フローベール
>>424
>>425
君達日本の土人には何を教えても無駄なことが分かったよ。 フローベールにまつわる紋切り型がこのスレでかなり突き崩されてるねw >>427
そうなの?
じゃあ紋切ってまとめてみてよ
5つぐらいに要点絞ってさ 現在の世界のモダニズム研究者達はフローべールを差ほど特別視していないのではないかな。
ロマンティシズム、リアリズム、ナチュラリズム、インプレッショニズムの流れは僅か50年足らずぐらいの間に起きてるわけで、様々な見方が当然ある。
現在、世界中で議論されてるから、時々はpdfとかに目を通しておいた方が良い。 中村光夫訳のボヴァリー夫人の文庫版がほすぃ
どっかで売ってない? フランス語購読のゼミで原文で読まされたけど、そのあとフランスにホームステイしてもあまり困らないくらいの語彙を詰め込んだな 『ボヴァリー夫人』予告 "ミア・ワシコウスカが文学史上最もスキャンダラスなヒロインに体当たりで挑む!"
https://www.youtube.com/watch?v=ktzMYReMdjs hhasegawa
『紋切型辞典』は、他人と違うことを言おうとしてむしろ陥る定型句の集積で、
そもそも気の利いた会話をしたがる欲求が薄い日本人には疎遠な本であった。
とはいえ最近は本邦もSNSでそんな傾向が出てきたわけで、同書の見方も変わるかもしれない。
(承前)その意味で、「Fランク大学。潰して職業訓練校にすべき場所」など、
立派にフローベール的な紋切型たり得ているといえよう。
ありがたいことに、ツイッターのような場所で声の大きいインターネットご意見番おじさんの発言の大半から
そういう辞典が編集できる程度には我らが文化も成熟してきた。
2017年2月3日 フローベールが1847年に執筆した旅行記「ブルターニュ紀行」(渡辺仁氏訳、新評論)によると、
これがまた当時のシャンポール城を毒舌で語っていて興味深いです。(以下抜粋)
屈辱的なマドリード条約(1526年)を締結してスペインから帰国したフランソワ1世によって建てられたこの城は、
敗北に甘んじるために己の気を紛らわそうとする自尊心の記念碑というべきものであるが、
まずここに追いやられてくるのは、王位継承争いに敗れたガストン・ドルレアン(オルレアン公)である。
次いでルイ14世が、二階建てに過ぎなかった城を四階建てにし、
床からてっぺんへと渦を巻くようにして一気に昇っていた見事な二重階段を台無しにしてしまう。
そしていよいよモリエールがここで、火とかげや彩色した装飾ー今はもう色が褪せているがーに覆われたこの美しい天井の下、
「町人貴族」を初演することになる。それから城はザックス元帥に、ポリニャック家に、一介の軍人ペルティエにと渡っていった。
募金によって買い戻されると、今度はボルドー公の手に渡った。
こうして城は、誰ひとりとして引き受けようとするものがいない、あるいは維持できる者がいないとでも言うように、
あらゆる人間の手に渡ったのである。役に立ったためしがなく、いつの時代にあっても大きすぎたようだ。
それは、旅人が自分の名前を壁に書き残すことさえしなかった、荒れ果てた宿屋を思わせる
http://blogs.yahoo.co.jp/buongiorno1024/29895018.html 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、情念の規則的な屈折、それぞ
れのエピソードの終局への指向、等々――はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけ
ることを目的としていた。世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。小説の文
章(エクリチュール)は潔白であることができた。
ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。この思い出
、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。しかしながら、それにしても、今世紀はじめのか
ずかずの偉大な小説を読みさえすれば、たとえ筋の崩壊が際立ってくるばかりだったとはいえ、すでに久しい以前から筋が、物語の骨組たることを
やめてしまっているという事実を確認しないわけにはゆくまい。疑いもなく物語的な話という要請は、プルーストにとってはフローベールの場合ほ
ど窮屈ではなく、フォークナーにとってはプルーストの場合ほど、ベケットにとってはフォークナーの場合ほど窮屈ではない…… いまは、もっと
ほかのことが問題となったのである。物語るということが、厳密な意味で不可能となった。」ロブ=グリエ『新しい小説のために』 中村光夫のフローベール評価ってどういう感じなん?
言語がどうしたとかではないと想像するんだが… 「女たちは頭巾をうしろにたらした黒いヴェールをかぶって、そのあとに従った。
彼女らは手に手に火のついた太い蠟燭を持っていた。シャルルはこのたえずくりかえされる
祈禱と燈明のせいで、鑞と僧服のむかむかする匂いのために、気が遠くなりそうであった。
さわやかな微風が吹き、ライ麦も菜種も青々してきた。道端の茨の生け垣に、露の滴がふるえていた。」
『ボヴァリイ夫人』中村光夫訳 『ボヴァリー夫人』
新潮文庫の新訳とてもいいね。
訳し忘れの箇所がいくつかあるね。
アマゾンのカスタマー・レビューはあてにならない。
河出文庫のは、訳者の日本語能力は買うけれど、
翻訳の出来はいまいち。
岩波文庫のは可でもなければ不可でもない感じ。 特徴をよく捉えていると思う。
フローベールだってすぐにわかる。
フローベールは若い頃は凄い美男だったらしいよね。 >>442
岩波の文学案内は、ロシヤ文学の表紙がプーシキンで、ドイツ文学の表紙がゲーテで、両者ともに自国民も日本人も納得できる人選だとおもう。
フロベールは色々異論があるんじゃないかな? サルトルの『家の馬鹿息子』って、フロベールに興味はあるがサルトルに興味はない、という人でも楽しめますか? 花袋とフロベールって、生きた時代も国籍も違うじゃないか
使っている言語も大違いだぞ 二人とも突き詰めると下らないことをチンタラと書いている サランボーなんて作品は異色の古代ローマを扱った作品だ
今図書館へ行けばフローベールの全集を借りることができる 蒲団が物語内容ゆえに下らないならボヴァリー夫人も馬鹿女のくだらない話じゃないの。
モーパッサンのベラミだってちゃちな小悪党の立身出世話だし。 ユリイカとか現代思想で、フローベール特集ってあります? 感情教育だって物語内容的にはつまらない話だよ
実際問題、出版当時も大変不評だったのだし 小説にとって新聞の三面記事的なものを素材にするのとたまたま自分の経験を素材にすることに優越ってあるんだろうか? エンマがロドルフに体を許すのは共進会場の近くの建物の中だと
加賀乙彦さんは言っている。
俺はもっと後、林の中だと思っていたのね。
読み直してみたら加賀説もありのような気がする。 「ところで、日本には、いわゆる「自然主義」に相当する文学運動は存在したのですか、という彼の質問は、ゾラの全集に
序文を書いている彼にしてみれば当然のものであったので、フランス「自然主義」が日本的風土に触れて「心境小説」、「
私小説」へと変質してゆくさまを、その語り口の図式性にわれながら辟易しながらも説明してゆくと、それは何とも不可解
な変換だと、予想以上の興味を示して耳を傾けたのだ」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』)。 サランボー読む前に、カルタゴに関する予備知識を仕入れておいたほうがいいですか?
ハンニバルが象に乗ってた、くらいしか知らないのですが。 「ボヴァリー夫人」と「蒲団」なぜかくも下らない小説が近代小説の祖になったのか 『ボヴァリー夫人』が「下らない小説」だって?
本当に読んでいるのかよ?
読んでいないなw ロドルフはエンマにカネを貸さなかったわけだけど、
話の流れに無理がない描写。とても自然だ。
巧いと思った。
若いうちに読んでおくと、人生に益すること大。
特に未婚の女性が読むべき小説だ。 ドストエフスキーの『白痴』の最後に『ボヴァリー夫人』(の本)が登場するのですが、両者の共通点は共に「イッポリイト」という人物が出てくる(しかも悲劇的に)、というくらいしか思い浮かびません。
どういう意味があるのでしょうか?
