フローベール
『ボヴァリー夫人』の「イッポリイト」って、
手術失敗の被害者のことかな? ちょっと本を見てきた。
シャルル(ボヴァリー医師、エンマの夫)が脚の手術をして失敗した男の患者。
まわりの俗物どもに勧められてやった手術が失敗する。
手術前よりも障害がひどくなった。それなのにシャルルを憎みもしない。
エンマは夫に愛想を尽かし、これを契機にボヴァリー家の凋落が始まる。
『白痴』の方は肺病病みだったよね。 >>464>>466
そうです。「金獅子亭」の下男で、シャルルのアキレス腱を切るという手術のおかげで、結局は足を切断せざるを得なくなった人物。
『白痴』のイッポリイトは第三篇の主人公といってもいい人物で、自分が余命いくばくも無いことを知り自殺を図る人物。(自殺は失敗するが、結核ですぐ死ぬ)
『ボヴァリー夫人』のイッポリイトより重要な人物と言っていいでしょう。
『白痴』のラストでムイシュキン伯爵がナスターシャを部屋を訪れるとき(このときナターシャはすでに死んでいる)、「居間のテーブルの上に『ボヴァリー夫人』が開かれたまま置かれている」という描写があるのですが、それだけが何も伏線も無くポツリと書いてあります。
ドストエフスキーとフロベールは生没年がほぼ一緒ですが、あまり接点が無く(私が知らないだけかも)、ちょっと不思議な感じがしたのです。 ドストエフスキー(1821−81)
フローベール(1821−80)
ふたりとも「てんかん」もち。 『ボヴァリー夫人』は1857年の作品。
『白痴』は1868年の作品。 「椿姫」(1848年)での「マノン・レスコー」の使い方と似てると思う
ちなみにナターシャの造形は椿姫ことマグリットの造形に影響受けてるのかなと思う
いわゆるファムファタールものとしての側面
でもそこに置いたのは「ボヴァリー夫人」だからドストがもう一つ複雑なニュアンスを込めて置いたのかな CiNiiで検索してみた
『白痴』における『ボヴァリー夫人』 : 「リアリズム」と死の超克
池田 和彦
Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 8, 162-189, 1991-06-01
CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ
ロシアにおけるフロベール概観 : 「白痴」における「ボヴァリー夫人」・序
池田 和彦
Rusistika : 東京大学文学部露文研究室年報 7, 50-76, 1990-06-30
CiNii PDF - オープンアクセス 機関リポジトリ
私は読む気しませんが _, ,_ パーン
( ‘д‘)
⊂彡☆))Д´) 筑摩の全集に入っている田辺貞之助訳の「サランボー」をちくま文庫あたりで出してくれないかな。
角川文庫の神部訳を読んだけど、いまいちなんだな。 蓮實重彦はボヴァリー夫人のストーリーも評価してるの? 書簡を読むと、30代はじめに早くも「ハゲ」を気にしている。 >>475
少しでも読めばわかるのだけれど、きみはどういう立ち位置なの?
蓮實の著作を全く読んでいないのか、一周回って
評価を求めているのか
一般論ではストーリー以外の観点から技巧を評価しているとおもうけれど
やっぱストーリーはつまらないんだーみたいな難癖つけたいだけならやめてね 『ボヴァリ夫人』の原型となった短編では、夫人は娘を殺して自殺するんだよ フロベールでシャルルといえば、シャルル・デローリエじゃないのか! いま、Dictionnaire des idees recues(紋切り型辞典)を呼んでいる。
ITALIENS
Tous musiciens. Tous traitres.
イタリア人
いつも唄っている。そして、いつも裏切る。 光文社古典新訳文庫で来月三つの物語の新訳(谷口亜沙子訳)が出るって 三つの物語は中央公論社の世界の文学と福武文庫のがあるから
新たに別に買おうとは思わないな
ボヴァリー夫人は新潮文庫の生島の旧訳・中公の山田爵訳・岩波文庫の伊吹訳
新潮文庫の新訳に白井浩司訳の5種、
感情教育は岩波文庫の生島訳に新潮の清水徹訳があるから
どっちかというとサランボーが欲しいんだよな 蓮實のブヴァールとペキュシェ論がなんか半端
もっと面白いのはないん? ボヴァリー夫人を初めて読んだ。というよりフローベールを初めて読んだ
とても頭が良い人が書いたんだろうなと思わせる文章。精密機械みたい
そしてすごく辛辣で醒めた目で世の中や人間を見ているような小説だった
アメリカのハードボイルド作家のみたいに ボヴァリー夫人は、シャルルが本当の主人公にも思えるな
登場人物のほとんどに感情移入できなかった。エンマやばい、シャルル不甲斐ない、オメーうるさい、ルルー最悪 えっ?
あの鈍い亭主が主人公w
主人公は3人の「ボヴァリー夫人」でしょ
母親、前妻エロイーズ、後妻エンマ シャルルの生い立ちから死までが描かれているし、類い稀な女難の男の一生と言えるかもしれない ボヴァリー読んだら次はサラムボーかなあ。感情教育のほうがいいかなあ フローベールさんは本当にすばらしい作家ですわ。細緻な描写、けどコクがあって何度読んでも飽きない文章
人類の宝です 『感情教育』だろうね
普通の文学好きはそれで打ち止め
仏文専攻なら『サラムボー』まで進むだろうが 作品数少ないから全部買って読めばいい
ボヴァリー夫人・感情教育・サラムボー・三つの物語は新刊が文庫で買えるし
ラスボスはプヴァールとペキシェ 光文社の感情教育を買ってこようかな。新訳のがいいよね 蓮實も感情教育にはそんなに触れてないね
あれなんで? ボヴァリー夫人、太田浩一による新訳が進行中らしい。出版されたらぜひ読みたいな。 >>503
光文社古典新訳かな。感情教育を出してるよね。新潮の芳川泰久訳と比較してみたいな ボヴァリー夫人はすごい小説だと思うけど、あまりに作者の視点が辛辣で苦手
登場人物は主要な者らがほぼ醜悪な性格的欠陥があるし、共感できる人物がいない
この世とは人生とはそんなものだという小説なのだろうし読みごたえもすごくあるけど
フローベールの他の作品を読んでみようとまでは思えなかった。感情教育などは違うのだろうか >>509
ヨンヴィルラベイのモデルになった村に行ってみたいな。どれだけ田舎なんだろ どの作家もそうだけど
訳をいくつか読み比べると新訳が無難かなって感じがするけど
読みごたえというか何というか
作者と格闘してる感を得られるのは昔の訳なんだよな 新訳は読みやすいし不自然なところは少ないけど、あっさり風味に感じる
一方、昔の翻訳は古さを感じはするが風格がある
比べると新訳は事務作業をきちんとやりました的な味気なさを感じるときもある
どちらがいいのかねえ サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の翻訳全五巻(人文書院)が今月ついに完結
1982年の刊行開始以来、足かけ40年に渡る作業 蓮實重彦訳の『三つの物語・十一月』
来年1月講談社文芸文庫入り >>514
それ、元は講談社世界文学全集の翻訳で持っているよ
中村光夫訳『ボヴァリイ夫人』も入っている >>513
それ、完結を待ち切れず5年くらい前に第4巻まで読んでしまったよ。
最早通して読み返す気は起こらない。
蓮見が遅れたんだよね。 ≫何度読んでも飽きない文章
≫人類の宝です
翻訳がいいのではないですか。 「三つの物語」の最初の物語が強く印象に残った
「素朴な女」とか、そんな題だったと思う
光文社のを読んだので、蓮實のは買ったりしないが 蓮實重彦は『ボヴァリー夫人』の訳は自分が習った先生である山田ジャク訳を勧めている 君は山田訳を読んでいないだろ
誤訳があって嫌になる 俺は>>519ではないけれど、誤訳というのはどうやってみつけるの? 翻訳の日本語がおかしいので原文にあたる、それとも最初から日仏両方を照らし合わせながら読んでいくの? >>513
刊行開始から40年もかかって完結なら、まっとうに期間で翻訳してたら得られたはずの多数の読者を
逃したことは間違いない。
出版社と翻訳者の気持ち悪い馴れ合いだな。
確かに5巻で3000ページ余りくらいある大部の本かもしれないが、どうせ
分担して訳すなら、30才そこそこの若手を10人くらい起用して、2‐3年で刊行すれば良かったんだよ。
表題の「家の馬鹿息子」とは、この本の翻訳者や出版社のことだよ。少なくともウスノロ。 デアゴスティーニの「恋愛小説の世界」シリーズで淀野隆三訳のボヴァリー夫人が復刊(まだ二分冊のⅠのみ) ホラ吹くなゴミ
アシェット・コレクションズ・ジャパンだろ低能 いろいろ新しい訳が出てるんだなあ
ちょっとずつ読んでこっと ボヴァリー夫人は今の新潮の芳川訳に問題を感じないがな
つうか良訳だと思うんだが ぽつぽつ読んでみると
やっぱりフローベールは面白いんだなあ 翻訳の問題というより
これは表記の問題なのだが
そもそもフローベールさんなのか
フロベールさんなのか
どっちなのかね
日本の先生方の表記も割れてる
ちなみにハルキ・ムラカミの新刊ではフロベール
主人公がちらっと感情教育をよんでるのねw >>528
Flaubertだからフローベールの方が近いんじゃないの 今と昔では日本人の耳の認知も変化してますしお寿司。
昔の人はぢづと、ジズを聴き分けたが、それを現代人は出来ん。
逆に、今の若い日本人が聴き分けるものを老人は聴き分けられない。 >>530
ちなみに高知県人はいまだにぢづとじずを聞き分けていると何かで読んだ記憶があるが本当か? >>530
ちなみに昔(30年くらい前)フロベールの表記が一般的だったような気がする フローベールで持っているのは、
十一月
ボヴァリー夫人
サランボー
感情教育
聖アントワーヌの誘惑
三つの物語
ブヴァールとペキュシェ
くらいだな
バルザック、ゾラに比べて少ないね
テクストを読む時間が少なくて済むから、その点で研究者は楽でいいね >>533
確かにそうだけどその分研究書も多いだろうからそっちが大変だったのでは? 『家の馬鹿息子』なんか分厚いしそれこそ翻訳出る前はしんどかったと思う(はなから読まなかったか英訳版を参照した? あったかどうか知らないけど) >>531
昔と言っても、聞き分けられるのを自慢してたのは19世紀ぐらいの生まれの人。
大正以降の生まれの人は曖昧だろう。 >>534
英訳版は1981−1993にかけて出版されてるようだ。
日本語訳者達が読んでない訳が無いわな。
大体がこの程度のことを調べて書かない奴の気が知れん。
余程からだや気持ちが緩んでるんだろう。 >>536
俺か言っているのは怠慢こいてた蓮實の事ではなく、そのほかのフローベールの研究者の事だが。フローベール自身の著作は比較的少なくても読まなけばならない研究書が多すぎないかと >>535
海と山という二大隔壁で遮られた陸の孤島である高知だけは20世紀まで残ったわけか 生島訳の感情教育は今となっては読みづらいものになってしまったかなあ
太田訳はたしかに読みやすい
補足の情報も親切だし
ただ読みやすいとか読みづらいとか
読み手の能力次第だし
そもそも好みの問題でもあるからなあ >>539
光文社が新訳文庫をやってるので、5ch文学板で旧訳は読みづらいキャンペーンをステマでやってる奴がいるんだろうが、たぶん光文社の回し者だろう。
新訳なんかよりも、世界で話題の新しい本の翻訳をやったほうが、どれだけ読者を喜ばせるか知れないのに、敢えて新訳シリーズをやってるのはエコノミー安上がりで、かつ翻訳者が楽だからだろ。 十一月を読んでいると
なんだか歌舞伎を見ているような気がしてくるのは
俺がバカだからなんだろうなw ボバリー夫人は無駄に三冊持ってたんで読み比べしたけど一番古い伊吹訳が一番よかった
次に古い杉訳は無難で、一番新しい菅野訳が一番だめだった
菅野訳は言葉は綺麗だけど貧弱て弱々しく、伊吹訳は言葉は汚いけど一番力強く効果的だった
原文読めんからどれが正解なのかはわからんが やっぱり、現代人は言語能力が低下してるね。
読めりゃいい、分りゃ良いで来てるから。
加えてスマホ。 >>544
現代人だから、今生きてる奴は全部含めてるんだよ。
それが普通の読みだ。 >>544
現代人の中でもキミが一番言語能力が低下しているということだ 山田ジャクの訳割と好き
ここ山田の創作だいぶ入ってるんだろうなって薄々感じるとこ結構あるけど
なんか読んでて楽しい 「私はフローベールを崇拝するものではない
が、それでも彼自身が打ち明けているとおり、フローベールは『サランボ
ー』に対しては「黄色の色彩の印象を与えたかった」だけであり、『ボヴァ
リー夫人』には「何かわらじ虫がいる片隅のあのカビの色である感じを
出したかった」だけであるのが私に保証されるならば(……)、結局のと
ころこれらの文学外的関心によって、フローベールに対する好意を抱く
気になるのである」
アンドレ・ブルトン『ナジャ』