古代ギリシャ・古代ローマ総合
共和政期 リウィウス・アンドロニクス(紀元前284年 - 204年) - 叙事詩の翻訳、悲劇。 プラウトゥス(紀元前254年頃 - 169年) - 喜劇『アンピトルオー』『黄金の壺』『カシナ』 エンニウス(紀元前239年 - 149年) - 叙事詩、悲喜劇など 代表作『年代記』『メーデーア』 大カト(紀元前234年 - 149年) - 『農業論』 テレンティウス(紀元前190年 - 159年) - 喜劇『アンドロス島の女』『兄弟』 キケロ(紀元前106年 - 43年) - カエサルの政敵。ラテン散文の完成者。『国家論』『法律』『友情について』『老年について』 カエサル(紀元前100年 - 44年頃) - 将軍であり、政治家。『ガリア戦記』『内乱記』 サルスティウス(紀元前86年 - 35年頃) - カエサル派の将軍。歴史書『カティリナ戦記』『ユグルタ戦記』 帝政期 黄金時代 ウェルギリウス(紀元前70年 - 19年) - ローマ最大の詩人。ラテン韻文の完成者。叙事詩『アエネイス』、『牧歌(詩選)』、『農耕詩』、『アペンディクス・ウェルギリアーナ』。 ホラティウス(紀元前65年 - 8年) - 抒情詩人。南イタリアのウェヌシアの人。解放奴隷の子供。ウェルギリウスと親交があった。『抒情詩集』 オウィディウス(紀元前43年 - 紀元後17年) - 詩人。『転身譜(変身物語)』 ティトゥス・リウィウス(紀元前59年 - 紀元後17年) - 歴史家。『ローマ建国史』 白銀時代 セネカ(紀元前4年頃 - 65年頃) - ストア派哲学者。皇帝ネロの師。『幸福論』 ペトロニウス(紀元後? - 55年/66年) - ネロの寵臣。小説『サテュリコン』 シリウス・イタリクス(26年 - 101年頃) - 詩人。叙事詩『ポエニ戦役』 タキトゥス(55年頃 - 120年頃) - 歴史家・政治家。『ゲルマニア』『年代記』『同時代史』『アグリコラ』 マルティアーリス(40年頃 - 104年頃) - 詩人。寸鉄詩『エピグランマタ(寸鉄詩集)』 スエトニウス(70年頃 - ?) - 伝記作者。『皇帝伝』『名士伝』 アプレイウス(123年頃 - ?) - 小説家。『変身物語(または黄金のろば)(ラテン語版、英語版)』 分裂以降 アウグスティヌス(354年 - 430年) - 北アフリカのヒッポの司教。『告白』『神の国』 ボエーティウス(480年頃 - 524年頃) - 東ゴート王テオドリックに仕える。『哲学の慰め』『音楽教程』 トゥールのグレゴリウス(530年頃 - 594年頃) - フランク王国の司教、歴史家。メロヴィング朝の歴史書『歴史十書(フランク史)』。 フォルトゥナトゥス(530年頃 - 610年頃) - ラヴェンナの宗教詩人。のちポワティエ司教。『詩集』11巻『聖マルタン伝』 古代ギリシア語(こだいギリシアご、Ἑλληνική、現代ギリシア語:Αρχαία ελληνική γλώσσα)は、 ギリシア語の歴史上の一時期を指す言葉。古代ギリシアの、 アルカイック期(紀元前8世紀 - 前6世紀)、古典期(前6世紀 - 前4世紀)、ヘレニズム期(前4世紀 - 後6世紀)の3つの時代に跨がっており、 様々な方言が存在し、古典ギリシア語もその中の一つである。 日本語では「古典ギリシア語」という名称が広く知られているが、これは「古代ギリシア語」と同一の概念ではない。 古典ギリシア語は、古代ギリシアの諸方言の中で最も代表的なものとなった古典期のアッティカ方言を指す呼称である。 紀元前5世紀頃までは散文の中心がイオニア地方であったため、イオニア方言が主に用いられていた(ヘーロドトスなど)。 しかし、前5世紀後半からはアテーナイに優れた弁論家・文筆家(プラトーン、トゥーキューディデースなど)が多く現れ、 さらに政治的にもアテーナイがギリシアの中心となったため、前4世紀頃にはアッティカ方言がギリシア世界の標準語となった。 この頃に用いられていたアテナイの言語を指して「古典ギリシア語」と呼ぶ。 紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の征服ののち、コイネーもしくは共通ギリシア語として知られる国際的な方言が発達した。 コイネーは大部分でアッティカ方言が原型となっていたが、ほかの方言の影響も受けていた。 紀元前1世紀以降、数世紀にわたって用いられたラテン語は古典ラテン語(古典期ラテン語)と呼ばれる。 のちの中世、また現代において人々が学ぶ「ラテン語」は、通常この古典ラテン語のことをいう。 この古典ラテン語は書き言葉であり、多くの文献が残されているが、人々が日常話していた言葉は俗ラテン語(口語ラテン語)と呼ばれる。 