あたりは静かだ。社殿の外にある高い岩の間から落ちる清水の音よりほかに
耳に入るものもない。ちやうど半蔵が坐つたところからよく見える壁の上には、
二つの大きな天狗の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永年代から
、あるひはもつとずつと古くからの講社や信徒の名を連ねた種々な額が奉納
してあつて、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の
名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を
濃厚ならしめるのもあるが、殊にその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。
耳のあたりまで裂けて牙歯のある口は獣のものに近く、隆い鼻は鳥のものに
近く、黄金の色に光つた眼は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の
野生と、翼を持つ鳥の自由と、神秘を体得した神人の霊性とを兼ね具へた
やうなのがその天狗だ。製作者はまたその面に男女両性を与へ、山岳的な
風貌をも附け添へてある。例へば、杉の葉の長く垂れ下つたやうな粗い髪、
延び放題に延びた草のやうな髯。あだかも暗い中世はそんなところにも
残つて、半蔵の眼の前に光つてゐるかのやうに見える。


鳥肌が立つ。