【散歩】永井荷風【踊子】
散歩と踊り子が大好きな文豪、荷風のスレッドがないようなので、
立てました、荷風フアンの方どうぞ…。 あめりか物語
ふらんす物語
冷笑
新橋夜話
日和下駄
腕くらべ
江戸芸術論
おかめ笠
下谷叢話
つゆのあとさき
墨東奇譚 荷風は、風俗遊びの大先輩。
かくいうわたくしも、恥ずかしながら60歳過ぎてから遊びを覚えました。
世の中に風俗ほどいいものはない。
これ以外に金を使うひとの気が知れないほどです。
しかしながら、荷風先生は風俗嬢(娼婦、遊女)に対する愛情が足りないと思います。
女好きながら女嫌い(ミソジニー)が見て取れるのです。
わたくしは、遊ぶ時間だけは心底風俗嬢を愛します。
大抵の子は、それに応えてくれます。 風俗嬢ってのは金だけが目当てだからな
同情するとスカンピンにされるから注意したほうがいい。
荷風の当時と今はまったく女が180度変わってしまったのが哀れだ 荷風の時代も別に変わらんよ。
荷風はロマンティックに描いてるけどさ。 ↑おまえは荷風の時代に生きていたのか?
知ったようなことを書くんじゃねーぞゴラ モーパッサンに影響され鴎外を敬愛し交流があり漢学の素養がある作家 田山花袋と永井荷風
荷風が「蒲団」を評価したのは意外に見えて必然なのかも。 お前ら実は、「腕くらべ」や「つゆのあとさき」を読んでないだろ。
あるいは、読んでも内容を忘れたか。 「萬朝報」大正5年6月30日〜7月4日に富松のインタビュー記事が連載。
タイトルは「女から見た男」。
*
1回目。
「私が初めて逢いましたのは、荷風さんが帰朝したばかりの頃で、帰朝のお祝いを、亡くなられた大野病院の院長さん(故大野酒竹氏)や何かゞ高輪の萬清でお開きになりました。
その席へ新橋から五六人呼ばれて行ったその中に私もいたのです。
私は、新橋で新翁家の富松といって、まだ抱えの身分でした。---二十のときのことです。
(略)
それから、その翌日も、また翌々日もお茶屋から永井さんに呼ばれたのです。
『私、あの方、様子がいゝから岡惚れにしようかしら』なんて云っている頃でしたから、逢えば嬉しゅうござんした。
そうしてる内に、---あの方はまだ待合なんてご存知なかったのでしょう---『知った待合へ連れて行っておくれ』と云いますから、私の馴染の家へ連れて行ったのです。
それは例の木挽町の祝い家、勘弥さんの姉さんの家です。
それがまた私の旦那の来る家でしょう。その家へ永井さんを連れ込んで私があんまりパッパッするものですから、とうとう旦那に知れてしまって、首尾の悪いったらなかったのですよ。
でもその頃はお互いにのぼせ詰めて『壮吉命』なんて腕に入れ墨をするほどになっていたんですからね。
それからメチヤメチヤに逢うようになってしまったの」 2回目(7月1日)
「でも荷風さんはまだお部屋住みでお父さんにお小使を貰っているという身分でしょう。
小説を書くとはいったところで、まだ月々百円ぐらいの収入しかないし。
それに私の方はとうとう旦那をしくじってしまったと来てるでしょう。二人ともたちまちどうすることも出来なくなってしまいました。
それでも荷風さんの書く物がポツポツ評判になってきた頃でしたから、私はお座敷でのろけてばかりいました。
(中略)
それからお正月早々、私を落籍した旦那が、これも帰朝のお祝いにそのとき初めて呼ばれまして、その席で、私は大変に酔って、さかんに永井さんのお惚気を云ってしまったの。
・・・
それから八日間というもの旦那は私を遠出に連れていってしまったのです。その留守に、永井さんは私の家へ幾度も来たり電話をかけて下すったりしたのですけれど、家でも私の居所は分かっていなかったのです。
こうして永井さんにしばらく逢わずにいますと、私の軒並みにいた巴屋の八重次と永井さんがおかしいというのでしょう。
