と燈明のせいで、鑞と僧服のむかむかする匂いのために、気が遠くなりそうであった。 さわやかな微風が吹き、ライ麦も菜種も青々してきた。道端の茨の生け垣に、露の滴がふるえていた。」 『ボヴァリイ夫人』中村光夫訳 『ボヴァリー夫人』 新潮文庫の新訳とてもいいね。 訳し忘れの箇所がいくつかあるね。 アマゾンのカスタマー・レビューはあてにならない。 河出文庫のは、訳者の日本語能力は買うけれど、 翻訳の出来はいまいち。 岩波文庫のは可でもなければ不可でもない感じ。 特徴をよく捉えていると思う。 フローベールだってすぐにわかる。 フローベールは若い頃は凄い美男だったらしいよね。 >>442 岩波の文学案内は、ロシヤ文学の表紙がプーシキンで、ドイツ文学の表紙がゲーテで、両者ともに自国民も日本人も納得できる人選だとおもう。 フロベールは色々異論があるんじゃないかな? サルトルの『家の馬鹿息子』って、フロベールに興味はあるがサルトルに興味はない、という人でも楽しめますか? 花袋とフロベールって、生きた時代も国籍も違うじゃないか 使っている言語も大違いだぞ 二人とも突き詰めると下らないことをチンタラと書いている サランボーなんて作品は異色の古代ローマを扱った作品だ 今図書館へ行けばフローベールの全集を借りることができる 蒲団が物語内容ゆえに下らないならボヴァリー夫人も馬鹿女のくだらない話じゃないの。 モーパッサンのベラミだってちゃちな小悪党の立身出世話だし。 ユリイカとか現代思想で、フローベール特集ってあります? 感情教育だって物語内容的にはつまらない話だよ 実際問題、出版当時も大変不評だったのだし 小説にとって新聞の三面記事的なものを素材にするのとたまたま自分の経験を素材にすることに優越ってあるんだろうか? エンマがロドルフに体を許すのは共進会場の近くの建物の中だと 加賀乙彦さんは言っている。 俺はもっと後、林の中だと思っていたのね。 読み直してみたら加賀説もありのような気がする。 「ところで、日本には、いわゆる「自然主義」に相当する文学運動は存在したのですか、という彼の質問は、ゾラの全集に 序文を書いている彼にしてみれば当然のものであったので、フランス「自然主義」が日本的風土に触れて「心境小説」、「 私小説」へと変質してゆくさまを、その語り口の図式性にわれながら辟易しながらも説明してゆくと、それは何とも不可解 な変換だと、予想以上の興味を示して耳を傾けたのだ」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』)。 サランボー読む前に、カルタゴに関する予備知識を仕入れておいたほうがいいですか? ハンニバルが象に乗ってた、くらいしか知らないのですが。 「ボヴァリー夫人」と「蒲団」なぜかくも下らない小説が近代小説の祖になったのか 『ボヴァリー夫人』が「下らない小説」だって? 本当に読んでいるのかよ? 読んでいないなw ロドルフはエンマにカネを貸さなかったわけだけど、 話の流れに無理がない描写。とても自然だ。 巧いと思った。 若いうちに読んでおくと、人生に益すること大。 特に未婚の女性が読むべき小説だ。 ドストエフスキーの『白痴』の最後に『ボヴァリー夫人』(の本)が登場するのですが、両者の共通点は共に「イッポリイト」という人物が出てくる(しかも悲劇的に)、というくらいしか思い浮かびません。 どういう意味があるのでしょうか? (ドストスレで聞いたのですが、無視されてしまいました。) 『ボヴァリー夫人』の「イッポリイト」って、 手術失敗の被害者のことかな? ちょっと本を見てきた。 シャルル(ボヴァリー医師、エンマの夫)が脚の手術をして失敗した男の患者。 まわりの俗物どもに勧められてやった手術が失敗する。 手術前よりも障害がひどくなった。それなのにシャルルを憎みもしない。 エンマは夫に愛想を尽かし、これを契機にボヴァリー家の凋落が始まる。 『白痴』の方は肺病病みだったよね。 >>464 >>466 そうです。「金獅子亭」の下男で、シャルルのアキレス腱を切るという手術のおかげで、結局は足を切断せざるを得なくなった人物。 『白痴』のイッポリイトは第三篇の主人公といってもいい人物で、自分が余命いくばくも無いことを知り自殺を図る人物。(自殺は失敗するが、結核ですぐ死ぬ) 『ボヴァリー夫人』のイッポリイトより重要な人物と言っていいでしょう。 『白痴』のラストでムイシュキン伯爵がナスターシャを部屋を訪れるとき(このときナターシャはすでに死んでいる)、「居間のテーブルの上に『ボヴァリー夫人』が開かれたまま置かれている」という描写があるのですが、それだけが何も伏線も無くポツリと書いてあります。 ドストエフスキーとフロベールは生没年がほぼ一緒ですが、あまり接点が無く(私が知らないだけかも)、ちょっと不思議な感じがしたのです。 ドストエフスキー(1821−81) フローベール(1821−80) ふたりとも「てんかん」もち。 『ボヴァリー夫人』は1857年の作品。 『白痴』は1868年の作品。 「椿姫」(1848年)での「マノン・レスコー」の使い方と似てると思う ちなみにナターシャの造形は椿姫ことマグリットの造形に影響受けてるのかなと思う いわゆるファムファタールものとしての側面 でもそこに置いたのは「ボヴァリー夫人」だからドストがもう一つ複雑なニュアンスを込めて置いたのかな CiNiiで検索してみた 『白痴』における『ボヴァリー夫人』 : 「リアリズム」と死の超克 池田 和彦 Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 8, 162-189, 1991-06-01 CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ ロシアにおけるフロベール概観 : 「白痴」における「ボヴァリー夫人」・序 池田 和彦 Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 7, 50-76, 1990-06-30 CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ 私は読む気しませんが _, ,_ パーン ( ‘д‘) ⊂彡☆))Д´) 筑摩の全集に入っている田辺貞之助訳の「サランボー」をちくま文庫あたりで出してくれないかな。 角川文庫の神部訳を読んだけど、いまいちなんだな。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる