……こんなもの、さっき通ったときもあったかしら、と思いながら歩いていくと、

ちょうど星(の形をした、道をまたいでぶら下がったネオンサイン)の下をくぐったあたりで、いきなり湧きあがるようなオーケストラのひびきが聞こえた。

この時間にいったいどういうことだろう、とちょっと腹立たしい思いがあたまをよぎったとたん、

私自身がなんともふしぎな光景のなかに足を踏みいれていた。

目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。

そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、

まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、

反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱え込むようにして地面に腰をおろしていた。

あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。

何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。

劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、

舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。

それほどすべてが意表をついていて、不思議な幻の世界にひき込まれたようだった。
(中略)