その噂を耳にはさむと、胸の虫が承知しません。
『八重次の義理知らずめ。今にどうしてくれるか見ているがいい。』
口惜しくて口惜しくて私はこう思いました。
『永井さんも永井さんだ。』
その日、車で髪を結いに家へ帰ってきますと。八重次のやつめ、永井さんと出雲町の藤田へ這入って行くところではありませんか。
私はすぐ後から押しかけて行ってやりました」 3回目(7月3日)。
「藤田へ飛び込んでゆくと、八重次が永井さんと差し向かいになってコソコソいちゃついてるじゃありませんか。
『やい、お前さんは誰に断って昼日中永井さんをこんなところへくわえ込んだのだい。』ッてね、さんざん八重次のやつに毒づいてやりましたよ。
それから取っ組み合いになるほどの喧嘩をしてしまったの。
でも私は、捨てられるのはいやだから、『こんな人ぐらい、欲しけりやこっちから呉れてやってしまえ』と、威勢よく啖呵を切ったまではよかったが、それからきまりが悪くなって、とうとう二円のお祝儀を藤田の給仕に散財して帰ってきました。
(略)」
4四回(7月4日)。
「それから永井さんのお父さんがお亡くなりになると八重次がその家へ入り込んだのです。
その間に私も落籍されまして、赤坂に三吉野(料理屋)を始めたり、その土地から(〆勇と名乗って)出たり、……いろいろに変転しましたのです。
私が麻布へ出るとまもなく、永井さんが柴田さん(待合)から七度も呼んで下すったのですけれど−−もう永井さんは八重次を止していたのです − 私は、すっぱり断ってしまいましたの」 濹東綺談のお雪さんの良さが生き生きとして描かれているが
所帯を持ちたいとせがまれているにも関わらず去っていって
しまった。ミソジニーと思われる節がある
晩年の孤独
人を心底信じられない一面があるのかもしれない
それでいいのだ。と思った 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。
口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。
そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。
本田宗一郎 「快晴。緑陰清風愛すべし。午後樹下に椅子を移して鴎外全集『ギョオテ伝』を読む。」(『断腸亭日乗』 昭和3年(1928)5月30日)
「夏の日の午下この木かげに椅子引出して書を読むことを娯(たのし)みとなすもいつまで続き得べきにや。思えば心ぼそし。」(同 5月31日) この頃は永井荷風の小説もずいぶん読んだ。
何しろ私は古今東西の名作というものをほとんど読まずに来ているものだから、読む小説には事欠かない。
荷風を読むのもはじめてだったけれど、花柳界を舞台にした彼の小説は、ヒューマニズムと別の原理で動いていて私はとても楽しかった。
荷風の人物たちは、漱石の人物たちのように立ち止まってつべこべ言うのではなくて、積極的に流れに身を任せる。
いまだに私自身はそういう小説を書いていないけれど、読みながら「こういう小説を書きたい」と思った。
http://www.k-hosaka.com/note/comment/neko.html 荷風はユイスマンスはあまりピンとこなかったのかな? 墨東奇譚は全然おもろなかったが、
つゆのあとさきはいまのところおもしろい。
最後でツマンネになるかもしらんが 芥川って荷風を認めてなかったんだよな?
ツマンネって言ってたが >>511
女給の生態を描き残すことが目的のひとつ ↑女はまったく主題ではないだろが。この小説は
人間ってのは懐古趣味の動物ってことだろ。 墨東奇譚のおもしろさを教えてくれたまえ!
変態野郎ども >>515
それは墨東奇譚のことだろ
514はつゆのあとさきを言ってる >>505
おじさん ここにも来るんだ
そんな与太信じちゃって 永井荷風程嫌いな作家もいない。
口元が異常に出っ張って、への字口でさぞや不満が多かっただろう。
自己を高く見積もり他を見下しているように思える。
自惚れのある技巧を凝らした文章である。
しかし、最大の欠点はユーモアの欠片もないところ。
反戦とやらで日本を批判したにも拘らず、
国からの文化勲章は有難く頂く二面性が堪らなく嫌い。
『帰朝者の日記』や『深川の唄』を読んでみれば良い。
フランスかぶれのこの人がどれ程の無知を曝け出して
日本を叩きのめしているか!いわゆる、出羽の守である。
ましてや一般人でなく少なくとも作家であるにも拘らず。
知性と柔軟性が欠ける事夥しい。当時の明治社会だけでなく
日本人そのものを侮蔑の目で見ているのである。
日本の自然景観にまで貶しまくる神経には恐れ入る。
こういう人間に、何故文化勲章を与えたのか謎である。 新潮文庫の濹東綺譚とふらんす物語とで背表紙の色が違うのが気になって仕方がないんだが 一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。 なんか偏屈で俺は価値あると思うが。
内田百閧セってそうだろが。
その時代の小説家なんだよ。
それは解ったほうがいい。 幸徳事件だかの時の検閲か何かの拍子に
たかが売文の徒が自分のやってる事を自分で芸術って言うのがね
どこまでうぬぼれてんだよって思うわ
表現の自由がままならないのを官憲のために芸術の品位を
落とさなきゃならなかったとかなんとか
自称文化人気取りっていっつも海外行って「世界から見ると日本がこんなに遅れてる」って
バカのひとつ覚えのように繰り返しているだけで150年くらい前から何も進歩してねえよな
パリが世界文化最先端?だから何だって思うわ
そういう連中って日本の浮世絵とか江戸時代から続いていた町の職人技とかが紹介されると
苦虫噛み潰したようなツラして気持ち悪がっているよな
なんでそこまで日本を憎めるのかが不思議でしょうがないわ 永井荷風のこと?
彼はむしろ近代日本に背を向けて江戸から残ってる文化の中に逃げていった人でしょ 濹東綺譚を読んだ。あめりか物語はあんまり面白くないね。ふらんすの方は面白いのに 谷崎はあめりか物語、ふらんす物語派なんだよな。
江戸回帰後の荷風を寂しく見ていた。
昭和モダニズムに接近した荷風を改めて評価した。 >>538
どういう意味で?
何かソースがあったら確認する。全集持ってるから。 13日
漸く断腸亭下巻を手にゐれる 随筆集と合わせて弐冊百五拾圓也
此れより永井先生著書と一緒と思うと嬉し。
16日
所要にて川崎にゐたり、待ち時間別の書店にて永井先生著書を探す。
先日購入の本有り。使い古した変色したる状態なるも各四百拾円といふ。
合わせて八百廿円、高し。
笑うべし >>541
手にゐれる→手にいれる
合わせて→合はせて
思うと→思ふと
笑うべし →笑ふべし
荷風先生が草葉の蔭で泣いてをるぞ >>此れより永井先生著書と一緒と思うと嬉し。
わかる。それでいいじゃないか。 >>542
過日。
頭でっかちの自称文芸評論家が、
新進気鋭の作家について
些末な誤字脱字を指摘する際に
「洒落もない身なりと言葉で話す、
そんな君のような野暮が一番つまらん。」
とたまたま出くわした永井先生は一喝し
踵を返して連れの遊女と去っていった。
西洋を上っ面だけで真似するごとく
野暮と言うのは
実に深い罪である。
ああ嘆かわしい 谷崎潤一郎に永井荷風が好む女はとにかく汚らしいですから嫌ですねとか永井荷風との対談だかで言ってたのは笑った 浮世風呂
東海道中膝栗毛
偐紫田舎源氏
梅暦
椿説弓張月
南総里見八犬伝
安愚楽鍋
他に必読の江戸戯作ってありますか? >>551
傾城買四十八手(山東京伝)や江島其磧の気質物も外せない 「一人荷風氏ばかりではないが、それにしてもそういう人たちの懐古趣味がせいぜい徳川末期、化政頃の戯作者の世界にと
どまって、それより古い時代に遡る者の少ないのは何故であろう。何故彼らは江戸文学の狭い範囲にのみ跼蹐して、室町、
慶長、元禄頃の上方文学の広い領域へ目を向けないのであろう。比較的近代の産物である江戸情緒のみが特にそういう人た
ちに牽引力を及ぼすらしいのを私は不思議におもうのである」谷崎潤一郎『つゆのあとさきを読む』 http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49658_37661.html
永井荷風は建築に対する見識も卓越している
戦前よりもさらに醜悪になった今の日本の風景を見たら永井荷風はどう思うだろうか >>546
谷崎だったら蓼食う虫も好き好きと言って欲しかった GWに帰省したら四畳半襖の下張りの初版本?が見つかった
限定千部で奥付も記載されてなかったから本物だと思う >>562
ってことは三希洞文庫版ですね
うらやましい限りです。 公衆便所とセックスできるかよw
気持ち悪くて勃起しないなw 戦後の赤線時代の吉原って江戸時代以来の遊郭と言うより吉原ソープ街に繋がる雰囲気だったんだな…
江戸時代以来の花魁道中とかやってる吉原遊郭はいつ頃絶えたんだろう?… 吉原炎上って 昔の映画あるけど ネット世代も尊敬してるんでしょうねえ。
円嬢。 荷風は女を人間として見ていなかった
みたいな批評した三島由紀夫 玉の井は荷風は情緒的に描いたけど今の風俗街的ないかがわしい雰囲気のとこだったのかなあ 蚊がぷんぷん飛んでて汚い溝川だけどその底辺勘感を気に入ったんだろう
香港の九龍城とか昔の治安の悪かった歌舞伎町を懐かしむようなもんだ 荷風が通ってた頃の玉の井はいわゆるちょんの間ってやつ? >>573
谷崎潤一郎も荷風先生は女は自分より遥か下の物としてみていたって言ってたね 荷風が生きてたら吉原ソープ街、川崎堀之内ソープ街、歌舞伎町、西川口あたりを美しく描いただろうな。
キャバ嬢を主人公に小説書いたかもしれん。 金にがめつい今のバイタどもを主人公にしねぇやろバイタ以上でもそれ以下でもない 荷風は墨東奇譚が例外的で基本は自然主義の手法でカスみたいな人々を描いた作家じゃないの? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 一九四四年五月二十九日付 谷崎潤一郎宛書簡
拝復
陳者其後御変もなく筆硯益御多祥欣慰の至に奉存候
小生もまづまづ無事に罷在候得共
毎日の食物殊に菜蔬がなくなり候に付閉口致居候
何処へも行くところ無き為巳むを得ず机に向居候
扨短篇小説も本年になり二ツつくり申候
洋本もフローベルの物など二度ヅツ読返し居候
浅草公園ではJazzの音楽も踊もいよいよ禁止となり
震災後一世を風靡致せし流行唄も
ここにて一時消滅と存候
歌舞伎もなくなり
豊後節三流の浄瑠璃も
芝居と共に断絶致べく
誠に不思議の世となり申候
兎に角養生致し世の終りを見届けたきものと
それを楽しみに日を暮居候
拙宅近辺ハ民家追払の噂無之候
笄町より広尾川南岸が取払の由
麻布光林寺に葬られしヒウスケンは
地下にて何と思居候や
御返事のみ 匆々 不宣
申 五月三十日 ラジオNHK第2で朗読されているね
踊子 勲章 草紅葉 心づくし 裸体談義 だって 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会