保坂和志
ホサカの話をしようよ。
『キース・リチャーズはすごい』はみんな読んだか?
あとこれ聞きたいんだが、『未明の闘争』で唐突にペチャが出てくるとこ、あれはどう思う? 中沢忠之
ゼロ年代以降の純文学に対しては、良くも悪くも蔓延する「保坂的な空気」に対する批評をしなければいけないと思っている。
保坂和志というより保坂的なものですね。保坂氏の作品は案外言語化しにくい仕組みを持っている。
90年代以降の純文学のトレンド、物語化と難解化とジャンク化、いずれにも属さないという否定でしか語れない。
2016年5月4日 ayieS
たまたま読んだ保坂和志の小説に
「プリンスなんかキンキン声でチビで見栄はって踵の高い靴はいて、あんなやつ業界ではアメリカの野口五郎って呼ばれてんだぞ」
って台詞あって小一時間次の頁開けなかった。
2016年5月12日 山中タカ
一番タチが悪いのが保坂和志文体で書いてる人だよね。考えているようでいて何も考えていない文章の典型。
もちろん、保坂和志本人は素晴らしい作家さんですけどね。
2016年5月14日 雑文 - 2016年05月13日 (金)
前記受賞作評の冒頭で、北村氏は保坂和志を取材したときの話を書いている。保坂和志は滝口悠生が強い影響を受けた作家らしい。
保坂は、「汽車旅行も小説も一緒で、どこへ行くかよりも途中の景色が大事だ」と言ったそうだ。
これに対して北村は自分にはそんな人間的余裕がないので遠くに行くには飛行機に乗るし、新幹線の中でも本ばかり読んでいると言っている。
作家と評論家の違いを象徴的に表しているような気がする。作家は人生を感じたいのだ。だが評論家は小説を感じたいのだ。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-886.html disco cat
あともうひとつだけすみません。さっきも書いたのですが、私は読者を意識して書いたというより、
非常にパーソナルな作業としてこの作品を書きました。書き終えた後自分が変われれば良いかな、と思って……
保坂和志さんの小説論の受け売りなんですが、なにか変わったのかなと……
籠原スナヲ
それは私には判断しかねるところですが、保坂和志ということでひとつ思い出したのは、そういえば猫や犬のような動物が出てこなかったなあと(笑)
あれは保坂小説においてかなり本質的な部分で、人間の人間的な感傷を断ち切る力が動物にはあるんですよね。
disco cat
そうなんですね。そういう役割を猫が果たしているのか……猫を飼ったことがないので、そこは想像で補うことは出来ませんでした。
その視点から保坂さんの小説を読んでみるのも面白そうですね。
金井美恵子「目白四部作」もぼんやり念頭にあったのですが、技術が足りなかったですね tanpak
保坂和志の、何だったか、小説で小石川植物園の描写があって、あのパートがすごく好きなんだけど
「極相林にはシュロが」って説明を自分ちの裏を見るたびにふと思う。
2016/05/23 保坂好きなんだけど似たような作風の作家いないかね
何気ない日常を深く考察するみたいな 柴崎友香とか保坂チルドレンと呼ばれる人を読んでけばいいだろ ぼくは言った。
「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ――、
本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、
いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、
それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい――っていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」
また宮下さんの言い方が出た。真紀さんとぼくは庭に向かって腰をおろして脚を組んでいた。
さっきたしか草むしりしていたときに出たクローンの再生の話ではないけれど、
経験や知識は遺伝子にインプットされることもなければ複写したりすることもないのだが、