この俗ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化していった。 ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、 ルネサンスと共に古典古代の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が人文主義者の間で強まった。 共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の公用語として用いられた。 ギリシャの青銅時代の終わりに人間の呼吸法に大きな変化を与える 出来事があったんだろう。それが鉄器の登場だ。これが新しい言語を 産んだ。軽くて、鋭い鉄器だから、武器としては二重の意味で、 スピードが要求されるようになった。 古代ギリシャ語以後は鉄器の時代で、それ以前のリニアBが解読され, リニアAも解読されるのを待っている。 新プラトン主義を学ぶ人のために [単行本(ソフトカバー)] 水地 宗明 (編集), 山口 義久 (編集), 堀江 聡 (編集) 出版社: 世界思想社 (2014/4/26) 岩波文庫から「アンティゴネー」の新訳が出たが、新刊では買わん 理由は>>45 タキトゥスの「ゲルマーニア」旧訳は田中秀央と泉井久之助の共訳だが、改訳は泉井久之助単独となってる 解説を読むと、無理やり名義貸しして共訳にして、やくざみたいに上納金を納めさせてるように感じた 京大ではその悪しき伝統が引き継がれていて、>>45 の事件を起こしたのではなかろうか こういった研究成果の横取りはありがちな話だね。 化学の分野では「○○をリーダーとした研究グループ」といった表現になったんだが。 学生や助教授を無料のバイトと勘違いしている教授には困ったもんだね。 下訳を学生にやらせて、当の本人は手直しすらせず、訳者の名前は教授だけ。 成功したら教授のおかげ、失敗したら学生の責任。 国内最高学府ですら常態化している、日本の教育界の暗部だわ。 西洋古典学を本格的に研究したいなら、東大か京大しかないので、自浄作用が働きにくい。 オレもファーストオーサーを先輩に横取りされた経験あり 中務 哲郎(なかつかさ てつお、1947年2月 - ) 女の平和 アリストパネス 世界文学全集 講談社 1978 古代ギリシアの同性愛 ケネス・ドーヴァー 下田立行共訳 リブロポート 1984 プトレマイオス 地理学 東海大学出版会 1986 ファロスの王国 古代ギリシアの性の政治学 エヴァ・C.クールズ 岩波書店 1989 ギリシア奇談集 アイリアノス 松平千秋共訳 岩波文庫 1989 オレステース エウリーピデース ギリシア悲劇全集8:岩波書店 1990 キュクロープス エウリーピデース ギリシア悲劇全集9:岩波書店 1992 フィロゲロス ギリシア笑話集 国文社 1995 大カトー・老年について・ラエリウス・友情について キケロー選集9:岩波書店 1999 イソップ寓話集 岩波文庫 1999 友情について キケロー 岩波文庫 2004 ギリシア恋愛小曲集 岩波文庫 2004 老年について キケロー 岩波文庫 2004 蜂 アリストパネース ギリシア喜劇全集2:岩波書店 2008 ヘシオドス全作品 京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 2013 アンティゴネー ソポクレース 岩波文庫 2014.5 >>45 京都大学新聞の記事は曖昧な文章だな。 「いっぽう大学側の対応については「違法性があったとは いえない」とし、教授への損害賠償請求については時効成立を 理由に棄却した。」 上の文章の読点の前後の論理関係が分明ではない点で、いかにも 古い惰性で書いてる日本人へボ記者にありがちな欠陥記事だ。 ガリア戦記 http://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E8%A8%98 古代ローマの政治家・武将・著述家である ガイウス・ユリウス・カエサル4世(Gaius Iulius Caesar IV)が ガリア戦争(Bellum Gallicum)の経過を古典ラテン語で著述した ラテン文学の古典的名著『ガリア戦記』(Commentarii de bello Gallico)のラテン語・日本語対訳。 痴愚神礼讃 - ラテン語原典訳 (中公文庫) [文庫] エラスムス (著), 沓掛 良彦 (翻訳) 出版社: 中央公論新社 (2014/1/23) >>81 上智大学にはリーゼンフーパー神父がいるから 東大より上智の方が充実しているような感じがしている。 キリスト教(カトリック)関係で、分類では神学・哲学になるんだろうけどね。 あの辺は、クレメンス、十字架のヨハネ、フリードリッヒ・シュペー・・・ 修道士、神学者、そういったものであると同時に詩人でもあり、 随筆家でもあったりするから。 なんかレスが削除されてるような気がする ネロ帝の仕業か ギリシャ悲劇を全部読み終わったので喜劇に手を出したがキツイ… 1つの劇に注釈が400以上あってぶったまげた 解説読むだけで脳がバーストする 解説がちょーくだらない訳者の人とかたまにいるよね 学者だからしょうがないかとは思うんだが 概説だけだと味気ないし自分の考えを言い過ぎるのも場違いだしそのバランスが奥義ですよ カトゥルスの詩とかスリッパで頭ひっぱたきたくなるよね ネタばらしをしながら見る手品のようで俺はあまり感心しない 文芸心が足りんと思うわ α/β/γ/δ/ε/ζ/η/θ/ι/κ/λ/μ/ν/ξ/ο/π/ρ/σ/τ/υ/φ/χ/ψ/ω これからって、今までも対訳本の時代だったんだよ。 少なくとも、ギリシャ、ラテンに関してはね。 『古典ギリシア語のしくみ《新版》』から名言を紹介。γνῶθι σαυτόν.(グノーティー サウトン、汝自らを知れ)デルフォイのアポロンの神殿にあったとされる言葉です。(象) https://twitter.com/hakusuisha_g/status/487162744542490624 オヴィディウスはほんとにお話を語るのが上手だよねー( ´∀`) 名人の落語家みたいだよ 古代ローマの文学がユウェナリスくらいで終わっちゃったのは皇帝に文学趣味が無くなったからて書いてあったんだけど ほんとかい ギリシャ文字の2バイトフォント、間延びしているようでつらい(笑 以前、大学生の時に逮捕され、留置所内図書室で塩野七海の「イタリア遺聞」という本を見つけて読んだのですが、 その中に、塩野氏がある人から聞いた話として、 オデュッセウスは戦争後なぜ故郷にすぐ戻らなかったのか? 神の怒りを買って放浪云々というのは嘘で、田舎者のオデュッセウスは、 戦争後、いい気になって各地で遊びまわっているうちに時間をつぶしてしまい、 家に帰るのが遅くなった言い訳に、壮大な法螺をでっちあげたのだ。 というものがありました。 まあ、他愛もない話なのですが、後にオデュッセイアを読んだときに、 ペネロペイアに問い詰められたオデュッセウスが必死に言い訳をしている姿を想像して、 思わず笑ってしまいました。 >>106 パリスの審判だって、人妻を盗んだ言い訳。 数多くある「神様と人間のあいだにできた子」も、要するに不義の子。 >数多くある「神様と人間のあいだにできた子」も、要するに不義の子。 で、だからナニを言いたいんだい。 不義の子と言っただけでは面白くもなんともないよ。 >大学生の時に逮捕され、留置所内図書室 だからこういうウソハッタリはやめてくれ。 留置所内図書室ってなんだよ?バカ・・・ おっとう、東京拘置所には図書室ありますよ。 おれも大学生のときお世話になったですからねい。 >>106 ジェイムズ・ジョイスがいなければ良かったんだけどな >>110 今はどうか知りませんが、私の学生の時分には、留置所内に図書室?閲覧室?というものがあったのです。 >>114 どこの警察だ? それを言えないとこが嘘くさいんだよな。 >>110 留置場で読書できることも知らんで文学板来るとは 京都大学学術出版会『西洋古典学事典』を 先ずは読むことだ。 さなくば、話にならぬ。 分かったな。 全てが奇談に思えるのでどういう内容なのか気になる>奇談集 >>121 ギリシア奇談集 原題は「多彩な物語」。古代ローマの著述家アイリアノス(2世紀後半-3世紀)が百花咲き乱れる牧場のように多彩絢爛な読み物を世に供せんと、 先行群書からこれぞという話題を抜き出して編んだ一書である。 古今の名士、名将の逸話をはじめ… て本。訳、松平千秋、中務哲郎て碩学二人な感じ すでにこの扉の文章にも独特の品格ある調子が感じられるね 8 名前:吾輩は名無しである 初心者の方々は、京都大学学術出版会より刊行されている傑作 『西洋古典学事典』を入手して、よく調べてみることです。 ギリシア・ローマの神話伝説が、わかりやすく網羅的に語られていて 万人向きの素晴らしい手引き書となってくれますから。 しかも、母音の長短から古典ギリシャ語表記(アッティケー方言のみならず、 イオーニアー方言やドーリス方言、時にはアイオリス方言、その他)も列記されていますよ。 老婆心から一言、申し上げました。 https://en.wikipedia.org/wiki/Barbara_G._Walker The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (1983) ISBN 0-06-250925-X http://archive.org/stream/womansencycloped00walkrich/womansencycloped00walkrich_djvu.txt Full text of "The woman's encyclopedia of myths and secrets" 邦訳は 神話・伝承事典―失われた女神たちの復権 ギリシャ神話ってここでいいんだろうか。 何を読めばいいのかわからない・・!w 全集とかでギリシャ神話の巻を読むか、 いわゆる現代の人が解説したのを読むか、 岩波に原典的なものがあるんだろうか・・・? 岩波の赤帯100番台(ギリシア・ローマ文学)を全部読破してから来て下さい。 「仕事と日」494行を読んで2ちゃんをやめる決心がつきました みなさんさようなら >>132 亀だが、レスサンクス。 全部はなかなか難しいだろうけど、 どこを探せばいいのかわかったわ。 本屋行ってみる。 >>131 そら「変身物語」でしょうね。「これは真のギリシャ神話ではない糞ローマ人が」みたいな説はひとまず無視して 以下に引用します。 ------------------------- 詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。 納得した。 素晴らしい内容だから。 もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。 総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 一家に一冊は備えて置くべき書籍だろう。 お薦めしたい! http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784876989256 なお、上記の書物が、電子書籍版 『西洋古典学事典アプリ』 として読める。 ヴァージョン・アップされていて、しかも廉価で携帯至便と来ているぞよ。 http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1993& ;lang=jp --------------------------------------------------------- 以上 >>86 迫力あるよね 孤立して蛮族に一部隊が全滅させられた屈辱とか臨場感あったなー 栄光のローマ軍の凱旋を思い描いて聴きたまえ この時の大敗は通信ミスと判断ミスが重なったためのように記憶しているけど これは報告書なのでカエサルは微妙に責任回避をしたもの言いをしてたような 「しかし彼らは最後の一人まで勇敢に闘った」みたいな言い方は効果的だつたろうな。本国の権力争いもあったろうし オヴィディウスの「変身物語」の英語版を買ったぞ 結構分厚い作品だが読みごたえはありそうだ 時間をかけてじっくりと読んでいくことにする 第三国の作品を英語で読むというのは結構いいな 2011年に京都大学の院生から、アカハラで訴えられた中務哲郎の ような者に2014年の読売文学賞を読売新聞社は与え、彼の過去の 悪行による悪評を帳消しにするという、まったく許し難い行為をなした。 これに似た事は京都大学内でセクハラが問題になった大澤真幸が、それに よって退職した2009年から6年後に河合隼雄学芸賞を受賞した件だ。 大澤はセクハラで退職後、岩波から立て続けに本を出してるが、岩波という 出版社はセクハラとか、何とも思わないんだろうね。 過去には1993年には矢野暢のセクハラ事件でも有名になった京都大学 余程、学内改革をしっかりしないと駄目だね。 矢野は社会的に抹殺されて、事件後の数年後に亡くなったが。 古典ギリシャ語の学習 1、CDエクスプレス古典ギリシャ語を隅々まで学習したあと、 こなすのに最適なテキストをご紹介ください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1098902270 1.エクスプレスは、20課で見開きと型が決まっているので、 言語によってはあまりにページが足りなくて説明はほんの基本だけというものが多いです。古典ギリシャ語もそういう言語の一つです。 他のテキストですが、日本語書きの現在入手可能なものは、どれもが大学の授業を想定してページ数が200ページほどに限られているので、 エクスプレスよりはましですが、やはり必要な文法事項が十分に網羅されていませんし、何よりも大量の読み物がないので、語彙は増えません。 もしじっくり読解中心に勉強するなら、おすすめは、世界的に定評のある Reading Greek シリーズ, Joint Association of Classical Teachers Text and Vocaburary(318ページ)と Grammar and Exercises(560ページ)と CD の基本3点セットで、 合わせて900ページの大冊すが、他によい文法書があれば、Text and Vocaburaryだけ購入でもOK。 内容の一貫した簡単な読み物を通じて、語彙と文法を習得するようになっています。 このシリーズの上級編として、A Greek Anthology(202ページ)というのもあります。 あるいは、文法中心に勉強するなら、これも定評のある Greek: An Intensive Course, Hardy Hansen,Gerald M. Quinn これも848ページもある大冊ですが、文法の説明が非常に理解しやすいように配慮されていて、練習問題が、 最初のあたりは同じ単語ばかりで種々の文法形の文が並んでいて、語彙に気を取られずに文の解釈に集中できるようになっていて、 やがてゆっくりと原典の抜粋が導入されます。 以上の2点は、日本のテキストにありがちな、文法の活用表だけ覚えさせたら、十分な語彙もないのに、 急に原典の抜粋を読むのとは違い、段階的に覚えられるように配慮されています。 それから、詳しい文法書があるといいでしょう。おすすめは、 高津春繁『ギリシャ語文法』岩波書店 日本語書きの唯一の詳しいギリシャ語文法です。 Greek Grammar, Herbert Weir Smyth 英語ではこれが一番いいでしょう。値段も安い。 ゲルマンに蹂躙されるローマ、五胡に中原を奪われる漢族 堕落した文明は野蛮に負ける なぜ中世ヨーロッパは厳格なキリスト教を受け入れたのでしょう? そこにはもちろん、合理的な理由があったのです。 最大の理由は中世の貧しさです。 禁欲のキリスト教は貧しい中世の荘園世界にジャストフィットしました。 それ以前…古代ギリシアやローマの時代は豊かでした。 なぜなら地中海を支配していたからです。 温暖な気候の中、各地域はそれぞれの特産品の生産に特化し、海上貿易が盛んに行われていました。 人々はその経済力で食と性の享楽にふけりました。 しかし、ゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国は崩壊。経済秩序が破壊されます。 またイスラム勢力に地中海の制海権を奪われ、貿易も不可能になりました。 ヨーロッパは深い森の中で、小さな村(荘園)単位での自給自足体制を強いられます。 中世とは都市も海も失ってしまった時代。 人々はアルプス以北の寒冷な森に入って行きました。 地力もなく、流通もなく、深い深い森の中にある小さな村での自給自足。 その貧しさに耐えるため、中世は神への強い信仰を必要としたのです。 であるならばイスラム教に改宗してその経済的恩恵に浴すればよかったのでは? それにキリスト教は「吾唯足知」という自足的な生活で満足していたのではなく 十字軍遠征という略奪戦にうって出ましたよね? 略奪戦ならイスラムの方が先だろ あいつら最初からそうだから >>150 なんか時代がめちゃくちゃじゃないかな イスラムの地中海制覇は9世紀でしょう その時期にヨーロッパがキリスト教化されたのは単にゲルマン民族がキリスト教を採用したから 9世紀10世紀は世俗権力と結びついて腐敗しまくった教会になりはてていた その反動がグレゴリウス改革であり修道会運動であってあくまでごく一部のはずなんだけど 清貧を謳うのはアリウス派とかのアイルランドなんかに残る修道僧なんかでしょう これはもっと前つg ゲルマン民族も最初はアリウス派だったわけで、これも略奪に都合がいいからキリスト教採用したようなもの まるでプロテスタントみたいな禁欲のキリスト教なんてオーソドックスにもカトリックにもないよ 清貧の使徒時代に帰れっていうのはいつも一部が言っていたことで、民衆が信仰を持つ理由になんてなったのかなぁ 社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。 口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。 そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。 本田宗一郎 【超贅沢三昧!】古代ローマ人のめちゃくちゃ快楽生活色々 ランキング! https://www.rankingshare.jp/rank/aufocmszwg 文化的な生活水準 帝政ローマ時代のローマ市民=中世ヨーロッパの王侯貴族 _ ∩ ( ゚∀゚)彡 カエサル!カエサル! ( ⊂彡 | | し ⌒J >>152 略奪し返したんだから>>150 が主張するように 貧乏を良しとして逼塞していたんじゃないでしょう? 話をそらし駄目ですよ。 そもそも蛮族による収奪を我慢するのが拡大理由なら 東方教会よりも西方の方が宗教的に栄えてなければならない。 世界三大パクス パクス・ロマーナ 元祖ローマの平和。広大な領土に高度な文化、世界史的黄金時代。 偉大な建造物の数々は圧巻。 パクス・アメリカーナ 現代の超大国アメリカ。巨大な軍事力、経済力を兼ね備えた一極体制。 ヨーロッパ諸国を従えた自由主義の覇権は圧倒的。 パクス・トクガワーナ 戦国の勝者徳川幕府。主に日本の関東地域の領土に加え地方大名を統制した。 その威光は琉球から朝鮮まで多大な影響を及ぼすほど。 古代ローマ時代区分 ・王政期 紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、ロムルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間(伝承による)。 ・共和政期 紀元前509年から紀元前27年まで、イタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間。 ・帝政期 オクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年から、テオドシウス1世が死に際して帝国を東西に分けた395年までの期間。 ・東西分裂後 西ローマ帝国(395年 - 476年)と東ローマ帝国(395年 - 1453年)に分裂した時代。 ※一般的に古代ローマとは呼ばれない事が多い。 黄金のろば下らんわ。「完全な形で伝わる唯一の二世紀ラテン語小説」てことだが失われてた方が親切だった 冗漫、下品、場当たり的、アプレイウス才能なし ペトロニウスは饗宴があるからこっちの方がまだましだわ ヴェルギリウス、ホラティウス、オヴィディウス、プロペルティウスなどきら星のごとき詩人たちがほぼ同時期に活躍していた偉大なアウグストゥス時代は 二度と戻って来なかったと言うことなんだな 十数年前にヘーゲルやカントと並行してプラトンを読んでいたとき、「ソフィステス」で哲学者の定義 を述べたとされる箇所について、これはヘーゲルやカントと同様のことを言っているのではないか、と 思い至りました。その後仕事に追われていたことなどから公にすることができなかったのですが、最近 になって時間に余裕ができたこともあり、まずネットでご意見を伺ってみようと考えました。見当違い ではないか、現時点で公表する意義はあるのか、などご所見を頂戴できれば有難いです。 まず「ソフィステス」の該当箇所は以下のとおりです。(藤沢訳) 「そのことをなしうる人は、 一つの<イデア>が多くのもの−その一つ一つは離れ離れにあるのだが− をつらぬいて、いたるところに延び拡がっているのを、 そして互いに異なっている多くの<イデア>が、一つの<イデア>によって 外側から包みこまれているのを、 そしてさらに、一つの<イデア>が、全体をなすものの多くをつらぬきながら 一つに統一されているのを、 そして多くの<イデア>が、離れ離れになって完全に区別されているのを、 充分に感知しているのだ。」 一方、「精神現象学」の「知覚」の章で、ヘーゲルは、塩が「白い」「辛い」「立方体である」などから 成るといったことを述べた後で「物は本当の意味での「も」の媒体へと押し上げられるが、物質(注:、 「性質」を意味すると前の部分で説明あり)の集積にほかなるこの媒体は、単一物というより、中身を 包む風呂敷のようなものである」と言っています。 (以下続く) この個所だけをきっかけに考え始めたわけではないのですが、これは、プラトンの上記の「一つの <イデア>によって外側から包みこまれている」と同様のことを言っているのではと思いました(要す るにいろんな「述語」となるものをまとめて「個体」が形成されているということ)。ヘーゲルとの比較 はともかくとして、「ソフィステス」のこの個所についてのこうした理解は、おそらく少なくとも有力な 説の一つとされているだろうと思い、プラトン全集巻末の藤沢氏の解説を見たところ、いずれの説も、 (1)で出てくる「イデア」が「人間」など主語的なものであることを前提にしており、述語的なものを指し ているとする解釈は紹介されていませんでした。 