【特設】埴谷雄高【般若】
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難解で引き込まれるような文章を書きますが、あまり語られることのない埴谷雄高について語りましょう
●荒らしはスルーしましょう
>>44
ありがとう。
らしいようならしくないような。 >>45
極端にデフォルメ化された手を想像してみよう。
例えば、オバケのQ太郎の様な。 >>46
なあるほど。
埴谷を読むにもこのくらいの抽象力が必要だったねw ところで、「死霊」に出てくる女たちは現実社会の体現者として表現されていると思うが、風貌も性格も類型的にすぎるのではないだろうか?
皆さんはどう思いますか? 何処の世界に処女の売春婦が実在するのかね
ああ〜、スマソ、一章も読み切れないヘタレだったな >>51
なるほど。
君の読書歴には「罪と罰」は入っているかな? 好いねぇ〜、この涙目の沈黙w
自分が読んだ小説をどんどん挙げてってみなよ
でないと反撃しちゃうぞ
ミルトン「失楽園」(渡辺淳一でも好いぞ)、ダンテ「神曲」、平野「日蝕」、三島「豊饒の海」(二・四巻が壮絶) カント「純粋理性批判」、ニ−チェ「ツァラ」、ハイデガー「時間と存在」(上巻でリタイヤ) さ〜て、どんな負け惜しみが聞けるか楽しみだ
オレを失望させるなよ >>53
ずっと2chに張り付いているわけじゃないんで、レスが遅くなって悪かったね。
罪と罰を読んでいなくても別にいいんだよ。
ソーニャという娼婦と比べてみて、どう思うかと聞きたかっただけだから。
思い出せなければ、別のこと書くからそれでいいよ。 >>57
ドストの小説の登場人物と比べて、類型的ってのも悲しいな
実際の売春婦ってのを知ってるのかい? 好いねぇ〜、この涙目の沈黙w
もう寝た事にしとけよ
月光の中に現われる節子は誰の類型なんだろうね
その前に死体で出てくるが >>58
まず、「類型的」という言葉の意味を説明しないといけないみたいだね。
自分の書いた「類型的」というのは、書かれた当時の一般的(多数)なイメージで表現されているという意味だ。
つぎに、「現実社会の体現者」という言葉の意味を説明しよう。
「死霊」がそれぞれの登場人物にそれぞれの理念を表現させていることは、たぶん異論を挿む人は少ないだろう。
その意味で、「死霊」では女に現実社会を表現させていると書いた。
「体現」と書いたのは、語ったり行動したり風貌だったりする小説としての人間像だからだ。
象徴させている、といっても同じことだ。
こういうことを前提に、「死霊」の女は類型的だ、と書いたんだ。 >>61
好いねぇ〜、(以下略)
で、何が云いたい
あんたがやってた事は、自分の手の内を示さずに駆け引きしてただけだろ
それは ディベート というもんだ、一応クギを刺しておくからな
提示された論点が的外れなのは置くとして、
「死霊」の女は類型的だ、というコトを具体的に説明してみなよ
そうだな〜、津田夫人、三輪夫人、尾木恒子、この三人に絞ろう
「現実社会の体現者」はこの三人くらいだ >>62
他人がすぐにレスしないと、涙目の沈黙w、とか書いてるのに、君のレスも遅かったね。
人にはそれぞれ都合があるんだ。
駆け引き、という見方についても説明しておこう。
こういう短文のやり取りでは、話を噛み合わせるだけでいくつかの前提とするやり取りが必要だ。
そうしないとそれぞれ自分の思い込みで相手のレスを判断してしまう。
結局は罵倒合戦になって、罵詈雑言のレパが多いほうの勝ち、みたいな2chによくある流れになりやすい。
参加者が多ければそれでもいいが、相手を見つけるのも大変なマイナースレだと、それで誰もいなくなった、ということになってしまう。
だから、ゆっくりひとつづつ言葉を確認しながら進めていきたいのだ。
それから、また後だしみたいに思われてもいけないから書いとくけど、>>43が自分の埴谷に対する見かただ。 次に、「現実社会の体現者」として扱いたいのはその風貌だ。
男にも風貌の類型化が見られるが、それは後に回して、たとえば「津田安寿子」だ。
手元に本がないので名前が違っていたらごめん。
彼女は色白で絶世の美人として描かれている。
そしていかにも美人にありそうな繊細さと強さを併せ持っている。
これは19世紀的文学標準に過ぎないと僕は思ってる。
つまり、現実を「類型的」に取り入れている、という判断だ。
彼女が美人であることについての君の考えを聞かせてくれると嬉しい。 >>63
43については「擬態」としておく
>>64
テクストには、津田安寿子がそのような「風貌」を備えてるとする、具体的記述にはないな
>現実を「類型的」に取り入れている
非現実の場所、が舞台ですよ
現実が類型的に持ち込まれても、なんら斟酌する理由にはならない
つ「自序」 >>65
ええ?
>津田安寿子がそのような「風貌」を備えてるとする、具体的記述にはない
全くの記憶違いか?
それならとにかく読み直さないと話にならないな。
明日まで待ってくれ。
>非現実の場所、が舞台
なぜ、小説という人間の姿を必要としたかについて考えてみて欲しい。
なんにしても、その話はあとにしたい。
まずは、風貌の問題から入っていきたい。 >>66 下段
埴谷にとって小説は「ひとつの手段」でしかない
ではその目的は、というコトだな
つ「あま近」 >>68
「あまりに近代文学的な」
ひとつ確認しておきたいが、>>12はあんたかね? >>69
>>12は僕だよ。
>「あまりに近代文学的な」
たぶん読んだことはあるけど、手元にあるかどうかはわからない。
どっちにしても、忘れてれば意味ないね。 >>71
ずるいとか言われないように念のため書いとくけど、僕は埴谷を読んでるよ。
たいした量じゃないけどね。
でも、読んでないからといって、他人の意見を馬鹿にしたりはしないよ。 >>72
そんなものに何の意味があるか、判らんな
食った事のない料理を写真や伝聞で評する様なもんだ
もちろん読んだうえでなら、どんなに稚拙な意見でも構わないさ
あんたが云ってる「自分の大きさ」ってヤツだ >>73
読んでいなくても、埴谷に惹かれるものがあるから、何か言ったり書き込んだりする。
どこに惹かれるのか、あるいはなぜ反発するのか、それぞれの人の感じ方がある。
ただの書評や小さなエピソードから、埴谷の理念を組み立てることができる人だっているかもしれない。
最小限に見積もっても、自分と違う感じ方に触れれば、少しだけ自分が豊かになる。 >>74 上段
それは一向に構わないんだよ
大切なのは、それが著者/著作に照らして、正しいかどうかを「追試」する事だ
最低限、その作業があれば「論」として成り立つんだから >>75
なるほど。
お互いの方向がわかったから、この議論はこの辺で。 >>65
確認したので、「死霊」の初めの方を思い出して欲しい。
津田安寿子については、病院を訪ねてきたときの記述にはじまり、いろいろある。
細身で気品があるとか、彫刻のような美しさとか、性格についても気丈さとか繊細さにも触れている。
まさに絵にかいたような類型的な美少女として描かれている。
彼女は理念の象徴としてではなく、現実社会の、それも現実を否定する感性の象徴として表れていると言っていい。
そうした感性を、美少女としてしか表現できないこと自体が、また、類型的であると言える。
それは作品の舞台が「非現実的」であるかどうかとはかかわりなく、埴谷自身の現実へのかかわり方を象徴するものだ。
こんな風に考えている。 なんか黄昏てるな、チョイと突っついておこう
>>77
はい、続けてチョウダイ >>78
なんだ、反論できなくて冬眠したのかと思ってた。
理解力もないのに、ふざけて見せるしか能がないやつにレスするほど忍耐強くないんだ。
またね。 >>79
じゃあ、お答え願いたい
>埴谷自身の現実へのかかわり方
具体的に如何だと云うんだね?
あんたの「自分の大きさ」が知れるので、とても興味深いな ああ、言葉が足りなかったかも
実生活において、という意味でね >>81
埴谷の実生活は知らない。
あとは>>43に書いたとおり。 あらら、結局そこに逝っちゃうんだ
じゃ、今まで云ってきた「現実社会」って、誰の「現実社会」なのかね?
埴谷にとっての「現実社会」を知らずに、どっから「類型的」なモンを導き出した?
だ・か・ら、夢魔は何処に潜んでいるか、と宿題を出しといたんだぞぅ >>83
宿題とかいう奴に応える気はない。
一つだけ指摘しておく。
君や作者の個人の現実と、抽象された現実社会とを混同してはいけない。
かわいそうだと思って何回か我慢したが、これで終りにする。
最後に俺からの「宿題」だ。
フーコーとドゥルーズを勉強しときな。
埴谷と同じ感性だ。
類似性と違いを見つけだすことができれば、君の埴谷理解も進むはずだ。 >>84
多分、鹿島のスカスカ頭と同じなんだろう
「抽象された現実社会」についてはお答え願いたいもんだな
それ、と小説における「非現実」は如何違うんだい 「内在平面」
埴谷が「自序」で定義した「非現実の場所 nowhere,nobodyの場所」との類似を認める
折り曲げられた「襞」の喩えは、埴谷自身の「三つの部屋」の言及と同じだ
以上、うぃきを参照した
ジルは可哀相な最期だね 『知の考古学』
「類似」、「タブロー」、「標識」
映画監督ゴダールの言う事ももっともなコトだ
以上、松岡正剛の千夜千冊を参照
さて、小難しい本らしいが地元図書館が収蔵してるかなぁ >>87
ただくどいだけで、小難しくはないよ。
文庫でも出てる。 >>1-88
↑案の定、「インテリコンプ」のバカしかいねーw >>94 戦後の日本文学は、かなり翻訳しにくいものが多いだろうね。
読みにくいといわれる大江健三郎なんかは、いわゆる翻訳文体だから、
案外やりやすいのかもしれないけど、埴谷は独特ですからね。 >>95
大江も(初期はともかく)難しいと思うよ、海外の人からしたら 死霊が eBookJapan で電子書籍として発売された記念カキコ 『死霊』は翻訳されていないよね。海外では知られざる大作家だな。 『死霊』は理念の断片を寄せ集めたもの。
そう言ってもいいのかな? 「不合理ゆえに吾信ず」だっけ、「全て主張は偽りである・・・云々」のゴルギアスの箴言集。
昔読んでいつまで頭に残っているのよ。それで今は「全て主張は偽りであっていい、人間だもの」と、みつお風に思うわけ。 2015年7月10日まで講談社文芸文庫最大30%offに釣られて死霊3冊買ってしまった 低レベルの死霊に負けたバカだろ。
読む価値はある。 埴谷は生前自身の本の文庫化を断固として拒否していた。
軽薄短小化の象徴ともいえる文庫本(商品)に自作が成り下がることに我慢ならなかった。
埴谷の死後、その相続人(姉の子息?)がすぐ文庫化を承諾して、その印税を手に入れた。
わたしは埴谷の意向を尊重し、文庫には見向きもせず、箱入り3巻本の『死霊』を愛読している。 ちなみに、その『死霊』はわが本棚では、埴谷がこよなく愛好したドストエフスキー
(筑摩の全集)の隣に配置してある。そういえば、小林秀雄もドストを愛好した。
埴谷は左派、小林は右派だが、そういう政治的党派は文学の価値の前では何ら意味をなさない。
それを埴谷雄嵩や三島由紀夫はよく分かっていたと思う。
文学の価値とはとどのつまり言葉の官能性に尽きる。 文学の評価において作家の党派は関係ない。
三島はわかっていたが、大江はわかっていないな。 >>115
そう簡単な問題ではないよ。
左翼は理念で右翼は感情、と言ったのはその三島自身ではなかったかな?
さて、三島の「英霊の声」と大江の「政治少年死す」は、なにが違うのだろう? 読まないで分かるわけがないだろう
読んでも分かるものではないんだから
分からないということを分かるためにも読むことは大事なんだよ
分かったつもりにならないために読むんだよ 埴谷と言えば今では2ちゃんでもメジャーになった「ちょ」を使った人だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています