ドン・キホーテ
>>94 ドン・キホーテ、言葉と物でぐぐると、たくさんページ見つかるから、それだけでも なんとなく意味分かるかも。 つーか、この辺りの話を全く知らなかったら、史上最高の小説だって言われても、分かりようがないと思う。 ドンキホーテって、書かれた当時(そしてそれから数100年間)は、評価大して高くなかったんだよねぇ。 このスレの住人と同じような素朴な読み方をされていたから。 どのような一貫した思考で書かれているかが研究されてきて、初めて本当の価値が理解されるようになった。 >>98 理屈を知らなくて理解できる人ってすごいですね 理屈無しに文学を理解できる、なんて幻想を持たせた日本の国語教育の罪は重い 島田雅彦によると、ドン・キホーテは世界最初の小説。 それ以前に存在したのは物語。 読んで自分が面白いと感じたところからしか理屈を考えようがない >>66 あんた、なんにもわかっちゃいない。 『ドン・キホーテ』が『ラ・マンチャ』で 本質が理解できるぐらい底が浅けりゃ、 古典になってるわけがない。 そもそも、喜劇的な人物の描写なんて、テーマでもなんでもないし。 一番上っ面の部分。 ほとんど連作みたいなものだから、 読みたい時に読んで飽きたらキリの良いところでいつでも中断できるのがいい 俺も全6冊買った 俺はワイド版岩波文庫にした 読むのが楽しみだ 躊躇してましたが、ようやく読み出しました。 自分も岩波文庫の牛島訳。 さっそく前編2,3と後編3刷アマゾンに注文。 楽しみですわ。 ちなみに直近の読了は下町ロケットね。 モコは お風呂に入ることはない。 なぜなら汚れない。 自浄作用がある* モコは少量のザーメンなら妊娠しない☆ 少量のザーメンなら血液に精液のホルモンが混じって かえって体にイイ* 潮崎クンのようにチンポの小さい子はチンポレプリカではなく ケツマンコのレプリカ… つまり アナルテンガのようなモノでもいい* そういうのを発売させたらどうだろうか?☆ 昨日の『しゃべくり007』にモコの大好きな ももいろクローバーZが出ていたな* あなたのハートに タイキック!☆ ももいろクローバーZの筋肉疲労はスゴイから 彼女たちには常にマッサージ師が付いているそうだ* バナナマンから貰った団体芸(夏菜子を囲んだメンバーが、 夏菜子の拳を突き上げるポーズで立ちあがると共に 全員四方にぶっ飛ばされて倒れる) は、 しゃべくり007で完全にスベったな* 焦ってorネタの練り込み不足で溜めや作りがほとんど効いてなかったな☆ 一度練り直しがいるな * しゃべくり007みたいな番組は芸人達に全部持っていかれるから難しいな☆ れにちゃんは舌出し馬面より「ヒラメ顔(?)」みたいのをヤケに推してるな* トータル見たら、モコの中ではあかりんも居た前回の方が上だったな☆ 中学校の武道にプロレスを入れたら どんな授業になるだろう? * 男同士、息を荒げ肌を合わせることでしか見えないものがある。 中学のうちからそういったものに触れることは意義深い☆ 軍団抗争中の相手とはたとえ学校の外であろうが 一緒にいるところを他人に見られてはならない* 修学旅行のバスは軍団別に分かれて乗る☆ ニック ボッキウインクルモコ* ニッカポッカ ウィンクルモコ☆ ノアなんてまだイイほうだろ☆ 吉本興業の若手なんかは もっとヤクザに搾取されてっだろ* 泉田竜角クラスで9000万円も持ってること自体、おかしいんだよ!☆ フーディーニ バーニーヒル トーマス・F・マンテル ライヒ ケネス・アーノルド フェデリコ・フェリーニ ジム・モリソン ガスパール・ハウザー エルビス ザッパ ツタンカーメン コナン・ドイル そして風船おじさん!* 筋肉少女帯 『飼い犬が手を噛むので』に登場する☆ モコも闘争の輪の中なんだヨ 自分だけコントロールルームにいます気分はダメですヨ* 自称上院議員、エドガー・ベインズ! あいつもモコ同様、経歴詐称の畜生だった☆ 自分では上院議員だと名乗っておきながら、 実際はテキサスの乞食であることがニート社の調査でわかった(笑)☆ だいたい、あの時もマスコミ対応で、 大恩あるニート社にどれほど迷惑を掛けたと思っているんだ? エドがーの野郎!! 許せねーよ 雪見大福みたいな肌しやがって!* あいつの調子に乗ったチョビヒゲを思い出すだけでも不快だな(笑)☆ それにあいつは経歴詐称がバレたことが恥ずかしいのか、 真夏でも帽子をかぶり、サングラスをかけて外に出る。 