詩にかえて
深刻そうなこと、利口そうなことを、ナイーブらしいことを、ひとをたぶらかすそんなゼスチュアで自分もごまかされたさに、君、詩なんておかしくって書けるか(ね、心平ちゃん)。

だが、そんな僕だって、航海を考えるとき、いいな、航海は、実に。
……水は元来酔っぱらいで、水の底の小ぐらい宙ぶらりんを、木の葉をそめるま青さでとかすその色を、のびちぢむてすりからのぞいてた、ふみとどまれぬ一点を、流される思想を……。

そのからふみの波のうえに、婚礼のような御馳走をならべ立てる大食堂が走るのを思うとき、僕はこの文明の根底が秤〔かんかん〕にかかっているのをはっきりみた。
僕は、宙ぶらりんよりほかに、もう陸などへどこへも帰りたいと思わなかった。
あの頃の漂泊の僕の心には、多分、「詩」があったようだ。いや、僕が海といっしょに、酔っぱらっていたのかもしれない。
(金子光晴「歴程」昭和11年4月)