それで、ギリシャ語の原文にも遡って確認したところ、(1)、(3)では、「多」が “pollon”と中性形 で、(2)では“pollas”と女性形になっており、藤沢氏の解説では、中性形は事物を(女性形は観念的 なものを)指すものとして明確に区別されているとのことです。それから、(3)で、au di' holōn pollōn とあり、原文の語順どおりに直訳すれば、「再び 通じて 全体としての 多を」ということになります が、これは、(1)で、個物を諸性質(述語)としての諸イデアが貫いていることを述べ、(2)でそれらが まとまって個物が形成されているとした後で、(3)で、再び個物(ただし今度は全体としての)に 戻って、諸個物が一つ(のイデア)へと取りまとめられると述べた、ということではないかと思いま した。ギリシア語のauの用例を調べたところ、単に「again」ではなく「this time」の意味で使われて る例もあったと記憶しています。 カントとの関りとか、だからといって一体何の意味があるのか、とかいったことは、また別途ご説明 する必要がありますが、ひとまず、以上のような解釈について、ご意見を頂戴できれば深甚です。 (以上です) 最初に書き込んだソフィステスの引用部分から番号が抜けていたので、再送いたします。 すみません。 十数年前にヘーゲルやカントと並行してプラトンを読んでいたとき、「ソフィステス」で哲学者の定義 を述べたとされる箇所について、これはヘーゲルやカントと同様のことを言っているのではないか、と 思い至りました。その後仕事に追われていたことなどから公にすることができなかったのですが、最近 になって時間に余裕ができたこともあり、まずネットでご意見を伺ってみようと考えました。見当違い ではないか、現時点で公表する意義はあるのか、などご所見を頂戴できれば有難いです。 まず「ソフィステス」の該当箇所は以下のとおりです。(藤沢訳) 「そのことをなしうる人は、 (1)一つの<イデア>が多くのもの−その一つ一つは離れ離れにあるのだが− をつらぬいて、いたるところに延び拡がっているのを、 (2)そして互いに異なっている多くの<イデア>が、一つの<イデア>によって 外側から包みこまれているのを、 (3)そしてさらに、一つの<イデア>が、全体をなすものの多くをつらぬきながら 一つに統一されているのを、 (4)そして多くの<イデア>が、離れ離れになって完全に区別されているのを、 充分に感知しているのだ。」 一方、「精神現象学」の「知覚」の章で、ヘーゲルは、塩が「白い」「辛い」「立方体である」などから 成るといったことを述べた後で「物は本当の意味での「も」の媒体へと押し上げられるが、物質(注:、 「性質」を意味すると前の部分で説明あり)の集積にほかなるこの媒体は、単一物というより、中身を 包む風呂敷のようなものである」と言っています。 (以下続く) >>163 私は定義できない→定義すると定義している自分から離れてしまうから→私とは動詞である と言うのを思い出しました。 論理的には、A→BかつC→BであるからA=Cと言っているように思えます Aに付着する性質とCに付着する性質がBであったときにこれを同一視するのはアレゴリーの領域であり、イデアとはいえないと思います また、ヘーゲルの知覚は感覚を解しているものも含めていますが、プラトンにとってイデアの知覚は感覚の延長で語りうるものでしょうか? >>167 ひとまず最後の点についてだけお答えいたします。 まず、ヘーゲルの「知覚」についてですが、彼の哲学体系は最終的に「概念」(「精神現象学」では最 後は「絶対知」とされていますが)に至る階梯的もので、「精神現象学」では、途中から社会的・歴史的 問題と一体的に説明されていることもあり、「知覚」は「感覚」の直後という全体の中で比較的前の方に 置かれています。しかし、この「知覚」の段階で、既に、「感覚」の世界で描かれた不定、流動的な世界 から、比較・分類されて認識された知的、観念的な世界へと移行しています。(なお、「概念」で理解さ れた世界と、感覚の段階の世界とは、いわば観点が異なるだけで、相矛盾するものではないと思います。) では、プラトンの「イデア」はどうかというと、ここで引用した部分では、物的なものに対立する観 念的なものを指す言葉として、(述語的、主語的にかかわらず)広い意味で用いられていると考えられま す。