「私とは何か、人間とは何か」。それは小説には常に書かれ、いつの時代でも
今日でも、常に進行中の近代化過程の上部構造として、つまり常に失われてい
く自己の補償装置として、小説は存在について象徴的なものの閉域内部で考え、
あるいは考えるふりをする。それは私や人間の「意味」、つまり私や人間の性
行為、私や人間の生産活動、私や人間の病気や死の、意味を語る。夏目漱石の
時代でも今日でも、人間の意味はこうだと言い、意味はないと言い、こうすれ
ば意味を忘れるくらい気持ちいいと言い、やはり忘れられなかったと言い、何
とかしてくれと言い、そんなことは言うなと言い、何も言いたくないと言う。
 それらは臨床社会学的、文芸評論的、歴史学的な価値をもつ。つまり知的、
芸術的観点からは、一行の例外もなくゴミ屑であり、既に哲学という「意識」
内部で分節されたことの、大衆版、発展途上国版だ。