「この暑いのに、あんな変装をして。 とうとう狂ってしまったんじゃないか」と目撃した人は語っている☆ とてもじゃないが常人の格好じゃない。 病気じゃないのか(大笑い)* よっぽど悪いことをやっているやつか「遊び人」の証拠だよ(大笑い)☆ 卑しく貯め込んだ金で遊び回っている異常者だよ。 ニート名誉会長は『人間の本質は必ず姿に現れる』と説いておられる。 そういう狂った姿を平然としていること自体 人間としてもインチキの証拠だ* 自分は今まで勉強とかスポーツとかに熱中するのが しっくりこないという思いを抱いてきた。 ボールを蹴っても、方程式を解いてもそれを繰り返して 一体どこにいけるのかがわからなかった。だけどみんな 目を輝かせて部活や勉強にいそしんでいたから自分も それを真似てみた。けどやっぱりなんか違うな、という 思いはぬぐえなかった。 で、ドンキホーテを読んで、キホーテが風車に突っ込む シーンを見てふと気づいた。自分はこれに違和感を 覚えていたんだと。自分にはみんなが風車に突っ込んで いっているように見えていた。そんなことをしてなんに なる?ずっとそう心のどこかで問いかけ続けていた。 俺はちょっと絶望しかけた。俺はもう十分大人だった から、もうドンキホーテにはなれない。風車に 突っ込むなんて真似は俺にはできない。だけどそこで 思い出した。ドンキホーテなんて50を超えた老人 だったじゃないか。そんな老人でも風車に突っ込んで いいなら、もう世界はなんでもありじゃないか。 そう思いなおした。 俺はドンキホーテを時々涙ぐみながら読んだよ。 現代における、幻想の正当な扱い方みたいなものを 教えてくれたような気がしたから。幻想とか空想とか そういうのを人一倍馬鹿にしてきたから、俺は なおさらそう思うよ。 大抵の人はそういう面倒な気持をぐっとこらえて 勉強や部活に精を出してるのであって 目を輝かせた奴なんてごく一部にすぎないだろ みんな外見ほど楽しいとは思ってないんだろう なとは俺も思ってたし思うようにしてたけど、けど やっぱ他人が一生懸命やっているのを見ると すごい楽しそうにみえるんだよね。 そりゃあ俺だって一時的にすごくやる気が 出るときはあるさ。そういう時はまわりの ことは気にならないけど、落ち込んだときがね。 周りが楽しそうに見えて仕方がないのさ。 まあそういう落ち込んだ気分のときにドンキホーテを 読むと笑えるし、元気になるから俺は好きだな、 というところかな。 お前らこれ買う? 彩流社 『新訳 ドン・キホーテ(上)』 セルバンテス/岩根圀和:訳 11/22 ¥4,725 彩流社 『新訳 ドン・キホーテ(下)』 セルバンテス/岩根圀和:訳 11/22 ¥4,725 岩波の牛島訳で読んだがめちゃくちゃに面白かった。 特に最後の章では号泣した。 これを読んでキホーテとサンチョを好きにならない奴はいない。 前編だけ読んで後編まで読んでない人がいたら勿体ない! 会田雄訳が大好き 小難しいとこもあるけどそれはそれで良い 風車を悪魔と思い槍で突撃する。 これが人間の姿だ。 狂っている? いや、そういうものだ。 まだ岩波の前編の3巻の途中までしか読んでないけど、サンチョがいい味出してるな よほどトラウマになってるのか、ケット上げを何度も言い立ててるのが笑える サンチョのケット上げとロバにたいする思い入れは異常。 サンチョ、マジで面白いよな 灰色との友情には萌える 後編の後半になると、贋作の悪口がしばしばでてきて笑える セルバンテスはよほど腹に据えかねてたんだなw >>70 そう感じる人って結構いるのかな。 まあそれはそれで一つの読み方だと思うけど 「ドン・キホーテ」(1巻だけ、岩波文庫) セルバンテス 44位/172作品。翻訳小説SF以外。 第一部で遍歴の騎士として旅に出て、風車に突撃する。第二部で、思い姫が エル・トボーソ家のドゥルシネーアであることを語る。そこまでは面白くない。 面白くなるのは、第三部からで、喧嘩して棍棒で打ち付けられて負けてしまう。 宿屋を城と思い込み、思い姫がいるにも関わらず、美しい姫すなわち宿屋の娘と 逢引しようとしてお断りの一撃をくらい、宿屋は魔法のかかった城だったのだと解釈する。 さらに、羊の大群の砂埃を軍隊の合戦だと思い込み、突撃して歯を二本なくす。 従者のサンチョ・パンサに島の領主にしてやると約束している。なかなか笑える。 >>140 あんたいいかげんに読んでるわ。 斜め読みした。 だいぶ間違えてるぞ。 >従者のサンチョ・パンサに島の領主にしてやると約束している。 ここのところが一番の山場だね 貴族夫婦の諧謔がたまらない スペインポルトガルは南米宗主。 そこが狂って、アメも狂った。それとも、アメはいつも甘いかね。 教えてやらない。 恥をかきたくなけれは、 自分で時間と労力を使って読むことだ。 >貴族夫婦の諧謔がたまらない あんな素晴らしい情景を私は知らない >>146 二回も読むほど面白くはないな。このままいく。 >>140 わざとか?っていうくらい読めていない。ほんとに記憶力ないんだw 子供向けにリライトされた版で読むことをお薦めする。 ×第二部で、思い姫が ○前編第1章(第一部)、旅立ち前の一連の名付け行為(ロシナンテ、ドン・キホーテ)の際に、 思い姫の名をドゥルシネーア・デル・トポーソと定める(岩波文庫p.58)。 なお、エル・トボーソ家ではなく、トポーソ村(の田舎娘アルドンサ・ロレンソ)。 ×お断りの一撃をくらい ○前編第16章(第三部)、ドン・キホーテに一撃を喰らわせたのは、馬丁(p.287)。 ×突撃して歯を二本なくす。 ○前編第18章(第三部)、あばらを二本折られ、前歯や奥歯を三、四本折られ、手の指を 二本叩き潰された。後で調べたところ、右下奥歯は2本と半分、右上奥歯は0本になっていた(p.327-328) なお、サンチョに島の領主の約束をするのは、第一部でサンチョを従士にスカウトしたとき(前編第7章、p.134) >>149 その程度のまちがいあら現状維持でいいや。 ただ、第二部の説明はうまくないな。なんか、騎士道物語についていろいろ語っていたはずだが。 「紆余曲折に満ちたドン・キホーテの冒険は、そのままルネッサンス−古典主義時代と 近代との境界線を描いている。ルネッサンス世界では書物こそが真実であった。 ドン・キホーテもまた、騎士道物語という書物を真実とみなし、世界を騎士道物語に沿って 読み解こうとする。家畜の群れ、女中、旅籠は、ごくわずかでも軍勢、貴婦人、城に似ている かぎり騎士道物語の言葉として解読される。それを補完するのが魔法使いである。 しかし、公爵夫妻に代表される残酷な近代的理性が、ドン・キホーテのこの努力をはてしなくもてあそぶ。 ドン・キホーテの冒険すなわち騎士道物語によって世界を読み解くことは、ついに幻滅に終わる。 『ドン・キホーテ』はそれゆえに、近代の最初の作品である」 ミシェル・フーコーの「ドン・キホーテ」評の要約。まあ、そうだよねという妥当な評価だと思う。 原文にあたりたい人は、「言葉と物」第三章第一節ドン・キホーテを参照してください。 ドン・キホーテは豊かな作品なので、様々な解釈や感想があるのが当然だと思う。 ただ、前後編を読了した人なら、これが冒険活劇ではなく、対話劇だということには ほとんどが賛成するだろう。 個人的には、全編を読み終えて、非常に怖いことが書かれている小説だと思う。 書物という毒にあてられた主人公が、ついに破滅する話だと読めるからだ。 ドン・キホーテは騎士道物語を信じた。一見滑稽だが、実は笑えない。 今では、誰しもが書物から得たなんらかの世界観を信じているからだ。 文学であれ、哲学であれ、経済学であれ、自然科学であれ、「書かれたことを 信じている」点においては、騎士道物語と変わらない。 ドン・キホーテをからかう登場人物たちにしても、その信念が正しいと保証されて いるわけではない。 救いがあるとすれば、最期のドン・キホーテの呪詛に反して、身近な人々がむしろ 狂気にかられていた頃のドン・キホーテを愛惜することだろう。 二巻の第三部が読み終わったが、つまらないなあ。 面白いのは1巻だけかなあ? ドン・キホーテが苦行のため山籠もりして、サンチョ・パンサが手紙を ドゥルシネーアに届け損ねたけど、あとはドン・フェルナンドとかいうやつの 失恋物語が書いてあるだけだった。ネタ切れ感を漂わせている。 「ドン・キホーテ」(2巻、岩波文庫) セルバンテス 44位/172作品。翻訳小説SF以外。 2巻はつまらない。囚人が「わたしは恋をしたために捕まったのです」という場面が 印象的だが、あとはつまらないどうでもいい話がつづくだけ。 ドン・キホーテがフルちんで逆立ちしていたがどうでもいいだろう。 この本は、1巻だけ読めば充分なのではないのだろうか? >>154 >現状維持でいいや。 で、あれ?