そういうことよりもむしろ真紀さんが一人で本を読んでいるあいだに感じていることは
(真紀さんはあんな言い方をしたが何も感じていないはずがないし、真紀さんは相当いろいろ考えながら読んでいるはずなのだ)
結局誰も知ることなく真紀さんと一緒に消えていく。
ぼくは何て言ったらいいのか、やっぱりそれはもったいないような気もしたし、
せめてそういう人がいることが知られるぐらいのことがあってもいいんじゃないか、なんて考えてしばらく黙ってしまったが、
そのうちにイルカやクジラのことを思い出した。(『この人の閾』保坂和志) 井村宏次(Koji IMURA 1941 - 2014.2.23没)
――まず、このインタビューをお願いした際、保坂さんが西武百貨店のコミュニティ・カレッジに勤務していた80年代に、
「日本のカルチャーセンターで最初に超能力(超心理学)の講座を企画した」というエピソードを知り、驚きました。
しかも講師は、超心理学研究者の井村宏次さん。井村さんといえば超常現象や気の研究の大家ですよね。
保坂和志(以下、保坂) あの当時、井村宏次さんがチャートルズ・T・タートの『サイ・パワー』(工作舎/1982年)という本を翻訳したり、
『サイ・テクノロジー 気の科学・気の技術』(工作舎/1984年)、
『霊術家の饗宴』(心交社/1984年)といった人間の意識の本質や超常現象に迫った本をいろいろと出版していた。
そこで、「超能力の講座をやりたいんですけど、適任者って誰だと思いますか?」って中沢新一さんに相談したんだよね。
そうしたら、「井村宏次さんしかいない」という答えが返ってきた。それで井村さんを講師にした超能力講座を立ち上げたというわけ。
http://happism.cyzowoman.com/2013/08/post_2818.html 自分の書いたものをせっかく書いたんだからという気持ちでかわいがっていてはダメなのです。
小説家となって小説を書き続けるのだとしたら、100枚や200枚の原稿ぐらいいくらでも書けると思えなければダメなのです。
『書きあぐねている人のための小説入門』 「――ほらっ、木の根っこが出てるから気をつけな」
言ったそばからひろ子は地面に露出している木の根につまづき、ぼくの左腕にしがみついた。
「あ、ごめんなさい」
「――、別に謝らなくてもいいけど」
ひろ子はすぐに離れ、肘まで落ちたバッグを肩にかけ直し、「あたし爪立てちゃった」と言った。
見ると肘の内側に二つ爪の跡がにじんでいた。「痛えなァ」と言ったが痛くはなかった。
つまずいてしがみついた人間と比べて、しがみつかれた方は木偶のようだった。
「夏の終わりの林の中」 保坂チルドレンは保坂ごときさっさと乗り越えなきゃいけないと思うんだけどな
結局保坂の周りをうろうろしてるだけなんだよな 作家とか芸能人とか企業の社長とかって、意外と霊感ある人多いからなー
幽霊普通に見てる人多いし、オカルト的な観点から神社や寺に参拝かかさないし、先祖供養も欠かさない。
オカルト否定派は社会的に成功しないっていう保坂の断言は失笑されるかもだけど
実際、当たってる部分はある 失笑という言葉には嘲笑とか憫笑の意味はないよ
それはさておき、こういう言い切りは保坂の真骨頂だろう 普通に笑える所だから、失笑でいいでしょう。
保坂はウケ狙いなわけではなく真面目に書いてるつもりだが、笑えるという意味。 なるほど、そいつは失礼した。1行目は撤回させてもらう
まあ、一般には笑われるような発言なのかもね 保坂は自分の言葉を一般化して捉えられることを嫌うくせに一般論しか言わないのがなあ 鴇でも猫でも熊でもなく 島田雅彦
http://www.shinchosha.co.jp/prizes/mishimasho/15/selection.html
猫を殺す本能も猫のために泣く心情も私には理解できないが、
猫をめぐる作者の態度の違いから、小説は猫殺し系と猫可愛がり系に分類できるようだ。
前者は「文壇」へのサカキバラの登場とともに一時期、おおいに流行った。
作家もこぞって少年犯罪をテーマに据え、社会学や精神分析を駆使して解釈に走った。
我こそは小説におけるサカキバラであると自認した作家もいたが、今は下火になっている。
前者をジャーナリスティックとすれば、後者は文学的で、
金井美恵子や笙野頼子、保坂和志らマッチョ的言説を嫌う文章家たちの手による散文詩的世界として展開されてきた。
猫好きのための猫好きによる猫好きの小説は、犬の場合と同様、一定のニーズを持っている。
猫殺し系と猫可愛がり系は互いに相いれない立場であろうが、幸い私は中立の立場で両者を比較することができた。 こういう胡散臭い文章書けるのは島田の芸風だね。嫌いじゃないわ。 ここの南側の隣りに建っていた家は九三年の伯父の葬式のときにはすでに取り壊されていて、
南側の塀に沿ってほぼ等間隔に植えられたヒノキのような針葉樹が十五、六本と南西の角の大き
なイチョウのほかは空き地のまま放置されていて、ヒメジョオンのような丈の高い雑草が生い茂
っているが、それは椅子に腰掛けた位置からは見えなくて、青い何もない空と視界の下半分の境
界には瓦屋根と三階建て止まりのマンションのガチャガチャした形が何重にも並んでいる。それ
らは日没時には輪郭だけになって、全体を記憶の中で再現できるような気持ちになるけれど、昼
間の光の中ではひとつひとつがバラバラの形をしていて、色もグレイの屋根とベージュ色の壁を
基調としつつも青い屋根が見えたり赤い屋根が見えたりレンガの壁が見えたりして、目はそれぞ
れの特徴にいちいち反応してしまって、全体としての印象がまとまることをひとつひとつの特徴
が打ち消していくように見える。
『カンバセイション・ピース』 それで門を入ってすぐの南側のいまは空き地になっている隣りとの境いの低いブロック塀の前
に並んでいるツツジのそのまた前に、奈緒子姉の車を入れるために移動させた妻の鉢植えを二段
の台に乗せたりまわりに置いたりしてから、ホースを引っぱってきて水を撒きはじめた。鉢植え
とツツジが終わると次に、紫陽花と南天と夾竹桃があって夾竹桃にはピンクの花が咲いていて、そ
の手前に水道の蛇口があって、そこから先は木が二列になっていて、手前に人の背と同じくらいか
それより低い金木犀、楓、梔子、沈丁花、猫柳……があって、奥の塀にちかいところが黐木、松、
椹、棕櫚……で、水を撒いているうちに奥に生えている木には子どものころだいたい全部登ってい
たことを思い出した。
小さなイチゴとたぶんミントの鉢が一番下の段に載っている三段の台の一つ上には「サラダバ
ーネット」と、買ったときのプレートを憶えに挿している鉢があって、サラダバーネットは一点
から細い茎が繊細な感じで放射状に、あるいは噴水のように伸び広がって小さな小さな葉が舌平
目の骨のように規則正しく左右に並んでいて、根元に近いほど葉は小さく遠ざかるほど大きくな
って、大きい葉は普通のやや長円の丸みのある葉の形だけれど、小さい葉は扇のような二枚貝の
貝殻のような、広がるだけで葉先がせばまらない形をしていて、小さい葉から大きい葉への形の
変化が一つの茎に並んでいるのを見ると、植物というより貝か何かの成長を俯瞰しているような
気分になり、ホースの水があたると規則正しく並んだ小さな葉が微細に刻まれたリズムでシャラ
シャラシャラシャラシャラ……と揺れつづける。
『カンバセイション・ピース』 戸梶圭太
『ヒッチコック映画術』(晶文社)で、ヒッチコックがロバート・ブロックの『サイコ』のどこに興味を引かれたのかというトリュフォーの問いに
「ただ一カ所、シャワーを浴びていた女が惨殺されるというその唐突さだ」
と答えていて笑ったと同時に唐突であることがいかに強いか思い知る。
7 Sep 2015
自分の創作を助けてくれる学問は今までもこれからも心理学である。
なかでも認知不協和理論と自我防衛機制はオールタイム二大ベスト。好きでたまらない。この二つこそすべてのコメディの源。
9 Dec 2015
この国の最底辺の人たちの犯罪と暴力はもう書かなくていいかなと思っている。
自分にはもっと楽しい小説を書く能力があるとわかっているし、実際書けている。あとは世に出していくだけ。
10 Feb 2016
散歩したりジョギングしたりせずに小説のストーリーを頭の中で固められる人なんているのか?
19 Mar 2016
初めの100ページ我慢して読めばその後の500ページは至福の読書体験が味わえると言われても、自分には無理。
17 Apr 2016
TwitterからInstagramに人が流れている理由が自分なりにわかった気がする。
ふいに見知らぬ他人の狂安電波に触れて気分が悪くなる危険が低いからだ。
21 Apr 2016
KADOKAWAの『SF大クロニクル』、自分の知らない広大な物語宇宙が無数に存在していることを知ることの喜び。
自分は今後これに紹介されている小説や映画やコミックの1%だって読み(観)切れないだろうけれどそれでも嬉しい。
無数の宇宙の存在を知るだけでも有意義なのです。
18 Jul 2016
地球上には、朝の冷気がどうだとか夕暮れの光加減がどうだとか深夜に降り始めた小雨が路地にああだこうだなどの
描写にまったく興味がない作家もたくさんいて、ちゃんと世界数カ国語に翻訳されるようなヒット作品を生み出している。良いことだ。
31 Aug 2016 nozomi
三田文学主催、磯崎憲一郎が保坂和志について語るという絶妙すぎる趣旨のイベントへ。
僕は学生時代になぜか磯崎憲一郎とその担当編集者たちと酒を飲んでから編集者になっている今にかけて
一年に一度くらいのスパンで磯崎憲一郎に会ってそのつど「あれ、あ、どうも」といった調子の絶妙な距離感が続く。
保坂スクールと呼ばれる作家群がいて、最近の僕はわけても柴崎友香ばかり読んでいて
磯崎は思えば学生の時分にまとめて読んだきりなのだがともかく、
当の保坂もふくめ彼らの書く小説を読み話を聞いていると、
自分も書きたくなるし書けるんじゃないかと思えてくるこのことの功罪は当然考究されるべきだ。
2016年11月5日
昨日も大学教授と話したことだが小説を書けない小説家のことをよく考える。
初期漱石とか芥川とか小島信夫とかあまりそう見えないが村上春樹とか、
そして小説を書けない小説家の帝王みたいなのが保坂和志で、
ちなみに映画を撮れない映画監督はゴダールやヴェンダースだろう。僕は彼らにかなり惹かれる。
2017年1月13日
ご恵投いただいた『三田文学』保坂和志特集号を少しずつ読み進めていて、
僕は小説論三部作のあとは保坂のものはほとんど読んでいないのだがこれを読むと
「読まねば!」という思いに駆り立てられるこの高揚感は決して僕だけのものというわけではないと思うが、
ではこの高揚感の正体はいったい何なのか。
山下澄人芥川賞受賞速報に接したのが場末の居酒屋でまさに保坂和志、磯崎憲一郎、山下澄人
(だから『三田文学』に寄稿の面々)のことをあれこれ話していた最中だったので不気味だったし、
最近僕は保坂和志は好きではあるがだからこそと言ってもいいその功罪について考えてもいたので複雑な心境だった。
2017年1月19日 nozomi
数年前に保坂で論文を書いたことがあって、おおよそその時点までに出ていたのが小説論三部作だったというわけなのだが
それまでの小説やエッセイはもちろん、何日も書庫に潜って文芸誌掲載の書評座談創作合評、
果ては保坂夫妻の取材記事まで、ついでに保坂スクールと呼ばれる人たちの資料まで蒐集した。
そうすると現代日本文学における保坂和志の受容史が描けるわけで、これがなかなかおもしろい。
90年代初頭のデビュー当時は一部の作家を除き困惑無理解非難で迎えられた保坂文学であったが
オウム事件後くらいを境に急に否定派が減少、そうして今や十指どころか五指に入ろうかというほどの重要作家だ。
そういえば保坂さんから届いた年賀状、イラストが保坂家の飼い猫の花ちゃん
(背中というかお尻のあたりに四つ葉のクローバー型のぶちがある)、
印刷のメッセージは花ちゃんの話題(今度雑誌に載ります)、
そして手書きのメッセージも花ちゃんの話題というわけで、花ちゃんのことしか書いていなかった。
2017年1月23日 >>608
ツイッターを見たら自意識だけが異常なまでに肥大化した俗物でびっくりした。
ツイッターを何よりきまじめに使っているとも言えるけど。
保坂に群がる奴らの中にこの手の人って妙に多いね。 今更「書きあぐねている人のための小説入門」読んだ
保坂がいじめに加担していた事をさらっと書いてたり、「モード奏法」で小説を書く(鼻につく喩え)、なぜ一気読みできる小説はつまらないのか、ネガティブな人間を描かない等…
自分が絶対に正しいものとして語るスタンスが癪に障る
こういう考えもある、って説明の方が良かったんじゃないですかね
