名作の現場
第35回 中上健次『枯木灘』 案内人・島田雅彦(その1)
https://mainichi.jp/articles/20180203/ddm/014/070/018000c

日本の近代文学は前近代の家族制度に伴う呪縛から逃れることを目指し、
おのが出自、血縁を呪う主人公を複数輩出して来た。
彼らは良家と姻戚関係を結ぶための政略としての結婚、家業や家名を存続させるための養子縁組、
家督の相続を巡る骨肉の争い、世襲化、固定化された職業、階級といった問題に常に直面していた。
『破戒』の島崎藤村然(しか)り、養子としての過去に悩んだ夏目漱石然り、母の狂気の血統を恐れた芥川龍之介然りである。

小松左京は『日本沈没』で「琵琶湖の小アユ論」なるものを展開している。
戦前の日本社会では「家」や「世間」が基本単位になっていて、成人男子は「家」を代表し、世間の荒波に向かっていったが、
戦後は核家族化と福祉の充実により、社会の過保護状態がすすみ、成人男子が女性化、幼児化しつつある。
いわば、琵琶湖のアユのように小型化し、世界の大人としての成熟の機会を失ったというのだ。

 高度成長期の保守言論人が唱えそうな説ではあるが、この議論に一つ付け加えるとすれば、
日本の父権の権威は敗戦によって、地に落ち、アメリカという新たな超自我が現れ、
日本の父はそれにただ追従する社会になったので、もはやオイディプス的な「父殺し」のテーマ設定は成り立たなくなった。
しかし、紀州出身の中上健次は例外だった。