何かレビューを書き溜めているのかもと思って、検索で記憶さんの 読書メーターを拝見しました。SFの特に短篇がお好きなようで、なるほどドン・キホーテは 記憶さんとは相性が悪そうですね。ドン・キホーテは漱石の猫やスターンのトリストラム・シャンディ なんかに似ていて、長い漫談や薀蓄、17世紀スペインの風俗、語りの技法をのんびり楽しむ本だと 思いますから。 >>155 >この本は、1巻だけ読めば充分なのではないのだろうか? 余計なお世話ですが、記憶さんの嗜好を考量すると、ドン・キホーテ前後編6巻を 通読する必要はないかもですね。あとは後編の3巻(6巻目)だけ読んで、ラストを確認 するのが(ラストを読まないのは勿体ないから)おすすめです。 サンチョは何巻で王さまになるの? あと、ドン・キホーテがスペインの正統なる王という漫画ワンピースの 記述についてはどう思う? >>158 「島」の領主になるのは、後編二(第5巻目)。 ワンピースを読んでいないから文脈・解釈が判らないけど、ドン・キホーテを 読むかぎり、スペインの正統なる王ではないし、そういうほのめかしもない。 キリストのパロディ的存在というほのめかしは随所にある。 「ドン・キホーテ」(〜3巻、岩波文庫) セルバンテス 44位/172作品。翻訳小説SF以外。 3巻の前半は捕虜の告白でたいへんつまらない。ドン・キホーテの話となる後半は まだ少しは面白く、意地でも宿代を払わないドン・キホーテは暴れて逮捕されてしまう。 そののち、魔法にかけられたと思い込んでるドン・キホーテは枷をはめられ、故郷まで護送される。 いったいどのようにドン・キホーテが釈放されたのかわからなかった。 が、ドン・キホーテと司祭が語る遍歴の騎士の物語が嘘が本当かの議論は 現代の日本にも通じるところがあり、面白い。ドン・キホーテは前編3巻の最後で死について記述され物語は完結している。 今堀口大學の邦訳読んでる なぜ仏文学者がスペインの作品を、とも思うがなかなか面白い 世の中には単なる風車を相手にムキになるバカと、単なる風車の クセに威張るバカがいる。 カラスコは頭が良くて意地悪くユーモアがあると強調されているが設定負けしてる感がある いっそ敵なり味方なり騎士に成りきって悪戯したほうが面白かったな 新潮マンガのドンキホーテ読んだ ドルシネアの解釈とかオリジナル展開なんだろうけど笑って泣けた ドストエフスキーがなんでドンキホーテを絶賛しているのかわからない こう寒いとなかなか進まない 続編の百姓の婚礼話で止まっている サンチョのふとく逞しき尻に、鞭を三千三百・・・ なぜサンチョの尻www >>140 >宿屋の娘と 逢引しようとして 逢い引きしようとしたんじゃなくて、 言い寄られると思って断ったんだよね? 会田由 訳で読んでるが 本文はいいんだが詩が古語を使うから何言ってるかわかんねえんだよ あれやめてくれないかな ラ・ガラテアも読んだけど 「げに」だの「きこしめせ」だの「みほますし」だの死んだ言葉を使わないで欲しい 第23号 2015年11月30日発行 ACUEDUCTO Nº22 今年2015年はスペインの生んだ世界的名著セルバンテス作『ドン・キホーテ』後篇刊行. 400周年の記念の年 http://www.acueducto.jp/acueducto23.pdf ドゥルシネーアが実はイスラム教徒だというのは普通に読んでいても気づかない ツイッターに小説「ドン・キホーテ」、投稿回数1万7000回 2016年04月20日 http://www.afpbb.com/articles/-/3084580 【4月20日 AFP】作家ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes)の小説「ドン・キホーテ(Don Quixote)」が、 ツイッター(Twitter)に投稿されている──。ツイッターには140文字の制限があるため、投稿にあたり作品は分割された。 今年はセルバンテス没後400周年に当たる。 小説を投稿しているのは、バルセロナ(Barcelona)に住む元コンピューター技術者のディエゴ・ブエンディーア(Diego Buendia)さん(55)。 ブエンディーアさんはこの妄想の騎士の物語を、アルゴリズムを用いて約1万7000片に分け、アカウント@elquijote1605に毎日28片を投稿している。 同アカウントのフォロワーは7500人を超える。スペインのマリアノ・ラホイ(Mariano Rajoy)首相もその一人だ。 最後のツイートは、セルバンテスの命日にあたる22日の正午に、アルカサル・デ・サンフアン(Alcazar de San Juan)村から投稿される予定。 スペイン中部地域ラ・マンチャ(La Mancha)に位置するこの村は、同作家の生誕地と主張している。 公式の伝記では、その生誕地は首都マドリード(Madrid)近郊のアルカラ・デ・エナーレス(Alcala de Henares)となっている。(c)AFP ミゲル・デ・セルバンテス没後400周年を記念し、アジアを代表するスペイン語圏文化研究者 岡村一氏、清水憲男氏、パク・チュル氏が「ドン・キホーテ」翻訳について語ります。 この文学史に残る名作を多言語に翻訳する上で重要な言語学的、文化的難しさ、 また読者と作品の関係性、そして幾通りも存在しうる解釈についてなど、興味深いテーマを取り上げます。 文学、言語、スペイン文化を愛する全てのみなさんにご参加いただきたいシンポジウムです。 日本語の同時通訳あり。ご出席いただいた方にはご希望で証明書を発行いたします。 講演終了後にはスペインワインのカクテルレセプションがございます。 開催日:5月19日(木)18時より 会場:セルバンテス文化センター東京オーディトリアム(B1) 言語:スペイン語・日本語 このとき、もう近づいた明け方の寒さのせいか、それともサンチョが何か腹のゆるむ物でも食べたのか、 またそれとも、自然のことだったのか(一番そうらしく思えるのはこれだが)、 人には代わりを頼めないことをする意志と願いが従士(サンチョ)にわいた。 しかし、心に根を張った恐れがあまりに大きかったので、一ミリたりとも主人から身を話す気になれなかった。 といって、したいことをしないですますことは、やはりできなかった。 そこで、二つのことを一度にしようとしてしたのが、主人の鞍の後輪にかけていた右の手を離すことだった。 そうして、たくみに音も出さずに、ズボンのひもをほどいた。ズボンが花結び一つきりで留められてあったのだ。 ひもがほどけたズボンはすぐにずり落ちて、足かせのようになった。 サンチョはそれを待って、シャツをできるだけまくりあげ、あまり小さくない尻っぺたを外気に突き出した。 これを、当人は、今の恐ろしい状況と苦しい思いから抜け出すためにしなければならないことの山と考えたようだが、 その山を超えると、もっと大きな困難にぶつかった。というのは、音を立てずに○○○をすることが難しく思えたのである。 そこで歯を食いしばり、肩をすぼめて、できるだけ息をつめた。 しかし、それほど気をつけたにもかかわらず、なさけなや、 わずかばかりの音−従士をあんなにおびえさせた音とはかなりちがったもの−を、とうとう立ててしまった。 すると、ドン・キホ−テが聞きつけて言った。 「今のは何の音じゃな、サンチョ」。 「知りましねえだよ、旦那様」と従士は答えた。「何か新しいことだべ。冒険や不幸はつれを呼ぶものだからね」。 再び運をためした。今度はすばらしくうまくいって、前のような音もさわぎもなく、あれほどつらい思いのお荷物を、きれいに落としてしまった。 ところが、ドン・キホ−テは、耳が鋭かったように、鼻もよくきいたし、 サンチョがぴったり抱きついて、湯気をほとんど一直線に立ち上らせたので、においが騎士の鼻に届かないですむってことにはいかなかった。 だから、においをかぐやいなや、しのぎのために指二本で鼻をつまんだ。そうして、多少ふにゃふにゃ声で、こう言った。 「サンチョ、おまえは大そうおびえとるらしいぞ」。 「はい、おびえとりますだ。けんど、それがおめえ様に今とりわけどうして知れますだね」 「今とりわけおまえが臭うからじゃ。しかも、香水の匂いではないな」。 「そうかもしれねえけんど。わしが悪いでなく、おめえ様がわしをこんなま夜中に、こんなさびしい場所へつれてきたせいでがす」。 「3歩か4歩むこうにどいておくれよ、わしの友」とドン・キホ−テは始終指を鼻わしから離さないで言った。 「そして、今後は身の分を忘れず、わしに対する礼を守らっしゃい」 聖ゲオルギオス(カタルーニャ語: サン・ジョルディ)は、ドラゴン退治の伝承を持つキリスト教の聖人で、カタルーニャ地方の守護聖人である。 4月23日はこの聖人が殉教した命日で、これを記念して聖名祝日となっている。 カタルーニャでは、伝統的にこの祝日に男女が赤いバラなどを贈りあうという、バレンタインデーと似た風習があった。 聖ゲオルギオスが退治したドラゴンの血が赤いバラになったという伝承があり、中世以来聖ゲオルギオスは赤いバラと結び付けられていた。 このためサン・ジョルディの日は「バラの日」(El dia de la Rosa)とも呼ばれている。 サン・ジョルディの日は「本の日」(El dia del Llibre)としても知られているが、 この日に本を贈るという風習は、20世紀初頭に始まった比較的浅い伝統である。 4月23日は、小説『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの命日(1616年)であり、 さらにシェイクスピアの伝説上の誕生日(1564年)であって命日(1616年)である。 こうした4月23日の文豪との縁と、サン・ジョルディの日の贈答の風習と結び付け、 1923年にカタルーニャ地方の本屋が本を贈ろうというプロモーションを始め、プレゼント用に本を買うと赤いバラを添えるようになった。 バルセロナはカタルーニャ語・スペイン語双方の出版の中心地であったこともあり、この風習は広く受け入れられた。 「だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、 他のどの商品とも、たとえそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、 魂だけでなくからだまでも取り替えようと絶えず待ちかまえている」。 『資本論』 「旅籠にはまた、顔が横に広くて首が短く、鼻はぺっちゃんこで片目がつぶれ、 おまけに残った目もあまりきれいとは言えないアストゥリアス生まれの若い娘が、女中として働いていた。 もっとも、彼女のいかにも愛敬のあるしぐさが、こうした欠点を補っているのも事実であった」 「そして心やさしいマリトルネスは、従士の疲労ひろう困憊こんぱいの様子を見てとると、 この際彼に必要なのは冷たい水であろうと判断し、わざわざ井戸まで行って水差しに水を汲んできた」(前篇第16章)。 歴史と世代について、スペインの哲学者オルテガは独特の「世代論」を述べている。(「ガリレイをめぐって」1933年、著作集第4巻) 次下、その要約と抜粋である(対象は主に思想家、科学者である)。 ― 特定の時代の転換点を示す決定的な世代について、確固たる明瞭さで示してくれる変革者(例えば17世紀前半のデカルト)を見つけ出し、 これを基に世代区分を行おうとする考えである。 世代を30歳〜45歳、45歳〜60歳というように15年ごとに区分する。 そして例えば、ヨーロッパ史において1627年(デカルトが30歳)はデカルトの世代の日付、 直前の世代は1611年のホッブス、グロティウスの世代、 その前の世代は1596年のガリレイ、ケプラー、ベイコンの世代、 その前の1581年はセルバンテス、ブルーノの世代、 その前の1566年はモンテーニュ、ボタンの世代、 その前は、気の毒だが偉大な人物の出なかった世代、となる。 つまり、世代は個々人とは離れた客観的、歴史的な性格のものであり、 一人ひとりの個人は(自分の歳の30歳の時点をもとに)、ある世代に属したり、双方の世代にはさまれたりすることになる。 つまり、30歳〜45歳までの世代と45歳〜60歳までの二つの世代は、 同じ問題に向って互いに同時代人として、違った年齢層の精神をもって優位を争う (その世代が前の世代に反抗しこれを乗り越えようとする。しかし、若い世代が誤って考えているような世代間の戦いという意味ではない)。 従って、世代間の論争において、30代の男たちが支配的な立場にある男たちを相手に戦うにあたって、 さらにもう一つ前の世代の長老に忠告と援助を乞うということがしばしば見られるのである。 また、ひとつの世代の女性たちは偶然的になどではなく、運命的に同じ世代の男たちよりも、いくぶん若いということであって、 これは、想像する以上に重要な事実である。 http://www.nishikawa-issei.com/past/nituki/nituki200409.html 『I Drink Upon Occasion Sometimes Upon No Occasion - Don Quixote』 read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる