【散歩】永井荷風【踊子】
散歩と踊り子が大好きな文豪、荷風のスレッドがないようなので、
立てました、荷風フアンの方どうぞ…。 三島は名文家なのだろうか。「豊饒の海」はたしかに凄いが。 遊びでも留学になるさ。
元総理の小泉さんだってそうだったじゃないか。 ↑オマエはいくつのジジイなんだ?
何が荷風先生だ?
恥ずかしいぜwww オマエの先生でもなんでもねーのに、馬鹿だよなあ。
オマエは夏目先生とか芥川先生とか常日頃から思っているのか?
ねぼけてんじゃねーぞ! 何を必死になってるんだ?
お前、こんな些細な事でそんなに怒るのか。
さて、これからベートーヴェン先生の音楽でも聴こうか。 文学板ってガチキチが多いよね
意味不明のレスが多い 同時に同場所にいてその相手に言うのなら別論、
生存作家でも「読者」は基本敬称を付けずに呼び捨てだな。
プロスポーツ選手や芸能人の名前を言う時と同じ。 言って返しが中学生のアッカンベーなんだよな、池沼ネラーは(嗤 お前らの持ってる荷風の本、関連本、ここに画像晒せや。 頭のてっぺんだけぐるりと禿、まわりはちょろ毛の「猥褻禿」になる危険がでてきた
人生の最大の絶望 次のどれが正しいか?
遺伝によるから両親を選びなおす
肥料(禿薬)をつけ朝晩頭をたたく
生きていても無駄 自殺する
ハゲデブチビは運命と思って諦める
このスレのまぬけどもに伝染させる gooで永井荷風の画像検索してみたら2頁目に谷亮子が出てきたのは何でだw >>473
ほんまや全然関係ないのにw
しかしこの記事群の中で谷亮子と永井荷風だけなんか浮いてる… 用がおはつたので、四ツ谷、番町、代官町、神保町、鎌倉橋と過ぎ、神田駅まで歩いた。
なまつた足にはつらかつたが、荷風はそれからさらに銀座や浅草まで行くんだよなあ・・ 荷風が影響受けたのはゾラ、モーパッサン、ロチ、レニエ、ジッド以外だと誰になるんでしょ? 明治40年12月11日 西村恵次郎 宛 リヨンより
此頃はオペラと音楽会へ通学するので、殆ど創作する時間がないので困つて居る。其れ故しばらくは筆をやめて、読書しやうと思つて居る。モーパツサンも已に再読三読し了つたので、何か外にモ
デルとするやうな作者をめつけて居るが、まだどうも僕の趣好に合ふやうなのがない。目下はゾラの門下から出て、印象派に這入ったHuysmans(ユイスマン)の作(La-ba)だの、其の短篇、パリ
ーのスケツチなぞを読んで居る。其れから、Henri de Regnier(レニヱー)と云ふ人の作をも見た、此れ等の人の作物は、文章が難解で、作意が充分に云現はしてないから、非に骨が折れる。フラ
ンスの文壇ではゾラの自然派から一進歩んだ印象派の作物が今の処では最も進歩したものであるらしく思はれる。此の辺の消息は早稲田文学なぞに屡ゝ論じられて居る処だから、日本の文壇も同じ
調子で進んで居るものだと信じて居ます。
たしか十一月の新小説であつたと思ふ、花袋氏の「蒲団」を読んだ自分は非常に敬伏しましたよ。すつかりロシヤの自然派式で、然も日本人の頭から出た純粋な明治の作物だと思ふ。 永井荷風 小説作法
一 小説家たらんとするもの辞典と首引(くびぴき)にて差支なければ一日も早くアンドレエ・ジイドの小説よむやうにしたまへかし。戦争以来多く新刊の洋書を手にせざれば近頃はいかなる新進
作家の現れ出でしやおのれよくは知らねど、まづ新しき小説の模範としてはジイド、レニエーあたりの著作に、新しき戯曲の手本としてはポオル・クローデルあたりのものに目をつけ置かばたいし
た間違ひはなきもののやうに思はるるなり。
大正九年三月 永井荷風の名前すら知らない日本人が9割だろう
それほどに文学なんて一般的には無価値なものである。 荷風最初の長編小説冷笑ってあまり話題にならなあけど失敗作なんですか? >>485
「冷笑につきて」(紅茶の後)は読みましたか? あめりか物語
ふらんす物語
冷笑
新橋夜話
日和下駄
腕くらべ
江戸芸術論
おかめ笠
下谷叢話
つゆのあとさき
墨東奇譚 荷風は、風俗遊びの大先輩。
かくいうわたくしも、恥ずかしながら60歳過ぎてから遊びを覚えました。
世の中に風俗ほどいいものはない。
これ以外に金を使うひとの気が知れないほどです。
しかしながら、荷風先生は風俗嬢(娼婦、遊女)に対する愛情が足りないと思います。
女好きながら女嫌い(ミソジニー)が見て取れるのです。
わたくしは、遊ぶ時間だけは心底風俗嬢を愛します。
大抵の子は、それに応えてくれます。 風俗嬢ってのは金だけが目当てだからな
同情するとスカンピンにされるから注意したほうがいい。
荷風の当時と今はまったく女が180度変わってしまったのが哀れだ 荷風の時代も別に変わらんよ。
荷風はロマンティックに描いてるけどさ。 ↑おまえは荷風の時代に生きていたのか?
知ったようなことを書くんじゃねーぞゴラ モーパッサンに影響され鴎外を敬愛し交流があり漢学の素養がある作家 田山花袋と永井荷風
荷風が「蒲団」を評価したのは意外に見えて必然なのかも。 お前ら実は、「腕くらべ」や「つゆのあとさき」を読んでないだろ。
あるいは、読んでも内容を忘れたか。 「萬朝報」大正5年6月30日〜7月4日に富松のインタビュー記事が連載。
タイトルは「女から見た男」。
*
1回目。
「私が初めて逢いましたのは、荷風さんが帰朝したばかりの頃で、帰朝のお祝いを、亡くなられた大野病院の院長さん(故大野酒竹氏)や何かゞ高輪の萬清でお開きになりました。
その席へ新橋から五六人呼ばれて行ったその中に私もいたのです。
私は、新橋で新翁家の富松といって、まだ抱えの身分でした。---二十のときのことです。
(略)
それから、その翌日も、また翌々日もお茶屋から永井さんに呼ばれたのです。
『私、あの方、様子がいゝから岡惚れにしようかしら』なんて云っている頃でしたから、逢えば嬉しゅうござんした。
そうしてる内に、---あの方はまだ待合なんてご存知なかったのでしょう---『知った待合へ連れて行っておくれ』と云いますから、私の馴染の家へ連れて行ったのです。
それは例の木挽町の祝い家、勘弥さんの姉さんの家です。
それがまた私の旦那の来る家でしょう。その家へ永井さんを連れ込んで私があんまりパッパッするものですから、とうとう旦那に知れてしまって、首尾の悪いったらなかったのですよ。
でもその頃はお互いにのぼせ詰めて『壮吉命』なんて腕に入れ墨をするほどになっていたんですからね。
それからメチヤメチヤに逢うようになってしまったの」 2回目(7月1日)
「でも荷風さんはまだお部屋住みでお父さんにお小使を貰っているという身分でしょう。
小説を書くとはいったところで、まだ月々百円ぐらいの収入しかないし。
それに私の方はとうとう旦那をしくじってしまったと来てるでしょう。二人ともたちまちどうすることも出来なくなってしまいました。
それでも荷風さんの書く物がポツポツ評判になってきた頃でしたから、私はお座敷でのろけてばかりいました。
(中略)
それからお正月早々、私を落籍した旦那が、これも帰朝のお祝いにそのとき初めて呼ばれまして、その席で、私は大変に酔って、さかんに永井さんのお惚気を云ってしまったの。
・・・
それから八日間というもの旦那は私を遠出に連れていってしまったのです。その留守に、永井さんは私の家へ幾度も来たり電話をかけて下すったりしたのですけれど、家でも私の居所は分かっていなかったのです。
こうして永井さんにしばらく逢わずにいますと、私の軒並みにいた巴屋の八重次と永井さんがおかしいというのでしょう。
その噂を耳にはさむと、胸の虫が承知しません。
『八重次の義理知らずめ。今にどうしてくれるか見ているがいい。』
口惜しくて口惜しくて私はこう思いました。
『永井さんも永井さんだ。』
その日、車で髪を結いに家へ帰ってきますと。八重次のやつめ、永井さんと出雲町の藤田へ這入って行くところではありませんか。
私はすぐ後から押しかけて行ってやりました」 3回目(7月3日)。
「藤田へ飛び込んでゆくと、八重次が永井さんと差し向かいになってコソコソいちゃついてるじゃありませんか。
『やい、お前さんは誰に断って昼日中永井さんをこんなところへくわえ込んだのだい。』ッてね、さんざん八重次のやつに毒づいてやりましたよ。
それから取っ組み合いになるほどの喧嘩をしてしまったの。
でも私は、捨てられるのはいやだから、『こんな人ぐらい、欲しけりやこっちから呉れてやってしまえ』と、威勢よく啖呵を切ったまではよかったが、それからきまりが悪くなって、とうとう二円のお祝儀を藤田の給仕に散財して帰ってきました。
(略)」
4四回(7月4日)。
「それから永井さんのお父さんがお亡くなりになると八重次がその家へ入り込んだのです。
その間に私も落籍されまして、赤坂に三吉野(料理屋)を始めたり、その土地から(〆勇と名乗って)出たり、……いろいろに変転しましたのです。
私が麻布へ出るとまもなく、永井さんが柴田さん(待合)から七度も呼んで下すったのですけれど−−もう永井さんは八重次を止していたのです − 私は、すっぱり断ってしまいましたの」 濹東綺談のお雪さんの良さが生き生きとして描かれているが
所帯を持ちたいとせがまれているにも関わらず去っていって
しまった。ミソジニーと思われる節がある
晩年の孤独
人を心底信じられない一面があるのかもしれない
それでいいのだ。と思った 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。
口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。
そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
本田宗一郎 「快晴。緑陰清風愛すべし。午後樹下に椅子を移して鴎外全集『ギョオテ伝』を読む。」(『断腸亭日乗』 昭和3年(1928)5月30日)
「夏の日の午下この木かげに椅子引出して書を読むことを娯(たのし)みとなすもいつまで続き得べきにや。思えば心ぼそし。」(同 5月31日) この頃は永井荷風の小説もずいぶん読んだ。
何しろ私は古今東西の名作というものをほとんど読まずに来ているものだから、読む小説には事欠かない。
荷風を読むのもはじめてだったけれど、花柳界を舞台にした彼の小説は、ヒューマニズムと別の原理で動いていて私はとても楽しかった。
荷風の人物たちは、漱石の人物たちのように立ち止まってつべこべ言うのではなくて、積極的に流れに身を任せる。
いまだに私自身はそういう小説を書いていないけれど、読みながら「こういう小説を書きたい」と思った。
http://www.k-hosaka.com/note/comment/neko.html 荷風はユイスマンスはあまりピンとこなかったのかな? 墨東奇譚は全然おもろなかったが、
つゆのあとさきはいまのところおもしろい。
最後でツマンネになるかもしらんが 芥川って荷風を認めてなかったんだよな?
ツマンネって言ってたが >>511
女給の生態を描き残すことが目的のひとつ ↑女はまったく主題ではないだろが。この小説は
人間ってのは懐古趣味の動物ってことだろ。 墨東奇譚のおもしろさを教えてくれたまえ!
変態野郎ども >>515
それは墨東奇譚のことだろ
514はつゆのあとさきを言ってる >>505
おじさん ここにも来るんだ
そんな与太信じちゃって 永井荷風程嫌いな作家もいない。
口元が異常に出っ張って、への字口でさぞや不満が多かっただろう。
自己を高く見積もり他を見下しているように思える。
自惚れのある技巧を凝らした文章である。
しかし、最大の欠点はユーモアの欠片もないところ。
反戦とやらで日本を批判したにも拘らず、
国からの文化勲章は有難く頂く二面性が堪らなく嫌い。
『帰朝者の日記』や『深川の唄』を読んでみれば良い。
フランスかぶれのこの人がどれ程の無知を曝け出して
日本を叩きのめしているか!いわゆる、出羽の守である。
ましてや一般人でなく少なくとも作家であるにも拘らず。
知性と柔軟性が欠ける事夥しい。当時の明治社会だけでなく
日本人そのものを侮蔑の目で見ているのである。
日本の自然景観にまで貶しまくる神経には恐れ入る。
こういう人間に、何故文化勲章を与えたのか謎である。 新潮文庫の濹東綺譚とふらんす物語とで背表紙の色が違うのが気になって仕方がないんだが 一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。 なんか偏屈で俺は価値あると思うが。
内田百閧セってそうだろが。
その時代の小説家なんだよ。
それは解ったほうがいい。 幸徳事件だかの時の検閲か何かの拍子に
たかが売文の徒が自分のやってる事を自分で芸術って言うのがね
どこまでうぬぼれてんだよって思うわ
表現の自由がままならないのを官憲のために芸術の品位を
落とさなきゃならなかったとかなんとか
自称文化人気取りっていっつも海外行って「世界から見ると日本がこんなに遅れてる」って
バカのひとつ覚えのように繰り返しているだけで150年くらい前から何も進歩してねえよな
パリが世界文化最先端?だから何だって思うわ
そういう連中って日本の浮世絵とか江戸時代から続いていた町の職人技とかが紹介されると
苦虫噛み潰したようなツラして気持ち悪がっているよな
なんでそこまで日本を憎めるのかが不思議でしょうがないわ 永井荷風のこと?
彼はむしろ近代日本に背を向けて江戸から残ってる文化の中に逃げていった人でしょ 濹東綺譚を読んだ。あめりか物語はあんまり面白くないね。ふらんすの方は面白いのに 谷崎はあめりか物語、ふらんす物語派なんだよな。
江戸回帰後の荷風を寂しく見ていた。
昭和モダニズムに接近した荷風を改めて評価した。 >>538
どういう意味で?
何かソースがあったら確認する。全集持ってるから。 13日
漸く断腸亭下巻を手にゐれる 随筆集と合わせて弐冊百五拾圓也
此れより永井先生著書と一緒と思うと嬉し。
16日
所要にて川崎にゐたり、待ち時間別の書店にて永井先生著書を探す。
先日購入の本有り。使い古した変色したる状態なるも各四百拾円といふ。
合わせて八百廿円、高し。
笑うべし >>541
手にゐれる→手にいれる
合わせて→合はせて
思うと→思ふと
笑うべし →笑ふべし
荷風先生が草葉の蔭で泣いてをるぞ >>此れより永井先生著書と一緒と思うと嬉し。
わかる。それでいいじゃないか。 >>542
過日。
頭でっかちの自称文芸評論家が、
新進気鋭の作家について
些末な誤字脱字を指摘する際に
「洒落もない身なりと言葉で話す、
そんな君のような野暮が一番つまらん。」
とたまたま出くわした永井先生は一喝し
踵を返して連れの遊女と去っていった。
西洋を上っ面だけで真似するごとく
野暮と言うのは
実に深い罪である。
ああ嘆かわしい 谷崎潤一郎に永井荷風が好む女はとにかく汚らしいですから嫌ですねとか永井荷風との対談だかで言ってたのは笑った 浮世風呂
東海道中膝栗毛
偐紫田舎源氏
梅暦
椿説弓張月
南総里見八犬伝
安愚楽鍋
他に必読の江戸戯作ってありますか?