あと批評とごっちゃになってて見辛い
今は鍋敷きに使ってます 中沢忠之
小説における現実とフィクションの関わりでいえば、
作家には現実をフィクションに呼び込む接点に独自の象徴形式があるもので、
大江は樹木や塔(→原爆・天皇など)、中上は路地(→差別など)、村上春樹は地下(→地震・植民地など)等々となるのだが、
90年代以降例えば阿部あたりからそれが絶えた
2017年3月28日
moisi
この観点から改めて考えると保坂和志は徹底して現実を呼び込んでないなあ。
そんな作家とそのフォロワーが覇権を握ってしまったゼロ年代以降の純文学ってやっぱり異常なのかもしれない。
中沢忠之
中上の「路地」から阿部・神町サーガへの、フィクションにおける土地問題については2008年10月のユリイカに書いたのでよろしければ。
保坂のゼロ年代の覇権は純文学だけでは紐解けないのでは。
去年の岩波「文学」に書きましたが、ジャンル小説とラノベの攻勢の中で純文学の縮み志向の結果だと思う
2017年3月30日
Yoshiharu ISHIOKA
文学史や文芸批評に疎いながらも、ここに「象徴形式のコード化」そのものの変容をみるとするならば、
興味深い論点が出てくるように思う。
続けて語られている保坂和志流小説作法が拒絶/構築しているものについては、
まさにそれこそが説明されるべきもののように思うがゆえに。
2017年3月31日 この人ほどインチキで生きてきた作家も珍しいかな
日本文壇3大インチキ作家は
高橋源一郎
村上春樹
保坂和志
だろうな ストーリーがないから駄目なんじゃない
そんな小説いくらでもある
内容がくだらないから駄目なんだ たとえば保坂チルドレン(笑)とかいわれるのに
ろくな小説家なんかいないだろ ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)
ミシェル・フーコー(Michel Foucault、1926年10月15日 - 1984年6月25日)
保坂和志(1956年10月15日 - ) 今回BOOKSTANDでは、せきしろさんが自身の作風に影響を与えた3冊を紹介してくれます。
今夜はその1冊目です。
●音楽のように読む物語
今夜紹介するのは保坂和志さんの「プレーンソング」です。
これは保坂和志さんという小説家の方が書いた本なんですけど、ルームシェアをテーマにした本で、
当時まだそんなシェアハウスとかいう言葉がない時代に読んだ本なんですけど、
4人の男女が一緒に暮らすんですけど、とにかく、驚くほど何も起こんないんですよ。
そのなんも起こんないことが、これだけ作品になっていることが衝撃的で。
それからすごく影響を受けましたね、僕は。何か起こりそうで怒らなかったんで単純に笑っちゃいましたね。
当時の僕の中ですと、振りがあって、オチがあって、っていうのがみなさんそうだと思っていたんですよ、本っていうのは。
それが何も起こらなかったんで、「あ、こういう方法もあるんだ」っていうのを気付かせてくれたっていうか、
僕が書く話が割と何も起こんないって言われがちで、カタルシスがないって言わるんですけど、それが悪い方でいわれるんですけど、
でも好きなんでしょうがないですね。何も起こらないのが。
これは本当に、いまだに読み返すことがあって、僕そんなに本は新しいの読むわけじゃなくて、
古い本を、昔読んだ本を何回もってことが多いかもしれないですね。
・・・音楽に近いかもしれないですね。
次は何を書こうって思った時に読み返して、「ああ、何も起こんなくていいんだ」っていう自信はいただきますね。
こんなこと言うと怒られるかもしれないですけど(笑)
http://www.j-wave.co.jp/blog/bookbar/2017/10/book_stand_296.html 2017 08/02 [Wed] 19:30 〜 23:00ゲンロンスクール
保坂和志 × 佐々木敦
ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第3期#4
保坂和志についての評論を執筆せよ
保坂「批評家の仕事は分からないものを前に、先頭に立って困ってみせること。
思想家や著者の解説を引いて、答え合わせすることではない。」
保坂「自分の小説は、何かを目標に書くのではなく、楽器の演奏のように、手持ちの道具でしたいことをする。
だから『作品の真の意味』なんて無い」
保坂「『その後の不自由』という本に、自分を不安定な状態に置かないと安心できない人がいると書いてある。
僕は完全にそれ。」
保坂「ある時期以降、先のことを考えて書く、ということ自体がつまらなくなった。
その切断線は『カンバセイション・ピース』」
保坂「『カンバセイション・ピース』のある場面は、『秋刀魚の味』の娘が嫁いだあとのシーンをイメージし、
視点を無人にした。僕がそこで研究したことを呆気なくやったのが岡田利樹と山下澄人」
保坂「創作について「もう先はない」というのは、物理法則とは違う。「もう先はない」と思わない限り先はない。
職業にするというのは、毎回出し尽くす苦しみに耐えること。」
保坂「小説は書くほどに確かさが失くなるもの。批評は確かさを求めるもの。
小説は信じる人にしか伝わらない、宗教みたいなもの。」
保坂「タイムマシンが一番関心がある。(自身の小説で)やりたいことはすべてタイムマシン」
保坂「SFと思わなくても宇宙人が出てきてOKな枠組みを作ったデヴィッド・リンチ
(魔法の中にいる人は、それを魔法と気づかない)」
保坂「批評の中でキャラを出したほうがいい。批評は文だけだと上から目線っぽくなってしまう」 山下晴代の『そして世界は泥である』
『新潮』(2018.4)──「あげ底作家」タカハシは、いまさら、どんなヒロヒトを描こうというのか?
同じく二番手と思われる、保坂和志の短編「ハレルヤ」(推定五十八枚程度)。
このヒトは、「師」の小島信夫と同様のスタイルをとって、日常の些事をだらだら、だらだら書いていくが、
しかしそれが意味があるのは、その些事を見つめることによって、哲学的な思念がなされなければならないが、
このヒトのバヤイ、つきあって読んでいくと、ただの些事のままで終わって、「え?」となる(笑)。
このヒトの頭のなかを占めているのは、この小説(?)の書かれた時点なら、
引っ越し先の家を、数百万年安く買えたらなー、である。
そして、テーマは、愛猫「花ちゃん」で、この猫は、生まれたての頃、片目の見えない状態で拾われ、
十八年と何ヶ月か生きて死んだ。「猫には一匹一匹、神さまがついている」というのが、作者夫妻の思いであるが、
それなら、なぜ、年間何万匹、何十万匹の殺処分が行われるのか? これらの猫たちの神さまはどうなっているのか?
作者は、そんなことにはまったく思い至らず、ただただ、自分が保護し、育てた猫「花ちゃん」だけが問題なのである。
ああ、そうですか(笑)。 実際のところ、プロの作家ではない人たちが小島信夫を面白いというときのその「面白さ」
には、なかなか共感できないことが多い。つまり、ブログやらアマゾンのレビューやらにま
とまった文章に書いてあるその「面白さ」は私には、本当に面白いと思っているというより
は、面白がっている、あるいは面白がっているふりをしている、というように映る。
そんなことをわざわざするのは、小島信夫を理解することが、現代文学を理解している試
金石になっているような雰囲気があるからではないかと思う。すごく雑に言えば、「小島信
夫をわかっているおれ/わたしは、現代文学わかっているよ」みたいなノリがあるのだ。主
にそれは保坂和志が作り上げたものだ、と私は現代日本文学的状況に疎いながらもそん
なふうに考えている。
ちょっと脱線をすると、保坂和志『小説の自由』再読はのろのろと進んでいたのだが、六章
にあたる「桜の開花は目前に迫っていた」を読んで、そのつまらなさに愕然とし、少し停滞し
てしまっている。
この章だけは、評論ではなく雑誌「新潮*2」に掲載された短篇なのだが、それまでに展開さ
れていた非常に含蓄のある評論を書いていた人間が書いたとは思えないほどの駄作であ
って、その「わざとこういうつまらないものを書いているんだよ」というあざとさが当該短篇の
至るところに芬々としていて、こんなのが「面白い小説」とか「優れた小説」とされるのであ
れば、それならばおれには「面白い小説」なんて必要ない、と思えるほどだ。
http://doteki2.blog.jp/20120616小島信夫の小説.html 保坂の小説は猫頼り。猫の出て来ない小説ってあるんだろうね? >>625
『コーリング』には出てこなかったと思う、多分 多和田葉子の小説および彼女が訳したカフカ作品について保坂がどんな感想を持っているか気になるんだがなんかで言及したりしてないかな
何か知ってる人がいたら教えてください カフカ「城」ノートってどこで読めるの?
小説〜は全部読んだ >>632
ありがとうございます
さっそく読もうと思います hosakakazushi.official
千葉雅也さんとのトークのノート、作った。
#千葉雅也
#デッドライン
#保坂和志
#小説的思考塾
#書きあぐねている人へのアドバイス
https://pbs.twimg.com/media/EL2P5MjVAAARAHP.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EL2P5M2UwAEHqE8.jpg
2019年12月15日 てとぽ
加藤茶の悼辞もだがその後の高木の「志村は死なないよ」で心に来た。
そのあとアナウンサーが「みんなの心の中で?」って言って台無しにしたかなと。
そういうことじゃなくて、たぶん高木ブーにとって志村は死なないんだよ。文字通りだ。
2020年4月2日
アオウミ
志村けんの追悼番組見た。
高木ブーが「決めました。志村は死なないの、ずっと生きてる」って言ったあと
アナウンサーが我々の心の中にって余計な言葉付け加えたけどこれ絶対違うよね。
そんなレトリックじゃなくもっと強い意味で高木ブーは喋ったように聞こえた。
2020年4月2日
懲〆兎
高木ブーの「志村は死なないの、ずっと生きてる」って言葉にアナウンサーが
「我々の心の中に」とか安っぽい言葉足してたけど、そうじゃないんだよ。
それじゃ普通の人と同じじゃないの。我々が死んだら志村けんも死ぬじゃないの。
高木ブーの確信はそんなものではない。全くどこまで鈍いんだよ。
2020年4月2日 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ
ああ、みんなで乗代雄介作を絶賛するがいいさ、俺は最後の一人になっても批判するぞという悲壮な気分になってきた。
2020年1月13日 新刊出たのに過疎ってるのね…
ここ初めて見つけたけど
新刊もトークライブも良かった 保坂和志って新人賞とってないんだね。
それで群像にプレーンソングを載せて名前を売ったわけだけど
どうやって掲載して貰ったんだろう?
持ち込みか?
知ってる人いる? >>640
経緯は『プレーンソング』の中に書かれてるよ 世間の潮目が変わったのか急速に存在感なくなったね
そろそろ老大家扱いかな? 猫がこなくなった
おもしろいんだかおもしろくないんだかわかんない。 「遠い触覚」のある章で
アメリカやソ連の核実験の回数を挙げてそれに比べたらフクシマなんて大したことないんじゃないの?とか書いててドン引きした けっこうなことを告白とか懺悔とかそういうテンションではなくしれーと文脈に溶かすように書くよね
入門のいじめの件然りルゴーネスの無断掲載しかり 中上健次やその周辺に対して
反撥心持って出て来たのは意義があったかもしれないけど
中上が40代で死んでその周辺の批評家たちの威圧的な態度も大して影響力持たなくなって久しいことを思えば
保坂とそのフォロワーたちの方が小さい小さい純文学畑とはいえよっぽど長く影響力を保持してきたし
もはやこちらの方が悪影響は大きかったと
少なくとも30年単位で振り返ると言える 「プレーンソング」
一度我慢して読み終えたのだけれど、10年ぶりに再読してみてやっぱり苦痛だったのだけれど 関係ないけどヘンリーミラー今更読んだ 不真面目で素晴らしいっすね あのだらっとした書き方を素人が真似しているのなんか目も当てられないと思うことがある きのこ
うーん面白いな 以下は引用より
く映画の敵は「アンチ人間」「アンチ物語」「アンチ感情」だよ。人間や物語から離れるために散歩する人達…
つまり、人間からも物語からも感情を動かされることを望まない人達。
「嬉しくもないが悲しくもない」状態を実現するために歩く人達
堀井義博
これはおもしろい観点
オレは映画好きのつもりなのだが、釣りがこれまた大好きで、
この二つを自分の中に同居させることの困難を感じてる
どうそく氏が挙げた保坂和志氏の引用によれば、オレにとっての釣りは、
この「アンチ人間」「アンチ物語」「アンチ感情」にまんま該当してる
モノオキソウコ
フィクションの登場人物のことなんて読んでるとき以外はどうでもよくて、
キャラクターのファンダムができることがよくわからないんだけど、
保坂和志『草の上の朝食』の工藤さんはすごいすき。
2023年6月1日
AI
保坂和志って『季節の記憶』に顕著だけど、
大好きになっちゃうキャラをささっと一筆書きで書くのがメチャクチャうまいと思うんだけど、
なんかその辺ってあんま言われてないよな
2023年6月2日 縁もゆかりもないはずの川本三郎、村上春樹、保坂らの顔が似すぎ。
というか、この手の顔は日本中にありふれてるんだろうな。 保坂は小島信夫を持ち上げている時点で終わっている
50年後はこの2人は読まれていないし、忘れられている 未定
群ようこ「老いとお金」(角川文庫)
私が群ようこさんの作品を読んだのは「アメリカ居すわり一人旅」に続いて2冊目。
文章がサバサバしていて好きです。老いはどんな人にでもやってくるから、
不安だ不安だと言ってばかりいないで、ドンと構えていられる人でありたいと思った。
2023年5月27日
保坂和志「プレーンソング」(中公文庫)
登場人物全員心の余裕があって羨ましい。主人公は金銭的にも余裕がある。
この小説が発表された時期はバブル景気なので登場人物達の価値観は今と大きく違うのではと考えた。
作品の内容がバブル期の日常なのか、バブル期でも特殊な日常なのか気になった。
2023年6月3日
Shun Fushimi 伏見 瞬
山本浩貴『言語表現を酷使する(ための)レイアウト
――或るワークショップの記録 第0部 生にとって言語表現とはなにか』
素晴らしかった…😭保坂和志の、テクストの手前にある生の「そのまま」性の肯定が、
当事者性優位の議論にすり替えられてしまう現状をどのように越えていくか。めちゃハッとする。
批評においても、その他の言語表現においても、
その他の表現手法においても、あるいは労働においても、
つまり自分の生存と享楽の手段のほとんどにおいて役にたつ。
具体的に、保坂和志と蓮實重彦をどう折衷しつつ組み替え、
それを音楽の記述にどう活かすかという自分の(ひとまずの)目標に強く活きる。
2023年6月13日 MAKE SOME NOISE
関係あると言えばあるし、ないと言えばない、厄介な中
間地帯にいる《私》を見つめる/矢野利裕『今日よりも
マシな明日 文学芸能論』(講談社、2022年)
2022年05月05日
本書は非常に慎重に描かれており、常に革新と、革新が陥りうる目の粗さへ
の批判、その二極を往還しているような印象を受けた。革新的な声に共感しつ
つも、序論では「《知識人》然とした文学の言葉において、聞こえにくい言葉
があるとすれば、この社会を生きる葛藤だらけで移ろいやすい、ねじれをとも
なった《私》の声である」(22頁)と知識人の言説を批判し、「前衛的かつ先
鋭的な《知識人》よりも、間違いのともなった《大衆》のグズグズしたありか
たに粘り強く向き合うことを選ぶ」(23頁)と生活する人間の立場から文学を
読むことを宣言する。
このような姿勢で書かれたもので言えば、おそらく前述の加藤典洋の批評以
外には、保坂和志の文章に同じような空気を感じる。加藤は、自らが戦争を始
めて敗戦したという感覚を持たない戦後民主主義者、平和主義者を批判した
し、保坂は、「不条理」や「不安」というタームに還元して思考停止してカフ
カの小説を読むことを繰り返し諫めている。両者が大切にしていることは、本
書と共通しているように思える。それは、はっきりとは言語化されていないノ
イズであり、声にならない声であり、理念に還元されない被害と加害の絡まり
合いに対して敏感でい続けることだ。
荒木優太(新しい本がでたよ)
これは余談。東浩紀/矢野利裕ラインでもそうだが、戦争(政治)と文学
で立項したとき、加藤典洋が本当に容易く文学の聖域を護持するための召
喚獣になっていることに戸惑いというか、控え目にいえば驚きを覚える。
加藤再評価はいいとして、私は高橋哲哉が別段文学的でなかったとは思わ
ない。
2022年11月9日