柄谷行人の晩年をひっそりと見守るスレ
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宮澤政権下ではPKO法案を可決しているんだよ
つまり戦力不保持と交戦権の否定を明記した現行憲法下でも
自衛隊の海外派遣は可能だとする珍説を言い出した最初の政権
だから非戦闘地域という謎の言い訳が出されて
これが実際の海外派遣で問題となっている
あるいみ現下の混乱の始まりだけどね 宮沢喜一と似てるのは顔の筋肉がたるんで浮腫んだみたいになってるところだろ。
紀州のドンファンもそうだった。
柄谷が文壇のドンファンだったかは知らないが顔の浮腫みは似てる。
一般に浮腫みは年の所為だけでなく酒の飲み過ぎもあるわな。 日本のポストモダニズムにおいて、村上龍はけっして主流にはならず、村上春樹の「風景」が支配的となった。……村上春樹は川端康成の現代版なのである。…」柄谷行人 柄谷はカオスになって欲しいって言ってたよ。言葉で言い切れないものが必要なんだろうな。 今は一言で下らねえって言えるからな。抗ってる人はいるけど。 柄谷行人:彼は後に文壇的批評家になるんですけれど、六〇年代後半では本当にポツンといたんですね。
(・・・)ぼくはその時期の秋山駿は非常に好きだった。
結局彼がやっていたのは、一般性を決してもちえないような自己の問題ですね。
これはその時代流行していたアイデンティティ論とまったくちがう。また、彼は犯罪の問題をやっていたけど、
それも『あらゆる犯罪は革命である』とかいう本とまったくちがっていた。
(・・・)秋山がやっていたのは犯罪の意味や哲学ではなく、犯罪の心理や内面でもなく、
そこに存する「私」の問題だからね。
『近代日本の批評II 昭和篇 下』 群像の評論賞の選考も柄谷が口出してるんだろ。
柄谷の害はいい加減取り除くべきなんだがそれをやれない出版社は存続する
意味があるのか?
無いね。
多分、柄谷は応募者からの何十もの良質の原稿を闇に葬ってる。
俺は出してないが、柄谷はそういうことをやる人間だよ。 >>502
だから、それがお前の浅はかさの証明なんだよ。
俺は出したことはない。
柄谷に邪魔されると思ったからねw >>501
>柄谷の害はいい加減取り除くべきなんだがそれをやれない出版社は存続する
出版社雑誌の存続を左右する位の力があるのかな?
ただ面倒なだけでしょう
文壇政治家だから頭に据えておけば
性格破綻者揃いの小説家や批評家を操るのに便利とか
そういう編集者のサラリーマン気質の結果
あのお爺ちゃんがのさばっているだけのような気がする
もっともこれは文壇に限ったことではないけどね >>505
お前は卑しい奴だな。
言い訳も糞も、応募なんか全くしてないって。 >>506
違う違う。箸にも棒にも引っかからないって自分でも分かってるから出さないんだろ(笑) >>507
お前は俺のただの寄生虫だ。
お前は何のアイデアも持ってない。
お前を相手にするだけ無駄。 >>508
お前のアイデアなんぞ毛ほどの価値もないわ。 >>509
俺はお前のようなゴミ屑を相手にしてる
暇はないんでなw >>510
大森望の良さがわかってから出直して来いよ。お前はそこからだな。 小林秀雄と同じ、基本、東大生と東大出身者向けです。 「力と交換様式」という本が来年には書き終わるそうだ
楽しみ 小林秀雄をこえてで中上健次と交通についてなんて対談あったよね
要するにグローバリズムの事だよあれは
商社マン例えば伊藤忠の社員の方が小林秀雄より交通について理解してるから
交通理解してない小林の著作なんか馬鹿にしてる、馬鹿にされて当然なんて
二人して破廉恥な事言ってたね あれはめちゃくちゃだったって本人が言ってるじゃないですか 文学という名の妖怪が・・・だって
また文学に関心が戻ったのか? 柄谷が「交通」という場合、それはマルクスが
「ドイツイデオロギー」で使用したような意味合いだと思うが
マルクスだとグローバルマーケットにおける諸商品の「交通」の結果
産業労働者の意識が平準化され、革命主体としての全体性が確立されるのだが
柄谷だと差異性の発生源として個我の自意識が揺さぶられる
小林を馬鹿にしたつもりになっているのはそういう事だろうね
ただ、小林は意識の全体化などよく分かったうえで
懐疑的な個我を拠点としている
つまり小林の方が差異の批評家なわけね 柄谷は週刊読書人のサイトの対談で醜態を晒してる。
今どき、柳田の「方言周圏論」とか、これの何処が言語地理学なんだ?
言語幾何学というなら話は分かるが。
柳田や柄谷には地理と幾何の区別がつかない。 そういえば季刊思潮の対談でも
松岡静雄による柳田あての書簡を引用していたな
要するにネーションステート―言語共同体という議論
ぜんぜん進歩しないな、柄谷お爺ちゃんは 不思議なことに柄谷の最近の著作を読んだ人がネットにちっとも現れないんだよw
何万部も売れてるというのに、内容を知ってる奴が殆どいないという点では、
誰も曲を聴いたことが無いAKBのミリオンセラーと同様の現象なんだよ。
一体、誰が柄谷の本を買っているのか?
まず考えられるのは創価のまとめ買いだろ。
創価と柄谷の近しい関係については、幾つか指摘できる。
先ずは組織的な柄谷のナムと創価の相似。
さらに、柄谷が本当の言語地理学への関心を逸らそうとしたり、中上健次作品の
地理学との近接から目を逸らそうとしたことが挙げられる。
サックリ言えば、中上は一生かけて熊野という日本神話で最重要な地域の
起伏豊かな地理について語っただけなんだが、それが偉大なことなんだ。
しかし、それを言うとスーパーフラットを絶賛する宗教の創価が困る。
だから、柄谷は「地理」に関心を向けさせないようにしてる。 >>521
最近の地理学は昔の文芸批評みたいに
活気があって超領野的だ
なんて評価してたはずだけど。
別冊「現代思想」特集でも地理学者によるインタビューが載った >>521
>創価と柄谷の近しい関係については、幾つか指摘できる。
「ダイアローグ」を第三文明社から出していたからね
政治宗教としての日蓮宗の射程は当時の大陸情勢と連動したものであり
戦前の日蓮宗の隆盛にもそういう情報性があった筈だ
という旨の発言をどこかでしていた筈だ
まあ、そこから先に進むには歴史学や近代政治学上の
実証的検証が必要なんだけどね
柄谷はしょせん批評家に過ぎないので小林秀雄のような印象論で終わる >>522
もうちょっと具体的に柄谷の発言の時間と場所を言ってくれると良いんだが。
>>523
>>まあ、そこから先に進むには歴史学や近代政治学上の
実証的検証が必要なんだけどね
創価には日蓮のような論争を仕掛ける面が全く無くて、無言のゴリ押しなんだよな。
それは彼等の信仰する「平面性」に通じる。
それは宮崎学の地上げ屋にも通じる。宮崎はスーパーフラットが創価の思想であることを全く分かってない。 >>525
柄谷が日本の障害になってることは事実で、
それを指摘した俺は最高だろw
柄谷、蓮實、四方田、渡部、浅田らの中上論は
完全に間違い。
中上は人間よりも地理、地勢にこだわっていたというのが
本当だ。 中上作品では地勢と人間関係が混然一体でそこから物語が生まれる
だから中上と部落は関係ないとした柄谷の指摘は間違いで
ただしくは部落も包括した熊野という土地が主体であり
その語り部が中上という人格だった、というだけ >これじゃまるで、TVで流行の「日本人すごい」ブームに柄谷が乗っかってるみたい
まさに「憲法9条を持つ日本すごいwww日本のオレすごいすごいすごいwwwwwwwww」でしかない
日本国憲法は教育勅語としてしか機能していない
日本人は平和を口にする時に最も保守反動的になる
軍部は「東洋平和」を呼号しながら昭和の戦争を始めた
その時と同じ欺瞞をアジアの人々は日本国憲法を振りかざす日本人にも感じている 日本にロマン主義が入っても、西洋のロマン主義で重視された
辺境性や風土性が、私小説、白樺派、戦後派でもあまり表出されないで来た所を、中上健次が総体として引き受けて、主題として昇華したって感じか?
民俗学で表象される地方は、美化された地方や、学術的探求を主要
目的とした眼差しだったから、清濁併せ呑むような表出は、
教養による検閲で不可能に近かっただろうからな
マルクス主義はマルクス主義で、地方も都会も、
プロレタリアとブルジョアに還元されてしまって、
風土性の差異に対する感覚や考察が脱落しただろうし
読み込もうと思えば面白い作家だな ヨーロッパだと、現象学が地形学とか地理学と提携して、
中心と偏狭の感受性の差異なんかを、アナール学派が示唆したような手法使って
文学とか食生活とかの文化を通して探求しようとしてたりするんだけど、
日本は、もう西洋を消化する力が失われてきたね >>207
日本で教育を受ける事の不幸は「教育が東大を頂点にした受験エリート=官僚候補生選抜
の為に完成され尽くされているが為にどんなに頑張って『勉強』した処で所詮はただの
受験エリートにしかなれない」ことだが(行き着く先は片山さつきだの山口真由だのTV
のクイズ番組で『東大王』だの呼ばれて喜んでいる手合い)、そこからハミ出そうと「教養」
主義(わらい)に手を出してもそっちはそっちでカラタニだのハスミだのといったディレ
ッタントの罠にハマり込んでしまうのが辛い、、
その結果として筑駒⇒東大の東浩紀みたいになってしまう(マジ) >>528
例えば国文学・短歌系には「上辺はリベラル人権反戦平和、但し内実は皇室主義者のド右翼」
な人が平気でいるけど(梅原猛、令和を考案したとされる中西進、また岡野弘彦や永田和宏ファミリーなども
そうだろう)、そういう文脈で補足すれば納得だなあ。
それは安倍だって上辺だけは「平和」とか「人権」とか言うわけですからね、、、。
高畑勲などはさすがに達観していて「所詮は日本人なんざ流され易いもんだから9条で
辛うじてブレーキを掛けていただけなんよ」「だから9条を無くしちゃいかんのよ」
みたいな言い方だったね(高畑の岩波ブックレット参照)
あの辺も狭い世界だからこれ書くと私自身の身バレに繋がりかねないのだが、自分の昔の
年長の知人にも国文学短歌系の人がいて、、まさに上辺は人権リベラル調なのに一方で平気で
日本会議系の復古的な家族観・日本文化観を信じ込んでいるので本当に閉口した。
その人も上辺は9条護持を言うかもしれない。安倍政権の批判さえするだろう。
だが結果的に右派の下支えをしている、あるいは右派そのものと化している事に余りに
無自覚だ。そしてそういう「善意」の人は草の根にたぶん沢山いる。
、、「あ、そういう人が例えば山田洋次とか寅さんとか無邪気に好きなんだろうな」
と今は思う様になった\(^o^)/ 1吾輩は名無しである2010/10/28(木) 21:28:03 >>532
>民俗学で表象される地方は、美化された地方や、学術的探求を主要
>目的とした眼差しだったから
あれは畿内の王朝文化の影響が周縁にも及んでいて
それゆえに民族の同質性が担保されるという皇国イデオロギーの一種だから
中上の熊野サーガも祭祀王たる天皇を中心とする限りにおいては同類だけど
庶民生活の中で聖と俗が分離されて
土俗宗教のような形であっても権威と権力が生じる場を捉えようとしている
だから中上の出現は文学的「事件」と言われ
その死は日本近代文学の終焉とも言われている 中上は熊野の起伏ある曲がりくねった地形を愛したが、日本の近代化の結末は
全国的に完璧な平面化志向なんだよ。アメリカもそうだけど。
中上はそれに疑義を呈したが、これは全く正しかった。
日本の誰一人、それに気づいてなかった。
ヨーロッパが完璧な平面化を目指さなかったのはさすがだよね。 >>538
>日本の誰一人、それに気づいてなかった。
それは柳田や宮本が指摘しているよ
近代化以前の交通路は山岳ルートや水上ルートであり
明治以降は陸路、とくに鉄道が主要ルートになる
そうすると山岳ルートや水上ルートが廃れてしまう
とくに山岳ルートの方が最初に廃れたわけであり
当然のことながら山間部の文化や生活も没落するわけね 文芸評論からは撤退したからね
昔は誤読を含めて面白い部分も多々あったけど
世界史の構造とか哲学の起源とかは全く興味持てない >>539
柳田や宮本がどう指摘してるの?
少なくとも、危機感を持って指摘してはいなかったろ。
俺は平面化の度合いについて問題にしてる。
それは日本で俺が初めてのはず。 講談社から出てた隠喩としての建築とか内省と遡行とかの編集者が優秀だったね。 哲学板の柄谷行人を解体するスレに書きこめないのでここに書きこむ。
良い情報を提供しようとしても、「余所でやってください」だから、
哲学板がレベルアップしない。
>>409
これは栗原真という柄谷の寄生虫の文章の一部だろう。こういう寄生虫
が望むのが柄谷の延命だろうが。
栗原のパレイシアも柄谷のパレイシアも誤解に過ぎない。
パレイシアとは公開の場での暗殺を含む弾圧などあらゆるリスクをもの
ともしないfree speechのこと。
フーコーとパレイシアの関係については、Alexandre Macmillanの論文
を読まれたし。
Michel Foucault’s Techniques
of the Self and the Christian
Politics of Obedience
冒頭のabstractだけで簡単に説明してる。
日本の近代以降にもパレイシアの存在はあった。
それは幸徳秋水の大逆事件秘密裁判の場での現天皇家=北朝の
正系性を否定した発言だろう。
これは以下のレスに対してのもの(内容は栗原真の文)
409考える名無しさん2020/10/21(水) 15:28:44.000>>411
つまりフーコーの言うところの「告白=告解」とは、大きな構造であるところのパレーシア
(真実を言うこと。それは古代ギリシアに起源を持つ概念である)の一部なんですよね。
しかし、柄谷の1980年に出版した「日本近代文学の起源」には、
文学システムの全体におけるパレーシアという観点は全くないんです。
むしろパレーシア的な要素というのは、日本近代文学の歴史から退けられています。 >>544
続きだが、柄谷自身が文芸業界でparrhesiaパレーシア=free speechの
抑圧者として存在し続けて来たことは間違いないだろ。
その柄谷が近代日本文学のパレーシアを口にするとは笑わせるにも程が
ある。 いま図書館で読んできた。
相変わらずオカルトってるだけだったよw >>547
詳しく。
今月刊行予定のニューアソシエーショニスト宣言には触れていましたか? 全く触れてませんねw
私は十年おきぐらいに節目をいつも迎えている。
昔からそうだった。
しかし今回の「力と交換様式」でいよいよ最後かなと思う。
しかし以前の時も毎回これで最後かと思ったが結果違ってきた。
「言語・数・貨幣」のときと同じように「あの世」について考える。
あの頃私はそして狂ってしまった。
そしてその後から「探究T」を書き始めたのであった。 ありがとう。『力と交換様式』を仮題とした決定稿が『ニューアソシエーショニスト宣言』かと思いましたが、違うようですね S.Y @Madmax50005000
1h
ゲンロン戦記と比較すると、文学界2月号の柄谷行人のエッセイは、とてつもなく無責任な内容だった。
「批評空間」を潰しなNAMを2年間で解散したと事も無げに書き連ね、他者を巻き込んだ果ての悔恨も反省も何も無い。
「持続」の思想と覚悟はそもそもなかったのだ。 基本的にいつも言い放しだから
漱石論やマクベス論程度でおさえておけばいいのに
畑違いの異分野に手を出すから(略
まあ、本人は恥とは思わないだろうから良いんだろうけど
それ故に学習はしないし、かえって調子に乗る
これは死ぬまで続くことだろう 柄谷に引退を決意させたのは俺だ。
東に止めを刺したのも俺。 文学はもう終わったって
谷崎が最盛期の頃にもよく言われていたみたいだね その台詞、決り文句は紋切り型として
いつもマルクス主義の侵攻とセットになってるだけw ついに霊界を発見したようだから
中上を降霊して文芸時評始めて
軒並み10点とか15点つけて文壇の抑圧者として復活しよう いろいろ言われるけど
衰退産業の文学を見切って思想家ふうに転身した処世は偉いよ >>82
昔のレスって今見ると大間違いだって一目で分かるのがいいね
何も理解してない口先だけのバカがイキるための材料になってただけw
いまも似たようなもんだがw 『ニュー・アソシエーショニスト宣言』 柄谷行人
ついに世界同時革命か? 共産主義における私有財産の否定が
個人の命の尊厳を軽んじる粛清や虐殺につながってるんだけどね
コロナ禍だって共産党独裁政権の隠蔽体質が拡散させたわけで
それに乗じて革命宣言ですかw >>571
人の命を救うために徹底した対策をとったのが、「個人の命の尊厳を軽んじる」ことになるわけないだろ?w 私有財産の否定した社会というのは女を所有することも禁止されるのか?
『すばらしい新世界』のように妻の所有が無くなり乱婚になるのか? >>572
感染者がでたマンションの入口をバーナーで溶接して閉じ込めたりね 誰よりも早く仮想通貨に取り組んでた柄谷はビットコインで儲けたのかな? >>575
またネットで真実の捏造だねw
なんで右翼は嘘つきが多いんだろう? >>578
閉じ込めたんじゃなくて、コロナ死後の処理だよ。
こうしてネットで真実君が捏造ネタをまき散らす。 >>579
中国語ではそんな風に書かれてないだろ
なんで死後にバーナーで溶接する必要があるんだよ
お前は中国がウイグル、チベットでやってる虐殺とか知らないのかボケ >>580
だからネットで真実だって言ってるだろ?
適当なこと書いてるのか悪意で書いてるのか、書いてる本人だってなんの情報も持ってない。
”ウイグル、チベットでやってる虐殺”なるものも、ファクトチェックに耐えられるようなもんじゃないw >>582
英米の情報操作に踊らされないだけだよw
イギリスの発表を信じるのもトランプの妄想を信じるのも、そのレベルの人たちだね。 >>581
お前は否定する根拠を示せてないだろが
チャンコロ工作員かよ >>584
情報に根拠がない以上、否定する根拠は必要ない。
それがファクトチェックというもの。 >>585
動画で示されてるだろうが
お前はそれを否定する根拠もなく否定してるんだろが
馬鹿が >>586
どういう状況の動画がなのかは、まったくわからない。
ただ防護服着た人たちがドアを封鎖してるだけ。
この動画で何かがわかると思う人は、夜空に発光があるとUFOだと断定する人たちとなじレベル。 >>583
はいはい、チャイナの情報操作で踊ってなちゃいな >>588
英米の情報操作で踊ってないから、中国にも情報操作はされてないよw
必要なのはファクト(事実)。 >>587
閉じ込められてるから食料を吊るして運んでる動画などもあるよ
お前は根拠なく否定するなボケが >>590
動画だけではどういう状況かはわからない。
少なくとも、食料を運んでいるなら、餓死させたというのが嘘だということだけはわかるw
英米に踊らされてるネットで真実君は、なにを見ても自分好みの解説を加えてしまう。
ネットは嘘と捏造と継ぎ接ぎの宝庫だからね。 >>591
食料を運んでるのは近所の人たちだよ
人類の害悪中共をこれだけ擁護してる時点でお前は頭おかしいよカスが >>592
感染を恐れない近所の人が無償でやってる、という根拠でもあるのか?
嘘と捏造と妄想のネトウヨ君は、確かに人類の害悪だ。 >>594
やっぱりネトウヨ君は、人類の害悪だなw >>595
ちとは検索しろやノータリンが
お前のようなクズがいるからチャンコロがここまで増長してるんだろが
人間のゴミクズが >>596
中国の発展によって、日本は大きな利益を受けている。
なんで中国を敵だと思うの? 日本の最大の交易国だろう
中国と交易して利を得ることを
「売国だ」と口走る所まで
精神が追い詰められている者は、いる >>600
頭逝ってるのはチャンコロを擁護してるお前みたいなボケだろが 横から失礼
差別発言連呼してるID:NMh8zdEAはさておいてウイグルで弾圧が生じているようでは
あるっぽい
ソースはBBCなので、まあそれなりの信憑性はあるのではないかと思う
https://www.bbc.com/japanese/55945241
https://www.bbc.com/japanese/50542004 >>602
差別だぁ?
差別されて当然なんだよボケ それじゃあ理由があれば差別していいのか?
話にならねーな。 しかし差別してること自体を開き直るのは驚いたなあ
大抵のネトウヨは差別的なことを言って叩かれると
これは差別じゃないと理屈を述べたがるもんだが
多かれ少なかれ「よくない」ことだって認識はあったわけで。 >>605
無茶苦茶なことしてる連中には徹底的に差別して叩き潰さないとダメなんだよ
チョンコなんかもそうだろが >>602
イギリスの情報がいかに捏造に満ちているか、少し過去の歴史を思い起こしてみたほうがいいと思う。
国を挙げて文化人に情報エージェントを委託したのは、イギリスが最初じゃないかな?
ウイグル問題は、どこの報道でもファクトチェックがまったくなされていない。
イスラム過激派対策だということも、まったく触れることがない。 日本共産党でさえ中国を批判している今の世の中というのを少しはわかった方がいいですよ
古い新左翼的認識をまだ持ってる人いるもんだなあ 遅れてるぅ >>608
問題は、報道が事実であるのかどうか、事実でなければ捏造したのは誰でその理由ななにか。
報道が事実であれば、その事実の背景はなにか。
それだけのこと。
新しい右翼的認識より、古い新左翼的認識の僕の方が正当だと思うけど? >>609
お前が無知なだけだろが
お前のようなクズがいるからチャンコロがここまで世界中で増長してるんだろが
ちょっとは目の前のネットで検索してみろやゴミカスがよ >>610
君のようなクズがいるから、アメリカの世界支配が増長してるんだな。
アメリカの暴走を止めるには、中国に期待するしかないのが現実だ。
ところで、ネットで真実君はトランプさんの不正選挙の主張も認めるの? >>501
>俺は出してないが
ってわざわざ言うのが、出してるようにしか見えないねwwwwwww >>611
死ねやクズが
チャンコロのジェノサイドとか世界中でしてる侵略とか
糞チャンコロ工作員は死んどけボケが >>611
だからお前らみたいなゴミ左翼は一切支持されないんだよカスが >>611
お前らみたいなまったく影響力のないゴミ左翼なんかにかまってる時間なんかないんだよゴミ
日本から出ていけゴミ >>615
ネトウヨ(ゴミ)はゴミ箱から出てくるなよ。
ゴミ(ネトウヨ)はゴミ箱(右翼)の中で喚いていればいいんだよ。 柄谷スレを五毛党が監視していたとは・・・トホホ
これぞ
マルクスその可能性の中南海かw >>571
「コロナウィルスは武漢研究所で人工的に変造された」
英研究者らが法医学的学術論文発表へ
https://www.fnn.jp/articles/-/189517 >>618
イスラエルのパレスチナ人虐殺から目を逸らさせたいんだろうね。
ミャンマー問題があまり盛り上がらないからw 柄谷くんも、大江くんも酷くなってしまったね。
二人とも、若い頃はもう少しまともだったがね。 戦後世界は内政干渉をしないことで、かろうじて平和を保っている。
他国に内政干渉したがるのは、いわゆる自由主義国。
なんのことはない、自分たちの利権を認めろといってるだけ。
イスラエルのガザ侵攻は、内政ではまったくなく、完全な他国への侵略だけど、自由主義国が非難することはない。 米ロサンゼルスに巨大「習近平ウィルス像」建立
落成式が執り行われる
ネットの反応「想像よりちゃんとアートだったw」「習近平は米国でも人気者ww」
https://anonymous-post.mobi/archives/9595 >>624
ファクトチェックもなされていない捏造ニュースを真に受けてどうするんだよ。
イスラエルによるパレスチナ人のジェノサイドはファクトチェック済みだぞ? 0829 考える名無しさん 2022/01/24 02:12:27
『終焉をめぐって』に収録された村上春樹論で、柄谷は
『羊をめぐる冒険』の「羊」と三島由紀夫を結びつけていたが
(世評でも三島の『夏子の冒険』の影響が指摘されているが)
三島の「三」の字とYUKIOのYを重ね合わせると「羊」になるのは偶然かよ? 漱石の「行人」に出て来る主人公の名が柄谷行人だったっけ!? 大学時代、柄谷さんは神であった。ウィトゲンシュタインか柄谷か、てなもんだった。ウィトゲンシュタイン読んだことないけど。NHKのドラマ「安寿子の靴」見てたら、柄谷行人出てきてビックリした。「匂いガラス」だったかもしれない。どっちも唐十郎原作で。つくづく法政いけば良かったと思ったが、実際には、柄谷さんは哲学は教えてなくって、語学だったとか。まぁ、語学は記号学に通じるからアレだけど。でも、ドラマに出てた柄谷さんはカックイカッタ。今の人なら、誰なのかしら。東さん? 出来うることなら、哲学者って痩せてて欲しい。違うか。 [超自我の発生と共に、自我の内部にかなりの量の攻撃欲動が固着し、内界で自己破壊的に作用する。
この状況こそは、人類が文明発達の途上において、身に受ける健康上の危険の一つである。
攻撃性を抑制することは一般に不健康であり、病気を惹起するように(有害に)作用するからである。
人間は外界に解放することを妨害された攻撃性の変形を、自己自身に攻撃性を向け換えることによる自己破壊の形で表現する。】
(フロイト「精神分析概説」)
[フロイトは外部に向けられた攻撃性が自己に向かって内部に向け直されるものとして超自我を見るようになった]
(柄谷行人『世界史の構造』)
フロイト本人は、柄谷のようなテキトーなことは言っていない。 柄谷行人によれば、カント的自由=サルトル的自由なのだが、
サルトル本人としては↓なのだ。
サルトル「真理と実存」
「カントのいう非時間的な自由が、ここで我々が考察している自己時間化する自由の代わ
りを務めることは絶対に不可能である。というのも、カント的な自由は現象的世界の外に留
まっているのであり、アプリオリな判断の純粋に総合的な作業は自分自身にとって見通せな
いものであり、みずからの根拠を自己自身の外に有しているからである」 [柄谷がマルクスにはなかった「交換様式」の第一次性を強調するとき、一つのキーワードとなったのが、この「互酬交換」である。だが、マルクスがその土台=上部構造論において上部構造の相対的自律性を指摘していたように、必ずしも経済的次元が政治的次元を一義的に決定しているわけではない。したがって問題は、土台=上部構造論の近代資本制社会への限定的適用がマルクスの歴史貫通的方法論には明らかに反していることはひとまずおくとしても、そもそもそれが現実認識との関係でどこまで有効なのか、ということにある。】 ↑
柄谷行人と「帝国」論の隘路 ――ウィットフォーゲルとマルクスの間で
石井知章 〈唯物史観によれば,歴史における究極的な規定契機は現実的な生の生産と再生産である.
それ以上のことは,マルクスも私もかつて主張したためしがない.
しかるに,もし経済的契機が“唯一の”規定契機だというようにねじまげられてしまうと,
先の提題は無内容な空文句になってしまう.
経済的状態は土台ではあるが,上部構造のさまざまな契機が歴史的闘争の途上発展に影響を及ぼす.
(エンゲルス ブロッホあての書簡)。 柄谷の著作の内、イソノミア、マルクス可能性の中心など、英訳されたものはdokumen.pubで無料で
読めるので、興味ある人は読んでみれば良い。
異様に読みやすいところが柄谷のライターとしての人気の秘密かもな。
読む人にもよるだろうが、英語として異様に読みやすい反面、安っぽいのかもww
イソノミアの場合は一つのセンテンスが平均で15ワードぐらいではないか?
超ダイジェスト版世界史という感じw
何だかんだ言っても、英語版にしろ、無料で読めるのは有難い。
村上春樹もどうせノーベル賞なんか無理なんだから、英語版を無料で読めるようにすれば、
好感度上がるぞ。 柄谷行人が一番評価している作家は坂口安吾
若い頃は何故言及しなかったのか? 坂口は小林秀雄の批判者としては花田と双璧だから、柄谷の先輩の江藤淳に気に入られるためには
小林秀雄論を書くのが先で坂口論はずっと後回しだろ。
文壇的にはそう言われてるが、その通りだろ。
文壇の話は面白くないが、柄谷こそ文壇的な人だからしょうがないね。 「人々は実際に経済的にも平等であった」(「哲学の起源」25ページ)。
「イオニアの諸都市がどのようなものであったかを示す史料はほとんどない」(同42ページ)
「史料がない」にもかかわらず、「平等であった」と断言するといういつもながらの柄谷節。
本家のハンナ・アーレントの説を無視し、
イソノミアを経済的に平等な「理想社会」であるかのようにいう。
こちらも、毎度あり、のことである。
ちゃんと読むのは、どうやら時間の無駄のようである。 >>637
誤解されてるようだが、
安吾は小林秀雄を尊敬していた。
自分の門弟的な青年にも「僕よりも小林秀雄の書いたものを読み給え」と言ってた。
坂口安吾は実は死後10年以上文壇から黙殺されてた時期があったんだが、
この時期に「最近不当に閑却されている散文家」と再評価したのが江藤淳。
70年代から角川文庫で安吾ブーム 安吾ブームが起きて復活するんだが、
柄谷先生はまともに読み出したのが遅かっただけのような気もする。
文壇的な人なのかも知れないが。 「フランス語の実力は東大仏文の小林秀雄より安吾の方が上だったろう」
とまで言ってたなw 蓮實重彦によると、小林秀雄はフランス語をろくに読めなかったということなのだが、
事実はどうなのか。 マルクーゼの「エロス的文明」では、
文明(ことに政治・経済的な支配の存続に役立つような労働力の維持・再生産)の成立にさいして、
「死の欲動」と「リビドー」の組織化があったとしていた。
「欲動」は、死の欲動の組織化としての破壊の禁止
これは供儀のお祭り事などをによるガス抜きを以てし、どうじに安定した氏族集団を形成するものだ。
生の欲動の組織化としてのその氏族集団内での乱交の禁止(近親相姦の禁止)による外婚制の成立。
これは両輪で、この説はフロイトの「トーテムとタブー」に於いて論じられていたことにも、
一応忠実だった。
柄谷行人の場合は、人間個体における死の欲動の内向=超自我の成立から、
何らの説明もなく、社会構成体の「文化」(文明)の成立にまで跳んでしまうのだ。 柄谷行人「交換様式論入門」
【それに関して、私はフロイトの理論を参照します。といっても、それは、彼
が『トーテムとタブー』で書いたこととは異なります。そこでは、彼は、未開
社会を「兄弟同盟」たらしめた原理を、兄弟による「原父殺し」から説明しよ
うとしました。しかし、「原父」は、ダーウィンがゴリラ社会などから想定した
仮説であり、また、国家の段階で成立した家父長制を太古に投射したものにす
ぎません。フロイトの仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論で
す。
死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体
を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対
立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるも
う一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイ
ト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関
してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」
にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が
発生する。
そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先
ず攻撃性として外に向けられる。が、フロイト的にいえば、それが内に向けら
れるとき、超自我として自らの攻撃性を規制するものとなる。贈与の互酬交換
16
はそのようなものとしてあらわれた、といえます。人は贈与しなければならな
い、贈与を受け取らねばならない、贈与にお返ししなければならない。その場
合、贈与された物に付着した霊的なものが、人々を強制するように見えます。
しかし、Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。それが、階級や国家の発生を阻止
する観念的な力として働いたのです。】 フロイトの「トーテムとタブー」でぼ「原父殺し」というのは、
原父に見立てたトーテム動物を殺して皆で食う、というそれ自体が、
同じトーテム動物の子孫であるような氏族集団を形成するお祭事、
そして、その氏族内での性交、近親相姦が禁止されることによる外婚制、
この「文明」の両輪の成り立ちの起源のお話なのだ。
柄谷行人の説は、かなりずれているようにしか思えない。
そして、文化人類学の本を読んだことがある人ならばわかるはずだが、
互酬交換のうちで最も重要なのは、女の交換だが、
それについて柄谷はほとんど触れない。
柄谷はマルセル・モースの説をかなり援用しているわけだが、
マリノフスキー、モース、レヴィ₌ストロースなどの「女の交換」についての学説は、
何やら無視しているようだ。 【有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動】
【社会構成体の「有機的状態」が「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動】
柄谷はこのようにいう。
生命である人間と、社会構成体とを、
「有機体」「有機的状態」について、
「有機」という語が共通するというだけのことを根拠?に、
同じ扱い方をしているのだ。 [インセスト禁忌はたんに禁止であるだけではない。それは「〜してはならぬ」とだけでなく、同時に「〜せよ」とも命じる。インセスト禁忌は、この禁忌の拡張された社会的表現である外婚と同様、一つの互酬規則なのである。人がみずからと他人に女を拒むとき、まさにそれによってこの女は供与される。(中略)すなわち、私がある女の使用をみずからに禁じ、その結果この女が別の男にとって処分権〔使用権〕の対象になる瞬間から、どこかに、ある女を権利放棄する男がおり、この権利放棄によってその女が私にとって処分権の対象になる。禁忌の内容は抑止することに尽きるのではない。禁忌が制定されるのは、直接的にか間接的にか、即座にか時間を置いてか、ただ交換を保証し基礎づけるためなのである。
(クロード・レヴィ₌ストロース著 福井和美訳『親族の基本構造』) 644の引用文で柄谷行人が述べていることは、
むかしふうの社会有機体論というほどの学問的な意味合いさえなく、
社会経済は生き物なんです!、とかいうような財界人などが言いそうなこととかわりない。 >>642
かじった程度かな
フランス語は覚えること多すぎるし 思い出した、坂口安吾は神田のアテネ・フランセでフランス語を学んだが、
残って教員にならないかとまで言われた程の優等生だった。
ここの校長がコット先生という人だったが、
この人にフランス語を教わったのが東大の辰野隆。
辰野が東大の講義でヴァレリーを教えてると知ってコット先生は激怒したらしい。
「フランス人でもわからないのに」と。
その辰野に東大で教わったのが小林秀雄。
何となく関係性がわかるような気もする。 【「ある日、追放された兄弟は力をあわせて父親を殺害して食べてしまい、こうして父親の群れを滅ぼした。彼らはいっしょになって、単独では不可能だったことをあえて成しとげた。おそらくあたらしい武器の使用のような文化におけるある進歩が、彼らに優越感を与えたからだろう。これらの人喰い人種は当然のことながら彼らが殺したものを食べてしまった。この乱暴な原初の父親は、確かに、兄弟たち各人にとってうらやみ恐るべき模範だった。そこで彼らは、父親を食べることによって彼との同一化を成しとげ、それぞれ父親の強さの一部分を得た。トーテム饗宴は、たぶん人類最初の祭儀だろうが、この重大な……行為の……反復であり、記念なのである」。
これが人類文化の最初の行為なのであるがこの記述のなかほどで著者は、「文化におけるある進歩」、「新しい武器の使用」について語っており、こうして、前文化的段階にある動物が文化的財産と道具をもっていたと想定している。どんな物質的文化財も、組織やモラルや宗教が同時に存在しなければありえない。まもなく私が示すように、これは単なるこじつけではなく、いまの問題の核心にかかわる点だ。われわれは、フロイトとジョーンズの理論が、それ自体が文化の存在を前提とするような過程によって文化の起源を説明しようとし、このために循環論法におち入っていることを示そう。彼らの理論に対する批判は、実際、文化過程とその生物学的基礎の分析そのものへわれわれを導くだろう。
(マリノフスキー著 阿部年晴・真崎義博訳「未開社会における性と抑圧」) 「文化におけるある進歩」、「新しい武器の使用」
柄谷説には、↑のような観点もどうやらない。
「原始的」な技術革新である武器になる道具の使用、その武器の集団による共同管理、
このような問題自体を避けているかんじだ。 なお、652の「未開社会における性と抑圧」でマリノフスキーが引用いるのは、
フロイトの「トーテムとタブー」である。 >>642
語学は真面目な性格の人でないと上達しないw
蓮實や小林は要領の良さで生きて行くタイプw >>639
別に誤解してないが。文壇の色んな言い訳を真に受ける
おめでたい人がいるだけだ。 小林が書いた坂口安吾全集の推薦文は感動するけどなあ フロイトの言う「新しい武器の使用」というのは、
現実の歴史に当てはめれば石器時代の話としてしかありえないだろうから、
ようするに石器を槍の穂先にするとか矢じりにするとかいうことだろう。
それはもともとは狩猟用の道具の発達ではないか。
すると、狩りの道具が発達して、たくさん獲物が取れるようになった、
つまり生産力が上がった、ということがあったとすれば、
フロイト説における「文明の成立」は、柄谷的には「遊動」の無機的状態から有機的状態への変化、
これは「生産力と生産関係の矛盾そして発展」に対応する上部構造の変化という
生産様式論の図式に当てはまることになる。
もしかして柄谷的「交換様式論」は出る幕ないことになりかねない。 【「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」
『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。】
(柄谷行人「憲法の無意識」) ↑の説によれば、集団が遊動から定住への移行するときにも、
何らかの欲望が断念されたことになる。
また、そのときには、最初の欲望を断念させるような外部の力による強制があったことになる。
しかし、「世界史の構造」では、そのような外力がどこから来たのか、
それについて何も書いていないのではないか。 中世キリスト教や大乗仏教が飢餓対策として穀物生産を基盤とする定住社会を作っただけ
ようするに宗教権力が貧民救済として贈与的施しによる生産関係に編成しただけの話に過ぎない
この権威の失墜と世俗権力とペアになった啓蒙の時代になると
かつては恩寵としてあがめられていたものが抑圧原因と再規定され
その抑圧の外部(つまり自由)と可能性が各主体の心理面で捏造される
ロマン主義的美化とでもいいますか 柄谷はイソノミアが最後の著作という触れ込みだったが、延命をはかるのは何処も同じかww
坂本龍一のマジの延命は良いとして。
小室哲哉「完全に同意しますw」 [社会的凝集様式を定義・変形するときの基準は、単系が安定した出自規則であるのに対して、双系は土地権体系である。
・単系は人(個体)の身分が他のすべてを決定する、いわばそれが内部的な骨格になって社会を構成しているのに対し、
双系は土地所有規約の連繋が外部的骨格になり、個体はこの範囲内で、ある程度自由に自らの家族的・社会的身分を定義できる社会である。]
(レヴィ₌ストロース著福井和美訳「親族の基本構造」)
レヴィ₌ストロースのような考え方をすれば、
単系社会は厳格な出自系統をアイデンティティーの基礎にしていることから、
外婚制によって集団の連帯を形成しうる、ということになる。
しかし、柄谷が日本は双系制社会だったというのがただしければ、
それにおいては、(本来の意味の)外婚制が成り立たず、したがって、
集団同士がいわば認め合うことで集団間の連帯を成り立たすことになる。
そして、そのなかでは、ひかくてき自由に内婚制をとりうることになる。
集団同士の共認(認め合い)というのは、つまりは土地所有規約の連繋のような形をとらざるをえないだろう。
ようするにそれは、「山人」的な「遊動」とはとうていえない、
「常民」の「社稷」的なものだろう。 [ところが、父系や母系といった系列が意味をもたない親族制がある。それが双系制です。もともと遊動民のバンド社会では、母系も父系もない。その意味で、双系制には古い形態が残っていると思います。双系制ではむしろ、血縁関係がなくても構わない。つまり、養子でもいいし、年齢や性別も問わない。家に何らかの関係がある者は皆、先祖になる、というのが、柳田のいう固有信仰ですね]。
(柄谷行人「『想像ラジオ』と『遊動論』 いとうせいこうとの対談) ×柄谷が日本は双系制社会
〇柄谷が日本の互酬交換経済段階の社会は双系 柄谷行人が「双系」といっているのは、
狭義の排他的親族集団ではない
共通の先祖をもつ系譜的つながりをもった広義の親族集団を構成するものとしての
「共系」のことだろう。 「双系は土地占有規約の連繋が外部的骨格になり、個体はこの範囲内で、
ある程度自由に自らの家族的・社会的身分を定義できる社会」
(「親族の基本構造」)
「遊動民」といっても、ある範囲内を巡回的に動いているようなものを想定しないと
(じっさいに観察された遊動民の社会は例外なくそうなのだそうだ)、
成り立たないだろう。 ホモサピエンスの拡散というのは、
10万年くらい前にアフリカ大陸を出てからベーリング海に至るまで、
8万5千年くらいかかっているとされる。
「遊動民」(または「原遊動民」)というのは、
このように、ほとんど動かないのである。 674
×成り立たないだろう。
〇柄谷の説は成り立たないだろう。 >>673
人類学の金関丈夫が58年前に「箸、櫛、つるぎ」で、j.M.Van der Kroefのdual system双分制社会を紹介したのと似てるような。
ロシア・フォルマリズムのシュクロフスキーが関心を持ってたのも、柄谷と同じく、双分制やノマディズムであり、柄谷は構造主義
の前段階のロシアフォルマリズムへの遡及を試みてるような。青土社の仕掛ける圏論ブームもあるかもな。
柄谷も蓮實もジタバタし過ぎだろ。 やはり柳田国男も「先祖の話」では、山の神と田の神は同じものであった
と説いているようだ。
柄谷行人によれば、焼き畑などやっているような山地民は、
遊動民である「山人」ではない。
(なお、柄谷によれば、中石器時代人、縄文人も「山人」ではない)
つまり、山地民はいうなれば「半常民」であって、
そして柳田が言うように、その山の神は、里の者たちの田の神と同じものあるのだから、
日本の双系社会の「固有信仰」(柳田)というのは、
けっきょく柄谷のいう「有機的な社会構成体」であるところの
定住民的(半定住民を含む)な集団の土地規約的連携
によって成り立つ社会にしかなかったのではないかと思われるのである。 ×土地規約的
〇土地占有規約的(コモンズ的利用のための規約をおおく含む) ピエール・クラストルが調査した南米の未開社会は常に戦争をしていたということだ。
それらの社会は、戦争によって成り立っており、
どうじに、戦争によって、権力を分散させ、強権的な国家的な組織の発生を阻んでいる、
ということである。
「原遊動」の社会というものがあったとすれば、
それは柄谷行人がいうような平和なユートピアではなく、クラストルがいうような
「戦争機械」の構成する社会だったのではないか。
わたしにはそのように思われる。 [現在のところ歴史上で最も古い戦争の跡とされているのが、スーダンのヌビア砂漠にある「ジャバル= サハバ117 遺跡」です。ここから見つかった約1 万5,000 年前の旧石器人骨は武器で殺傷されたもので、しかもその数はおびただしいものでした。穀物の生産も家畜の飼育もまだ始まっていない旧石器時代に戦争の可能性が示されたことは、余剰生産物がもたらす富の偏在と分配を戦争の原因と考える従来の戦争史観に対する大きな反証でした。]
(高橋龍三郎「人類初の戦争とは?」早稲田ウィークリー) 柄谷行人にしても、定住によって生じる「余剰生産物がもたらす富の偏在」
これを戦争の原因だと言っている。 「農本主義という世界」の著者綱澤満昭によれば、
柳田国男は権藤成卿の「社稷思想」にアナーキーな
国家の支配から脱するためのアイデアみていたということだ。
柄谷行人は、柳田は最後まで、その(遊動的な)「山人論」を捨てていなかった、
という通説に反することを
いつものように文献的な証拠を一つも示さずに断言していた。
しかし、網澤氏はその逆に、柳田は社稷を祀る(定住的な)常民のほうに、
いうなれば望みをかけていた、というのである。 >>678
>>柄谷行人によれば、焼き畑などやっているような山地民は、
遊動民である「山人」ではない。
焼畑民の円環的遊動は遊動の普通のパターンだと思うけど。
直線的に長距離を移動した例など、石器時代のデニソバ人ぐらいだろ。
柳田が山の神と田の神は同じとしたのは、日本民族単一起源説の強化のための
敢えての嘘こじつけではないか?
宮本常一は漁民と農民の家屋の線的、グリッド的の形状の違いに注目したが。
漁民と焼畑民のアナロジーもある。 [国家・宗教・芸術などの「上部構造」が、経済的下部構造に規定されることは確かですが、むしろ逆に、それが経済的下部構造に影響を及ぼすことがある。それを最初に指摘したのは、マックス・ウェーバーです]
(柄谷行人「交換様式と『マルクスその可能性の中心』) エンゲルス ブロッホへ宛ての手紙
〈唯物史観によれば,歴史における究極的な規定契機は現実的な生の生産と再生産である.それ以上のことは、マルクスも私もかつて主張したためしがない。
しかるに、もし経済的契機が“唯一の”規定契機だというようにねじまげられてしまうと、先の提題は無内容な空文句になってしまう。
経済的状態は土台ではあるが、上部構造のさまざまな契機が歴史的闘争の途上発展に影響を及ぼす。]
エンゲルス シュタルケンブルク宛ての手紙
[政治的・法的・哲学的・宗教的・文学的・芸術的等々の発展は、経済的発展に基づいている。
しかし、これらの発展はみな、相互にも、経済的土台に対しても、反作用を及ぼす。
経済状態が原因で、それだけが能動的で、他のものはみな受動的な結果に過ぎないと言うのではない。
究極的において常に自己を貫徹する経済的必然性の基礎の上に交互作用が行われるのである。
(中略)あちこちで安易なやり方でそう考えたがっているように、経済状態が自動的に作用するのではなく、
人間が自分で歴史を作るのだが、ただ彼らを制約している既存の環境の中で、有り合わせのものとして見いだされる事実的諸関係に基づいて、
それを作るのである。そして、この事実的諸関係のうちでは、経済関係が、例えどれほど他の政治的及びイデオロギー的諸関係の影響を受けようとも、
究極において決定的な関係で有って、全体を貫く赤い糸になっており、この糸を辿ることによってのみ万事を理解できるのである] 「最初に指摘したのは、マックス・ウェーバー」(柄谷)
などということはぜんぜんなく、
マルクス・エンゲルスにしても、経済的契機を「唯一の”規定契機」などとはいっていなかった。
マルクスを「その可能性の中心」で読むことを主張してきた人が、
なにゆえこういう俗論をことさら強調するのか、それがふしぎである。 マルセル・モースは、互酬的または循環的な交換について、
それはいわば霊的な力に強いられることによるものとしていた。
レヴィ₌ストロースはその考え方を批判して、
互酬的交換をおこなわせるのは、連帯を維持する無意識的な構造であるとした。
レヴィ₌ストロースは、イトコ婚の例をあげて、
あるリネージから別のリネージへと女が交換されていく循環的な
交換が、安定した集団間の連帯を生み出すとした。
柄谷行人はあるころから、「霊的な力」=無意識の構造、というふうにごっちゃにしてしまい、
しかもそのうえで、最も重要な女の交換に関しては何も語らないという
奇妙なことをやっている。
女の交換に関して何も語らないという現在の柄谷の態度は、
今や文壇で猛威を振るうフェミニズムに媚びているためだろうか。
女の交換に関して ×女の交換に関して
〇女の交換に関して
ふれずに「互酬交換」について語ることはできないと思う。 wiki
リネージ(英語: lineage, [ˈlɪniɪdʒ])は、「血統」を意味する学術用語で、文化人類学、民俗学、歴史学などの分野で用いられる。通常は明確に認識された系譜関係に基づき、共通の祖先から辿られる出自を同じくする親族集団あるいは社会集団を指し、呼称する。通常、出自は単系で辿られるため、父系の場合は父系リネージ、母系の場合は母系リネージと呼ぶ[1]。祖先崇拝を行う民族集団においては成員に死んだ祖先を含める場合もある。
リネージは単に集団の成員権を伝えるだけでなく称号や財産、義務や責務を伝え、対外的には政治的・宗教的単位として機能する。また、外婚の単位として他のリネージとの恒久的な通婚関係を築く場合もある。このような関係をアライアンス (alliance) と呼ぶ。
大きなものでは系譜の深度に応じた位階秩序が設けられたりするため、ラメージ (ramage) と混同される場合があるが、ラメージの父系・母系の系譜は選択的な出自に基づく集団であるという点でリネージと大きく内容が異なっている。 柄谷行人の「双系社会」論には、
リネージとラメージとの混同があるように思われる。 たとえば、開発によって、森や河川のありさまがかわってしまい
先住民であるような少数民族などが、
狩猟採集生活を捨てざるを得ないようなケースがある。
しかし、そういう場合でも、問題解決の方策というのは、
たいてい土地制度を考慮することを基本にしている。
柄谷行人の考え方では、狩猟採集民が、土地権を梃子にして、
国家と資本による開発に抗する、という方向性はでてきにくいだろう。
後期の柳田国男の場合は、その点で柄谷とは違う。
柄谷行人は、ようはイデオローグだから、わざとそう言う説を唱えていると思う。
例えば中国政府のような開発独裁政権が少数民族を排除して開発を推し進める際には、便利な考え方だからだ。 中国共産党にとって耳の痛い話をするような知識人は、
中国の大学には呼ばれません。これははっきりしている。
ちなみに、わたしの伯父も、たびたび中国の大学に呼ばれて講義をしたりしていたが、
あちらが耳の痛い思いをするようなことは、
ぜったいに口が裂けてもいわないタイプであった。
親族としては、温厚で本当に良い人だったが、
学者としては何とも評価のしようのない人だった。 柄谷が晩年なら蓮實は既に死んでなきゃならない。
柄谷も晩年を信者にひっそりと見守られるような玉じゃない。 「人間社会では一人の男は女を別の男から受け取るしかなく、男は別の男に女を娘または姉妹というかたちで譲渡するのである。(…) 親族は静態的な現象ではない。それが存在する唯一の理由は親族が存続することである。われわれは人種を継続させる欲望について話しているのではない。そうではなくて、われわれが語っているのは、ほとんどの親族体系において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受け取ったものの間に発生した始原の不均衡は、後続する世代において行われる反対給付 (contre-prestation) によって相殺されるしかないという事実である。」(Ibid.,p/57)
(レヴィ=ストロース「親族の基本構造」) >>695
日本書紀などを読むと、古代の日本では女が主導する母系制に思えるけどね。
レヴィ=ストロースもいい加減だよなw 上のような考え方をセクシズムであるというのは、
私は間違いだと思う。
フェミニズム人類学などには、
狩猟採集民が摂取する食物の7割くらいは、
狩猟ではなく、採集によって獲得されたもので、
その採集労働の担い手は、おもに女性だという有力な説がある。
このような考え方を軽視する(というよりも、狩猟のほうばかりに目を向けて
そういうことに気づきもしない)のを、むしろセクシズムというべきだろう。
そして、採集生活というものは、
684の方が言う「円環的遊動は遊動の普通のパターン」
換言すれば、季節ごとに定まった範囲内を巡る、こういうものである。 レヴィ=ストロースの70年来の謎を進化シミュレーションで解明
- 文化人類学の基礎「親族の構造」を数理モデルで生成 -
研究成果
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部
掲載日:2020年1月21日
多くの人間社会において社会関係は血縁関係によって決まっていて、文化的に同一の集団内では近親者でなくともインセスト・タブーによって婚姻が禁じられている。また集団間の婚姻・親子関係の総体を親族構造と呼び、特に二つの集団間で結婚する限定交換、三つ以上の集団間で一方向の女性の流れがある全面交換などが見出された。しかし、それらの多様な親族構造がいかにして生起するかは明らかでなかった。東京大学大学院総合文化研究科の板尾健司大学院生と金子邦彦教授は、計算機上で原始社会のモデルを用いて親族構造の進化を議論した。婚姻が集団間の協力を促しつつ婚姻上のライバルとの競争をもたらすことを考慮し、社会の時間発展のシミュレーションを行った。その結果、文化人類学者たちが発見した婚姻規則や多様な親族構造がパラメータに依存して自発的に生成することを示し、現実の民族誌的知見と対応して親族構造の分布が説明されうることを明らかにした。本研究成果は計算機を用いて人間社会の普遍的な構造を論じ、人類学の理論研究の新たな方法として普遍人類学の展望を示すものである。なお、本研究は新学術領域研究「進化の制約と方向性」(17H06386)のもとで行われた。 700get
花田十輝というアニメ脚本家がいて
清輝の孫
『よりもい』こと『宇宙よりも遠い場所』が代表作。
確か柄谷が教鞭をとった法政大学の出身じゃ? 吉本の娘が、少女漫画家や少女漫画家的な小説の大家に。
花田の息子が、アニメ脚本の大家に。
柄谷の息子は、エロゲー・クリエイターくらいにはならんと
釣り合い取れんな >>698
東大でこんな研究してたのか。
世界大学ランキングが下がる一方なのもわかるな。 [たとえば、親族形態も、娘ないし息子を他の共同体に贈与し、そのお返しを受
け取るという互酬交換によって形成される。この意味で、氏族的な社会構成体
を形成するのは、広い意味での交換であり、それこそ経済的ベースなのです。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
外婚制に関して柄谷行人はこのくらいしか語っていない。
柄谷は、双系が基本だとしながら、こういうときだけは、
単系出自集団の外婚制について語っている。
また、互酬交換のフェティシズム的(神話的)観点しかなく、
婚姻制度の機能的な面(これは生産・再生産にかかわる)については、
まるで念頭にないかのようである。
なによりも、さかんにフロイトの説を援用しているにもかかわらず、
近親相姦の禁止については、(おそらくわざとだろう)まったく無視しているのだ。 信田敏弘「親族システムの理念と実践」
「東南アジアでは,単系制(父系,母系)から非単系制(選系,双系など)まで,あ
らゆるタイプの親族システムが存在するものの,双系制やそれに近い制度が優越して
いるとされている。単系出自理論の観点からすれば,双系制は出自集団を形成しない
親族システムとされる(前田 1989: 41–44)。別の言い方をすれば,双系制は出自集団
を形成しない親族システムを一括しているという意味で,いわゆる残余のカテゴリー
と考えられている。この点を強調すると,前田が指摘するように,ある社会を双系社
会と規定するのは実は何も説明していないことになる。そこで,東南アジアの親族研
究では,双系制における組織原理を説明するために,
「屋敷地共住集団」「家族圏」「キンドレッド」などの概念が提示されたのである。] ×信田敏弘「親族システムの理念と実践」
〇信田敏宏「親族システムの理念と実践 : マレーシア,オラン. ・アスリ社会の母系制」国立民族学博物館研究報告. ×互酬交換のフェティシズム的(神話的)
〇互酬交換のフェティシズム性(神話性)に関する マルセル・モースは、互酬の行為は、建前は任意に行われるが、
事実上は義務的に行われる、としている。
レヴィ=ストロースはもっとはっきり、それに関して給付と反対給付という言葉をつかっている。
ドゥルーズ=ガタリは、さらにはっきりと債権債務関係だといっており、
それゆえモースよりも二ーチェ(「道徳の系譜」)のほうが核心をとらえていたといっていた。
柄谷行人にしても、この点は、モースとおなじく、
贈与された側は、「霊的な力」(モースの言う「ハウ」にあたるもの)
によって返礼を強いられる、としていたが、
しかし、モースやレヴィ=ストロースが、返礼・反対給付の義務を怠るようないわば債務不履行が
闘争・紛争を起こす引き金だとしているのにたいし(ドゥルーズ=ガタリは、そもそもクラストルに由来する「戦争機械」による闘争状態が、
常態だという考え方だろう)
柄谷のほうは、互酬交換が成り立たなかったような(霊的な力が働かなかったような?)ケースについては
何も言わない(あるいは、意図的にふれない)ようなのである。 >>707
戦争というのは、どちらかあるいは双方の、その地域の支配者の利益拡大を図ることが目的だから、互酬とか債務不履行とかなんの関係もないのに。 暴力の考古学―未開社会における戦争(ピエール・クラストル)
「クラストルの戦争論の理解をめざして 戦士に抗する社会―服従を拒否する社会における死と威光の交換」
(毬藻充 訳者あとがき)
つまり、戦争をすることで結合している社会構成体が存在する、ということです。
わたしとしては、「原遊動」の社会(現実にあったとすれば旧石器時代のことになる)というのは、
柄谷行人がいうような平和なものではなく、
クラストルのいうような戦争(といってもせいぜい数十人くらいの争いであろうが)ばかりしていた社会だと思う。
下のようなことは、おそらくたくさんあっただっただろう。
[現在のところ歴史上で最も古い戦争の跡とされているのが、スーダンのヌビア砂漠にある「ジャバル= サハバ117 遺跡」です。ここから見つかった約1 万5,000 年前の旧石器人骨は武器で殺傷されたもので、しかもその数はおびただしいものでした。穀物の生産も家畜の飼育もまだ始まっていない旧石器時代に戦争の可能性が示されたことは、余剰生産物がもたらす富の偏在と分配を戦争の原因と考える従来の戦争史観に対する大きな反証でした。]
(高橋龍三郎「人類初の戦争とは?」早稲田ウィークリー) ちなみに、クラストルの「未開社会」における各集団は、
未分化(平等)な社会なのだが、しかしそれぞれ「領土」はもっている。
もちろん、その「領土」は、ドゥルーズ=ガタリが
「原始土地機械」(「アンチ・オイディプス」)というふうに呼んだようなもので、
いま私たちが領土と呼んでいるようなものとはちがうかたちでの
所有ないし占有の仕方していていたものだろう。 [社会的凝集様式を定義・変形するときの基準は、単系が安定した出自規則であるのに対して、双系は土地権体系である。
単系は人(個体)の身分が他のすべてを決定する、いわばそれが内部的な骨格になって社会を構成しているのに対し、
双系は土地所有規約の連繋が外部的骨格になり、個体はこの範囲内で、ある程度自由に自らの家族的・社会的身分を定義できる社会である。]
(レヴィ₌ストロース著福井和美訳「親族の基本構造」)
レヴィ=ストロースによれば、双系社会は、土地所有規約も連携によって成り立っており、
クラストルは、その種の考え方を引き継いでいるのだと思う。
しかし、柄谷行人のいう「双系社会」というのは、
いったいどういうものなのか、ぜんぜんわからない。
いつものように、口からでまかせ、ということで、それをわかろうとするのが、
どうかしているのかもしれないけれど。 何度も書いたように、柄谷行人は、中石器時代人、縄文人も「山人」ではないといっている。
すると、日本において「山人」の時代があったとすれば、
それが旧石器時代のことである。
旧石器時代の日本の全土の人口は、3千人くらいだっただろうといわれている。
これでは、たとえ戦争をしたくても相手がいない、ということになりそうである。
また、日本は国土の大半が酸性の土壌で、
旧石器時代の人骨はきわめて残りにくい。
そういうわけで、旧石器時代の「山人」が戦争をしていたという証拠は、まずでてこない。
だから、おそらく反証されえないので、「山人」の時代は、平和だった、という幻想をもっていたい人は
ずっともっていればよい。 711訂正
×未分化(平等)な社会なのだが
〇未分化(平等)な社会を構成してるものだが 714訂正
×3千人くらい
〇最大のときで3千人くらい [未開社会において、互酬交換が社会構成体を形成する原理であったことは疑
いがありません。しかし、それは最初からあったのではない。人類が狩猟採集
遊動民であった段階では、B・C だけでなく、Aも存在しなかった。そこでは、
生産物は均等に分配されたと見てよいでしょう。遊動しているため、蓄積する
ことができないからです。遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかっ
た。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
狩猟採集遊動民には、互酬交換もなかった、といいながら、そのすぐ後には、
[たとえば、親族形態も、娘ないし息子を他の共同体に贈与し、そのお返しを受
け取るという互酬交換によって形成される]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
しかし、「親族形態も(中略)互酬交換によって形成される」という。
すると、柄谷行人のいう「狩猟採集遊動民」のバンドというのは、
一体どうやって形成されるのか。
もしかして、昔々の原始乱婚制説でもとっているのだろうか。 今の文壇で引き揚げられようと思ったら、柄谷論か、蓮實論を書くことだろうな。
要領の良い奴は柳田国男論で群像新人文学賞を狙ったがw
それらの文壇的行為で、日本全体の脚を引っ張り、日本の失われた50年も遠くない。柄谷と柳田以外はアウトオブ眼中とかまさにその一類だろう。 批判的に書かなきゃ意味ないよね
でも落ち度なくそれができるほどに頭がいい人ってあんまいないんじゃないかな
蓮實は見かけよりも慎重だし、柄谷は元々トンデモなところがあるんで論理的な批判が有効じゃない 狩猟採集民社会 に お ける 食物 分 配 の 類 型 に つ い て
「移 譲」、 「交換」、 「再 ・分配 」
岸 上 伸 啓
こういうまともな学者は、柄谷行人のいう「交換様式B」にあたる
再分配が、こと食べ物を分け方としては、互酬に先立っているという説を唱えることもある。
柄谷説では、交換様式Aは「互酬交換」、交換様式Bは「再配分」だから、
交換様式Uというのは、おそらく無条件の「移譲」としてしかありえないことになる。
ようするに、鳥が雛に餌を与えるように、草食獣の母が子に乳を、
肉食獣が子に乳や肉をあたえるように、ただあげる、ということだ。 大体が、柄谷の作品を英訳して出版したら、柄谷=日本の文芸批評=日本文化論という感じだろ。
金を出してるのは創価かな。
海外では柄谷自身が日本文芸批評の象徴になってる。
そんなことは国内的には全然有り得ないんだが。
浅田は村上春樹の批判には熱心で村上が海外で売れてる評判にケチをつけるが、柄谷の場合は何も
言わない。 柄谷も浅田も中村光夫の「日本の近代小説」を何度も誉めてるが、正気の沙汰ではない。 「出自」とは祖先を中心として系的に(lineally)組織される概念
「キンドレッド」は、個人を中心として関係付けられるlateralな血縁関係者のカテゴリー [山人説は否定されたけど、柳田はなおも山人を定住以前の固有信仰(先祖信仰の祖型)に結びつけ、その存在を追究したんです。]
(「柄谷行人定住がもたらす社会の葛藤・遊動論 柳田国男と山人」 [もっとも「原始的」な狩猟・採集社会の約半数はキンドレッドを持たない双系社会である。]
(世界観の人類学・明治大学) ブリタニカ国際大百科事典
「出自を共通にする人々の集団。父系もしくは母系の単系出自集団 unilineal descent gronpと,広義には単系出自集団ではあるが,出自が父系もしくは母系に固定していない選択的単系出自集団 ambilineal descent groupあるいは非単系的出自集団 non-unilineal descent groupと呼ばれるものもある。出自集団には成員相互の系譜関係が明確にたどれるリニージと,系譜関係が不詳で信念として共通の祖先に系統的帰属をしている氏族の区分がある。出自集団の基本的特質は,経済的・政治的・宗教的側面でなんらかの共同的,排他的,独自的な自律性が存在することであり,その自律性を強調するためにも単系ないし単系的出自であることが適合的である」 けっきょく、柄谷行人のいう「狩猟採集遊動民のバンド」は、
「系譜関係が不詳で信念として共通の祖先に系統的帰属をしている氏族」
この氏族集団のことだとしか理解しようがない。
ところが、柄谷は原遊動性Uの段階は、氏族社会ではないというのだ。 「柳田国男が推定する固有信仰は、簡単に言うと、つぎのようなものである。人は死ぬと御霊になるのだが、死んで間もないときは、「荒みたま」である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化されて、御霊となる。それは、初めは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。祖霊が、現世に生まれ変わってくることもある。」
(柄谷行人「遊動論・柳田国男と山人」) 柄谷行人にしても柳田国男のいう「固有信仰」に対象は
氏神だと書いている。
氏神をお祀りするのが、氏族ではないのか。 柳田国男は死ぬまで、国学者としての古い一面を残してた人だから。近代の人類学を取り入れたところで、
パッチワークの矛盾は一杯あったし、一方で柄谷は趣味人として適当なことを言い散らかして来ただけだろ。 柄谷ほど断言口調の抽象的な文章を書いて共同体志向な近代的日本人は珍しい。文体が暴力的でアグレッシブ。
福田和也が書いてたけど、柄谷の講演を初めて聴くとみんな驚くらしいね。本で想像してたのと違って声が小さく弱々しいってw 理路整然としている蓮實や浅田と違って話下手よな
もごもごしゃべって歯切れが悪く聞こえるし、だいたい何言ってんのか分からん
書いて思考する人なんだろう 通常、狩猟採集民のバンドというものは、(おもにキンシップによって形成される)「家族」が、数家族から十数家族が集まってつくる社会集団であって、定まった遊動域の範囲内で、キャンプ地からキャンプ地へと移動しながら生活しているものとされている。それらは遊動域の隣接するバンド間で婚姻関係を結ぶ。このようなバンド群が、通婚圏である地域社会を構成するという。「バンド社会」というのは、この地域社会のことだ。
しかし、柄谷行人のいう「原遊動性U」というのは、上述のような地域社会のない歴史的段階(という仮説に基づくもの)で、さらに、その歴史的段階におけるバンド内には、柄谷の言う交換様式Aである互酬行為(互恵的相互主義に基づく行為)も交換様式Bである再分配も存在しなかったという。すると、それは、いったい何を以て集団が保たれていたというのか。ほとんどファンタジーとしかいえないものである。 「(氏神である)祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る」
(柄谷行人「遊動論・柳田国男と山人」)
これだと、「固有信仰」の対象である「氏神」は、屋敷地共住集団である家人がお祀りするようなもので、
これはほとんど「鎮守」と結合した、常民の「氏神=鎮守」ではないのか。
なお、柳田国男は、山の神と田の神はおなじものだ、としている。
だから、柄谷の解釈がおかしいだけで、柳田本人の説には、とくに矛盾はない。 [柄谷 柳田は、オヤ・コというのは労働組織にもとづくと言っている。
親分・子分ですね。そして、親分こそ真のオヤで、血縁の親は「産みのオヤ」にすぎない]
(「想像ラジオ」と「遊動論」 いとうせいこうとの対談)
しかも、新たに「交換様式論」を唱えてるはずなのに、こういう場合には、うっかりしたのかなんなのか、
むかしながらの生産様式を基礎にしたことを言う。 734の訂正
「鎮守」としたところはすべて
「地主神または地主神と同一視されるようになった鎮守神」 柄谷行人は、交換様式には、A=互酬交換、B=略取と再分配、C=商品交換、そして、Aを高次元で回復した「D」の四つがあるする。そのうえで、それぞれの交換様式が同時に存在しながらも、支配的な交換様式がAならば氏族社会、Bならば国家および帝国、Ⅽならば資本制社会、であるという。これはつまり、支配的交換様式によって歴史的段階が決定されるのだといっていることになる。
[言うまでもなく、国家とは諸々の力の絡み合う場である。しかし、さらに一歩遡って、人間の文化そのものを力の劇としてとらえねばならない。それは、錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである。
…さて、文化が多少とも安定した構造として存立するためには、この垂直の力が社会全体に広がることを可能にする何らかのメカニズムが必要である。このメカニズムがいかなる形態をとるかによって、いくつかの文化を区別することが出来るだろう。以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、 (1) コード化−原始共同体、(2) 超コード化−古代専制国家、(3) 脱コード化−近代資本制の三段階の定式化を行うことにする。]
(浅田彰「構造と力」)
このように柄谷「交換様式論」は、自分で真似をしたことをほぼ認めているだけあって、よく似ているわけだが、
「錯乱せる自然としての人間的自然を矯めようとする力とそれに反発する力の織り成すドラマである」
柄谷説では、「原遊動性U」の段階について、この「錯乱する自然」という認識がない。
「アンチ・オイディプス」で「コード」というのは、欲望の流れのコードだから、
いうなれば原初の「カオス」のような何かを想定しないことには、
そもそも話が始まらないものだろう。 ヘーゲルによれば、それ自体が個人であるような自己意識の本質は欲望であり、
その欲望とはすなわち生きようとする衝動であった。
それが、人間は、生まれながらの理性的存在者ではなく、
「錯乱する自然」を抱えた存在者だ、ということになれば、
まずは「錯乱する自然」であるような欲望が「コード化」されなければ、集団で生活することはできないということになる。 柄谷行人「交換様式論入門」
【それに関して、私はフロイトの理論を参照します。といっても、それは、彼
が『トーテムとタブー』で書いたこととは異なります。そこでは、彼は、未開
社会を「兄弟同盟」たらしめた原理を、兄弟による「原父殺し」から説明しよ
うとしました。しかし、「原父」は、ダーウィンがゴリラ社会などから想定した
仮説であり、また、国家の段階で成立した家父長制を太古に投射したものにす
ぎません。フロイトの仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論で
す。
死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体
を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対
立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるも
う一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイ
ト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関
してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」
にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が
発生する。
そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先
ず攻撃性として外に向けられる。が、フロイト的にいえば、それが内に向けら
れるとき、超自我として自らの攻撃性を規制するものとなる。贈与の互酬交換
はそのようなものとしてあらわれた、といえます。人は贈与しなければならな
い、贈与を受け取らねばならない、贈与にお返ししなければならない。その場
合、贈与された物に付着した霊的なものが、人々を強制するように見えます。
しかし、Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。それが、階級や国家の発生を阻止
する観念的な力として働いたのです。】 「「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動」
「定住によって失われた Uの回帰」
つまり、「無機的状態」を取り戻そうとするような「反復強迫」によって
交換様式Aが生じるというのだ。
すると、原遊動性Uというのは、「無機的状態」(すなわちフロイトの言葉だと「涅槃(ニルヴァーナ)であって、
文明または文化というものが存在しないというわけなのであるが、
ところが狩猟採集遊動民は、その祖先を祀りながら和気あいあいとバンド生活を維持しているというのだから、
何が何だかわからないのである。 1,ホッブス「万人の万人に対する闘争」
2,モーガン「原始乱婚制」
マルクス=エンゲルス、フロイト、と同様、
ドゥルーズ=ガタリにしても、この1,2を踏まえた論を展開している。
柄谷行人にしても、Uについて「無機的状態」だというときには、
本当ならばおなじはずなのだが、しかし、なにやらユートピアであったかのようにいいたがって、
話の筋を変なつじつまの合わないほうにもっていこうとする。 「ある日、追放された兄弟は力をあわせて父親を殺害して食べてしまい、こうして父親の群れを滅ぼした。彼らはいっしょになって、単独では不可能だったことをあえて成しとげた。
おそらくあたらしい武器の使用のような文化におけるある進歩が、彼らに優越感を与えたからだろう。これらの人喰い人種は当然のことながら彼らが殺したものを食べてしまった。この乱暴な原初の父親は、確かに、兄弟たち各人にとってうらやみ恐るべき模範だった。
そこで彼らは、父親を食べることによって彼との同一化を成しとげ、それぞれ父親の強さの一部分を得た。トーテム饗宴は、たぶん人類最初の祭儀だろうが、この重大な……行為の……反復であり、記念なのである」
(フロイト「トーテムとタブー」)
トーテムというのは、氏神の一種である。 ブリタニカ国際百科事典
氏族神
氏族の守護神。共通の祖先が神格化した場合が多いが,動植物を祖先と考えるトーテム信仰であることもあり,また祖先とまったく関係のない神が共同に祀られることもある [超自我の発生と共に、自我の内部にかなりの量の攻撃欲動が固着し、内界で自己破壊的に作用する。
この状況こそは、人類が文明発達の途上において、身に受ける健康上の危険の一つである。
攻撃性を抑制することは一般に不健康であり、病気を惹起するように(有害に)作用するからである。
人間は外界に解放することを妨害された攻撃性の変形を、自己自身に攻撃性を向け換えることによる自己破壊の形で表現する。】
(フロイト「精神分析概説」)
[私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論で
す]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
[フロイトは外部に向けられた攻撃性が自己に向かって内部に向け直されるものとして超自我を見るようになった]
(柄谷行人『世界史の構造』) ハイデッカーとやや似てるね。哲学を持たない国ドイツ。 神秘ズム ハイデッカーの 道具を呪い魔術祈祷の木簡たるパソコンとみて。 夏目が神経症とか、そんなん見たけど自己顕示欲が強い自我肥大した醜い文才の男性だ。 マルクーゼの「エロス的文明」では、生命の原初の状態を回復しようとする衝動のことを「欲動」と呼んでいる。ちょっとこみいっているのは、生命の自己保存的傾向は、生命体の発展とは対立するということで、それゆえ、その自己保存的傾向には、無機的状態への退行への傾きが内在しており、それゆえ、いわば二つの相矛盾した方向性を内実としてもっているということだろう(前期フロイト的なのか?)。その無機的状態への退行への傾きが「死の欲動」、発展への傾きのほうは「生の欲動」と呼ばれるということである。マルクーゼは、この二つの欲動の相克によって文明がもたらされるのだ、とフロイトは考えていたという。
そして、マルクーゼの「文明論」において主として問題にされていたのは、 死の欲動と生の欲動の組織化である。死の欲動の組織化として破壊の禁止、生の欲動の組織化として多様な性欲及び性行動の禁止、これらが人類文明を成立させる二つの要因である。この欲動の二つの面の組織化は、政治・経済的な支配関係の存続のために人間労働の在り方を再生産するとされる。
マルクーゼがいうには、この過剰な生の欲動の組織化を脱することこそが、「解放」だということである。この考え方は、1960年代の左翼運動に絶大な影響を与えたカリスマ的思想家の考えということもあって、ドウルーズやフーコーなどにしてもかなり感化されていたと思う。
「タナトスはエロスの残骸の上に立っている」(ドゥルーズ「差異と反復」)
しかし、マルクーゼの場合は、流行思想家の軽薄な説という面もあるかもしれないが、
柄谷行人のテキトウさとは違い、ちゃんと理論の筋道は通っていた。 [文化が多少とも安定した構造として存立するためには(中略)何らかのメカニズムが必要である」
(浅田彰「構造と力」)
マルクーゼは、文化が安定した構造として存立するための何らかのメカニズム
これに関して一応論じている。
しかし、われらが柄谷行人は
「原遊動性U」の段階は、無機的状態だといいながら、
しかし、狩猟採集遊動民のバンド(「文化が安定した構造」をもったもの)だ
とわけのわからないことを言っている。 文学界 (2022年 10月号)
特集「もうひとつの芸術史」/講演 柄谷行人「資本主義のゆくえ」
乗るらしい。 論述にもなっていないメモ、誰も読んでないから自分の日記で書いてほしいね
死ぬほど暇なんだろうけど 現人神神を秘匿する神秘じゃないけど禁治産者というのもある、
天皇家や宮家、などがお書きになったものでないと。 明治高校(廃【神】校)朝の会は明の朝廷。煬帝の容体を知らずしてTDL浦安
は語れない。 そうだよ代ゼミ偏差値。早慶ばかりじゃない。あの値。看護の上。 技芸科ってとこがおすすめだ。工芸建築。ボールユニ。 一応レインボーブリッジ虹がかかって演習でノーベル文学賞体験したし。
パラノイアニュースな。 宗教オカルト悪魔召喚など、新体和歌運動してる。文学運動ね。 752
×前期
〇中期(1920年「快感原則の彼岸」) [ところが、父系や母系といった系列が意味をもたない親族制がある。それが双系制です。
もともと遊動民のバンド社会では、母系も父系もない。その意味で、双系制には古い形態が残っていると思います。
双系制ではむしろ、血縁関係がなくても構わない。つまり、養子でもいいし、年齢や性別も問わない。
家に何らかの関係がある者は皆、先祖になる、というのが、柳田のいう固有信仰ですね]。
(柄谷行人「『想像ラジオ』と『遊動論』 いとうせいこうとの対談)
柳田国男の「山人」は、台湾先住民(台湾では原住民というらしい)のイメージだということはよくいわれる。
むかしは「高砂族」というふうに一括りにされたその先住民のうち、
柄谷行人の言う「固有信仰」にもっともちかい信仰形態をもっているのは、しらべたところ、
サオ族であった。サオ族のバンド的な集団が比較的出入り自由なところも
「遊動論」のイメージに一致している。
しかし、柄谷にとって都合が悪い事?に、サオ族の社会は双系ではなく父系で、当然氏族社会である。 また、サオ族社会には、柄谷行人の言う交換様式Aの互酬、交換様式Bの再配分、
これはとうぜんサオ族社会にはあったし、
インセズトタブーはもちろんあり、婚姻にかかわる規則もあった。 サオ族には、「爐主」という制度があるということだ。
それは他所からきた嫁・婿を、「祖霊認同」の内部の人にするための儀式によるものだという。
その儀式で霊魂をいわば変換し、嫁・婿にも
いわば擬制的なキンシップを生じさせることで家族の一員とし、
それらの死後に祖霊に一体化する地位を与えるということである。 [経済状態が原因で、それだけが能動的で、他のものはみな受動的な結果に過ぎないと言うのではない。]
(エンゲルス)
エンゲルスは↑のように言うのだが、
wiki
法と経済学(ほうとけいざいがく、英: law and economics)とは、経済学のうち、特にミクロ経済学・ゲーム理論の観点および手法を利用して法的理論を分析、再解釈する学問である、また近年では統計・計量経済学を用いた分析も行われている。近接する分野として契約理論がある。
マルクス・エンゲルス主義とは、その主張するところが正反対であるかのように思われている法と経済学が、
ところが、上部構造である法システムは土台(下部構造)である経済システムによって一義的に決定されるべきだ、そうでない場合は誤りがあるということだ、
というかのようなべき論的教条的史的唯物論を唱えているのだろうか。 >>772
サオ族というのはつまり陰茎崇拝で、当然父系社会である 台湾のサオ族とか、思想の現代的な課題に何か関係あるの? >>779
柄谷行人が原遊動民だという柳田国男の「山人」に最も近い文化をもつ台湾原住民がサオ族。
「人類が狩猟採集遊動民であった段階では、(交換様式)B・Cだけでなく、Aも存在しなかった。そこでは、生産物は均等に分配されたと見てよいでしょう。遊動しているため、蓄積することができないからです。遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかった。このような状態を、私は原遊動性Uと名づけます。(中略)
(自由で平等な社会のあり方としての交換様式)DはAの回帰ではなく、Uの回帰です。したがって、それは過去ではなく、未来を志向します。とはいえ、それは人間の願望や空想とは異なり、反復強迫的なものです。Dがもたらすのは、A・B・C がもつ「力」への様々な対抗の可能性です。それは最初に宗教のレベルであらわれたと述べましたが、それは宗教に限定されない。文学においても、哲学においてもあらわれます。」
(柄谷行人「交換様式論入門」) 775で述べた「爐主制度と「祖霊認同」の制度のある」祖霊信仰のあり方、
擬制的なキンシップを付与することができるので
バンドの成員の出入りがあるていど自由であること、
この点で、台湾原住民の九つの部族のうちでは、
サオ族がもっとも柄谷行人のいう「山人」にちかいと思われる。
なお、柳田国男のいう「山人」が、台湾原住民にイメージだということは、
ほぼ通説だといえる。 「この山人についての推測はさきにも触れたことのある台湾原住民が漢民族によって山地に逐いたてられた事例から類推して、この当時公刊された『台湾旧慣調査報告書』による比較研究が基となっている発想であった」
(中村哲「田園への愛慕」) >>783
柳田国男のいう「山人」は、サンカのイメージだから、ヨーロッパのロマなんかの方が近いんじじゃないの?
もちろん、他にもいろいろいるけど、概して未開部族ではなく放浪の民。
部族の発展形態ではなく、様々な理由で部族から追放された人々。
ちなみに原遊動民というのは、吉本が使っていた大衆の原像にヒントを得た発想だろうから、実際の人々のことではなくて、抽象的な概念像じゃないの? そういうことは何に書いてあるのか、
それをいってください。
中村哲は、柳田の家にしょっちゅう行っていた教え子だ。 柄谷行人は「原遊動性U」の社会を、歴史的段階として語っている。
「定住がもたらす社会の葛藤 遊動論 柳田国男と山人」
柄谷行人
一番最初の未開社会の構造を「原遊動性」と呼んでいますが、柳田の「山人」はヒントになりました。柳田の「山人」とは「原遊動民」なんだと。(中略)
忘れられた原遊動民の平等な社会
ノマドとも呼ばれる遊動民には遊牧民や山地民が含まれますが、彼らは原遊動民とは違います。彼らはしばしば定住社会に侵入し、国家を作りました。80年代のバブル時代にも「ノマドロジー」という思想が流行しましたが、結局、国家や資本を補完し、グローバリズムを拡大しました。これでは国家や資本を超えられない。
国家という枠組みができると、必ず戦争などの葛藤を生みます。現代社会は資本と国家が密接に絡み、経済格差や差別を生み、権力や富の不平等が当たり前になる。それを克服するには、定住以前の社会の形、国家ができる以前の状態を考える必要があります。
>>788
原始共産制の焼き直しだな。
遊動(漂泊)と定住を組み替えてる。
過去に妄想を抱くのも未来に妄想を抱くのも、どちらも妄想に過ぎないかも。
柄谷は吉本を追いかけて行くけど、いつもあらぬ方向に追いかけて行くように見える。 >>789
じゃあ、それでいいじゃない。
国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで、部族成立前の山人に求めたのが柳田。
エンゲルスもレヴィ=ストロースも吉本も、国家の成立根拠を家族の変容に求めている。
山人(遊動民)を国家の起原とするのはかなり無理がある。 理論上は、「遊動民を国家の起源とする」ということには、それほどむりはない。
仮説としてはおかしいくない。
ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」も凡そそういう説である。
柄谷行人の場合は、原遊動民の社会には互酬交換も再配分もなかった、
といったり、原遊動民の社会を氏族社会ではないといいながら氏神を祀っていたといったり、
外婚制によって親族が形成されるといいながらインセストタブーについては無視したり、
とにかく学問的にはテキトーすぎることが問題なのだ。 「千のプラトー」では、原始社会から国家装置への移行に関して、
おおざっぱには次のようなものだとしていた。
交換のアジャンスマンである原始社会は元来、
蓄積のアジャンスマンである国家装置をいわば先取りしたものでありながら、
どうじに国歌装置となることを回避するものである。
そうした原始社会は限界内に留まる限りは国家装置にならないのだが、
しかし、それが何かのきっかけでもって閾を超えることで
国家装置に移行するということだった。 >>792
千のプラトーにはまったく実証性がないよ?
言葉の使い方が変なだけの、思いつきを羅列しただけの書。
エンゲルス(モーガン)やレヴィ=ストロースのフィールドワークによる実証とも、吉本やヘーゲルのような強烈な論理とも無縁だから、論の補強にはまったく役に立たない。 ≫エンゲルス(モーガン)やレヴィ=ストロースのフィールドワークによる実証
これらの説にしても、ドゥルーズ=ガタリとおなじく、
狩猟採集遊動民の社会が国家装置のもとだ。
ただし、その狩猟採集遊動の社会は、柄谷説の交換様式Aの段階の社会である。
柄谷行人が言う「原遊動性U」というのは、その前段階ということで、
互酬もなければ再配分もなく、ときに親族構造もないかのような(柄谷はあるといってみたりないといってみたりしている)
SFとしても成り立たないような社会(非社会)を想定するからおかしいのだ。 wiki 原始共産制
原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない. >>795
国家というのは観念的な存在。
ヘーゲルもマルクスもエンゲルスもレヴィ=ストロースも吉本も、それを追求している。
だから、国家の成立を家族の変容(拡大)として捉えている。
ドゥルーズは、レーニンの実用的国家観をパクっているので国家の成立や本質とは無縁の議論をしている。 ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」
(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に 完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。 ドゥルーズ本人は、
「『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に 完全に貫かれた作品です」
このように言っている。
その本人の理解は誤りだ、というのならば、どこがどうちがうのか、
それを指摘すればよい。 地獄天国あれかこれかの千のプラトー。地獄の肉食だろ。
しかし天国も検証しろ。
哲学とはなにかは文学とは如何の参考にしている。何太后。
歴史シミュレーション三国志。
まあ文学者でも宰相暗殺のような軍師策略力がいるが。
こいつはクリアしてる。 しかしアンチオイディプスは駄作甘い。精神分裂病にほとんど触れていない。 悪霊というとアンナフロイトの躁鬱は統合失調症圏。霊能者&ロ愛子じゃないが。 在るかないかの違いだろう。ドイツのほうがない。日本は在る。
伊勢物語な。在原業平。ケルトソフォクレスは無いほう。 ジークムントのやり方やキリストのやり方ではだめだ。
マリアかアンナにした方がイイ。旧約や神話を読んでみよう。 追い出すでは悪霊が理解できない。下級を解放では粘られる。 >>799
ドゥルーズのマルクス理解は一般的な解説本から得ているから、基本的にレーニン・スターリン主義としての理解。
国家観もそのひとつで、国家の本質である観念性を全く理解できていない。
暴力装置としての国家という、表面的な組織体の議論にしかなっていない。 ちなみに、ドゥルーズのフロイト理解も極めて通俗的。
ドゥルーズは哲学史の教師らしく、解説本だのみの理解にとどまっている。
それが逆に、一部の哲学愛好家に受けたともいえる。 ドゥルーズは、………このように書いているが
ほんらいは………である。
というように、具体的に書かなければ、だめだろう。 フロイトの批判的援用に関してはガタリ主導だろう
マルクス理解が解説本の受け売りというのもよく分からん
ドゥルーズ本人の言を真に受けているだけのやつもよく分からんけど
中途半端なバカ同士の全く実のない会話 707からずっと書いている。
どこがどう指摘してもらわなければ、しょうがない。 >>810
本人が言っていることを前提にしなければ話が始まらないわけだ。
それを、実は真意でない、といいたいような場合は、
本人のべつの異なる内容のコメントを引用するとかしなければいけないだろう。 ジル・ドゥルーズ「思い出すこと」
(聞き手:ディディエ・エリボン、鈴木秀亘訳、『批評空間』誌第II期第9号、太田出版)
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はマルクスに、マルクス主義に 完全に貫かれた作品です。現在私は、自分を完全にマルクス主義者だと考えています。 >>814
自分で読めよ。
法の哲学、ドイツイデオロギーの国家についての部分、家族・私有財産・国家の起源、親族の基本構造、共同幻想論ぐらいをざっとでもいいから目を通しておかないといけない。
マルクスを少し深く読むなら、資本論も外せない。
その上で、ドゥルーズを読めば、どれほど通俗的なのかすぐわかるよ。 >>815
そんなにいうのだから、どこがどう通俗的なのか、
一つか二つくらいは具体例を挙げられるだろう。 >>816
精神分析入門も読んどきなよ。
そういうものを踏まえてドゥルーズを読まないと、通俗的であるかないかの前に、ドゥルーズがなにを書いているかわからないだろ? ドゥルーズの本に書いてあることが、
どこがどう通俗的なのか、
一つか二つくらい具体例を挙げたらいいのではないですか。 >>818
オイディプスは、まさに観念論的な転回点なのだ。ところが、精神分析が欲望的生産を無視し始めたということはできない。
欲望の経済学の基本的な概念である労働と備給は、あいかわらず重要である。しかし、この二つの概念は無意識の表現的形態に従属し、もはや生産的無意識の組織体にかかわらない。
『アンチ・オイディプス』(河出文庫p.99)
フロイトとマルクス理解の通俗性が一緒に出てきてる。 ≫フロイトとマルクス理解の通俗性が一緒に出てきてる。
これが通俗的だといったところで、
自分が通俗的ではないことを書かなければしょうがないでしょう。 >>820
だから、マルクスやフロイトを読めと言ってる。
俺の理解を聞いてどうするんだよw フロイトは…のように言っており、
マルクスは…のように言っている。
ところが、ドゥルーズ=ガタリの言うことは、…であって、それは通俗的だ、
というふうにしなければ、しょうがないわけですよ。 >>822
だ、か、ら、自分で読め。
君が読んでからじゃないと、話にならないw ネタ元を読みもしないで、他人の感想を妄信したりする人が柄谷読者には多いのかね?
柄谷スレではそんな感想を持ってしまうことが多い。 >>630
それ以下のフロイトの著書からの引用は、
全部私の書き込みなのですけれど。 >>824
雑談スレで、構造主義について
電車がどうこうとかいう喩えをした人でしょう。 >>825
オイディプスの話だから、精神分析入門だよ。
そもそも、超自我なんて曖昧な概念だから、気をつけないとたんなる自己破壊の本能みたいに扱われることになる。 フロイトは…のように言っており、
マルクスは…のように言っている。
ところが、ドゥルーズ=ガタリの言うことは、…であって、それは通俗的だ、
というふうにしなければ、しょうがないわけですよ。
ここは5ちゃんねるだから、↑のようなことは一切できずに、
いかにも5ちゃんねるにありがちな中傷を繰り返す、
というのは当たり前ではあるな。 >>745
これはフロイト本人がエディプス・コンプレックスに関する自説の応用だと言っているものだ。
「ある日、追放された兄弟は力をあわせて父親を殺害して食べてしまい、こうして父親の群れを滅ぼした。彼らはいっしょになって、単独では不可能だったことをあえて成しとげた。
おそらくあたらしい武器の使用のような文化におけるある進歩が、彼らに優越感を与えたからだろう。これらの人喰い人種は当然のことながら彼らが殺したものを食べてしまった。この乱暴な原初の父親は、確かに、兄弟たち各人にとってうらやみ恐るべき模範だった。
そこで彼らは、父親を食べることによって彼との同一化を成しとげ、それぞれ父親の強さの一部分を得た。トーテム饗宴は、たぶん人類最初の祭儀だろうが、この重大な……行為の……反復であり、記念なのである」
(フロイト「トーテムとタブー」) >>829
くだらない奴だなw
君が読んでないのに、俺がなにを書いてもまったく意味がない。
せめて、君が読んだという精神分析概説に対する僕の批判に反批判でもしてみたらどうか? >>830
フロイトはこのあたりから個人(家族)の問題を無限定に社会(集団)に広げてしまう。
それもまた、自身による通俗化ではある。
家族、市民社会、国家はそれぞれ別の考察と理論が必要なのは、すでにヘーゲルが指摘しているところ。
わかりやすいのは吉本隆明の諸論考。 >>827
エディプス・コンプレックスの話は、フロイトの著書にはずっと出てくるわけですよ。
エディプス・コンプレックスに支配されている性的な発展段階においては、もっとも一般的な帰結として自我の中に〈沈殿〉が起こると想定できる。この〈沈殿〉はなんらかの形で、二つの同一化が結びついて生み出されるものである。この自我の変化は特別な地位を保持するものであり、自我理想または超自我となる。これは自我の他の要素と対立するものである]
(フロイト「自我とエス」) ≫フロイトはこのあたりから個人(家族)の問題を無限定に社会(集団)に広げてしまう。
「トーテムとタブー」は「精神分析入門」よりも前に出た論考である。
『トーテムとタブー』(Totem und Tabu)、1913年
『ナルシシズム論』(Zur Einführung des Narzißmus)、1914年
『欲動とその運命』(Triebe und Triebschicksale)、1915年
『抑圧』(Die Verdrängung)、1915年
『戦争と死に関する時評』(Zeitgemässes über Krieg und Tod)、1915年
『精神分析入門』(Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse)、1917年 >>833
もう一つ指摘しておくけど、フロイトの自我もエスもあいまいな概念。
エスは自身で取り下げてる。
エディプス・コンプレックスは精神分析入門にとどめるべきで、その概念の拡大は通俗性をはらんでしまう。 >>834
出版の順番の問題じゃないよw
思考の順番の問題。 ≫もう一つ指摘しておくけど、フロイトの自我もエスもあいまいな概念。
≫エスは自身で取り下げてる
何を言っているのかね。
「エスの力は個々の人間に固有な生活上の志向を表現している。その生活上の志向とはその人が持って生まれた要求を充足することにある。ところで、エスには寿命を保ったり、不安によって危険を防衛したりする目的はない。この任務は自我が果たしている。自我は外界を顧慮して、満足を得るのに最も好都合で最も危険のない方法を捜し出すのである。超自我は新しい要求を主張することがあるかもしれない。しかし超自我の主要な仕事は、エス及び自我とは反対にむしろ本能満足を制限することにある。」
(フロイト「精神分析概説」1940年) ≫国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで、部族成立前の山人に求めたのが柳田。
≫山人(遊動民)を国家の起原とするのはかなり無理がある。
エンゲルスの説でも原始共産制は遊動民の社会のものだ。
なんでこういう異常なのが出てきて、おかしな書き込みをするのか。
wiki 原始共産制
原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない. >>837
精神分析入門も読まずに、一つの著作でなに断定してるんだよw >>838
エンゲルスが使った原始共産制は、国家の成立や本質ではなく、国家の成立の根拠である乱婚がなぜ成立したのかの説明だよ。
ネタ元を読まずにレスするな。 Wo Es war, soll Ich werden
こういうのはフロイトのもっとも有名な言の一つだ。
ラカン派などは盛んに引用していたこれを、
ドゥルーズは気に食わないという。ことにsoll というのが気に食わないというのだ。 Lacanian Works
Comments on Mr Hesnard’s presentation – Reflections on Sigmund Freud’s “Wo Es war; soll Ich werden” : 6th November 1956 : Jacques Lacan 原始乱婚制から原始共産制を推定するというエンゲルスの考え方に
柄谷行人はいがいと忠実なのではないか。
柄谷は、原遊動性Uの段階には、婚姻規則がなかった、
とはっきりとはいわないが、婚姻規則についてまるで度外視している、あるいは、あきらかに論及を避けている、
そうしたことから、
言外の乱婚制制説をとっているといえる。 >>843
国家の本質を観念(幻想)と見るか実体と見るかの違いだから、婚姻規則などなんの関係もない。
家族が観念的に拡大して国家となるというのが、(柄谷以外の)各氏共通の前提。
想定される家族の拡大の根拠を、それぞれ、乱婚、交叉いとこ婚、姉弟の対幻想、に求めているということ。
国家の成立を語りたいなら、紹介した本ぐらい読んでおけよ。 レヴィ=ストロースの場合は、平行いとこと交叉いとこは、
親等が同じなのに、片方との婚姻のみが禁止とされることに着目し
婚姻タブーに生物学的根拠がないことの証左だとしたのだ。
≫想定される家族の拡大の根拠を、それぞれ、乱婚、交叉いとこ婚、姉弟の対幻想、
≫に求めているということ。
レヴィ=ストロースは、交叉いとこ婚が「家族の拡大の根拠」なんてことは言っていない。
スレッド住民が増えるのはいいんだが、それでもデタラメ書くだけの人では意味がない。 エンゲルスの場合は、私有財産の実子への財産の継承のために、母系制の集団婚から父系制の対偶婚へと婚姻制度が変化したというのだ。
「乱婚(無規律性交)→血族婚→プナルア婚→集団婚→対偶婚→父系制単婚」こういう順番で、私有財産制度の確立と富の拡大にともなって
父系制社会への移行したというのだ。
だから、
≫想定される家族の拡大の根拠…乱婚
なんていうのも、わけの分からないことである。 >>845
レヴィ=ストロース交際いとこ婚が国家成立の根拠といってるんだよ。
デタラメはどっちだ?w >>846
エンゲルスの国家の起原というのは、家族が乱婚によって拡大するという論理。
家族の拡大がそのまま大きくなって国家となるというもの。
乱婚の時の”嫉妬”は無いのかという疑問に対して、原始共産制では私有財産が無いから”嫉妬”もまた起きない、という説明。
とにかく解説本を頼みにせずに、自分で読め。 >>847
× レヴィ=ストロース交際いとこ婚が
〇 レヴィ=ストロースは交叉いとこ婚が レヴィ=ストロースの場合は、婚姻は女の交換という説だから、
平行いとこは父系氏族内婚の限定交換で、
交叉いとこ婚は族外婚の一般交換、
そういう違いはある。
テクストの関連するところを引用するとかして書きこんでくれないですか。 交叉いとこ婚をすることではなく、並行いとこ婚の禁止が問題なのですよ。
交叉いとこ婚をする社会でも、交叉いとことだけ婚姻関係を結ぶわけではない。
相手が遠縁や他人のケースもあるのだ。
ようするに、並行いとこ婚をインセストだと認識しているということが重要なのです。
インデスとタブーの存在が、家族(または親族)集団の成立根拠だというならば、それはそのとおりだが、
しかし名無しさんの書き込みの内容はそういうことではないだろう。 だいたい、乱婚制というのは、婚姻制度がなく,どの異性とでも性的交渉をもてる ということだ。
しかし、レビ=ストロースは、インセストタブー によって文化が成立し。親族構造が形成されるという。
これは婚姻関係が人間社会の成立の基礎だということである。
≫国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで
レヴィ=ストロースの考えは、名無しさんのいう↑のようなこととは、まるで逆なのです。 853の訂正
×≫国家の成立根拠を原始共産制に求めたのがエンゲルスで
〇≫エンゲルスの国家の起原というのは、家族が乱婚によって拡大するという論理。 >>853
そんなことは国家の成立になんの関係もない。
ちなみに、乱婚自体に人間社会としての問題があるなら、婚姻制度も確立していた、日本の平安貴族の非常に狭い範囲での乱婚の説明がつかない。
レヴィ=ストロースなどの乱婚や近親相姦の否定をもとに組み立てる論理は、どうしても宗教的な色合いが抜けない。
初期国家の成立が家族の拡大だという諸氏の論点の中では、乱婚による家族の拡大という視点が一番適切だろう。 柄谷と浅田彰が共同編集していた「批評空間」の発行元の福武書店と統一教会との関係が
噂されているが、もしそれが本当ならば、批評空間でデビューした東浩紀が統一教会を擁
護したのは、東の正直さが出てしまっただけだったのか。
柄谷のNAMと統一教会の関係にもマスコミは注目すべきような。 1993年の柳美里の文芸誌デビュー作「石に泳ぐ魚」(1994年9月号「新潮」)の同年の僅か数か月後に
柳は文壇バー「風花」で柄谷の子分絓秀実と偶然出会い、彼から顔や頭を触れるなどのセクハラを受けて
トラブルになっている。その彼女のデビュー作に登場するカルト団体は統一教会だったのではという噂だ
が、絓秀実が批評空間の同人でもあり、NAMにも参加してたことからして、このトラブルと柄谷や統一教
会との関係が疑われておかしくない。さらに批評空間の重要な寄稿者だった蓮實重彦は「石に泳ぐ魚」を
激しくこき下ろしている。絓秀実と蓮實の関係も非常に密接なものだ。
批評空間と統一教会がズブズブだったのか、興味ある人はかなりいるだろ。 柄谷行人のグループは、左翼のポーズをとりながら
まじめな左翼的な活動をしている人たちの足を引っ張るということをずっとやってきている。
統一教会と仲がよかたっとしても、それほどふしぎではない。 「まじめな左翼的な活動をしている人たち」て誰のこと?
名前を出さないと分からないよ。 >>861
そのものずばりを言うのは難しいので、取り敢えず、
柄谷を好みそうな党派を挙げると、ブントや革マルの
連中ではないか。
彼ら以外の中に真面目な左翼はきっといるだろ。
柄谷の話し方が特にスタイリッシュで、軽薄な意味のファン読者を
引き付けるというのがあると思う。それが柄谷カルトの秘密ではな
いか?
そういう人物には大衆操作の道具として使えるメリットがあるので
統一教会が目を付けてもおかしくない。柄谷の談話がそのまま活字になったことがあって、その時に柄谷は
激怒したらしいが、テープの文字起こしに柄谷が手を入れてスタイ
リッシュな物言いにすることが柄谷的に絶対に必要だったのではな
いか?。 実践より理論中心
何かやっても学級会さながらちょっと揉めて終わり
実家は大金持ち
どうにもならんね >>864
そういう生活が一番いいね。
マルクスさんだって言ってるじゃない。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。食後には議論を。」 海運の貨物の殆どがコンテナ化されてしまって、そろそろコンテナ化から、バラ荷化への
逆戻り現象が始まったのがここ数年の現象。
海運のコンテナ化が貿易貨物の輸出輸入の相互性を強めたことは間違いないだろう。そし
て、それによって相乗的に貿易量は増えて行ったが、これも頭打ちになりそうだ。
何万個もの荷物入りコンテナを中国からアメリカ西海岸まで運んできたのを、中国へ返す
際の帰り荷の確保は困難さが極限に達し、ついに帰り荷ゼロが通常化。
お隣りへのお裾分けの場合、器ごと持ってきたら、器に何かを載せて返すのが礼儀とされ
たが、その習慣も廃れ、香典返しの習慣も廃れたというが。
>>866
統一教会の信者やNAMの元会員は買うだろうな。 >>867
儀礼への返答品は半額が基本だから、そもそも互酬にならないね。 >>868
儀礼自体の相互性があって、香典を渡した側の人間が亡くなった時に、
前に香典をもらった側はその時の香典額を記憶していて、同額の香典を
返すというのはあると思う。
そういう香典額をよく記憶したり、香典額を書いた香典袋をきちんと保
管するのが昔の主婦の役目ではないか? >>869
なるほど。
香典返しなどではなく、次に相手に渡す香典か。
葬儀にしろ結婚にしろ、そんなにうまく同数にはならないけどね。
そもそも儀礼の贈答は、その時の付き合いの深さによるものだから、縁が薄ければ(たとえば会社の同僚などは)その時一回限りということも珍しくない。
長期間縁が続く地方の親戚などでは互酬にもなるだろうが、短期間の縁で終わる会社の同僚(利益共同体)では互酬にはならない。
互酬は社会的な一般性を持たないのではないだろうか? >>870
>>葬儀にしろ結婚にしろ、そんなにうまく同数にはならないけどね。
俺の母は昔の家計簿や香典袋を律儀に保管してて、それをよく見てから、
夫の同僚関係の香典とかは決めてたよw
そして大体は精確に額を記憶していた。
俺の母だけでなく、親戚や父の昔の同僚関係の家族の顔なども夫よりも正
確に記憶していたのが、昔の女ではないか?
葬儀があると、どこの老夫婦でも「あれは30年前におとうさん(義父)の
葬式の時に来られたあなたの従兄弟の息子さんよ、子供の頃の面影が残っ
てるわ。」夫「お前、そんなことまでよく覚えてるな!」とか、やってた。 >>871
親戚づきあいが女中心になるのは、昔は女が家庭にいたから、というそれだけの理由。
でも、そんなことが互酬の基礎になるなら、互酬概念自体無意味じゃないの?
そういう時代に権力を持つ(振るう)のは男だから。 話は飛ぶけど、NHKで「鎌倉殿の13人」というドラマをやってる。
吾妻鑑をベースに書かれた脚本で、女たちが政治の方向すら動かしている。
そして、北条政子が政治の中心になるわけだが、そこには互酬など影も形もない。
某映画のセリフじゃないが「所詮は利害の関係」だ。
ちなみに、承久の乱で北条が天皇支配を打ち破ったわけだが、それでも天皇制は維持した。
WW2後のアメリカ支配を彷彿とさせる。 放送も電気や水道と同じように使った分だけ払う仕組みにするべきでしょ 09/17 12時49壺 人類史初期の狩猟採集社会には、富の余剰がなく、
階級支配もない。食物や衣服などが共有される共産主義的な社会であった、
というのが、エンゲルスの言う「原始共産制」である。
富の余剰がない、というのは、ようは生産力が低く、
「階級支配もない」とうのは、その生産力と生産関係にみあった
社会のありかただったということである。
柄谷行人「交換様式論入門」
「未開社会において、互酬交換が社会構成体を形成する原理であったことは疑 いがありません。しかし、それは最初からあったのではない。人類が狩猟採集 遊動民であった段階では、B・C だけでなく、Aも存在しなかった。そこでは、 生産物は均等に分配されたと見てよいでしょう。遊動しているため、蓄積する ことができないからです。(中略)このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。 その状況が変わったのは、グローバルな気候変動のために、彼らが各地で定住し始めてからです。以後、集団の中に、対人的な葛藤、富の格差が生じるようになった。」
柄谷が言うのは、定住によって生産力があがったことにより
「支配」のある社会がしょうじた、ということなのだから、
エンゲルスの「生産様式論」による説明そのままではないのか。
交換様式が変化をその原因として人類は定住するようになり、
…そして「支配」のある社会がしょうじた、
といえば「交換様式論」による説明と言えるだろうけれども、
柄谷行人はそのような論法はとっていない。 >>858
スガは元からセクハラガイジだから
女性の前で「do you like sex?」と連呼するジジイ
重力02の角田光代のエッセイに書いてある >>880
スガのセクハラは自分がセックスするのが目的じゃないところが微妙なんだよな。 柄谷行人の「交換様式論」では、人類は農耕牧畜ははじめてから定住をするようになり、
その結果、生産力の増大し、階級支配がしょうじた、という通俗的な「新石器革命」説を否定して、住のほうが農耕牧畜に先立つといういわゆる「定住革命」説をとっている。
そして、柄谷は、そのような「新石器革命」説は、マルクス・エンゲルス主義的な「生産様式論」の考え方によるものだというのである。
しかし、エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」においては、柄谷がいうような通俗的な「新石器革命」説が唱えられているものではない。
大雑把に言うと、エンゲルスは、人類は土器の製作に象徴されるような新たな技術を取得し、そして、素朴な住居をしつらえて定住生活をするという中間段階を経たうえで、初期的な農耕牧畜段階の文明へ移行する、としているのである。 池谷和信「人類にとって定住化とは何か」
国立民俗博物館 民博通信
「熱帯に暮らす狩猟採集民の環境史研究のなかで、人類の定
住化という事象を無視することはできない。これまでの研究
では、先史時代における熱帯の狩猟採集民は遊動民(ノマド)
であったことが広く知られている(池谷 2014)。これは、中
緯度や高緯度の狩猟民にも当てはまることである。また、西
アジアのような中緯度に暮らす狩猟民が定住化した後に、農
耕や牧畜を開始したといわれる。これは、人類の歴史のなか
では「農業革命」といわれ、その後の人類の社会に影響を与
えてきた。」
「狩猟民が定住化した後に、農
耕や牧畜を開始したといわれる。これは、人類の歴史のなか
では「農業革命」といわれ、」
このように池谷氏のような専門家も、
定住化の後に農耕牧畜がはじまったといい、
それを「農業革命」と呼んでいる。 世界史の窓
「打製石器、骨角器を主な道具として狩猟採集生活を送り、獲得経済にとどまっていた人類が、穀類や根菜類を栽培し、家畜を飼育して食糧を生産する農耕・牧畜という生産経済に移行した。その変化は磨製石器と土器の出現となって現れており、この新しい文化を旧石器文化に対して新石器文化という。また、狩猟採集生活を基本とした旧石器時代に対して、新石器時代という。
その変化は、約紀元前7000年紀のメソポタミア文明に始まったと考えられているが、人類最初の大きな変革であった。その変化が新石器革命であり、食料生産革命とも言われている。あるいは、農業革命という場合もある。」
上の引用文にあるように、「新石器革命」と「農業革命」とは、同じ意味で用いられる。 哲学板の「柄谷行人を解体する」スレで柄谷カルト残党が柄谷の新刊本チカコ―で盛り上がってる。 >>889
柄谷批判をしている人が哲学板にいるようならば、
その人をここに連れてきたらいいのではないですか。
こちらのほうが、いくらかはまともな話ができるでしょう。 文芸批評家を辞めて
哲学者になったんだから
残党はこのスレの住人ですよ 柄谷交換様式論の良さが分からないなんて
お前らはオードリー・タン以下の
鳳啓介の痰だ。ポテチン!カー、ペッ! >>890
俺は哲学板に書き込めないんだよ。
哲学板を見れば、カルト信者以外いないこと、そのぐらい分からんか? >>891
お前はどうしようもない馬鹿だな。
柄谷は時に応じて、「僕は元々、文芸評論家だから」とか、
言ってるよ。柄谷の信者だからお前が救いようのない馬鹿阿保なのはしょうがないがw ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」
「モースが経済活動を含む原始社会の人間関係の基本を《贈与交換》に求めたのに対して、ニーチェは《負債》こそがその基本だと考えた。
(中略)ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、ニーチェの『道徳の系譜』の影響を受けつつ、原始経済は
(中略)《負債》から説明すべき(と)言っている。
負債という概念があることによって、人間は「道徳的な存在」になったと(ニーチェは)いうのである。というのも、「道徳的な存在」になるということは、要するに「約束を守る存在」になるということであるが、そのためには「記憶を持つ存在」にならなければならない…(負債があることによって)「借りたものは返さなければならない」」という意識植えつけ、「借りたものをきちんと返せる」ことによって、人間を「約束を守る存在」にしたのである…「約束を守ること」「責任を持つこと」(といった道徳の基礎を)(中略)《負債》はその観念を育て、鍛えたのである。 柄谷行人「交換様式論入門」
「氏族社会の社会構成体に関して、画期的な考察を与えたのは、
マルクス主義者ではないマルセル・モースです。
彼はそれを生産力や生産手段ではなく、交換から考えた。
それは商品交換ではなく、贈与―お返しという互酬交換です。私はそれを交換様式A
と呼び、商品交換(交換様式C)と区別します。この交換は、贈与しなければ
ならない、贈与を受け取らねばならない、贈与に対してお返しをしなければな
らないという三つの掟によってなされます。この掟は、人が作ったものではな
い。人がそれに従わざるをえないような「呪力」(ハウ)に強いられているので
す。氏族社会のような社会構成体は、この交換原理によって作られています。」 柄谷行人「交換様式論入門」
【それに関して、私はフロイトの理論を参照します。といっても、それは、彼
が『トーテムとタブー』で書いたこととは異なります。そこでは、彼は、未開
社会を「兄弟同盟」たらしめた原理を、兄弟による「原父殺し」から説明しよ
うとしました。しかし、「原父」は、ダーウィンがゴリラ社会などから想定した
仮説であり、また、国家の段階で成立した家父長制を太古に投射したものにす
ぎません。フロイトの仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論で
す。
死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体
を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対
立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるも
う一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイ
ト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関
してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」
にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が
発生する。
そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先
ず攻撃性として外に向けられる。が、フロイト的にいえば、それが内に向けら
れるとき、超自我として自らの攻撃性を規制するものとなる。贈与の互酬交換
はそのようなものとしてあらわれた、といえます。人は贈与しなければならな
い、贈与を受け取らねばならない、贈与にお返ししなければならない。その場
合、贈与された物に付着した霊的なものが、人々を強制するように見えます。
しかし、Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。それが、階級や国家の発生を阻止
する観念的な力として働いたのです。】 【「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」
『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。】
(柄谷行人「憲法の無意識」) 柄谷行人は、交換様式Aの段階における「良心」
(ニーチェ「道徳の系譜」では負債の意識であるところの「やましい良心」であり、モース「贈与論」では霊的な力「ハウ」にあたる)の成立に関しては、
「彼(フロイト)の理論にもとづいて、互酬交換の起源を説明できると思います。」
としているにもかかわらず、
「憲法の無意識」のときとはちがって、「外部の力による強制」(フロイト)について何を言っていない。 「道徳の系譜」における「道徳」というのは、ニーチェがいうには奴隷道徳である。
マウリツィオ・ラッツァラートによると、金融資本主義というものは、
「負債」(の意識)によって、人間を奴隷化し、支配するシステムだということである。
ラッツァラートのような見方をすれば、ニーチェのいう「疚しい良心」は
人間の奴隷化の大元ということになるだろうが、
柄谷「交換様式論」のようなものでは、金融資本主義のイデオロギーにしかならないであろう。
ネオリベ・イデオローグ柄谷行人のことであるから、それも当然なのかもしれない。 ×金融資本主義のイデオロギー
〇金融資本主義をけっきょくは肯定するだけのイデオロギー ヨーロッパのエネルギー源での自立やアメリカ人の中国製品離れの機運が高まり、交換から自立の時
代にしばらくは向かうだろう。
日本国内でも、都市の中心部の人間が郊外にグルメ探しに出かけて行くことの無駄が認識されるだろ
う。郊外に美味しいものなど滅多にあるものではない。 柄谷行人は、原遊動性Uの段階の集団内には、狩猟採集による所得物は、かならず寄託されたといっている。
交換様式Aの互酬交換、交換様式Bの再配分、このいずれもなかったという原遊動性Uの段階においても、その寄託なるものはあったというのだ。
この寄託というのは、文化人類学では、ふつうプーリングといわれるものにあたるだろう。
ロバート・ネッティングなどによれば、プーリングとは、バンド内における互酬性の関係の表れだということである。
プーリングというのは、いわゆる「一般的互酬」のことだといえて、給付したものと等価とみなされるものを直ちに受けとる関係にある「均衡的互酬」とちがい、
即座の反対給付を期待しない一見しては一方的にみえる贈与のことであるが、しかし、「一般的互酬」の場合は、贈与の行われるその時には返礼を受けとらないにしても、相手方は将来に反対給付を行う義務を負ったということになるのだ。
柄谷は、原遊動性Uの段階には、互酬交換はないが寄託はあった、
という。だが、このような寄託というのは、一般的互酬というべきところを、たんに自説に都合に良いように言いかえたに過ぎないと思われるのである。 「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかっ
た。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
柄谷行人によれば、原遊動性Uは、「無機的状態」なのだそうである。
これは換言すれば「自然状態」ということになるだろう。
柄谷説では、その「無機的状態」=「自然状態」はいかにも和気あいあいとしたものになっているが、
マーシャル・サーリンズなどは、モースにしても、ホッブズと同様に、
社会の下部構造であるような「自然状態」は、戦争状態だと認識していたという。 [(交換様式)Aの「力」が反復強迫的であるのは、それが定住によって失われた U
の回帰であるからだといってよいでしょう。]
(柄谷行人「交換様式論入門」)
905の引用にあるような和気あいあいとしていたものの「反復強迫」というのは、
そもそも言葉遣いとして実におかしいだろう。 ナショナル・ジオグラフィック 2017・4・11
考古学者は、少なくとも80万年前の初期人類が人肉を食べていた証拠を発見している。人骨を切断したりかじったりした痕跡だけでは、人肉を食べた理由まではわからないが、古代の遺跡からは、人類進化の歴史を通じて共食いがどのくらい広く行われていたかを知るための手がかりが得られる。
例えば、スペインのグラン・ドリーナ洞窟のホモ・アンテセッサーと呼ばれる初期人類の遺跡からは、バイソン、ヒツジ、シカを解体した骨と一緒に、少なくとも11人の人間を解体した骨が見つかっている。骨はすべて子供か若者のもので、食べられた形跡があった。骨には肉をこそげとった痕跡があったほかに、脳を食べた痕跡もあった。
解体された人骨は、洞窟内の10万年分に相当する地層から見つかっていて、住人が定期的に人肉を食べていたことを示唆している。 解体された人骨は、同じ方法で処理されたほかの動物の骨と混ざっていた。そのため、この洞窟に住んでいた人々は、食料がなくてやむにやまれず人肉を食べたわけでも、儀式として食べたわけでもないと、一部の人類学者は考えている。 おそらく、反復強迫があるとすれば、↑のようなおぞましいことだ
と考えるほうがフロイト的だろう。 人間は共喰いをしない、と考える理由のほうがわからない。 旧石器時代のほうが新石器時代よりも人間同士の戦闘によって受傷したとみられる人骨の出土する割合が高いという説もある。
ただし、もちろんそれにたいする反論もある。
しかしなににせよ、柄谷行人が、そのような考古学研究上の議論などに目を通したとはとうてい思えない。
何らその種の論文等を読むようなこともなく、
ただの勝手な思い込みで、905のようなことを言っているのだろう。 『力と交換様式』 第3部第1章 経済学批判 270ページ
[あらためていうと、物神(フェティシュ)とは、人と人の交換において生じる、霊的な「力」である。
実は、マルクスは、『資本論』第一巻でそれについて述べた後、物神という言葉を二度と使わなかった。
しかし、事実上、さまざまなかたちで、霊的な「力」を見ようとしたのである]
柄谷行人「交換様式論入門」
「氏族社会の社会構成体に関して、画期的な考察を与えたのは、
マルクス主義者ではないマルセル・モースです。
彼はそれを生産力や生産手段ではなく、交換から考えた。
それは商品交換ではなく、贈与―お返しという互酬交換です。私はそれを交換様式A
と呼び、商品交換(交換様式C)と区別します。この交換は、贈与しなければ
ならない、贈与を受け取らねばならない、贈与に対してお返しをしなければな
らないという三つの掟によってなされます。この掟は、人が作ったものではな
い。人がそれに従わざるをえないような「呪力」(ハウ)に強いられているので
す。氏族社会のような社会構成体は、この交換原理によって作られています。」 柄谷行人「霊と反復」
「交換から生じる霊(観念的な力)というとき、先ず私の念頭にあったのは、『資本論』のマルクスである。《机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう》。超感覚的≠ネもの、すなわち霊的なものが、交換から生じるのだ。マルクスはまた、交換において生じるこのような「力」を物神(フェティッシュ)と呼んだ。
しかし、マルクス主義者は一般に、これを冗談だとみなした。(…)そのことが『資本論』の意義を見失わせた。マルクスがここでなそうとしたのは、資本という霊が、商品交換(…)から生じることを解明することであったからだ。
とはいえ、霊的な力は、資本に限られるのではない。それは、贈与交換(…)においてもある。マルセル・モースがハウと呼んだ霊がそうだ。霊はまた、国家(…)にもつきまとう。のみならず、霊は、それらを揚棄する力としてもあらわれる。すなわち(…)霊的な力としてあらわれるのだ。 ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」
「モースが経済活動を含む原始社会の人間関係の基本を《贈与交換》に求めたのに対して、ニーチェは《負債》こそがその基本だと考えた。
(中略)ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、ニーチェの『道徳の系譜』の影響を受けつつ、原始経済は
(中略)《負債》から説明すべき(と)言っている。 ラッツァラート「借金人間製造工場」
[金融資本主義とは、“負債”によって、私たちを奴隷化し、支配するシステム] ニーチェ「道徳の系譜」
「負い目」「良心のやましさ」という意識は、「負債」という物質的な概念に由来している。
「犯罪者は刑罰に値する。というのも、彼は別様に行為することもできたからである」という発想は、極めて近代的である。人類の長い歴史を通じて、悪事の首謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、責任者のみを罰するといった刑法もなかった。
むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対する怒りから刑罰は行われたのである。
この怒りは、損害には等価物があり、たとえば被害に対する報復がある、という発想へと次第に変容した。
損害と苦痛の等価というこの発想は、どこからその力を得てきたのだろうか。それは、債権者と債務者との契約関係からである。
この契約関係は、およそ「権利主体」なるものと同じ古さをもつ。この「権利主体」という概念は、売買・交換・交易といった行為を可能にする。
この債権者と債務者との契約関係において、初発の約束が為される。債務者は、自らの返済力を相手に信用させるために、また自らもうっかり返済を忘れないように、自分が占有する何かを抵当に入れる。たとえば自分の身体、自分の妻女、自分の自由、自分の生命などを抵当に入れる…。 負債の意識である「疚しい良心」(ニーチェ)は、
柄谷行人によると、呪力・霊的な力によって植えつけられるものということになる。 柄谷「力と交換様式」
[信用とは、契約・取引と決済との間に時間的乖離があるときに不可欠となる、
当事者間の信頼である。だが、それはたんなる信頼ではなく、
人を強いる観念的な力であり、その意味で物神的である。] 物がスカスカになるように唯物論者もスカスカになるがマナーや交渉倫理が大事。
性欲の面も年齢制限の面も、同性愛ヴォケしない面も。 だから二元論というより三元にすると逃げやすい。魂イデア予後。 だから二元論というより三元にすると逃げやすい。魂イデア予後。 実行犯と思想犯では思想犯のほうが悪いね予後も。
しかし自分のために自分で考えるというのも孤独だ。 俺は唯物論のほうがネトネトネット粘着しないから有利だと思う。
しかしエゴなのか対加害につまり被害敏感になるのが妄想でなく現実だとしたら。 心を作り替えたり、物の背後を補給したり、予後を対応保険かけとく。 柄谷はそういう文学問に向くだろう。赤いドレスのほう。 カラタニコフ。いろいろ考えたら銃器で撃たれて咳喀血をすると似合う。何の赤。 903
×直ちに ×即座の
〇できるかぎり決った期限内に ドゥルーズ=ガタリやルネ・ジラールだけでなく、
サーリンズ、グールドナー、ピーター・ブラウなど多くが、
一見しては見返りを求めない贈与的給付(サーリンズの言う(「一般化された互酬」の行為である)が植え付ける受給者側の「負い目」や「負債」の意識が、
反対給付を強いること、そして、その果たすべき反対給付の義務の履行ができなかった(いわば負債を弁済できなかった)者の
相手方にたいし自ずと従属的になってしまうことで、権力関係が生じるということを指摘している。
これらはニーチェ「道徳の系譜」のラインの論説といえるだろう。
また、モースやレヴィ=ストロースにしても、似たような指摘はところどころでしていた。
ところが、柄谷行人は、霊的な力または呪力によって反対給付が事実上強いられるということはいいながら、
未開社会、そして原始時代にあっては、そのような呪いの力というものが、
心底から恐れられるものであったであろうことについては、
あまりふかく考えていないようである。
原始時代においてはおそらく、呪われるということが、死ぬよりも恐ろしいことではないのか。
そのうえで、柄谷は↓のような温いことを書いている。
「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかっ
た。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。]
(柄谷行人「交換様式論入門」) >>939
受給者側の負い目だの負債の意識だのって、ただのバカじゃん。
ジャン・ジュネが正しいよね。 負債だなんだのってのは西欧的な感覚ってだけだろうね、そこに引っかかって敵視する側も然り >>941
意味不明。
普通の日本語で書いてほしい。 >>939
>>「遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には
大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。
狩猟のために必要な規模の遊動的バンドの具体的な規模を言わないと話にならんだろ。
の規模について、柄谷が度々言及してるのならともかく、柄谷が素人として発言するのなら、
誰かの研究を引用するべきだと思うが。
柄谷が自分で現地調査をしたこともないのにおかしい。
現代の狩猟民族のピグミーは何百人単位で移動するが。
柄谷の読者は明らかにカルト教信者。 柄谷の新刊などボケ老人の読迷いごとに過ぎない。それを読まなくても分かる。 ほんとうのところ、柄谷行人の書いたものについて、
まじめに批判すること自体がばかばかしいのです。
たんなる口から出まかせですから。これは昔からそうです。
故アントニオ猪木の格闘技戦をリアルファイトの格闘技の試合だとおもっているプロレスファンは、
いまはいません。
しかし、柄谷行人の「哲学思想」のようにみせかけた雑文のほうについては、
「学問」だと思っているような人がいまだにいるのが驚くべきことなのです。
思想愛好者は、たぶんプロレスファンよりもおめでたい、騙されやすい人たちなのでしょう。 >>945
猪木のも、アリとかウィリーはリアルだよ。 柄谷行人がいう原遊動性Uの歴史的段階における共同寄託ー再配分にしても、
バンド内でその差配をする立場の者はいただろう。
たとえ当番制で交代交代に務めたというようなことであっても、
その時々には誰ががやったいたには違いない。
おそらく呪術師のようなものがやったのではないかと私は思う。
ちなみに、ラスコーの壁画にも
獲物になる動物たちとともに呪術師ではないかといわれる鳥のような頭をした人物が描かれている。
「定住革命」の後に生産力があがったことで、余剰が生じ、
その差配役の役得が大きくなった、それに伴い権力の集中もおこった、
というのが、柄谷行人のいう交換様式Bの発生の要因だと考えるのが
自然な推論ではないだろうか。なお、これは学問的にも有力な説である。
シュメールでもどこでも、原初の国家というのは、神権政治体制だったとされているわけでで、
いうなれば、呪術師兼酋長が、その王様ということなのだ。 記憶違いの訂正
ラスコー壁画の呪術師らしい人物は、
鳥の頭ではなく、鹿の頭をしているのだった、 >>947
ガチとプロレスをわざと混同させることによる秘教化ですな
バカはそこになぜか感動する
柄谷ファンも同じ
自分のアイドルが欲しいだけ 1分配(sharing)、 2贈与交換(giftexchange)(柄谷の言う交換様式Aにあたる)
3再分配(redistribution)(交換様式Bにあたる)
4市場交換 (market exchange)(交換様式Ⅽにあたる)
柄谷としては、原遊動性Uの段階における分配は、
1のシェアリングのことであって、Bとは異質なものだ、といいたいのだろう。
わたしとしては、3は(「定住革命」を待たずに)バンド社会の拡大に伴って1の変化したものだと思うけれど、
柄谷が言うような説が、似たことを唱えている人類学者もいるように、成り立たない考え方ではないとは思う。
ただし、柄谷は、定住革命の前には、1しかなかった、といっているわけで、
それは到底信じがたい。さらに、信じがたい、というか、理解しがたいのは、柄谷が、
2は1の反復強迫によって生じたものだ、ということである。
1は、フロイトが「トーテムとタブー」や最晩年の「モーゼと一神教」でいっていたような
「原父殺し」と違ってべつに忌まわしい事ではないだろう。
「原父殺し」の「(集団的)記憶」にかかわるようなことならば、
反復強迫ということもあるだろうが、もめごともなく仲良くしていたという記憶にかかわる反復強迫
ということはいったい何のことだ、と思うのである。 わかんない起源を妄想してもしょうがないよ
無料でツッコミ入れてるお前も暇人なんだろうね 948の訂正
×柄谷行人のいう交換様式Bの発生の要因
〇柄谷行人のいう交換様式Bが支配的になった要因 何かをストイックにやっている人は反復強迫によって
そうしている。反復強迫とは例えばそういうもの。 「モーゼと一神教」 小山尚之による要約
a.モーゼはユダヤ人ではなく,エジプト人である。しか
も王族のなかの高位のものであり,おそらくアメンホ
テプ 4 世の側近である。
b.モーゼがユダヤ人につたえた一神教は,アメンホテプ
4世 ( のちにイクナートン ) と名乗るファラオが,実
現しようとした一神教である。しかしイクナートンの
宗教改革はそのあまりに激しい偶像破壊ゆえに,のち
の時代には受け継がれなかった。モーゼはイクナート
ンの一神教を実験するためにユダヤ人を砂漠に連れ
出した。
c.ユダヤ人はモーゼの要求する一神教の峻厳さに耐え
切れず,彼を殺害し,その肉を食べた。ユダヤ教にお
いて供犠の子羊を食したり,キリスト教においてイエ
スの聖体(パンと葡萄酒)を拝領するのは,はるかに
遠い過去のモーゼ殺害の無意識の反復である。
d.しかし『旧約聖書』にはモーゼの殺害について一行の
記載もない。彼を殺害した記憶はユダヤ人たちのあい
だで「抑圧」されている。
e.この記憶の「抑圧」ゆえに,ユダヤ人は反復強迫症に
陥っている。この反復強迫は,個人のものではなく,
集団としてのアイデンティティーに関わるもので,世
代から世代へと何世紀にもわたって伝えられる。そし
て預言者があらわれるたびに(たとえばエレミヤ,ゼ
カリア,イザヤ,そしてイエス)ユダヤ人は抑圧して
いる過去の行為を無意識に反復し,彼らを殺害する。
f.ユダヤ人がかくも長きに渡ってモーゼの一神教を
守ってこれたのは,モーゼ殺害にたいする集団的「抑
圧」あるいは「忘却」による。 柄谷行人「交換様式論入門」
「フロイトの(「原父殺し」に関する)仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論です。」
と柄谷は言うのだが、1938年に書かれた「モーゼと一神教」は、
後期フロイトの理論に基づくものだろう。 「向こうから来る」と柄谷は言う。
どうやら柄谷はこの言い方を比喩として言っているのではない。
「向こう」が実体化されてしまう限り、チカコーは
核心に錯誤を含むと見ざるをえない。
ちなみに我々が「何々せざるを得ない」と言う時、その
「何々」は「向こうから来る」ということが比喩としては言える。 >>916
「負債・人間・贈与−負債経済論とマルクス経済学」
大澤弘慈
新自由主義は、「資本家/労働者」「福祉国家/利用者」「企業/消費者」といった権
力諸関係の多種多様性を通して統治しようとするのだが、しかし「債権者/債務者」関係はそれ
らの関係を横断的に貫いて労働者、利用者、消費者を「債務者」に仕立て上げるもっとも普遍的
な権力関係(あるいは統治技術)である。
マルクス「信用と銀行」
「信用システムにおいては、外部からの物質的力は断ち切られ、自己疎外の状態は廃棄され
て、人間は再び人間との人間的諸関係のなかに置かれる。(中略)しかし、この疎外の解消、
この人間のおのれ自身への ― したがって他者への ―回帰は、錯覚にすぎない。それは、
信用なるものが金属や紙などといった商品ではなく、人間としての道徳的存在、社会的存在、
人間の奥深い精神そのものであるがゆえに、いやまして忌むべき非人間化であり、自己疎外
なのである。この疎外は、人間の人間への信頼という見かけを持ちながら、これ以上ない不
信、完全な疎外にほかならないのである」 哲学板の「柄谷行人を解体するスレ」で速読をほぼ一方的に貶すレスが幾つかあるようだが、
簡単なもの、難しいものを問わず、読解、或いは知性の煌めきにはどうしてもスピードが付き
まとう。全体的な一冊の読書に掛かる時間が、読解で躓いた箇所を繰り返し読むことによって
長大になることは一般にはよくあることだろうが、極めて優秀な読者の場合は柄谷の新著チカ
コ―をあっという間に読み切ってしまうこともあり得るだろう。俺は柄谷のイソノミアの英語
版を読んでみたが、なるほど、これは一気に読み切ってしまった。イソノミアにおいては柄谷
自身が古代ギリシャの哲学や政治学の発展経過を端折って書いてるのだから、簡単に読まざる
を得ないという事情もあると思う。
チカコ―も多分そういうように、速読者向きに書かれてるのではないかという気がする。
いわゆる、虎の巻とか、アンチョコとチカコ―の語感の類似もある。 頭悪いから蝸牛読みで妄想して補助線引かなきゃ理解できない
またその妄想がトンデモだから困ったもの
そんな運動神経0のじいさんがmovementでゲバるんだよ >>959
> 哲学板の「柄谷行人を解体するスレ」で速読をほぼ一方的に貶すレスが幾つかあるようだが、
> 簡単なもの、難しいものを問わず、読解、或いは知性の煌めきにはどうしてもスピードが付き
> まとう。全体的な一冊の読書に掛かる時間が、読解で躓いた箇所を繰り返し読むことによって
> 長大になることは一般にはよくあることだろうが、極めて優秀な読者の場合は柄谷の新著チカ
> コ―をあっという間に読み切ってしまうこともあり得るだろう。
そういう考え方はまた君も柄谷の思考のタイプを全然把握できていない
ことを意味している。
柄谷の思考のタイプとは、スピードに乗るというよりも、
いつもスピードを殺すことにあって、柄谷的明晰さとは
事象のスピードを殺すことによる明晰さなのだ。
それに対して世の中には、スピードに乗るタイプの思考というのもある。
浅田彰の思考がそうである。
また、村上龍もスピード系である。蓮實重彦もそうだろう。。。。 >>960
ちなみに私はチカコーは敢えて遅いスピードで読み終わったが
本の中には一切傍線を引かない主義で、
基本的に本を汚す読み方は嫌いであり、
線ではなくて付箋で印をつけている主義である。
速く読む奴と遅く読む人で、どちらが頭悪くて運動神経悪いかといえば
頭よくて運動神経がよい人は、その両刀遣いするものであって
どちからかに傾いてるものは、何はどうあれ不器用なのだろうとは言える。
問題は本の種類によって読み方を使い分けられない人間。
速読に頼る人間は、柄谷行人は間違いでさっと読めても
同様の読み方で、デリダ、ドゥルーズ、ラカンの本を読むことは
全く不可能である。 >>959
この人の正体も、柄谷行人は偶々読めたが、
デリダ、ラカン、ドゥルーズのテキストは、とても無理と見たww 要するに、微分して読むか、積分して読むか、
というそのスタイルの違いでしょう。
答えは、場合に応じて、両方使い分ける人が、正しい。
頭よい。 それで、改めて言うけど、チカコーの読み方とは
「微分」
が正解ですね。 哲板で批判されてるのは、馬鹿な人間特有に見られる現象で
速く読んだら優越感に浸る妄想系が叩かれてるだけでしょw
そういう妄想優越感系は小学生で終わりにしてほしいということ。
ちなみにそういう卑屈な振る舞いで自我の優越感の源泉にしてる人間とは
点取り虫で受験の点数は取れても、
まず運動神経はゼロという、
運動劣等感タイプの裏返し現象ですねww こんなところでしか語れないならどっちにも何の生産性もない
魅力的な人間ではないからその発言も必要とされない、で終わり >>967
じゃあなんでおまえはここで語ったんだよ?
全部悪いのはおまえじゃないかwww いやおまえの全ての発言と>>967は同レベルにして同等の価値しかないってことでしかない
良いも悪いもない >>967
いや単におまの価値が低いだけだよww
悔しかったら、何か少しでも言い返して証明してみろ 柄谷行人「力と交換様式」
【たとえば、マルクスは『資本論』において、貨幣や資本を“神”として見たのだが、このような見方は、マルクス主義者の間では、たんに冗談と見なされた。
その典型的な例は、ここまでに何度も言及したように、ルカーチの『歴史と階級意識』(一九二三年)において、『資本論』でマルクスが「物神化」と名づけた事柄が無視され、それが「物象化」という言葉に言い換えられてしまったことである。
物象化が意味するのは、人間と人間の関係が物と物の関係として扱われる、すなわち人間が物として扱われる、ということである。
一見すると、物神化が観念論的な見方であるのに対して、物象化は唯物論的な見方であるようにみえる。そして、そのような資本主義経済における物象化からの解放にこそ共産主義があると、ルカーチは考えた。
したがって、彼は物象化を、『資本論』がもたらした科学的認識の核心
であると見なしたのである。
しかし、そのような理解は、『資本論』の画期的意義を見失わせるものだ
といわねばならない。ルカーチがいう「物象化」はむしろ、史的唯物論以前のマルクスが『経済学・哲学草稿』で論じた「自己疎外」という概念に近いものだ。
(中略)しかし、われわれにとって重要なのは、"初期”でも“中期”でもなく"後期”の、というよりむしろ『資本論』にのみ見出されるマルクスの考え方である。そして、彼がそこで強調したのは、「物象化」ではなくて「物神化」なのだ。
いいかえれば、彼がそこに見ようとしたのは、“生産力"ではなく、交換様式Cから生じる“力”であった。】
マルクスの思想において、物象化論と疎外論は、(たとえば廣松渉がいうようには)切り離せないというのは、じっさいそのとおりだと思う。物象化というのは、疎外された人間労働によって媒介されて起こるものだろうからだ。
しかし、柄谷がおかしいのは、疎外論を物象化論と一緒くたにしつつ批判しながら、じつは疎外論そのものである物神性論のほうをよしとしていることである。
この物神性というのは、疎外された抽象的人間労働のことなのである。 それと、ルカーチは、土台(下部構造)と上部構造の関係を、
可能態と現実態の喩えで説明している。これはサルトルも踏襲していたはずだ。
柄谷行人は、マルクス主義哲学者たち思想の理解が、ほとんど新聞あかはたの読者向けの解説記事くらいのレベルなのだ。
ちなみに、ドゥルーズが、ベルクソンに由来する潜在態の概念でもって解体しようとしたのは、
ルカーチそしてサルトルのような、マルクス主義哲学だっただろう。
ドゥルーズは、可能なものは現実に対立する(この「対立」はヘーゲル弁証法的な意味だろう)
しかし、潜在的なものはそれ自体で現勢的である、というようなことを述べた。
可能態などというものはなく潜在態があるだけだ、
というとすれば、これはいわば形相などというものはないという質料一元論、
自由意思などというものはないという土台一元論なのであって、
いうなれば唯物論のスピノザ的な徹底化ということになると思う。 >>963
デリダ、ラカン、ドゥルーズのテキストは、雰囲気で読み飛ばすべきものだもんね。 >>975
それはまた駄目な読み方で正しい読み方ではないでしょう。
それは雰囲気で読むというよりも、
ああいう形で難解な書き方されてるテキストの場合は
「乱読」
という方法が正しい。そして唯一のもの。
つまり、偶然的な飛ばし読みを何度も繰り返すことによって
次第にテキスト一冊の本を全体化して像を掴むというやり方。
これは、速読とも遅読とも異なる
最も高度な読み方であり、
かつ最もダイナミックで面白い方法である。 それから、レヴィ=ストロースのモースの「呪力(霊的な力)」論についての批判の趣旨は、
霊的な力(のように意識されるもの)は構造に規定されている、
ということであって、これはようするに、社会的存在が意識を規定する、
というマルクス的な考え方にもとづくものだろう。 >>976
大体、浅田彰や蓮實重彦が日常的に使ってる読み方は、この方法だね。 >>976
デリダ、ラカン、ドゥルーズは難解なんじゃなくて、自分の思いを他人とは違う言葉で表したかっただけ。
詩的と言えば聞こえはいいが、内容が無いことはとくにデリダとドゥルーズに著しい。
君は現代詩でも読んで、難解耐性をつけた方がいいかもしれない。 >>979
> 詩的と言えば聞こえはいいが、内容が無いことはとくにデリダとドゥルーズに著しい。
おまえその発言
他の場所でも通用すると思ってるの?wwww >>980
いまはなきドゥルーズスレでさんざん言ったけど? 文学板とは恐ろしい無知蒙昧者の集合だということが、分かったw >>979 >>981
だったら君は、
哲学のテキスト読んで未だ意味というものを理解したことがないんだと
自分で自覚したほうがよいww >>982
実は、吉本先生が似たようなことを指摘して、同席していた国分先生がしょげ返っていた記憶があるな。
人違いだったらごめんね。 >>983
そういえば意味の論理学、というドゥルーズの本があって、意味はどこから来るのかとか言ってたけど、結局意味不明で終わっちゃってたな。
存在と時間で、ハイデガーが空中分解してたのとよく似てる。
その点、サルトルは存在と無で舌足らず(舌多すぎ)ながら、存在をきちんと浮かび上がらせてた。 「資本論」第一部
第十一二章「およそ資本主義生産様式は、労働条件と労働生産物とに、労働者に対して独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして、機械の使用とともに完全な対立に発展するのである。」
第二十一章「彼がこの過程(生産過程)に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家の ものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。」
第二十二章「生きている労働過程で生産手段の形で協力する過去の労働の重みが益々大きくなるということは、この労働を過去の不払い労働として行った労働者自身から疎外されたその姿、すなわち資本というその姿のおかげだといわれるのである。」
第二十三章「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高めるための方法はすべ て個々の労働者の犠牲において行われるということ、生産力の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で彼の労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて、労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込むということ」 >>986
こういう文章は、しっかりと読み込まないといけないね。 >>989
暇であることはとても良いことだと思うよ?
僕自身は結構忙しいけどw 「暇であることはとても良いことだと思うよ?
僕自身は結構忙しいけどw」 だらだら書き込んでるくせにスレも立てられないとか無能すぎません? >>961
お前はマジで馬鹿だな。
俺は速く読むことを一概に誉めてる訳ではない。
お前らは畜生以下。 柄谷の本を愛読する者にはまともな頭の奴はいない、少なくとも今は。 ボードリヤール「消費社会の神話と構造」
「未開社会の特徴である集団全体としての『将来への気づかいの欠如』と『浪費性』は、真の豊かさのしるしである。われわれには豊かさの記号しかない。……だがサーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段の単純な関係でもなく、なによりもまず人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。……贈与と象徴交換の経済においては、ほんのわずかの、つねに有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人々から他の人々へと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人々のあいだの具体的交換のなかに生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人のあいだでも、交換の度ごとに価値が負荷されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。」 引用は「消費社会の神話と構造」から
「使用価値・ 有用性そのものは ,商品の抽象的等価関係とまったく同様に,
フェティシュ 化された社会的関係である」
ボードリヤールによると使用価値と交換価値、
これらがともに有する物神性が商品にそなわる「呪力」というわけである。
そして、これに関連して、マルクス主義については↓のような批判をする。
「使用価値を 等価関係のこの論理に徹底的に 従属させずに,
また,使用用価値を「比較できないこと」のなかに支えることによって,
マルクス主義の分析は,使用価値として考えられている 物に対する個人の関係を,
人間に固有な必要と, 物に固有な機能とのあいだの具体的で客観的な関係,
要するに「自然な」関係であ るとする神話に役立ってきた 」
ボードリヤールにいわせれば、消費の場面での商品の「物神性」を論じなければ、
ちゃん論じたことにはならないということになるだろう。 このスレッドは1000を超えました。
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