ただし、述語的なものであっても、感覚的で不定なものではなく、比較・分類されて認識されたも のを指していると考えられます(前回引用した和訳では省略されていますが、(1)のイデアについて、 原文では、「十分に区別されている」(hikanōs diaisthanetai)という修飾語も付されています。一と多 の対比の頻出も、区別/統合を表しているのではないかと思われます。)。 プラトンの著作の他の個所での「イデア」の使用との関係についても考察しお示しすべきなのかもしれませんが、いずれにせよ、上記のとおり、単なる感覚的なものと理解されるものではありません(ヘーゲルの「知覚」もそうです)ので、ご懸念には及ばないと思われます。 (なお「ソフィステス」該当部分の原文はこちらにあります) http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Plat.+Soph.+253d& ;fromdoc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0171) >>168 まず、あなたの提示しているのはイデアに対して実在論をとるか、唯名論をとるかと言う問題に帰着します。 プラトンの引用された部分は、対話において最終的にイデアが定義できないという結論に至る時点において、では何でないかを検討している暫定的な結論に過ぎません。 ヘーゲルは実在論と唯名論を精神の運動と定義し、その運動にこそ意味があると主張し、その意味ではイデアが動詞的である(運動し続けることでしか精神=概念にはたどり着かない)という言い方が出来ます。 これは2000年間議論が続いている唯名論と実在論の止揚という名の「解決」であります。 私はこの解決を否定するものではないのですが、ヘーゲルにおいてはこれは解決になりますが、プラトンにおいては解決ではなく、暫時的解決に過ぎません。 英語に直すならプラトンはイデアを最終的に提示する対象としてV-ingを用いて表現したのは事実ではありますが、これはヘーゲルとはまるで別物であります。 知覚についてあげられたヘーゲルの引用は重要な点で >感覚の段階の世界とは、いわば観点が異なるだけで、相矛盾するものではない などと言うことはできません。彼は精神の運動の往還において、質的な変化を強調しております。 矛盾こそしませんが、止揚を経過しない知覚と概念の把握にははっきりとした違いがあります。 唯名論と実在論を統合することなしになされたイデアの動詞的把握はヘーゲル亜流に過ぎず、見るべきものはありません。 この唯名論と実在論、イデアの定義不能性の前に沈黙するプラトンの絶望を、へーゲルの絶対精神の挫折に比較することは意味あることでありましょう。 ただし、貴下が引用したのはヘーゲルの感覚のレベルであり、それはヘーゲル亜流が陥った何でも説明できてしまう陥穽に過ぎぬと思います。 これを乗り越える、ヘーゲルの止揚は現実には存在しないと思う立場からの愚見ですが。 いわばイデアを述語的な総体ととる立場は実は言葉の意味がそれによってイメージされる全てというような言語論に接近して表されております。 これは経験論の立場であり、イデアの本質はあらゆる付随する条件を包含すると言う考え方が必要になります。 どうしてもこのような考え方は唯名論、本質は事物に先行しない、あらかじめは存在しないと言う考えに接近します。 あらゆる事物は実は本質に含まれている、という汎神論的解決も存在し、ヘーゲルやスピノザは(ある種)そのような考え方をすることになります。 ただし、「ソフィステス」がなぜソクラテスの登場しない対話編なのかにご注意ください。 またその対話が最終的に解おおざっぱに決していないものなのかにもご注意ください。 プラトンは解決できるだけの自信がなかったのです。アリストテレス的な発言が目立つのも当然だと思います。(プラトンからすれば言いがかりでしょうが) 大雑把な話として、プラトンがヘーゲルがぶち当たらなければいけなかった壁にぶち当たってると言うのはいえると思いますが、カントやへーゲルと同じことを言っている、というのはかなり矮小化した(プラトンが必死に避けた)議論じゃないかと思います。 私はプラトンがあえて権威たる師匠「ソクラテス」を採用せず、結論も出さなかった明晰性を評価しますが、その断片から後代の粗末な解決と直結させる愚は評価しません。 イデアってプラトンがいたせかい。イデア論てのはプラトンが いった世界で実現いまは不可能。そういうものは人によってはあるよ。 ローマ三大英雄を挙げるとすれば スキピオ、カエサル、あと誰だ? read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる