純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学
らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
純文学と大衆文学というような絶対的な基準よりも、もっと相対的な
基準を問題にする方がメリットあると思うんだが。
例えば、ポモの批評家に媚びる作家が一時、多かったという現象は
思い出す必要がある。
いとうせいこう、島田、高橋源一郎などは、露骨にポモに媚びてた。
批評家に媚びる純文学など有り得ない。
純文学と大衆文学の明確な境界線などない。
時間が経って、純文学と評価された作品が大衆文学に評価されたり、
その逆の例など、我々は数多見て来たはずだと思うが。
一見しての思想小説が実は定型をなぞっただけの、実質は大衆小説だった
例とか。詳しい例は挙げられない。適当な勘で俺は書いてるから。
どっちにも跨がって評価された作品なら大菩薩峠とかある。 谷崎作品は芸術至上主義の立場をとる芥川から
奇を衒っただけの低俗な作品だ、と批判されたけれど(国会で問題になったことすらある)
現在では純文学の王道とされている。 純文学と大衆文学とをくらべてみる時、「どうあってもいい。」のが純文学であって、「かくあらねばならぬ。」のが大衆文学ではないのだろうか。
つまり、純文学の場合では、「かくあらねばならぬ。」ことの条件が、作家自身のうちにある。大衆文学の場合では、その条件が、作家以外の他人のうちにある。 そういえば芥川龍之介が書簡で
直木三十なんとかという男は悪人であると書いていたのだけれど
純文学派は作家の人間性を重視するところがあるのかも知れない。
たとえば大正から昭和初期の代表的純文学作家である志賀直哉は
その人間性が賛美されたわけで。
そう考えると大正時代の白樺派や新思潮派の文芸運動が
「純文学」の起源と考え得るのかも。
今となっては死語となった観のある「志」という批評用語がよく使われたのも
その種の思想性が重視された時代があったからなのかも知れない。 作品の内容で定義しようとすると必ず定義から外れようとするものが出てくるから明確な境界線が欲しければ発表する雑誌で分ければいいよ
純文学の雑誌で発表されれば純文学 今、川端康成の古都と山崎豊子の白い巨塔を並行して読んでいる。
こうやって読むと純文学と大衆文学との違いが明瞭にわかる。
勉強のためには純文学のほうがなるが、ストーリーの面白さは大衆文学のほうが上かな。
つまりは純文学は読みにくくて難しいものが多いが、大衆文学は読みやすくてやさしいものが多い。
俺的には >>5
逆だよ
そもそも芥川は自分を善人だなんて自称するタイプではない
ただ単に事実として直木を悪人だと思ったから悪人だと手紙に書いただけだろ 俺にとって大衆文学は純文学以外のすべて。
推理小説、SF、ハードボイルド等は結構読んだが、
今思うと大方が時間の無駄だと思う。
ただ面白かったとかつまんなかったとか程度の感想しか残らない。
そのてん明治文豪の純文学はさすがに教養あふれているので勉強になるな。
時間の無駄となる小説は少ない。 >>10
でも、芥川は「作品ではなく人を推すのです」と漱石に言われたんでしょう?
例えば藤村の事を「老獪な偽善者」と揶揄したりもしていた。
ただ、遺書では都会人気取りにの僕も一皮むけばこんなものさ、と述べていたわけだけど。
それなりに道徳的なことは意識していたと思うんですよね。 音楽で例える
純文学 クラシックをオーケストラで演奏する 金持ち高学歴の客層
大衆文学 ロックをバンドで演奏する 貧乏低学歴の客層 >面白かったとかつまんなかったとか程度の感想しか残らない
その程度の感想しか持てない感性だからだろう 「幼年期の終わり」を読んで「面白かった」しか言えない奴は感性がない >教養あふれているので勉強になるな
はあ? SFにも教養は沢山溢れていますが?
欧米のプロ作家の作品なんて最新の科学知識が沢山は言ってますよ
例えば太陽は「ソル」といい、ED論はインチキだと分かる
対して、明治文豪の小説でどんな教養を得られる? 品格と格式、その内側に秘められた情緒的な弱さ、繊細さ、そして他者への思いやり、深遠なる情愛、まさにそこには生きとし生けるものの推し量るべき教養が潜伏し充ち満ちている。
欧米の作家などこれら日本人の思考の足下にも及ばない。彼らの出鱈目と誇大表現は浅はかで品のないコソ泥の無知蒙昧を曝け出している擬い物。やはり文化的にも歴史的にも浅く、ありていにいえば野蛮人である。 >>18
君がそう感じてるならそうなんだろうね
君の中では >>4クソかっこいいな
俺の内部でストンと納得する音が聞こえた >>14
クラシックのオーケストラって大衆向けの娯楽じゃないの? 大衆文学は面白い興奮する、早く続きが読みたい、テンション上がる、読後サッパリすがすがしい
純文学は美しい、生々しい、読後作品に魂を持ってかれる 違いはない。最近は直木賞の方がレベル難易度が高く又吉は又として、
いいテーマが多い。 エロイ描写も詩的なおかつ客観的で旋律を奏でる
哲学的な色を匂わせるのが純文学 着想としか表現できない印象的ないつまでも色あせない場面を読めるのが純文学
あとは娯楽だ エロは中途半端、で哲学的、哲学かぶれでもダメです。
純文学を過信するよりは文学そのものの方がいい
。ほんとうの。 おいおいチラシの裏に書いてくれよと思うのが純文学
ほほう、それでそれで、と次のページをひねくりたくなるのが大衆文学
概ねこのパターンに収まるが逆もまた然り そのチラシが案外おもろくて価値がつくからこまったもんだナー 濹東綺譚でした
内容は主人公→ボンボン育ちが底辺の置屋の女との恋愛話 >>32
こういうの本気で言ってる人間がほんとにいるから嫌になるわ
司馬遼太郎って馬鹿だよね
ざっくり芸術としての文学(小説)が純文学ってことで問題ないだろ >>40
すみませんちょっとうまく理解できないので、もう少し詳しく書いてもらえませんか? 芸術性があるのが純文学
濹東綺譚は内容は通俗でも最高傑作と言われている
文章の美しさと余韻を残す どう考えてもできそうにないのが芸術
頑張れば出来そうなのが通俗 どう売り込むか、どういう媒体で発表できるかなんだろなけっきょく >>41
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20160126-OYT8T50089.html?from=tw
この記事にあるように前回の直木賞で選考委員が、司馬を引き合いに出して
自分について書けば芥川賞だって言ったからそれを皮肉って司馬は馬鹿って言っただけ
よく通俗文学側から「これは純文学でも通用する」っていわれる小説は純文学のフィールドに立つとどうしようもないのが多い
(逆に芥川賞作家が売れるためにエンタメ寄りに書いたものだってひどいのがわんさかあるはず、というか総じてひどいはず)
よくあるのは太宰治を浅薄に解したような自己語りだけの小説とか
単に長ったらしい直喩だけをしつこくたくさん入れてあったりするだけのものとか
芸術としての文学っていうのは
音楽にも絵画にも彫刻にも演劇にも映画にも(たぶん)漫画にも、芸術(的な)作品というものが一般にはあるとされているわけで
文学とか小説という表現においては純文学がそれだろってこと
じゃあどうやって芸術かそうでないかを分けるのかっていうと、それは批評の仕事なんだろうけど
批評家であろうが一般読者であろうが、現代の作品を鑑賞するときに古典をぜんぜん知らないでは芸術性は読み取れないと思うよ
その上で、ただし現状の文壇(つまり大手を中心とした出版業界、ということは編集者の趣味ってことになるしかないわけだが)では
>>44が指摘している通りに媒体によって純文学としてあつかわれるか通俗文学としてあつかわれるかが決まる
朝井リョウが文学界に書いた作品は純文学としてあつかわれる
もちろん見るべきところがなくてほぼ無視されて消えていくわけだが
とはいえ現状、文芸批評なんて機能してるとは言いがたいわけで
佐々木敦なんていう音楽畑のいっちょ噛みが重宝されて書き散らしてるくらいだし
今純文学としてともかく世に出ている作品のほぼすべてが消えていくだろうね
ということはつまり、われわれ大衆は芸術それ自体を尊重するとしても
芸術としての評価の定まっていない、おそらく99.9%以上の確率で消えて行くであろう
現代の純文学作家を読むよりもエンタメを面白がる方が得だと考える
芸術としての文学に触れたいなら古典を読むよてなもんだ
こんな感じでどうでしょうか >>45
僕が言うところの「個人の物語」は「自分について書く」という事が条件ではないです。「他人についてのみ書く」事でも「個人の物語」は表現できます。 そうだね。真田雪村個人を描いたってそれは大衆文学だよね。大河ドラマになっちゃう。「個人の物語」にはならないよね。
だけど真田雪村の馬の飼育係を描いたら純文学だよね。たとえ大河ドラマとして描いても。「個人の物語」だよね。 司馬遼太郎の大河ドラマに「獅子の時代」ってのがあったな。
歴史的人間としてならなんでもない会津藩下級武士の開国と維新と明治の物語。
じゃあそれは「個人」を描いてるから純文学か?ってばやっぱりそうじゃなかったな。
うん、面白かったから。(笑 個人を描くっても大衆作家系のは、
社会的には非常にちっぽけな人間でも
物語の中では銭形平次的スーパーヒーローにしちゃうんだな。
「大人(たいじん)」にしちゃう。
だから面白いんだけど、その文学は純文学じゃなくなっちゃうんだ。 物語の主人公にね、純文学でも「聖人君子・大人」を使うこともある。
だけど他の登場人物や事件・状況設定でその主人公を「タダの小人」として苦しめさせる。
そうして「個人」としての主人公を描くんだな。
それで詰まんなくなるか面白くなるか?は それは作者の腕ね。大衆・純の問題じゃない。^^ >>46
それでも同じことだよ
なんで一人の人間について書くことだけが芸術としての文芸になるんだ
芸術も文芸もそんなに狭いもんじゃないって言ってるんです >>51
いや伝わってないみたい。他人について書くというのは、一人の人間を描写するという意味ではないです。僕が強調したいのは書き手の主観性の問題です。 通俗小説は今までにも考えられる思考
純文学は人間の新しい思考 万人にもっている側面を描く
斬新さが必要かと
真田幸村ではなかったかな 司馬遼太郎は良いと思う
大衆文学でも純文学でも個人の嗜好でええ 定義の話じゃないけど、純文学系とエンタ系両方の雑誌に発表してる島本理生が、
純文学系に発表するときは削って削ってという作業をするのに対し、
エンタ系に発表するときはもっともっと書き込む作業をするというようなことを言ってた。 純文学は死を忌避するから完璧じゃないわけ。
殺人からは最も遠いところにあるしね。
ヨーロッパの本質的な文学なんかはほとんどが死について書いてある。
といってもいいぐらい。愛じゃないわけだな。これからはLOVEであって。
日本文学や国文学は。 >愛じゃないわけだな。これからはLOVEであって。
>日本文学や国文学は。
これどういう意味かわかんない。
それに死をテーマにしたり死を描いた純文学はいくらでもあるじゃん。 むしろそれだけでいいわけよ。あとは何の雑談でもいい。
要するに日本文学国文学を敵や敵国に従属している文学と見て
そこから叫び声をあげればいい。 女は高飛車高慢でいいが。女性の方がだいぶよく書けてる傾向にある。 >>52
そんな君の恣意的な判断でどうとでもなるような基準は基準と呼べないし定義でもなんでもないよ しかし純文学っていうのはさ、お高くとまっていて目障りだよな!(論駁希望) >>69
個人の主観に過ぎないものを論駁希望なんて添えて書き込むレスは目障りでないと?
