十数年前にヘーゲルやカントと並行してプラトンを読んでいたとき、「ソフィステス」で哲学者の定義
を述べたとされる箇所について、これはヘーゲルやカントと同様のことを言っているのではないか、と
思い至りました。その後仕事に追われていたことなどから公にすることができなかったのですが、最近
になって時間に余裕ができたこともあり、まずネットでご意見を伺ってみようと考えました。見当違い
ではないか、現時点で公表する意義はあるのか、などご所見を頂戴できれば有難いです。

 まず「ソフィステス」の該当箇所は以下のとおりです。(藤沢訳)
「そのことをなしうる人は、
一つの<イデア>が多くのもの−その一つ一つは離れ離れにあるのだが−
 をつらぬいて、いたるところに延び拡がっているのを、
そして互いに異なっている多くの<イデア>が、一つの<イデア>によって
 外側から包みこまれているのを、
そしてさらに、一つの<イデア>が、全体をなすものの多くをつらぬきながら
 一つに統一されているのを、
そして多くの<イデア>が、離れ離れになって完全に区別されているのを、
 充分に感知しているのだ。」
 
 一方、「精神現象学」の「知覚」の章で、ヘーゲルは、塩が「白い」「辛い」「立方体である」などから
成るといったことを述べた後で「物は本当の意味での「も」の媒体へと押し上げられるが、物質(注:、
「性質」を意味すると前の部分で説明あり)の集積にほかなるこの媒体は、単一物というより、中身を
包む風呂敷のようなものである」と言っています。
(以下続く)