鈴木創士〜レジェンド〜
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エドモンド・ジャベス「歓待の書」:鈴木創士訳
「パリに雨が降っている。
ひとりの通行人ーそれは彼だろうか?ーが、レインコートの襟を立てて、もくもくと歩き続ける。
それでもやはり、愛すること。
〈私はおまえが誰であるのか知らないが〉、とある賢者が言っていた。〈お前が私に似ていることは知っている。〉
〈それにもかかわらずおまえが私にとって大切であるのは、おまえが私に似ているからではなく、おまえが、私にとって、
まだ名前をもっていないからである。〉
〈明日はわれわれの最初の日である。〉」 >>13のつづき
鈴木「さっきの『垂直性』とはまた違うけれど、全ての歴史の経過を一挙に高速でぶあーって流したみたいな、
そういう感じだし、高速イメージの具体性が小説的、物語的な予見をすべてぶっ壊してしまうっていうか、
もしそんな映像を短時間に見る事が出来るとすれば、人は瞬時に全ての歴史の持つ瞬間的な悲喜劇的爆発
をぼんやりと見ているような気になるんじゃないかな。彼はこの本を『これは何故か俺の本の中で一番売
れなかった本で、書評家が全員逃げやがった』って言ってたけど(笑)、でも今言った様な意味でも僕は
『ガダラの豚』がハリウッド映画だとすると、これは完全にニューヨーク映画だよね。つまりある所はロ
ードムービー的であり、抑制の利いたビートニクなんだ。そしてそう言った事を全部分った上であれを書
けるというのは、やっぱり彼の作家としての端正さなんだと思う。彼は文章上手いからね。落語だって書
けるし。いずれにしろ、バッドチューニングとグッドチューニングを作家として同時にやってのける、こ
のことはちょっと他の流行作家には真似の出来る芸当ではないね。」 >>14のつづき
鈴木「生意気な言い方すると、それは彼の密かな苦しみだったんじゃないかと僕は思っています。彼が晩年に電
話でよく繰り返していた事だけど、突然、「俺はもうエンターテイメントはやらん」って言ったりするん
だよね(そう言った後でまた一つエンターテイメント風のものを描いていたけれど…)。それで僕が「じ
ゃあ、どうするの?」って訊くと、「俺はもう本当の事しか描かへん」って言うわけ。で、次の電話にな
ると、「俺はもう描くのはやめや」って言うの。で、「どうするの?」って言うと、「ロックをやる」っ
てね。「お前も一緒にやれ」とか言ってね(笑)だから多分、これは別の意味での彼の「垂直性」のやぶ
れかぶれの表出でもあるんだろうけれど、自分の「端正さ」や「才能」に対してもうヤケクソになってい
るというか、苛立ちはとてもあったと思う…。らもは「何もかも下らない」って言ってたしね。それがグ
ッドチューニングの苛立ちなんじゃないかな。特に、晩年それが酷くなった様な気がする。まあ、こうい
うのが彼一流のやり方だし、彼の可愛らしい所なんでしょうけど。」 >>15のつづき
鈴木「たしかに『バンドオブザナイト』の妄想部分にしたってそれは言えるかもしれない。ノイバウテンのよう
にはじめからギターをチューニングしないというわけではないし、文章それ自体はグッドチューニングで
とてもカッコいい、だから不思議にも全部映像にできちゃう。『ポケットが一杯だった頃』っていうエッ
セイが最近出たけど、その中に『バンドオブザナイト』について語っている部分があって(言葉が持つ原
初の力を蘇らせる等)、そこで彼はエドモンド・ジャベスについて触れているのね。彼はジャベスの言葉
はまるでさらさらと砂が流れるようだと言っていたけれど、『バンドオブザナイト』の妄想の部分もそれ
に近いって自分で言っている。でも多分でも多分これは彼の記憶違いでーーー彼がジャベスをとても好き
だったことは本当なんだけどーーー、実際には僕が訳したソレルスの『女たち』のリズムが原型なんじゃ
ないかと思うんだよ。あの饒舌さって『女たち』の妄想リズムに近いものがある。失語症から、何も無い
砂漠から、言葉を紡ぎ出そうとするジャベスとは少し違う。彼は多分『女たち』をちゃんと読んでいない
と思うけど、でもすごく頭のいい男だからパラパラっと数行読んだだけであのリズムを掴んだんだと思う。
もともとそれはセリーヌのリズムだとも言えるけど。だから『バンドオブザナイト』を書く時にそれがほ
ぼ無意識に出て来たという事はあった様な気がする。でも、たとえそれが無意識からもたらされたものに
しろ、そうでないにしろ、普通は、妄想リズムが端正な文章にはならないよね。これは困った事なのか、
いいことなのか、よくわからないな。」 >>17のつづき
鈴木「それはその通りだと思う。僕は学生運動に少しだけかかわっていたから、丹生谷さんの言う事はすごくよ
くわかります。でも僕としては正当性に興味が無かった。ただ歴史には持続が断ち切れる瞬間というもの
があって、その持続の瞬間みたいなものを暴くというか、その切断と、それによる空間の爆発に触れる事
ができるという瞬間を確かめたかった。それには喜びに近いものがあったし、これからも同じことでしょ
う。らもは学生運動をやらなかったけど、でもそのことをよく分っててね。印象的だったのは、当時から
何十年も経って久しぶりに会ったときにさ、あいつは僕をテストするために政治の話をさせるわけよ。そ
れで僕がいやいや色々言うと、「ああ、おまえって変わってないな」「まだそれか」とか、すごく嬉しそ
うな顔して言うわけ(笑)。そういう奴なんだよね。だから多分僕が歴史の構築の話なんかを始めてたら、
あいつは席を蹴ってその場から出て行っただろうけどね。そんな話するわけないけど。」 >>18のつづき
鈴木「たしかに「みっともないこと」は微妙な変化を繰り返してあちこちで幅をきかせてきたから、彼はそれに
は敏感だったと思う。彼は早く結婚したし、そのときはまだ大学生だった。当然の事ながら髪結いの亭主
なわけなんだけど、子供も出来て、すぐロングヘアーを切ってサラリーマンになるわけ。で、印刷屋に入
るんだけど、それが酷い会社だったらしくて、その頃は日本にパンクディスコに朝まで入り浸りの変なサ
ラリーマンだよね。そのうち会社も辞めてしまう。だから丹生谷さんが言ったアウトロー、インローの問
題は彼の中に常にあって、彼自身は見透かしているし、見透かしてしまった当の現状も嫌だし、辛かった
かと言えば、多分とても辛い所があったと思う。時々、暴発してたし…。その後コピーライターになって
広告の仕事を始めるんだけど、ある時僕の家に来て、酒飲みながら「コマーシャルっていうのはランボー
までもちだしやがった。こんな事は赦せねえ!」って怒ってるのね。そんなに怒らなくてもいいのにね(笑)
それとも、僕がランボー好きだったから怒り狂うと思って気を使ってくれたのかな。彼にはそういう紳士
的な優しさがあった。それでいつも酩酊状態なのか分らない状態にあって、実際の日常生活でも彼特有の
情動の揺れ動きがあって、それでも一応子供も育てたわけだし、営業マンとしても優秀だったらしいから、
そういう所はきちんとやれたんだよね。でも頭がいいからすぐ仕事を覚えちゃって、そうするとすぐ「く
だらねえ」ってことになって、結局すぐ辞めちゃって、という感じだった。そんなことの繰り返し。その
うち気がついたら有名になっていましたという感じじゃないかな。だからこそバッドチューニングなんだ
な、多分。」 >>19のつづき
鈴木「あまりにそれで失敗してダメになっていった奴らを見すぎちゃったからというのもあるかもね。彼はシラ
フでいられないからずっと酩酊状態の中にありながらも、自分の周りのものを観察している様なところが
あって、「観察する梟」(レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ)みたいな感じもあった。僕はそういうらも君が
好きだった。彼は面白がってサドも読んでいたけど、むしろサド的じゃなくて、レチフ的だった。彼は本
当は冷徹に観察する人なのかもしれないね。眼鏡をかけて、観察するミミズク!」 >>20のつづき
鈴木「たしかに「無頼だけ」でいることはじつに簡単だった。それに当然、らもにとっての未来の社会は言うに
及ばず、当時のフーテン族の世界の中にもミクロ政治はあるわけだからね。権力の問題は常に至る所で発
生してるわけだから。そういうものに巻き込まれるのはじつにカッコ悪い。至る所に、すでに名詞を持た
ない「軋み」があった。で、それを彼は冷静に観察していた。」 昨日たくさん本を読んで疲れたのでユリイカ対談の朗読はお休み。
書き込みにレスします。
>>10
あれは、ドゥルーズを結構読み込んでから手を付けた方が良い本ですか?
いろいろな作家の批評を集めた本なのかな……。
>>12
ですよねえ。
私丹生谷さんって最近ツイッターで初めて知ったと思ってたけど、
このころに無意識に存在を刷り込まれてたのかなとはっとしました。
>>16
2ちゃんの大島渚スレも彼の逝去以来炎上してますけど、見ると、
新宿泥棒日記は難易度3で、難易度MAXが帰って来たヨッパライでした。 次々と作家とかが出てきて、読後感的には読んだのはじめてって感じの批評が多い。音楽、美術もあった。地震も。
破格だけど、僕はそれなりに読みました。
デフォルト自体が濃い。ドゥルーズ読まないと理解できないことはないと思いますけど。鈴木創士はよくいるドゥルージアンではないでしょう。 >>23
そうなんですか。次にはソレルスの「女たち」を読んでいますが、
終ったらそれを飼ってみようと思います。どうもありがとう。 >>21のつづき
鈴木「フーコーは「外」の関係の作り出すシーソーゲームに関わりたくなかったのかもしれないな。つまりはじ
めからそんなものは「法」が偽造した幻影の総体に過ぎない。一体誰がしゃべっているのか?「法」のこ
ちら側とは何の事なのか?「外の思考」はあっても、外部は無いんだし、いつも結局は元の木阿弥だから。
この抑制と静寂は発狂寸前の何かに似ている。そこはらもにちょっと近いかも。」 >>25
鈴木「穿ち過ぎじゃないと思う。らもは監獄でとてもグッドチューニングの良い本を書いたけど、あのような本
をあのような状況で書くこと自体は普通はバッドチューニングと考えられるわけだし…。確かにあの本は
とてもいいね。それにいま丹生谷さんが行った事は面白いね。それとは微妙に異なる例かも知れないけれ
ど、ついこの間、市田良彦の研究室でラ・モンテ・ヤングの曲を聴かせてもらってたんだ。ラ・モンテ・
ヤングのピアノの調律は平均律でやらないらしい。音を全部フラットにしてしまう。平均律って言うのは
音が全部回帰してしまうわけだけど、フラットにする事でハーモニーの奥行きを作り出してしまわない様
にしている。ただこのピアノはギターや他の楽器にも重ねて行くわけだから、この平板さは別種の微妙な
空間知覚を生じさせるものとしてある。そのフラットさはグッドチューニングとしての荘厳なハーモニー
とはまったく別種のものなわけだけど、それはらもの小説描写の端正で不思議な平板性に繋がる所がある
のかも知れない。そしてそれっていうのもバッドチューニングのひとつのやり方であって、つまりとても
手が込んでいるという事だね。」 >>26のつづき
鈴木「なるほど。その話を少しずらすと、例えばヨーロッパの肉屋には皮を剥がれた生々しい肉がたくさんぶら
下がっていて、それを見て「あれが自分の友達であっても一向に構わない」というのと同じ事を言ってい
るわけだけど、それはらもの感覚にも当て嵌まるかも知れない。『寝ずの番』もそうだけど、らもや僕の
周りでは実際に早くから大勢人が死んだ。それでそれをどうすればいいのか、っていうことがずっとあっ
たと思うけど、結局は、あらゆるノスタルジーを排して、色々な封印をすればの話だけど、やっぱり肉屋
にぶら下がっている肉のようにしか見えなかった。その点では彼も彼女も君も俺も一緒だ、と…。らもも
多分その事で色々考えたと思う。実際に一挙に肉の塊になってしまったのを、もっと言えば灰になってし
まった一個の思考の実体を見てしまったのだから。だから、今丹生谷さんが言ったみたいに、こちらが逆
に一気にさまざまな身体の「様態」に身を置くというか、そこへ行っちゃうというか、はじめからそれら
全てが同時にあって、その事自体を思考しなければならないというのは僕にも良く分る。喜ばしい事に、
時間はなにひとつ経過しなかったわけだ。」 >>27
鈴木「だからベーコンが偏執的に見ていたものって変わっているよね、例えばベラスケスの絵葉書(美術館に飾
ってある本物ではない)だとか、レントゲンの骸骨写真とか、病気の写真とかさ、そういうものをきった
ねえアトリエで穴があくほど見つめて描いていた。要するにある種の身体の様態を見ている。それはそこ
にあった綺麗な身体が壊れて行く、腐って行く過程とかじゃまったくない。身体にはつねにはじめから病
気の状態、白日の下にある「変性状態」があって、だからそれをいつも同時に見ていなければならないの
だ、と。おまえらにはここにそれが楽しげにただそれ自体として存在しているのが見えないのか、という
わけ。すべては重なっている。ベーコンをめぐってドゥルーズの言っている、「可視性」と「不可視性」
の戦いというのもその事なのかも知れないな。」 >>29
読んでくれてありがとう!創士さんが好きなのです。 >>28のつづき
鈴木「そうだよな、まさに「そこにぶら下がっているただの肉である君が好きだ」というわけ。「♪いいんだぜ、
いいんだぜ、君がエイズでも…♪」例えば、『ガダラの豚』でも、あれは推理小説なんだろうけど、推理
小説にしては最後はとても変わっていて、おかしなものだよね。奥さんとの初々しい初恋の話で終ってい
る。完全に恋愛小説のラストシーンなんだよ(笑)。今改めて思っても、「愛」に溢れた奴だったなぁ。
彼には、ただの肉に対するという意味でもつねに「愛」があったと思うし、それは僕自身いつも感じてい
た事でもあります。俺たちにはなんの「憎しみ」もなかった、怒りでキリキリ舞いする事はあってもね。
彼に恩義を感じている事があるとすれば、それは彼とはまったく違う部分を含めて知的な意味でも実際に
も僕の全てを無条件に受け入れてくれた事です。これは「愛」以外の何物でもないでしょう。誰にでもで
きる芸当ではないよ。」 >>31のつづき
鈴木「そうなるとやっぱりまたドゥルーズになるけど、そこにある「世界」をそのまま信じなければならない、
というあれだね。この小さな惑星の事もたまに思い出してやろうじゃないか!坊主の達観や諦観をことご
とく小馬鹿にする「慈悲なき愛」で一杯の、らもの無手勝流の「垂直性」っていうのはすごくエネルギッ
シュだけど穏やかなもので、最初の話に戻るけど、「眼鏡なんかかけやがって」っていうのは、すでにし
て憎悪とか批判とかじゃないもんねえ(笑)。」 >>32のつづき
鈴木「それは、推理小説とかだと、やはりバッドチューニングが出せないからじゃないかな。想像だけど、多分
『ガダラの豚』を書く時にもそういう苦しみがあったと思う。彼は最初の頃から山田風太郎の「忍法帖」
とか、セリーヌ、ヘンリーミラー、ケルアックでしょ。それじゃあ推理小説書けないじゃない(笑)。
日常生活でも幻覚が出たり、幽霊を見たりもしているけど、いつも因縁話にはしなかったなあ。自宅で幽
霊みたいなものを見たときも、むかしそこがレンコン畑だったから「レンコンの霊魂」みたいに実生活に
オチをつけたりして、ね。たぶん恐がりなんだよ。エッセイにも書いているけれど、実際に僕にそう言っ
ていたし、因縁話にはしたがらなかった。だからいわゆる推理小説は書けないかも。また書く気もなかっ
たんじゃないかな。」 >>33のつづき
鈴木「そうだね。らもには異様に真面目な所があったよ。だって売れっ子作家がさ、晩年に夜遅く電話をかけて
きて、十四世紀のオックスフォードのフランチェスコ派神学者であるドゥンス・スコトゥスの話なんか普
通は訊かないでしょ。アリストテレス派の神をめぐる「無限」概念とはどうちがうのか、とか!それなの
にらもは一生懸命訊いていたからね。「おまえ、また頭沸いているんとちゃうか?」とか言って。「沸い
てる」のはお互い様だけど。とにかく希有な奴だった。ありえないよ、そんなこと。それにあいつはもう
俺は本は読まないって言いながら、小説を書くときはバカみたいに読んでいたらしいし…。」 部屋のものを家具から何から全部出して大掃除したら、ユリイカがどこかに見当たらなくなってしまいました。
う〜んすぐに見つかるとは思うのですが、朗読は一旦中断します。 カシスの川 ランボー作 鈴木創士訳
カシスの川は人知れず転げ落ちる
奇妙な谷あいを。
百羽の鴉の鳴き声がそれに唱和する、ほんとうの
天使たちの素敵な声。
杪の林が大きく揺れて
風がいくつも襲いかかるときに。
すべてが転がる、大昔の田園や、
人の訪れた天守閣や、大庭園の
赦しがたい神秘とともに、
これらの岸辺で人は聞いている
彷徨える騎士たちの死に絶えた情熱を。
だがなんと風は健康に良いことか!
通行人がこれらの格子造りの柵に眼を凝らすなら、
彼の足取りも勇気が増すだろう、
主が遣わす森の兵士たち、
うっとりするような親愛なる鴉たちよ!
切断されて残された古い手足で祝杯をあげる
腹黒い百姓を追い払ってくれ。 次はランボーでも朗読するかな 、、、 対談と違って一作が手頃な長さだし
ではいきます。
〈かつては、もし俺がちゃんと覚えているなら、俺の生活は祝宴であり、全ての心が開かれ、すべての酒が流れていた。〉
ある晩、俺は「美」を膝の上に座らせた。ーーそしてそれを苦々しい奴だと思った。ーーそれで俺はそいつを罵倒した。
俺は正義に対して武装した。
俺は逃げた。おお、魔女達よ、おお、悲惨よ、おお、憎しみよ、お前達にこそ俺の宝は託されたのだ!
俺はようやく自分の精神の中からあらゆる人間的希望を消し去る事に成功した。あらゆる喜びを絞め殺してやろうと、
俺はそいつに猛獣の様に音も無く飛びかかった。
くたばりながら、奴らの鉄砲の銃床に噛み付いてやろうと、俺は死刑執行人共を呼んだ。砂や血で窒息してやろうと、
俺は災いを呼んだ。不幸は我が神だった。俺は泥の中に横たわった。罪の風にあたって、からだを乾かした。そして
俺は狂気に一杯食わせてやったのだ。
そして春が白痴のぞっとするような笑いを俺に運んで来た。ところが、ごく最近の事だが、もう少しで最後の「ぎゃあ」
という声を上げそうになったので、俺は昔の祝宴の鍵を探してみようと思ったのだ、そこでならたぶん食欲を取り戻せる
かもしれないと。
隣人愛がこの鍵である。ーーこんなことを思いつくのは、俺が夢を見ていた証拠なのだ!
〈おまえなどずっとハイエナのままでいるがいい、云々…。〉と俺にかつてとても愛らしい芥子の冠をかぶせてくれた
悪魔が叫び声をあげる。〈おまえのあらゆる欲求、それにおまえのエゴイズムとすべての大罪もろとも、死を背負い込むのだ。〉
ああ!そんなものはうんざりするほど手に入れたさ!だが、親愛なる魔王よ、お願いだから、そんなに怒った目つきをしないで
ほしい。そして遅ればせのけちな臆病風を吹かせたりしないうちに、物書きには描写や教訓を垂れる才能などないのがお好きな
あなたの事だろうから、俺は地獄落ちの自分の手帖から幾葉かのこれらのおぞましい紙片をあなたに切り取ってやるとしよう。 >>34のつづき
鈴木「サブリミナルの効果という事について言えば、『バンドオブザナイト』のあの二つの文体もそこから見て
みる事ができるんじゃないかな。昔僕はビデオ版映画の字幕の仕事をしていたことがあって、ひとコマず
つ出す事が出来るそれ用の機械を使って、たまたま『エクソシスト』を見ていたんだけど、そうしたらあ
るシーンに悪魔の顔がほぼ脈絡無しに入っていパッと瞬間的なもので、それって一種のサブリミナルだよ
ね。標準の速度で回すとそうなんだけど、でもそれを機械を使ってゆっくり回すと、悪魔のコマも他のシ
ーンと同じ調子で出て来る。ゆっくりした速度で同じ様にコマが整然と並んでいるわけで、そうすると全
然サブリミナルにはならない。普通の小説の場合だったら、その『フリッカー』にしても、速度は普通の
映画と同じで普通回しにするんだよね。そうすることで軽いサブリミナルにもなるし、呪いをかけるとい
う意味にもなるし、オチをつけることだってできるんだけど、でも『バンドオブザナイト』の場合には、
サブリミナルの部分とそうじゃない部分を交互に同じ調子で流しているわけでしょ。つまり巡航速度以下
になる。だからあれはその点でも実に奇妙なものなんだ(笑)。フィルムの標準速度で回さないわけでし
ょ。『バンドオブザナイト』の本の内容がほぼ事実に近いという事もあってか、当時の僕の友人の中でも、
この作品がすごく好きな奴と好きじゃない奴といるわけ。でね、どこが嫌いなのかって訊くと、これを読
むと辛くなるって言うのね。しかも普通に考えると、地の筋の部分で辛くなると思うんだけど、そうじゃ
なくて言葉の奔流である妄想の部分で辛くなるって言うんだよね。だからこの小説の構成には普通とまっ
たく違う逆転された効果があるってことになる。」 はてさてどうやら。私の事ってことでいいでしょう。
ランボーはばかじゃないですよ。 ここまで写してみてちょっとやはり、著作権を侵している事に考えがやっとたどりつき、
まずいかな、と思ったので、そろそろ朗読はお休みしますね。
このあと彼は、丹生谷さんとブルトンの自動筆記などと引き合いにだして記憶を辿りつつ、
らもさんのあの妄想の洪水について説明したり、
フーコーのアウトローな文学とらもさんのそれを比較してみせたり、なかなか興味深いです。
ユリイカ2008年2月号です。バックナンバーが欲しい方は是非。 サブ・ローザ到着。
私は彼のする昔話なら、何だって知りたいんだ。
その論調が饒舌であればあるほど、神秘性がまして余計に興味を惹かれる。 日本のブランショといっても過言ではない!をををを! ソレルスもセリーヌのことを書いているんだな…。ウヘエ…
石川淳は読んだけど、あれがセリーヌの亜流なら、本物を読むべきなんだけど、
http://d.hatena.ne.jp/sutarin/20060625/p1
この文章、かっこいいかい?かっこいいのかと河出にケチつけたいよ。
こういう風に、な〜んかずれてるから、出版不況なんじゃないの?
と辛辣な世相批判に繋げたりするカキコ。
と彼本人には言えず、ここで吐き出す。私セリーヌ苦手で…。 鈴木さんの師匠だった(訣別したらしいです)生田耕作訳の「夜の果ての旅」
はよかじゃないですかね。
訳は原作をだめにしてしまうためにあるのかって思うことありますが、これはよか。
原文読めないのに言いました。 >>48
一理ありますね。
鈴木のほうが訳はうまいとおもうが。 生田さんより、ソウジが上。
そうなんや。まあ、そうなんや。
へ〜。プッ。
有名人にまとわり付いてる蝿やろ。
蝿は蝿で頑張れ。蝿はうんこに纏わりつくからなあ。
うんこは、らも。らもにまといつく蝿は、頑張れよ。 >>51
おまえがハエやろ。
どうでももええけど。
頑張れよ。
生田とかいまだに言ってる奴はジジイのかす。
そうじ、じゃなくて、そうし、でしょ。
おみい、漢字も読めんのですかいな。 創士さんとたびたび話しているAさんの風貌が父にそっくりな件
坊主髭丸めがねのチョイ悪系…。けっこういるかな。 ツイッターで相互フォローして時々話せるだけで嬉しいな おまえの目にびっしりウンコがこびりついてるだけじゃね 目が臭い人がいるんじゃね
>>60
うんこ拭きなされ 図書館に行く為に返す本を探していたら、袋から空けてない「ひとりぼっちの戦争機械」を見つけた。
真っ先にアルトー論を読んだ。この人って、病院の監禁から逃れて一年後に亡くなっているんだな…。
さぞかし酷い治療を受けて、疲労困憊した事だろうと思う。おまけに麻薬で全身ぼろぼろと来ては、
伸びる寿命も伸びる訳が無いだろうと思う。
アルトーの残したテクストの数々にはコメントを控えるとして、その生き様の強烈な事と言ったら。 「ひとりぼっちの戦争機械」坂本龍一の章について感想。ツイッターにもちょっと書いた。
創士さんと坂本さん、メジャーなのは坂本さんなんだけど、坂本さんって知識層に受けがわるいよな。
理論立てが単純だからなんだよ。音楽理論にかけては、創士さんの方が一見識もっていて、弁舌巧み。
無拍動時間の、沈黙のイマージュについて、ベルクゾンまで遡るその上手さには、ただ感嘆するのみ。
EP-4とB2UNITが過去絡んでいた逸話も新鮮だった。彼らが一つになったらどんな奇跡が起こるかな?
「音楽とは、確実性をつたえるツールである」という言葉の真意って何なのだろう。 京都におけるEP-4 Unit3はどんなかんじでしたでしょうか。 えびねとランドールが同一人物に見えない。文学的知性と人格は別物。惜しい! >>70
鈴木訳マルドロール俺も読みたい
若い頃の枕頭の書だったんでしょ
河出文庫から出たら嬉しいのだけど… 綿野恵太@edoyaneko800
才能のない書き手ほど、Twitterやらblogでやかましいのは何故なんだろ。
https://twitter.com/edoyaneko800/status/393695375162212352 >>1にある文章とか何がいいのかまったくわからない
誰 エドモン・ジャベスと書いてありますけど
ユダヤ人で問いの書のひとですね いやもともと病気だろあれはw
しかしツイッターも止めたみたいだな みんな病気ですよ。
鈴木さん以外、全員病気だったりして。笑 2月15日@京都アバンギルドで、鈴木創士グループのライブがあるけど、
EP-4 Unit3もでるけど鈴木さん両方やるのかしら ミュージシャンって君だけじゃなくみんな衒学家だよ。そんなことで面白がるなよ、鈴木クンw へえ、そうなんですか
知りませんでした
あんたが衒学者なんですね
ご自分が知識があるって言いたいのでしょ、鈴木さん 鈴木クンとして言わせてもらいますと
衒学家という言葉の意味があまりよくわからないのです
知識を披露したりひけらかしたりするひとですか
ミュージシャンはあほばっかだから
ミュージシャンつまり衒学家ってあほの家元ってことですね こいつら全員鈴木かw
話がややこしい
鈴木はろくに楽器弾けんだろ >>83 >>88
あんたがたんにバカなだけじゃねえの 河出文庫の『ザ・中島らも』を読みました。
時の流れというか時の断続みたいのがよかったです。
前書きのタルホ風なの新鮮でした。
タイトルも。
わたしタルホ好きなので。
赤坂真理さんの解説にジャベスも出てた。 「ザ・中島らも」河出文庫ってどうなの? あれってサゲ本? 8月23日のエンゲルス・ガールでのイベント、行く方いらっしゃいます? 鈴木 創士(すずき そうし、1954年 - )
ジュリア・クリステヴァ編著『記号の横断]](中沢新一,松枝到,高島淳,鎌田繁共訳)(せりか書房)1987年
エドモン・ジャベス『問いの書』(水声社)1988年
エドモン・ジャベス『ユ−ケルの書』(水声社)1991年
フィリップ・ソレルス『女たち』(せりか書房)1993年 のち河出文庫
エドモン・ジャベス『書物への回帰』(水声社)1995年
アラン・バディウ『ドゥルーズ—存在の喧騒』アラン・バディウ(河出書房新社)1998年
『ロデーズからの手紙 アントナン・アルトー著作集』(宇野邦一共訳)(白水社)1998年
ソレルス『サド侯爵の幻の手紙 至高存在に抗するサド』(せりか書房)1999年
ジャベス『歓待の書』(現代思潮新社, 1999年)年
ジョルジュ・バタイユ他『無頭人』(兼子正勝,中沢信一共訳)(現代思潮新社)1999年
アルトー『神の裁きと訣別するため』(宇野邦一共訳)(河出文庫 2006年)
『アルトー後期集成 3』荒井潔,佐々木泰幸共訳 河出書房新社 2007年
ジル・ドゥルーズ『無人島』(宇野邦一、鈴木雅雄、加賀野井秀一、前田英樹、財津理、松葉祥一他共訳)(河出書房新社 2007年)
ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制』(宇野邦一共他訳)(河出書房新社 2007年)
ジャン・ジュネ『花のノートルダム』(河出文庫 2008年)
『ランボー全詩集』(河出文庫 2010年)
ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル『すべては壊れる』(松本潤一郎共訳)(現代思潮新社 2015年) 『今回、僕は語り手に徹しようとしたが、これまでに君は僕のことをいろんなところに書いてくれた。
いままであれは僕じゃないと嘘をついてきたが、それも面倒なので、君の読者のためにここではっきりさせておく。
ひとでなしのようなエスも鈴木もsouもフランス文学者も全部僕です』 死と人形
鈴木 創士
http://www.ntj.jac.go.jp/bunraku/diary/28/diary138.html
人形と私たち。何かの存在、人形や人間の存在などと問う前に、どうやら私たちもまた死者たちのあいだで生きているからです。
人形のようにそのまま「死」を喚起する勇気がないだけです。
あらゆるものが「生」の喧伝によって隠蔽されるのだとしても、そこで生きるほかはないからです。
人形が死を思わせるとすれば、それが私たちにそっくりでありながら私たちとの隔たりを示しているからなのですが、
それでも私たちと人形は死の共同体のなかで別々の仕方で棲息しているのだし、
なおかつ私たち以上にたぶん私たちの秘密を、「死」の秘密を隠しもっているからだと私は思っています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています