>>167
 ひとまず最後の点についてだけお答えいたします。
 まず、ヘーゲルの「知覚」についてですが、彼の哲学体系は最終的に「概念」(「精神現象学」では最
後は「絶対知」とされていますが)に至る階梯的もので、「精神現象学」では、途中から社会的・歴史的
問題と一体的に説明されていることもあり、「知覚」は「感覚」の直後という全体の中で比較的前の方に
置かれています。しかし、この「知覚」の段階で、既に、「感覚」の世界で描かれた不定、流動的な世界
から、比較・分類されて認識された知的、観念的な世界へと移行しています。(なお、「概念」で理解さ
れた世界と、感覚の段階の世界とは、いわば観点が異なるだけで、相矛盾するものではないと思います。)

 では、プラトンの「イデア」はどうかというと、ここで引用した部分では、物的なものに対立する観
念的なものを指す言葉として、(述語的、主語的にかかわらず)広い意味で用いられていると考えられま
す。ただし、述語的なものであっても、感覚的で不定なものではなく、比較・分類されて認識されたも
のを指していると考えられます(前回引用した和訳では省略されていますが、(1)のイデアについて、
原文では、「十分に区別されている」(hikanōs diaisthanetai)という修飾語も付されています。一と多
の対比の頻出も、区別/統合を表しているのではないかと思われます。)。
 
 プラトンの著作の他の個所での「イデア」の使用との関係についても考察しお示しすべきなのかもしれませんが、いずれにせよ、上記のとおり、単なる感覚的なものと理解されるものではありません(ヘーゲルの「知覚」もそうです)ので、ご懸念には及ばないと思われます。

 (なお「ソフィステス」該当部分の原文はこちらにあります)
http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Plat.+Soph.+253d&;fromdoc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0171)