(ドストスレで聞いたのですが、無視されてしまいました。) 『ボヴァリー夫人』の「イッポリイト」って、
手術失敗の被害者のことかな? ちょっと本を見てきた。
シャルル(ボヴァリー医師、エンマの夫)が脚の手術をして失敗した男の患者。
まわりの俗物どもに勧められてやった手術が失敗する。
手術前よりも障害がひどくなった。それなのにシャルルを憎みもしない。
エンマは夫に愛想を尽かし、これを契機にボヴァリー家の凋落が始まる。
『白痴』の方は肺病病みだったよね。 >>464>>466
そうです。「金獅子亭」の下男で、シャルルのアキレス腱を切るという手術のおかげで、結局は足を切断せざるを得なくなった人物。
『白痴』のイッポリイトは第三篇の主人公といってもいい人物で、自分が余命いくばくも無いことを知り自殺を図る人物。(自殺は失敗するが、結核ですぐ死ぬ)
『ボヴァリー夫人』のイッポリイトより重要な人物と言っていいでしょう。
『白痴』のラストでムイシュキン伯爵がナスターシャを部屋を訪れるとき(このときナターシャはすでに死んでいる)、「居間のテーブルの上に『ボヴァリー夫人』が開かれたまま置かれている」という描写があるのですが、それだけが何も伏線も無くポツリと書いてあります。
ドストエフスキーとフロベールは生没年がほぼ一緒ですが、あまり接点が無く(私が知らないだけかも)、ちょっと不思議な感じがしたのです。 ドストエフスキー(1821−81)
フローベール(1821−80)
ふたりとも「てんかん」もち。 『ボヴァリー夫人』は1857年の作品。
『白痴』は1868年の作品。 「椿姫」(1848年)での「マノン・レスコー」の使い方と似てると思う
ちなみにナターシャの造形は椿姫ことマグリットの造形に影響受けてるのかなと思う
いわゆるファムファタールものとしての側面
でもそこに置いたのは「ボヴァリー夫人」だからドストがもう一つ複雑なニュアンスを込めて置いたのかな CiNiiで検索してみた
『白痴』における『ボヴァリー夫人』 : 「リアリズム」と死の超克
池田 和彦
Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 8, 162-189, 1991-06-01
CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ
ロシアにおけるフロベール概観 : 「白痴」における「ボヴァリー夫人」・序
池田 和彦
Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 7, 50-76, 1990-06-30
CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ
私は読む気しませんが _, ,_ パーン
( ‘д‘)
⊂彡☆))Д´) 筑摩の全集に入っている田辺貞之助訳の「サランボー」をちくま文庫あたりで出してくれないかな。
角川文庫の神部訳を読んだけど、いまいちなんだな。 蓮實重彦はボヴァリー夫人のストーリーも評価してるの? 書簡を読むと、30代はじめに早くも「ハゲ」を気にしている。 >>475
少しでも読めばわかるのだけれど、きみはどういう立ち位置なの?
蓮實の著作を全く読んでいないのか、一周回って
評価を求めているのか
一般論ではストーリー以外の観点から技巧を評価しているとおもうけれど
やっぱストーリーはつまらないんだーみたいな難癖つけたいだけならやめてね 『ボヴァリ夫人』の原型となった短編では、夫人は娘を殺して自殺するんだよ フロベールでシャルルといえば、シャルル・デローリエじゃないのか! いま、Dictionnaire des idees recues(紋切り型辞典)を呼んでいる。
ITALIENS
Tous musiciens. Tous traitres.
イタリア人
いつも唄っている。そして、いつも裏切る。 光文社古典新訳文庫で来月三つの物語の新訳(谷口亜沙子訳)が出るって 三つの物語は中央公論社の世界の文学と福武文庫のがあるから
新たに別に買おうとは思わないな
ボヴァリー夫人は新潮文庫の生島の旧訳・中公の山田爵訳・岩波文庫の伊吹訳
新潮文庫の新訳に白井浩司訳の5種、
感情教育は岩波文庫の生島訳に新潮の清水徹訳があるから
どっちかというとサランボーが欲しいんだよな 蓮實のブヴァールとペキュシェ論がなんか半端
もっと面白いのはないん? ボヴァリー夫人を初めて読んだ。というよりフローベールを初めて読んだ
とても頭が良い人が書いたんだろうなと思わせる文章。精密機械みたい
そしてすごく辛辣で醒めた目で世の中や人間を見ているような小説だった
アメリカのハードボイルド作家のみたいに ボヴァリー夫人は、シャルルが本当の主人公にも思えるな
登場人物のほとんどに感情移入できなかった。エンマやばい、シャルル不甲斐ない、オメーうるさい、ルルー最悪 えっ?
あの鈍い亭主が主人公w
主人公は3人の「ボヴァリー夫人」でしょ
母親、前妻エロイーズ、後妻エンマ シャルルの生い立ちから死までが描かれているし、類い稀な女難の男の一生と言えるかもしれない ボヴァリー読んだら次はサラムボーかなあ。感情教育のほうがいいかなあ フローベールさんは本当にすばらしい作家ですわ。細緻な描写、けどコクがあって何度読んでも飽きない文章
人類の宝です 『感情教育』だろうね
普通の文学好きはそれで打ち止め
仏文専攻なら『サラムボー』まで進むだろうが 作品数少ないから全部買って読めばいい
ボヴァリー夫人・感情教育・サラムボー・三つの物語は新刊が文庫で買えるし
ラスボスはプヴァールとペキシェ 光文社の感情教育を買ってこようかな。新訳のがいいよね 蓮實も感情教育にはそんなに触れてないね
あれなんで? ボヴァリー夫人、太田浩一による新訳が進行中らしい。出版されたらぜひ読みたいな。 >>503
光文社古典新訳かな。感情教育を出してるよね。新潮の芳川泰久訳と比較してみたいな ボヴァリー夫人はすごい小説だと思うけど、あまりに作者の視点が辛辣で苦手
登場人物は主要な者らがほぼ醜悪な性格的欠陥があるし、共感できる人物がいない
この世とは人生とはそんなものだという小説なのだろうし読みごたえもすごくあるけど
フローベールの他の作品を読んでみようとまでは思えなかった。感情教育などは違うのだろうか >>509
ヨンヴィルラベイのモデルになった村に行ってみたいな。どれだけ田舎なんだろ どの作家もそうだけど
訳をいくつか読み比べると新訳が無難かなって感じがするけど
読みごたえというか何というか
作者と格闘してる感を得られるのは昔の訳なんだよな 新訳は読みやすいし不自然なところは少ないけど、あっさり風味に感じる
一方、昔の翻訳は古さを感じはするが風格がある
比べると新訳は事務作業をきちんとやりました的な味気なさを感じるときもある
どちらがいいのかねえ サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳全五巻(人文書院)が今月ついに完結
1982年の刊行開始以来、足かけ40年に渡る作業 蓮實重彦訳の『三つの物語・十一月』
来年1月講談社文芸文庫入り >>514
それ、元は講談社世界文学全集の翻訳で持っているよ
中村光夫訳『ボヴァリイ夫人』も入っている >>513
それ、完結を待ち切れず5年くらい前に第4巻まで読んでしまったよ。
最早通して読み返す気は起こらない。
蓮見が遅れたんだよね。 ≫何度読んでも飽きない文章
≫人類の宝です
翻訳がいいのではないですか。 「三つの物語」の最初の物語が強く印象に残った
「素朴な女」とか、そんな題だったと思う
光文社のを読んだので、蓮實のは買ったりしないが 蓮實重彦は『ボヴァリー夫人』の訳は自分が習った先生である山田ジャク訳を勧めている 君は山田訳を読んでいないだろ
誤訳があって嫌になる 俺は>>519ではないけれど、誤訳というのはどうやってみつけるの? 翻訳の日本語がおかしいので原文にあたる、それとも最初から日仏両方を照らし合わせながら読んでいくの? >>513
刊行開始から40年もかかって完結なら、まっとうに期間で翻訳してたら得られたはずの多数の読者を
逃したことは間違いない。
出版社と翻訳者の気持ち悪い馴れ合いだな。
確かに5巻で3000ページ余りくらいある大部の本かもしれないが、どうせ
分担して訳すなら、30才そこそこの若手を10人くらい起用して、2‐3年で刊行すれば良かったんだよ。
表題の「家の馬鹿息子」とは、この本の翻訳者や出版社のことだよ。少なくともウスノロ。 デアゴスティーニの「恋愛小説の世界」シリーズで淀野隆三訳のボヴァリー夫人が復刊(まだ二分冊のⅠのみ) ホラ吹くなゴミ
アシェット・コレクションズ・ジャパンだろ低能