「美しい文章」って、そもそも何なのか。 [転載禁止]©2ch.net
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個人的には太宰。言葉に独特の雰囲気があって、太宰の言葉は本当に美しいと思う 美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ。つまり杓子定規にきめることができないから、それで恐ろしいのだ。
美の中では両方の岸が一つに出会って、すべての矛盾が一しょに住んでいるのだ。 いまあんまり装飾過剰な文章だとむしろ美しくないと思ってしまうな
かと言って簡潔なだけの文章がいいともおもわないし 修飾の程度に限定するなら
芥川以上三島未満がちょうど良い
それに合致するのが谷崎潤一郎 谷崎は英語の文法をかなり勉強仕込んでいるから
意味が明晰だし流暢
三島の美文とレトリックは論理が通らない部分がかなり多い 村上春樹の文章が美しいだとよ
大江の方がまだましだよ 大江健三郎の文章、表現力は凄いと思うけど美しいとは思わないな。
読者が読んで、頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章が、美しいそれ。 >読者が読んで、頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章が、美しいそれ。
それは文章の美しさとは別のものだね。
もう少しよく考えてね。 何を美しいとするかによる
文章に作家の美意識が表れるというだけでそれは明確に定義されているものでもない
一方で美しいとされる文章にはなにか一貫性や共通点があるようにも思える 頭の中に美しい情景が浮かんでくる文章がいいなら、なにも文章など読まないで
美しい自然を見に行けばいい話。それは文学の否定以外のなにものでもない。 よくこういうことを言って「ドヤ」顔をしてるのがいるけどw
奥の細道を読んで美しい情景が浮んで、美しい文章(作品)とはこういうものだ、と思っていいじゃん。
そんなら読まずに東北観光に行け、そのほうがずっと感動する、じゃないだろよw 身も蓋もないけど、美しい文章なんて人それぞれじゃん
議論はいいけど押し付けんなよ >美しい文章なんて人それぞれ
そんなもん、まだわかっていない 分かるまでは人それぞれってことだろ
つか本当に分かるのかよ(笑)
みんな自分が良いと感じたスタイルを美しいと思い込んでるだけじゃん >奥の細道を読んで美しい情景が浮んで、美しい文章(作品)とはこういうものだ、
>と思っていいじゃん。
一生勘違いしていなさい。
どうせ、仕事をするようになったら本など読まなくなるよ、キミみたいのは。
なんにもわからないでヒマツブシに読む程度だろ、今でも。 >分かるまでは人それぞれってことだろ
美しくないなぁ 文学板ってもう少し期待してたけどこんな返ししか来ないんだな >>101
お前の下らない書き込みにお似合いのレスじゃね? ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ >>87
何をもって別のものと思うのか。詳しく述べなさい 読者との関係性において世界の理解の深度を深めてくれるような表現
ということでいいのでは 曖昧にするためにオシャレな表現をするのは二流。
明確にするためにオシャレな表現をするのが一流。 未だに読まれている昔からの作家は全員美文だろが。
現代の作家なんて足元にも及ばない。
なぜってひょっとしたらオマエらだって小説家になれるんだぜ。
一発屋ってやつだ。
だが、俺たちが漱石鴎外荷風志賀芥川谷崎三島川端太宰etc.なんかには
まずなれない。この違いだろう。
今の奴らの小説なんて小説でもなんでもねーよ。 ♪<¥
『痰歌鑑賞』お題「汚れ事務所の裏工作(粉飾小説の裏側で)」
芥川 行き着く先は カネの生(な)る FIFAズルヨシの 本屋大賞
よみびと(ロンゲ妖怪バスターズ)フルタチンコ
♪<¥ >未だに読まれている昔からの作家は全員美文だろが。
「美文」と美しい文章は違うってことがわからないやつがいるのは困るな。
「美文」というのは見かけをビラビラ飾り立てた文章のことでペジョラティフだよ。
例:〇〇のの作品は中身のない単なる美文にすぎ内藤洋子 内藤洋子リアクションするなんて、オマエいくつのジジイだよこはまたそがれ 全ての要素が目的的に用いられてる文章は美しいのではないか 今のところ簡潔なのが美しさの基本だと思っている俺は、次に何を読むべきだろう? 125だけど言葉が足りなかった。志賀直哉とかを読んで、簡潔なのは美しいと思った。
だからむしろ志賀直哉の対極にあるような天才を読んでみたい、
簡潔じゃない美しいのを読んでみたいという意味です。あと返答ありがと。 小川洋子の「博士の愛した数式」は文章がきれいだと思った。
あと、林真理子なんかも容姿はアレだけど文章はうまいね。 グロテスクリアリズムを唱える大江の文章が美しいわけがない 日本語のですます調は綺麗に書ける。特に女の子は小論文とかにもおすすめ。
作家が主役じゃない。もはや。みんな書いてる。 大江の小説は美しいな。美男美女が出て来ないし、きれいな状況も出て来ないけど美しい。 穢いだけ。ただひたすら穢いだけ。なにもかも穢いだけ。 安倍の脳内を文字にしてみれば「美しい日本」の実態がどれだけ醜いかわかるよ。「日教組、日教組」って何だよ(笑) !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくな? ……こんなもの、さっき通ったときもあったかしら、と思いながら歩いていくと、
ちょうど星(の形をした、道をまたいでぶら下がったネオンサイン)の下をくぐったあたりで、いきなり湧きあがるようなオーケストラのひびきが聞こえた。
この時間にいったいどういうことだろう、とちょっと腹立たしい思いがあたまをよぎったとたん、
私自身がなんともふしぎな光景のなかに足を踏みいれていた。
目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。
そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、
まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、
反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱え込むようにして地面に腰をおろしていた。
あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。
何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。
劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、
舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。
それほどすべてが意表をついていて、不思議な幻の世界にひき込まれたようだった。
(中略) 昼間の疲れに押し倒されるようにして、すこしとろとろとしたようだった。ふいにベッドからほうりだされるような、
からだが、無数の小さな手にささえられて宙に浮いたような感覚にゆすぶられて目がさめた。鐘。
近くの教会の鐘が、夜中のヴェネツィアにむかってなにかを声高に告げている。時計を見ると一二時だった。
とはいっても、それは、鐘楼の時計が、ただ、昨日から今日への境目としての時間を告げる、というふうではなくて、
二○○年まえのこの夜、輝かしい彼らの音楽史の一ページとして、
はじめて自分たちの歌劇場をもつことになったヴェネツィア市民の狂喜の時間をここでもういちどかみしめているような、
まるでうつつをぬかしたような鳴りかただった。そして、その鐘の音を、冬の夜、北国の森を駆けぬけるあらしのような拍手が追いかけた。
建物の内側の拍手と外側の拍手が重なりあって、家々の壁に、塔に、またそれらのかげに隠れた幾百の運河に、
しずかな谺をよびおこすのを、私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかでじっと目をとじて聴いていた。
河出文庫「須賀敦子全集」第2巻 P.15-20. >>143 >>144
長文、ごくろうさん。で、これが美しいの? ふ〜ん。 美しい文章を楽しみたいなら新堂冬樹の小説は外せない。 如何なる星の下に生れけむ。われや世にも心よわきものなるかな。
暗にこがるゝわが胸は、風にも雨にも心にして、果敢なき思をこらすなり。花や採るべく、月や望むべし。
わが思には形なきを奈何にすべき。恋か、あらず。望か、あらず。あはれはいねはわが為にそを語りき(「わが袖の記」M30.8) 文章の羅列に美しさなど無い
しいて言うなら評論家が褒め言葉に美しいを使っただけ
勝手に価値感をこじつけたにすぎない >>148
>文章の羅列に美しさなど無い
おまえに美意識がないだけ。 越生と書いておごせという。埼玉も西の方の、山へ寄った小さな町である。
近くに梅の名所があるので、近年は人も知って新月ヶ瀬などというが、それ程の所でもない。
然し梅の咲く頃、坂戸の町からバスで越生の方へ向いて行くと、必ず秩父の方の連山が淡い紫にくっきりと見える。
町へはいって板葺の低い家並みの後ろに、裸木の雑木山が、風の無いぽかぽか日に照らされて居るのを見ると、如何にも早春らしい気がする。
町のはずれの越辺川というのに小さく橋が架かって居て、それを渡ると、弘法山という小さな山がある。
春もいくらか深くなって、そこの紅梅がむせるように匂う頃、寺の上の明るい雑木山に転がっていると、鳥がチチと啼き、日は燦々とふりそそぐ。
岩本素白(1883年8月17日 - 1961年10月2日)「素湯のような話ーお菓子に散歩に骨董屋」 太宰の文章はあんがい美しく感じる
あれだけ読点を多用しながら、読みにくさがない
むしろ引き込まれる
読点を多用したために文が醜くなっているのが小林秀雄 夢とも、現(うつつ)とも、幻とも・・・・・・目に見えるようで、口にはいえぬ――
そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりとした、しかも、清く、涼しく、悚然(ぞっ)とする、
胸を掻挘(かきむし)るような、あの、恍惚(うっとり)となるような、まあ例えて言えば、芳(かんば)しい清らかな乳を含みながら、
生れない前(さき)に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持ちの――
唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬(あこが)れて、それを聞きたいと思いますんです。
泉鏡花『草迷宮』 読点は数ではない。打ち所。リズムが悪くなる打ち方がまずいだけ。 しかし私の人生の旅は、明日こそ発とう、明日こそと思いながら、1日のばしにのばされて、
数年間というもの、一向出立のけはいもなかった。この時代こそ私にとって唯一の愉楽の時代ではなかったろうか。
不安は在っても漠としたそれにすぎず、わたしはまだ希望をもち、明日はいつも未知の青空の下に眺められた。
旅の空想、冒険の夢想、私がいつかなるであろう一人前の私の肖像、それと私のまだ見ぬ美しい花嫁の肖像、私の名声の期待、
・・・・・こうしたものが、ちょうど旅行の案内書、タオル、歯刷子と歯磨、着替えのシャツ、
穿替の靴下、ネクタイ、石鹸と謂ったもののように、旅立ちを待つトランクのなかに、きちんと調えられていたあの時代、