自分を何か特別な高いもの(少なくとも論駁する価値をもった存在程度には)と思ってるんでしょうか
純文学なんてもはや誰も気にしてない今にも完全に消滅しそうなんだから他の大多数のように無視すればいいだけ
それができないのはコンプレックス
自分や自分の愛好するものが「純文学」のように扱われたいという密かな願望、権威主義 >>70
僕は反サブカルなので、そういうものが淘汰されて純文学が称揚されればよいと思っています。ただし石原慎太郎が死んだ後に。 >>69は軽く議論のネタを提供してくれただけでしょ。
なんで>>70みたいに過剰反応するのか理解できない。 純文学が内容の中に「死」を取り扱う
大衆文学は「死」を取り扱わない 石原慎太郎なんか純文学にしては「イキイキ」しすぎてるし、大衆的でもないし。 そういう風に装っているだけだよ。本が売れなくても別の金儲けに使えるからね。 スレタイの違いは自分も全然分かんないだけど、大抵の大衆小説は読み終わった後なんか言い様のない物足りなさが残るんだよなあ 感性が乏しいのか あ、けど道尾秀介の『月と蟹』は面白かった >>73
中村文則の「銃」を読んだときに何となく気づいた 「ありのままの自分」を書くのが純文学だと言う人もいる
自然主義崇拝者の近視眼とはいえ
犯罪者の手記が売れることを考えれば、間違いとも言い切れない 娯楽性と芸術性とは、果たして対立するものなのだろうか? 「クオバディス」「白鯨」
ここらへんは娯楽性と芸術性を兼ね備えてると思う 当たり前だ。真の娯楽と真の芸術は対立する。
どっちつかずの中途半端なもんはそりゃ混ざり合う部分もあるだろうが、本物は混ざり合わない。 女性限定、恋愛相談サイトオープン。
4000名のイケメンカウンセラーが在籍中♪
自己紹介動画はいつでも見放題です!
メンガ って検索してください
※本当のサイト名は英字です アクション映画は娯楽だろうか芸術だろうか
人体の美しい動きを愛でる行為は、ギリシャ彫刻の肉体美を愛でる
行為とそんなにかけ離れているのだろうか 最高のアクション映画って何だと思います?僕は007の「カジノ・ロワイヤル」かな〜 >>80-81
どちらも兼ね備えているとかいいや、混ざり合うとか言うよりも
そもそもこの二つは違うものなのか、違うとしたらどこが違うのかってこと
例えば「ゴジラ」を芸術映画に分類するのは適切か
娯楽映画に分類することは適切か 日本の純文学は和歌の花鳥風月にを引きずる
私小説あるいは私的要視点を遠回しに(つまり“上品に”)に表現したものが純文学とみなされやすい
構成上、文体上の装飾のため虚偽や美化などを混ぜることはみとめられるが、あくまで“私的な感受”であることは必須で、一般化は敬遠される
テーマや舞台が広すぎたり、社会的な問題や主張などを前面に出し過ぎる、出し過ぎていると思われると大衆小説とされる
そんな傾向はある だとしたら、「純文学」を読みたい人がいないのも当然ですな。そんなものを読みたいと思いますか? 今出てる小説のうち、百年後も文学史の名作として語られる作品てあるんだろうか ないよ。
いま100年前のものが名作と呼ばれているのは、100年前に始まった初期のものだから。
だいたい「古いものがいい」という信仰は現代人の価値観。民度が上がった100年後の人間が100年前のものを有り難がるわけないだろ。 芥川の時代ではそれより60年前の人気作家である馬琴が悪評ふんぷんたる有様だったけど。
それから30年ほど後の織田作之助の時代では250年前の郷土の大作家西鶴ですら貶められていたので
「諸君のなかで西鶴の恩恵に浴していないものはいないだろう?」と啖呵をきったほどですが。
古典の再評価というのは実は大正末から昭和初期の小林あたりの世代が始めたことだと思いますけどね。
これに戦時下の日本主義が加わって本来は娯楽に過ぎない小説なども「文化」的評価対象になった。
戦後だと戦後民主主義の文化国家による庶民文化の積極評価とか。 芥川や夏目の前の時代は言文一致じゃなかったから今と別世界。
馬琴とか西鶴が作家とか、韓国みたいな捏造やめろ。恥ずかしいわ。 >>94
小林秀雄は戦後民主主義を肯定していたの? ラノベやゲームやアニメが今の古典見たいに扱われる時代は来るだろうか 漫画やアニメの一部の作品はもちろんクラシックとして扱われるでしょう。ラノベはひとつも読んだ事がないからわからないけど。 扱われるわけないだろ、アホか。
ラノベやアニメは客観的な物語だ。もちろん大衆文学もだ。傍観者として体験する。
しかし真の文学は内面からの考察。それを読むことによって読者が主観的な体験をする。
全然ものが違うんだよバカ。