私にとっては戦争でさえが子供らしい歓びだった。
弾丸が当っても私なら痛くはなかろうと本気で信じる過剰な夢想が、このころも一向衰えを見せていなかった。
自分の死の予想さえ私を未知の歓びでおののかせるのであった。私は自分が全てを所有しているように感じた。
さもあろう、旅の支度に忙殺されている時ほど、われわれが旅を隅々まで完全に所有している時はないからである。
あとはただこの所有を壊す作業が残されているだけだ。それが旅というあの完全なあだごとなのである。
三島由紀夫『仮面の告白』 ……夜になって風がなく気温が零下十五度位になった時に静かに降り出す雪は特に美しかった。
真っ暗なヴェランダに出て懐中電燈を空に向けて見ると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に続いて落ちて来る。
それが大体きまった大きさの螺旋形を描きながら舞って来るのである。
そして大部分のものはキラキラと電燈の光に輝いて、結晶面の完全な発達を知らせてくれる。
標高は千百米位に過ぎないが、北海道の奥地遠く人煙を離れた十勝岳の中腹では、風のない夜は全くの沈黙と暗黒の世界である。
その闇の中を頭上だけ一部分懐中電燈の光で区切って、その中を何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、
いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮く上がって行くような錯覚が起きて来る。
外に基準となる物が何も見えないのであるからそんな錯覚の起きるのは不思議ではないが、
しかしその感覚自身は実に珍しい今まで知らなかった経験であった。
中谷宇吉郎「雪」 美しいというより俺の好きな文章の一つ。
***
花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。
わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。
晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。
落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。
『墨東綺譚』 (永井荷風) ついでに、もう一つ俺の好きな文章の一つ。
***
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かしにくる。
猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。
先刻迄で護謨風船(ごむふうせん)を揚げて騒いでゐた子供達は、
みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまつた。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、
静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此の稿を終わるのである。
さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此の縁側に一眠り眠る積りである。
『硝子戸の中』(夏目漱石) さらに、ついでに、もう一つ。
***
父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
(円谷幸吉の遺書) 白川静の書くものは、本人は美しく書くつもりがないのだろうけれど、どこか美しい
文体の背後に何かのロジックがある文章は美しく見えるのかな ユークリッド幾何学(諸君が高校あたりで知ったものね)の証明文は美しい。
芥川だったか誰だか忘れたが、文章を書く勉強は数学を学ぶのが良い、と書いていた。 殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く
ある名をば 叮嚀ていねいに書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る
この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな
わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも 美を美人の美と考えるとかなり限定されるだろう
詩と言うのはそういう要素が大きいように思う
表現内容 リズム 言葉の選び方・置き方
しかし散文での美しいは美人の美をさらに敷衍して快を感じるということではないかと思う
そこで一番大きな快は文字が表現したい対象をいかにうまく表すことができているかではないかと思う 人は美しいと感じたとき脳内に快楽物質が出る。
文章を読んでそれが出る人と出ない人がいる。
出ない人には美しい文章は理解できない。 その理屈だとエログロ鑑賞して
ドーパミンどばどば出してる人もいると思うけど エログロを理解している人だ。
エログロを毛嫌いする人はドーパミンが出ないから理解できずに否定する。 芥川龍之介『蜜柑』
中勘助『銀の匙』
志賀直哉は美しいとは違うと思う すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りの柚があたたかい波にゆらゆらと流れていた。
窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、かげろうのように立ちまよう湯気のなかに、
黄いろい木の実の強い匂いが籠っているのもこころよかった。
岡本綺堂『ゆず湯』 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています