純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何? [転載禁止]©2ch.net
>>5
逆だよ
そもそも芥川は自分を善人だなんて自称するタイプではない
ただ単に事実として直木を悪人だと思ったから悪人だと手紙に書いただけだろ 俺にとって大衆文学は純文学以外のすべて。
推理小説、SF、ハードボイルド等は結構読んだが、
今思うと大方が時間の無駄だと思う。
ただ面白かったとかつまんなかったとか程度の感想しか残らない。
そのてん明治文豪の純文学はさすがに教養あふれているので勉強になるな。
時間の無駄となる小説は少ない。 >>10
でも、芥川は「作品ではなく人を推すのです」と漱石に言われたんでしょう?
例えば藤村の事を「老獪な偽善者」と揶揄したりもしていた。
ただ、遺書では都会人気取りにの僕も一皮むけばこんなものさ、と述べていたわけだけど。
それなりに道徳的なことは意識していたと思うんですよね。 音楽で例える
純文学 クラシックをオーケストラで演奏する 金持ち高学歴の客層
大衆文学 ロックをバンドで演奏する 貧乏低学歴の客層 >面白かったとかつまんなかったとか程度の感想しか残らない
その程度の感想しか持てない感性だからだろう 「幼年期の終わり」を読んで「面白かった」しか言えない奴は感性がない >教養あふれているので勉強になるな
はあ? SFにも教養は沢山溢れていますが?
欧米のプロ作家の作品なんて最新の科学知識が沢山は言ってますよ
例えば太陽は「ソル」といい、ED論はインチキだと分かる
対して、明治文豪の小説でどんな教養を得られる? 品格と格式、その内側に秘められた情緒的な弱さ、繊細さ、そして他者への思いやり、深遠なる情愛、まさにそこには生きとし生けるものの推し量るべき教養が潜伏し充ち満ちている。
欧米の作家などこれら日本人の思考の足下にも及ばない。彼らの出鱈目と誇大表現は浅はかで品のないコソ泥の無知蒙昧を曝け出している擬い物。やはり文化的にも歴史的にも浅く、ありていにいえば野蛮人である。 >>18
君がそう感じてるならそうなんだろうね
君の中では >>4クソかっこいいな
俺の内部でストンと納得する音が聞こえた >>14
クラシックのオーケストラって大衆向けの娯楽じゃないの? 大衆文学は面白い興奮する、早く続きが読みたい、テンション上がる、読後サッパリすがすがしい
純文学は美しい、生々しい、読後作品に魂を持ってかれる 違いはない。最近は直木賞の方がレベル難易度が高く又吉は又として、
いいテーマが多い。 エロイ描写も詩的なおかつ客観的で旋律を奏でる
哲学的な色を匂わせるのが純文学 着想としか表現できない印象的ないつまでも色あせない場面を読めるのが純文学
あとは娯楽だ エロは中途半端、で哲学的、哲学かぶれでもダメです。
純文学を過信するよりは文学そのものの方がいい
。ほんとうの。 おいおいチラシの裏に書いてくれよと思うのが純文学
ほほう、それでそれで、と次のページをひねくりたくなるのが大衆文学
概ねこのパターンに収まるが逆もまた然り そのチラシが案外おもろくて価値がつくからこまったもんだナー 濹東綺譚でした
内容は主人公→ボンボン育ちが底辺の置屋の女との恋愛話 >>32
こういうの本気で言ってる人間がほんとにいるから嫌になるわ
司馬遼太郎って馬鹿だよね
ざっくり芸術としての文学(小説)が純文学ってことで問題ないだろ >>40
すみませんちょっとうまく理解できないので、もう少し詳しく書いてもらえませんか? 芸術性があるのが純文学
濹東綺譚は内容は通俗でも最高傑作と言われている
文章の美しさと余韻を残す どう考えてもできそうにないのが芸術
頑張れば出来そうなのが通俗 どう売り込むか、どういう媒体で発表できるかなんだろなけっきょく >>41
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20160126-OYT8T50089.html?from=tw
この記事にあるように前回の直木賞で選考委員が、司馬を引き合いに出して
自分について書けば芥川賞だって言ったからそれを皮肉って司馬は馬鹿って言っただけ
よく通俗文学側から「これは純文学でも通用する」っていわれる小説は純文学のフィールドに立つとどうしようもないのが多い
(逆に芥川賞作家が売れるためにエンタメ寄りに書いたものだってひどいのがわんさかあるはず、というか総じてひどいはず)
よくあるのは太宰治を浅薄に解したような自己語りだけの小説とか
単に長ったらしい直喩だけをしつこくたくさん入れてあったりするだけのものとか
芸術としての文学っていうのは
音楽にも絵画にも彫刻にも演劇にも映画にも(たぶん)漫画にも、芸術(的な)作品というものが一般にはあるとされているわけで
文学とか小説という表現においては純文学がそれだろってこと
じゃあどうやって芸術かそうでないかを分けるのかっていうと、それは批評の仕事なんだろうけど
批評家であろうが一般読者であろうが、現代の作品を鑑賞するときに古典をぜんぜん知らないでは芸術性は読み取れないと思うよ
その上で、ただし現状の文壇(つまり大手を中心とした出版業界、ということは編集者の趣味ってことになるしかないわけだが)では
>>44が指摘している通りに媒体によって純文学としてあつかわれるか通俗文学としてあつかわれるかが決まる
朝井リョウが文学界に書いた作品は純文学としてあつかわれる
もちろん見るべきところがなくてほぼ無視されて消えていくわけだが
とはいえ現状、文芸批評なんて機能してるとは言いがたいわけで
佐々木敦なんていう音楽畑のいっちょ噛みが重宝されて書き散らしてるくらいだし
今純文学としてともかく世に出ている作品のほぼすべてが消えていくだろうね
ということはつまり、われわれ大衆は芸術それ自体を尊重するとしても
芸術としての評価の定まっていない、おそらく99.9%以上の確率で消えて行くであろう
現代の純文学作家を読むよりもエンタメを面白がる方が得だと考える
芸術としての文学に触れたいなら古典を読むよてなもんだ
こんな感じでどうでしょうか >>45
僕が言うところの「個人の物語」は「自分について書く」という事が条件ではないです。「他人についてのみ書く」事でも「個人の物語」は表現できます。 そうだね。真田雪村個人を描いたってそれは大衆文学だよね。大河ドラマになっちゃう。「個人の物語」にはならないよね。
だけど真田雪村の馬の飼育係を描いたら純文学だよね。たとえ大河ドラマとして描いても。「個人の物語」だよね。 司馬遼太郎の大河ドラマに「獅子の時代」ってのがあったな。
歴史的人間としてならなんでもない会津藩下級武士の開国と維新と明治の物語。
じゃあそれは「個人」を描いてるから純文学か?ってばやっぱりそうじゃなかったな。
うん、面白かったから。(笑 個人を描くっても大衆作家系のは、
社会的には非常にちっぽけな人間でも
物語の中では銭形平次的スーパーヒーローにしちゃうんだな。
「大人(たいじん)」にしちゃう。
だから面白いんだけど、その文学は純文学じゃなくなっちゃうんだ。 物語の主人公にね、純文学でも「聖人君子・大人」を使うこともある。
だけど他の登場人物や事件・状況設定でその主人公を「タダの小人」として苦しめさせる。
そうして「個人」としての主人公を描くんだな。
それで詰まんなくなるか面白くなるか?は それは作者の腕ね。大衆・純の問題じゃない。^^ >>46
それでも同じことだよ
なんで一人の人間について書くことだけが芸術としての文芸になるんだ
芸術も文芸もそんなに狭いもんじゃないって言ってるんです >>51
いや伝わってないみたい。他人について書くというのは、一人の人間を描写するという意味ではないです。僕が強調したいのは書き手の主観性の問題です。 通俗小説は今までにも考えられる思考
純文学は人間の新しい思考 万人にもっている側面を描く
斬新さが必要かと
真田幸村ではなかったかな 司馬遼太郎は良いと思う
大衆文学でも純文学でも個人の嗜好でええ 定義の話じゃないけど、純文学系とエンタ系両方の雑誌に発表してる島本理生が、
純文学系に発表するときは削って削ってという作業をするのに対し、
エンタ系に発表するときはもっともっと書き込む作業をするというようなことを言ってた。 純文学は死を忌避するから完璧じゃないわけ。
殺人からは最も遠いところにあるしね。
ヨーロッパの本質的な文学なんかはほとんどが死について書いてある。
といってもいいぐらい。愛じゃないわけだな。これからはLOVEであって。
日本文学や国文学は。 >愛じゃないわけだな。これからはLOVEであって。
>日本文学や国文学は。
これどういう意味かわかんない。
それに死をテーマにしたり死を描いた純文学はいくらでもあるじゃん。 むしろそれだけでいいわけよ。あとは何の雑談でもいい。
要するに日本文学国文学を敵や敵国に従属している文学と見て
そこから叫び声をあげればいい。 女は高飛車高慢でいいが。女性の方がだいぶよく書けてる傾向にある。 >>52
そんな君の恣意的な判断でどうとでもなるような基準は基準と呼べないし定義でもなんでもないよ しかし純文学っていうのはさ、お高くとまっていて目障りだよな!(論駁希望) >>69
個人の主観に過ぎないものを論駁希望なんて添えて書き込むレスは目障りでないと?
自分を何か特別な高いもの(少なくとも論駁する価値をもった存在程度には)と思ってるんでしょうか
純文学なんてもはや誰も気にしてない今にも完全に消滅しそうなんだから他の大多数のように無視すればいいだけ
それができないのはコンプレックス
自分や自分の愛好するものが「純文学」のように扱われたいという密かな願望、権威主義 >>70
僕は反サブカルなので、そういうものが淘汰されて純文学が称揚されればよいと思っています。ただし石原慎太郎が死んだ後に。 >>69は軽く議論のネタを提供してくれただけでしょ。
なんで>>70みたいに過剰反応するのか理解できない。 純文学が内容の中に「死」を取り扱う
大衆文学は「死」を取り扱わない 石原慎太郎なんか純文学にしては「イキイキ」しすぎてるし、大衆的でもないし。 そういう風に装っているだけだよ。本が売れなくても別の金儲けに使えるからね。 スレタイの違いは自分も全然分かんないだけど、大抵の大衆小説は読み終わった後なんか言い様のない物足りなさが残るんだよなあ 感性が乏しいのか あ、けど道尾秀介の『月と蟹』は面白かった >>73
中村文則の「銃」を読んだときに何となく気づいた 「ありのままの自分」を書くのが純文学だと言う人もいる
自然主義崇拝者の近視眼とはいえ
犯罪者の手記が売れることを考えれば、間違いとも言い切れない 娯楽性と芸術性とは、果たして対立するものなのだろうか? 「クオバディス」「白鯨」
ここらへんは娯楽性と芸術性を兼ね備えてると思う 当たり前だ。真の娯楽と真の芸術は対立する。
どっちつかずの中途半端なもんはそりゃ混ざり合う部分もあるだろうが、本物は混ざり合わない。 女性限定、恋愛相談サイトオープン。
4000名のイケメンカウンセラーが在籍中♪
自己紹介動画はいつでも見放題です!
メンガ って検索してください
※本当のサイト名は英字です アクション映画は娯楽だろうか芸術だろうか
人体の美しい動きを愛でる行為は、ギリシャ彫刻の肉体美を愛でる
行為とそんなにかけ離れているのだろうか 最高のアクション映画って何だと思います?僕は007の「カジノ・ロワイヤル」かな〜 >>80-81
どちらも兼ね備えているとかいいや、混ざり合うとか言うよりも
そもそもこの二つは違うものなのか、違うとしたらどこが違うのかってこと
例えば「ゴジラ」を芸術映画に分類するのは適切か
娯楽映画に分類することは適切か 日本の純文学は和歌の花鳥風月にを引きずる
私小説あるいは私的要視点を遠回しに(つまり“上品に”)に表現したものが純文学とみなされやすい
構成上、文体上の装飾のため虚偽や美化などを混ぜることはみとめられるが、あくまで“私的な感受”であることは必須で、一般化は敬遠される
テーマや舞台が広すぎたり、社会的な問題や主張などを前面に出し過ぎる、出し過ぎていると思われると大衆小説とされる
そんな傾向はある だとしたら、「純文学」を読みたい人がいないのも当然ですな。そんなものを読みたいと思いますか? 今出てる小説のうち、百年後も文学史の名作として語られる作品てあるんだろうか ないよ。
いま100年前のものが名作と呼ばれているのは、100年前に始まった初期のものだから。
だいたい「古いものがいい」という信仰は現代人の価値観。民度が上がった100年後の人間が100年前のものを有り難がるわけないだろ。 芥川の時代ではそれより60年前の人気作家である馬琴が悪評ふんぷんたる有様だったけど。
それから30年ほど後の織田作之助の時代では250年前の郷土の大作家西鶴ですら貶められていたので
「諸君のなかで西鶴の恩恵に浴していないものはいないだろう?」と啖呵をきったほどですが。
古典の再評価というのは実は大正末から昭和初期の小林あたりの世代が始めたことだと思いますけどね。
これに戦時下の日本主義が加わって本来は娯楽に過ぎない小説なども「文化」的評価対象になった。
戦後だと戦後民主主義の文化国家による庶民文化の積極評価とか。 芥川や夏目の前の時代は言文一致じゃなかったから今と別世界。
馬琴とか西鶴が作家とか、韓国みたいな捏造やめろ。恥ずかしいわ。 >>94
小林秀雄は戦後民主主義を肯定していたの? ラノベやゲームやアニメが今の古典見たいに扱われる時代は来るだろうか 漫画やアニメの一部の作品はもちろんクラシックとして扱われるでしょう。ラノベはひとつも読んだ事がないからわからないけど。 扱われるわけないだろ、アホか。
ラノベやアニメは客観的な物語だ。もちろん大衆文学もだ。傍観者として体験する。
しかし真の文学は内面からの考察。それを読むことによって読者が主観的な体験をする。
全然ものが違うんだよバカ。 その言説で括れない作品があるんじゃないですかね。漫画はクラシックとして扱われる資格がないとでも? 僕は全然好きじゃないけど、例えば宮崎駿のアニメは将来見向きもされなくなりますかね? ディズニーやピクサーの映画は数十年経ったら無価値になりますかね? まあ、アニメの事はよく知らないから確かな事は言えないけど。 とくに子供向けアニメはずっと残る。毎年新しい視聴者が誕生してくるから。 >>100
成る程文学が詰まらんわけだ
低脳の俺には難し過ぎる世界のようだな 純文学は一種の古典なんだよ
読みたいと思う、思わないではなく、いやしくも文芸の道に進みたければ、それは最低限の基礎教養で、
「読んでおかなければならない」「読んでいて当たり前」のもの
混乱しているのは大衆文学の方で、なんとか賞を受賞するような小説にしてもライトノベルと呼ばれるものにしても、
出来不出来は結局、古典や純を読む、という通過儀礼を踏んだかどうかにある
(アニメだの漫画だのは映像系文化であって、“文”芸でも“文”学でもない)
好む好まざるはともかく、古典(純)文学を抑えておかなければ、上質な大衆文学さえ書くことは不可能なんだよ >>110
冨野監督「文学を読まずに映画やアニメを作れると思うな」てことか
最低限、自国の古典ぐらいは読む必要があるかね
まあ一部のラノベ作家とか、確実に文学的な技巧使ってるしな
出来不出来はともかくとして 挿絵があるのが大衆文学
ないのが純文学
単行本はそうでもないけど、雑誌ではそんな感じだったみたい 人間を主体とする物語が純文学
筋やトリックなどの仕掛け、あるいは極めて短絡的な人間行動(?)を主体とする物語が大衆文学
適当だけど 純文学というジャンルと権威主義者の関係について、誰か究明してくれないかな。純文学とか文壇とかいずれ消滅するだろうな。喜ばしいことだ。あんな権威主義的なバベルの塔は、神の怒りに触れて崩れ去るのが人類のためだ。大衆文学と呼ばれているものが真の文学になるだろう。 大衆文学ってのは消費されて消えていく文学をいうんだよw
今「エンタメ」っていうものが後世に残ればそれは権威化されて「純文学化」されていくことだろうよ
純文学や文壇を権威だといって攻撃してるのに、別のなにかを「真の文学」なんて権威化するんだから程度が低いね いま時間による試練なんてことを言ったけど、それじゃ時間による試練を受けてもいないものが、最初から純文学を名のるというのは、どういう訳だい?
そう名のってはいても、次から次へと忘れさられて行くみたいだが、それなら君のいう大衆文学とたいして変わらないじゃないか? 矛盾した理屈だね。 例えば、アガサ・クリスティのミステリはいまでも読まれているが、誰もあれを純文学とは呼ばないのはどうしたわけかな。 純文学そのものを権威主義と言ったわけじゃなくてね、雑談スレを読んでたらなぜか発言者たちは法律の教養がないやつは論外だ。。みたいな事を話してて、ひとりのたぶん有名なコテハンが「東大法学部卒」だというので、狂ったように嫉妬して暴言吐いてるわけ。 だから、こいつら何て権威主義者なんだ!とあきれたし、文学板雑談スレに集まっている以上いちおう純文学ファンなんだろうからさ。だから純文学と権威主義者の関係について思いを致したわけ。純文学ファンとは学歴というものに超こだわる権威主義者たちなのか、とね。 >>123
>雑談スレを読んでたらなぜか発言者たちは法律の教養がないやつは論外だ。。みたいな事を話してて
読んで言及するなら真面目に読んで下さいよ。東大法学部を自称するコテに法律的な教養があるとは思えないと書いただけで、一般論として法律の教養がないやつは論外だなんて一切書いてないから。
文学板雑談スレッド171 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1458305287/ 純文学といわゆるアート界隈は似ている気がする。
権威主義なんだよね。
ただ、大衆文学と比べて文章や構成の上手さは感じる。
大衆文学は物語とわかりやすさ重視。
どちらがいいという話でもない。 >>123
雑談スレのコテや半コテは頭がおかしい人たちばかりだから 雑談スレにいるやつらはほとんど純文学の話をしていないよ
ひたすらお互いの悪口と精神分析をしているだけだもん 歴史小説とかのほうが、面白いな。純文学にしても歴史がらみのやつなら何とか読める。
ナチス物の「HHhH」とかね。 >>132が?誤爆じゃないですよ。なんで誤爆だと思うんですか? >>132
いや、あそこで悪口言ってたやつとか、間違いなく法学部至上主義の権威主義者だし。 東大法学部出身だからといって人格者とは限らないのにね。完全に東大法学部を神格化してるの。あれ、宗教だよな。 >>121
そう勝手に名乗ってるだけだよ
勝手に名乗ってる奴らのことまでこちらの責任にしてもらっては困る
彼等は残りたいから名乗ってるんでしょ
でも残れる保証はない
実際に多くのものが消えていったし、消えていく
けれども消えていったものを何物かとすることはできないわけで、残ったものの総称を「文学」とするしかない >>137
どのレスから「法学部至上主義」という事が読み取れるのですか。僕は昨夜法学部ネタを連投していたけど、法学部至上主義なんてモノとは無縁だと思っている。 興味がないなら、ここで間違った解釈に基づいてネタにするのはやめてください。 クトルゥ―神話の初期の作品(ラブクラフトの書いた「ダゴン」とか)
戦前に発表されたけど
今でも読まれているから大衆文学じゃなくて純文学なの?>>120 漱石だってリアルタイムでは純文学かどうかは微妙な扱いだったし >>120
というか、文学が「消費される」てのがどういう現象なのかわからん 純文学、大衆文学というくくりは外国でもあるのかな? 小林秀雄は「純文学」を「日本だけで通用する方言」だと言い切っていましたね。 日本特有の「優れた文化」といってもいいだろう。
日本語は他に類を見ない優れた言語で、いかようにも表現できる。
人称ひとつにとっても様々。語尾の変化は言うに及ばず。
逆をいえば、日本語が論理的な構成でできていないためだ。
日本語には文法がないと言う人までいる。
だから翻訳機にかけるとおかしな日本語の文章になってしまう。
そういった言語であるからこそ、情緒的で心にしみいる美しい表現ができる。
それが和歌や俳句といったものに凝縮されている。純文学はまさにそこで生まれた。
つまり文章表現の美しさに特化したものが、純文学。
海外であるのは、文学とエンターテイメント小説という括りだけ。
純文学というものは海外にはない。あったとしても日本語のそれの足下にも及ばない。
一部英語で俳句をつくる外人がいるが、日本語表現のような域には達せないだろう。
またアニメの影響で百人一首にのめり込む西欧人もいるが、それは日本語における純文学というものが全人類に通用するということ。
純文学とは、日本人の心であり、人の魂を明文化したものである。キリッ。 “日本のこころを大切にする党 ジングル - YouTube”
https://youtu.be/wt9bZhsIUoc
これ何度聴いても笑えるわwwwwww それ、演歌だろ。
演歌は日本の文化ではない。1960年代の一時期に生まれた流行歌。
それがなぜか日本の心となっているが、それこそ笑止千万。
三国人によってつくられた偽装日本のような気がしてならない。
演歌好き世代がペ・ヨン様ブームをつくり韓流ブームをつくった経緯と同じだ。
ニセモノの日本の心、ニセモノの日本人。
いまホンモノの日本の心が外来種によって汚されているのかもしれない。
これはのんきに笑ってはいられない。 ホンモノの日本の心を汚してるのはどう考えても「三国人」じゃなくてレイシストのほう。 レイシストはもはや某国の文化だよ。
日本人は標的にされているだけ。日本人に恨みがあるわけでもない。 >>160
これネトウヨの言い訳のテンプレ。在特会のヘイトデモも「日本人に対するヘイトスピーチをやめろ」とか言いつつヘイトスピーチしてる。こんなクズが多すぎるんだよ日本は。 逆。在特会も反日朝鮮人がいなければ存在できないんだから。 日本人は悪くいえば、気が小さくて臆病。よくいえば、繊細で他人に気を使う。
他人を殺すより自殺するほうを選ぶ。
ただ一つ、日本人が強くなれるとしたら(悪党になれるとしたら)、
それは、他人のために尽くすとき。忠義を尽くすとき。
在特会も日本人が貶められているという義憤から過激なデモをするのだろう。
そもそも「ネトウヨ」という表現自体がどうにも怪しい。
日本を擁護したり、いい国だというと、必ず「ネトウヨ」というレッテルを貼られる。
しかし、日本人が日本をいい国だといわれてなぜ反発をするのか? いや、しないだろう。
つまり「ネトウヨ」というレッテル貼りをしている人間が、日本人じゃないってこと。
ネットは匿名だから相手の人種はわからない。
日本語を見れば、書いた人間を日本人だと思ってしまうが、違うのではないだろうか?
これを読んでいる日本人はネットでの書き込みに警戒してもらいたい。
ここからは言いすぎだが、
2ちゃんねるの暴言、誹謗中傷。便所の落書きといわれるほどの酷い表現。
こういったものは生来の日本人のメンタリティーではないような気がする。
日本語が書けるアンチ日本人がいるということを忘れてはならない。 長々と書いているけど、お前は在特会の動機を「義憤」と呼んでいるし、その後も暗に在日外国人に対する憎悪を扇動しているし、誰がどう見ても正真正銘のレイシストじゃん。 >>167
>、お前は在特会の動機を「義憤」と呼んでいるし、
だから、そうじゃなかったら、何なのかを説明してみろよ。
こちらは偏りなく冷静にちゃんと調べて書いているのだから。
理屈で負けるから「レイシスト」というレッテル貼るしかないんだろ?
そういった感情論では日本人を納得させることはできないよ。 >>167
ちなみに、おまえは日本人か?
この質問を差別と見るのもおまえが日本人じゃないからなんだよ。
日本人は差別と感じないし、差別意識はない。 民族性は土地柄によって生まれてくる。
日本は島国であったために、他人から奪うより節約文化が基本。
この節約文化が、ケチくさい日本人をつくっているし、村的な縄張り意識を植え付けている。
誰か一人がミスをしたり病気になると、そいつが村八分にされる。だがそれは村全体が危機的な状況に陥らないため。
そのせいで部落差別的なものがあった。ゴミや死体処理する人間が嫌われるのも伝染病があったから。
つまり日本人の差別には村全体を守るという大義があったんだよ。
日本人は朝鮮人を人種的に見下しているから差別しているのではなく、
朝鮮人が暴れたり、物を盗んだり、汚したり、破損したりするから。
もちろんこういったことは朝鮮人に限らない。中国人も同じ。
だからこの現代社会にあっても、日本の旅館やホテルでは、備品が盗まれないようにしている。
しかしこれは差別といえようか? 日本人がレイシストであるといえようか?
日本人は、村を守るため、仲間を守るために、差別的な行動をとるが、
もともとの気質として、差別意識はない。世界でもまれな人種。 >>170
僕は日本人の右翼で、日本の名誉を貶める売国奴を粛清しようとしている。死ね。 「差別意識がない差別」の差別性は何ら免罪されない。しねレイシスト。 >>172
>つまり日本人の差別には村全体を守るという大義があったんだよ。
共同体の秩序を守る目的を「大義」と呼び、「大義」がある差別は免罪されるというなら、お前はナチスが障害者を殺した事や、関東大震災の時に朝鮮人を襲った自警団を擁護するのか。というか答えるな。死ね。 >>172
>朝鮮人が暴れたり、物を盗んだり、汚したり、破損したりするから。
>もちろんこういったことは朝鮮人に限らない。中国人も同じ。
上クラスのネトウヨはこうう明らかなデマによるヘイトスピーチを避ける。
>だからこの現代社会にあっても、日本の旅館やホテルでは、備品が盗まれないようにしている。
>しかしこれは差別といえようか? 日本人がレイシストであるといえようか?
「日本人がレイシストである」といわれないためにお前を社会から排除しようとしています。
>日本人は、村を守るため、仲間を守るために、差別的な行動をとるが、
>もともとの気質として、差別意識はない。世界でもまれな人種。
アホが無理して文章書くな。実家の座敷牢で回線切って死ね。 >>173-176
これが本物のレイシスト。日本人とはやはり感じが違う。 >>177
僕は日本人だし、お前はレイシストなんだよ。お前なんか日本人じゃないって。お前のケツをふかされる人の身にもなってみろよ。これ以上書き込むなクズが。 一つ一つ論破しておこう。
>>173
「僕は韓国人の右翼で、日本の名誉を貶める売国奴を粛清しようとしている。死ね。」とするとしっくり来る。
「韓国系の右翼」でもいい。
>>174
完全に読み違え。差別と言えようか。日本人は差別をしていない。なぜなら差別意識がないから。という話。
「差別意識がない差別」という勝手なファンタジーを捏造している。
>>175
歴史に似たファンタジーを基にしているから話にならない。
そもそも歴史は大局を見ないと真実はわからない。
ナチスがなぜそういう行動に出たのか。朝鮮人を襲ったというのなら自警団はなぜ襲ったのか。
「なぜ」の部分がない。また一方的な「証言」だけでなく「検証」も必要。
>>176
デマとしている部分は実際に起きている事実。
朝鮮人は対馬のホテル。そして中国人は爆買観光客。
あとは何を書いているかさっぱりわからない内容なのでなんとも言いようがない。
感情的になって我を忘れているのだろう。
>>178
日本人であるなら、日本人として、こうだから、こう考える、思う、というのが言えるはず。
それを書けば納得もでき第三者的にも信用できるだろう。
ただ「僕は日本人だ」と主張してもお得意の嘘にしか聞こえない。 仏像が盗まれた事実は全国的なニュースにもなった。
また衝撃的だったのは盗まれたのにもかかわらず、韓国人は返還を拒んだ。
もうこれは言い逃れられない事実。
この事実のために、朝鮮人にたいする日本人の警戒心はさらに大きくなった。
一部の人間ではなく国家的にそれを是としているのだから、どうしようもない。
こういったことがあると警戒せざるを得なくなり、その警戒が差別と思われ、
日本人はレイシストだ、という主張になる。が、この根本的な原因はなんであるか、
賢明な朝鮮人には考えてもらいたい。 >>179
>「僕は韓国人の右翼で、日本の名誉を貶める売国奴を粛清しようとしている。死ね。」とするとしっくり来る。
>「韓国系の右翼」でもいい。
ネトウヨのレイシストしかしっくり来ないでしょ。
>日本人は差別をしていない。なぜなら差別意識がないから。
「差別意識がないこと」は「差別をしていない」事にはならない。
>歴史に似たファンタジーを基にしているから話にならない。
>ナチスがなぜそういう行動に出たのか。朝鮮人を襲ったというのなら自警団はなぜ襲ったのか。
>「なぜ」の部分がない。また一方的な「証言」だけでなく「検証」も必要。
「理由があるなら社会的弱者の虐殺は正当化される」と考える人間は本当に死んだほうがいい。
>デマとしている部分は実際に起きている事実。
>朝鮮人は対馬のホテル。そして中国人は爆買観光客。
「日本人は殺人やレイプや強盗をする卑劣な民族だから排斥すべきだ」という話が海外で現地住民によって語られる場合、それはデマだろうが。お前が書いてるのはそれと同じ事だよ。レイシストは死ね。
>日本人であるなら、日本人として、こうだから、こう考える、思う、というのが言えるはず。
>それを書けば納得もでき第三者的にも信用できるだろう。
>ただ「僕は日本人だ」と主張してもお得意の嘘にしか聞こえない。
日本人であるなら人種差別なんてしないし、日本人としてお前らレイシストを発見次第駆除するのが日本人としてあるべき姿。お国の恥が日本を主語にしてモノを語るなよ。死ね。 >>180
韓国大使館の前で抗議しろカス。普通に暮らしてる在日に何の責任もないだろうが。バカは書き込むなよ。 >>181
>ネトウヨのレイシストしかしっくり来ないでしょ。
いや、日本人なら全員そう思っている。なぜなら日本人が日本を擁護するのはふつうのことだから。
日本人が日本を擁護して売国奴というのは筋がおかしい。
日本を嫌いな韓国人なら理解できる。日本を正当化することは、韓国を否定することだから。
そういう意味で皆しっくり来る。
>「差別意識がないこと」は「差別をしていない」事にはならない。
これもわかっていない。差別は差別された側の認識で、なんだって差別になる。
たとえば、片思いの彼女が誰かと付き合ったら、自分とも付き合え、差別するな、というような理屈で。
>「理由があるなら社会的弱者の虐殺は正当化される」と考える人間は本当に死んだほうがいい。
むしろ逆。理由がない場合が許されないのであって、理由があることはとても重要。
このことがわかっていないと、何の解決にもならない。
理由のない差別こそ、絶対に解決できないのだから、あってはならない。
>日本人であるなら人種差別なんてしないし、日本人としてお前らレイシストを発見次第駆除するのが日本人としてあるべき姿。お国の恥が日本を主語にしてモノを語るなよ。死ね。
このへんは何を言っているのかさっぱりわからない。
日本語がまだ上手に使えていないのだろうか。
>>182
在日はこれまでの所業によって在日朝鮮人の信用を失っている。
だからやるべきことはたくさんあるし責任もある。
信用回復のため、在日同士が集まり団結し、在日による犯罪率を減らすこと。
そして在日特権を自らの手で返上し、他の外国人と同じようにすべき。 在日が帰化できない理由は日本人のせいではなく、帰化すると裏切り者と同族にそしりを受けるせい。
つまり在日同士のなかに差別があって身動きが取れない状態。
また在日が本国に帰るとそこでも差別を受ける。なので本国にも帰れない。
差別は日本民族のなかにあるのでなく朝鮮民族の中にこそ根強い差別意識がある。
つまりレイシストとは朝鮮民族の内々の差別意識であろう。 >>187
在日が帰化して「裏切者」と同族に誹りを受けた例を教えて下さい >>188
例を出しても信じないだろうし、他の理由をこじつけることもできる。
だから在日の立場になって想像してみるといいだろう。
文学に精通している者ならたやすくできるはず。
また実際に帰化していない在日も、イメージで判断して帰化していないだけなのだから、
そのイメージがいかに重要かということが理解できるだろう。 >>189
僕の知ってる在日で、帰化した在日を責めている人なんて一人もいないけど。 >>191
それが本当なら在日問題は解決してるよ。 >>193
在日差別は在日の問題ではなく日本のレイシストの問題だから、原理的にそんな事で解決するはずがない。 文学板でレイシズムについて議論しよう vol.1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457108480/
続きはこちらで。 >>194
そういうふうに思い込みたいだけだろ。
日本人が原因なら日本を捨て帰国すればいいだけのこと。
そもそもが居心地がいいので解決させたくないか。 東京都議の柳ヶ瀬裕文氏が「舛添知事は、韓国人学校より保育所をつくれ!」と記事を投稿したところ、「ヘイト野郎!」という罵声が寄せられた。 スレ違いはスレッドの趣旨を理解できていないと見做され馬鹿扱いを受けるぞ
そんなんだから誰にもはなしをきいてもらえないんだ 執拗にその話を続けようとする意図は?>>1の話に戻ろうよ。 読み手イチ個人の主観だけども
純文学・・・書き手の経験ベース、重層的、善悪が絡まる、何か得られる
大衆文学・・・フィクション、会話が続くほど興醒める、ある問題定義がなされたり(きらい)、荒唐無稽でもよい 在日特権とかいう妄想を信じている奴が文学板にすらいる
やっぱり文学なんて役に立たないんだ ていうか、いまだに「在日特権」とか言ってるのってネトウヨでしょ。少し調べりゃデマだとわかる事を言い続けるのは差別主義者だからでしょ。本とかろくに読んだ事のない無教養のアホでしょ。そういう奴は文学とか興味ないでしょ。 小川国夫の小説にはわりと会話文が多いし、
保坂和志の文体は表層的だし、
金井美恵子作品には罪の意識は感じられないし、
何かを得るかどうか読み手の解釈軸によるから
純文学/大衆文学の区別は関係ない。 在日特権は朝鮮人にだけに許された特権。
ブラジル人が犯罪を犯してもブラジル人名で報道されるが、
朝鮮人が犯罪を犯しても日本名で報道される。これが在日特権。
しかし在日特権は日本国内における特権であるため、
海外で犯罪を犯すと日本人名ではなく朝鮮人名で報道されてしまう。
これが世にいう在日特権という妄想が溶かされる瞬間である。 レイシストの戯言は要らないので、続きはこちらで。
文学板でレイシズムについて議論しよう vol.1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457108480/ 隆大介さんは、台湾入国審査の際に入国カードの記入を求められたが、
それを拒否し審査官に暴力を振るった。
台湾メディアは、本名の韓国籍の「張明男」として報道。
日本のメディアは、日本人俳優として報道。
その後、隆大介さんのWikipediaが編集合戦となり、
編集合戦となって居る部分はプロフィールの国籍部分で、
韓国籍と書く者とそれを消す者で1日に100回も編集が行われていた。
これが世にいう韓国系ネトウヨ長い1日である。
このスレにいる韓国系のネトウヨもどっか行け。 >>211
なんだよ「韓国系ネトウヨ」って在特会の言葉か? >>212
韓国系の右翼だよ。
ネットは全世界が繋がっているからどこの国の右翼が書き込んでいるかわからない。
特に韓国はネットの活動に国家予算をつけているから、
日本のネット右翼なんか赤子の手をひねるようなもの。彼らにかかっては話にならない。諦めろ。 >>213
僕は「韓国系ネトウヨ」ではない普通の日本人だが、J-NSCのネット工作には少なからぬ公金が投入されている事はどう思いますか? >>214
日本人は、日本の国がいいと宣伝し、
韓国人は、韓国の国がいいと宣伝すればいいのでは?
一番いけないのは、韓国人や在日朝鮮人が、日本人に成りすまして、反日運動すること。 >>215
あなたは日本国の国際的な信用を毀損している売国奴なので、日本国の代表のようなツラして書き込んでんじゃねーよ100年早いんだよレイシストが。生まれ変わって出直して来いやゴミ >>216-217
二人ともどっか行け。
純文学は日本の文学。反日思想で純文学を語ることは絶対にできない。 >>218
「反日」の定義を言ってみなよ。そして、あなたが考えるに、たとえば誰が「反日」なの? >>219
定義できないものは議論できない。それは定義したくないという力が働いているため。
定義するということは、その存在を認めることであり、
定義せよというは、その存在が自分にとって不都合である、ということにほかならない。
よってかりに、反日の定義をするなら、その定義自体を認めたくないところにある、といえよう。
純文学を否定するは、日本人の中に眠る伝統的な、情緒的で、繊細な、日本人の感性、を、否定することである。
ではなぜそれを否定したいか?
それは対象物の特徴が「日本」または「日本人」であるからである。
小林秀雄の発言「純文学などは日本でしか通用しない方言」は言い得て妙である。
まさに「方言」なのである。方言であるからこそ、この国の民族性に属しているのである。
だが純文学を愛する者に国籍は問わない。誰であろうと構わない。
ここでは「誰」が問題でなく、「どこぞの誰か」が問題なのである。
日本を否定したがる者、また日本を否定する教育を受けてきた者、
そういった者に日本の純文学や日本の大衆文学を語ることは不可能である。
彼らの劣等意識が日本の文学を語る場合、それは憧れの裏返し、つまり恨みである。
「反日」とはずばり「恨み」であり、日本に恨みをもつ者が「反日」なのでR。 >>221
頭悪そうな長文ありがとうございます。続きはここでやりませんか?
文学板でレイシズムについて議論しよう vol.1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457108480/ 人種差別に依存しないと自我が保てないような人間こそが可哀想ですよ。まあ、可哀想だからといって一切容赦する必要はないけど。 韓国人の差別を人種差別というのはどうかと思う。
日本人への憧れが日本人へのヘイトにつながりレイシズムに繋がっているのだから。 そもそも純文学作品に触れていれば、日本人には人種差別的な思想がないことくらいわかるはず。 >>226
日本は世界的に見てそんなに魅力的な国ではないよ。一人当たりGDPもそろそろ韓国に抜かれるんじゃないかな。
>>227
文学に興味がないくせにそういう事を書くのやめて下さい。 レイシズムという言葉をほぼ同種の半島系難民差別に適用するのは間違い。
そしてここで議論を繰り広げるのはスレ違い。
文学板でやるのも板違い。 >>228
>日本は世界的に見てそんなに魅力的な国ではないよ。一人当たりGDPもそろそろ韓国に抜かれるんじゃないかな。
その通り。だから在日朝鮮人は一刻も早く韓国に帰ったほうがいいのに。
日本にいてはダメ。 >>231
お前みたいな国賊がそんな事を言う必要はないだろ。お前が田舎に帰れ。 日本の国際的評価を貶めてるお前みたいな人間は日本に必要ないの。お前は日本に全く必要ないから、どこか遠い所に消えろよ。 スレの趣旨にそむく話題をどうどうと続けるのは
人の畑を踏み荒らすも同然 まとめて失せてください 在日がどうこうとか言ってる人は>>222で続きをやろう。 無理無理。在日に朝鮮に帰れといっても無意味なのといっしょ。 「在日に朝鮮帰れと言っても無意味」って、具体的にあなたは何が言いたいの?意味があるのは在日が朝鮮に帰るという結果だというのがあなたの立場なの? 要するに在日は半島に帰るべきだというのがあなたの主張なの? 横だが、レイシズムだなんだと喚いているうちは正しい評価は下せないよ。
日本人に人種差別の意識は皆無。日本人ならわかるはず。
逆をいえば日本人じゃないからそれがわからない。
純文学は日本特有のもの。それを権威主義だなんだと喚くのもお門違い。日本人ならわかるはず。
歌詠みに権威などないし、日本人が歌を詠んだり俳句を嗜むのは、日本人の心がそうさせているだけ。
純文学も同じ。権威ではないし、あえて難しいことを書きたいわけでもない。
在日作家の純文学はどうも意識の根底にある被差別意識が感じられる。
在日は帰化するか、帰化しないのなら他の外国人と同じ扱いにすべきだろう。
たとえば「保育園落ちた日本死ね!」は在日らしいが、この発言は許される。
しかし、この発言をするなら、
東京都が保育園をつくらずに韓国人学校をつくるというのにも反対の声をあげるべき。
でなかったら「保育園落ちた日本死ね!」が、たんなる日本にたいする誹謗中傷にすぎない。
こういったことこそが在日問題のいちばん厄介なところ。
ようするに純文学を語る場合にもバイアスが入ることを意味している。 >>242
他のスレでも書いたと思うけど、「差別意識がない」ことは「人種差別をしていない」ことにはならないんだよ。スレ違いなので続きはここ↓で。
文学板でレイシズムについて議論しよう vol.1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1457108480/ >>243
>他のスレでも書いたと思うけど、「差別意識がない」ことは「人種差別をしていない」ことにはならないんだよ。スレ違いなので続きはここ↓で。
他のスレでも書いたと思うけど、人種差別していなくても、「人種差別している」とゴリ押しができるんだよ。
人種が違えば、人種差別を受けた、と言えてしまう。まずここ。在日の問題はまさにこれ。
もし人種が同じなら、差別的な扱いを受けても、これが現実の厳しさだ、と当たり前のこととしてスルーされる。ここの認識も大事。
そして、人種差別の被害者を演じることでお金が入ると思っている者たちがいる。だから、人種差別はなくならない。
わかりやすくいうと、人種差別のあるなしなど最初から問題じゃないんだよ。
金儲けのネタに使われている事実があるってこと。
金がもらえるから、特別扱いされるから、特権が与えられるから、ということで、
人種差別がある、酷いことをされた、強制労働された、謝罪しろ、賠償しろ、となる。
同じように戦時中に酷い目にあった日本人はどうなんだ?
人種差別だ、レイシズムだ、と叫ぶことがいかに汚いか、もっと自覚したほうがいいだろう。 >>244
ここでその話を続けるのは確実に荒らしでしかないんだけど。 大衆文学は娯楽性とかメッセージ性重視
純文学は文芸技法 幼稚園に付属の保育施設、クラスを作って待機児童を受け入れたらどうか。 思いやり予算は米軍に払わずに、全額日本人の子供のために使うべき。 そうすると米軍は日本から撤退する。
フィリピンから米軍が撤退したら国土の一部が中国に侵略された現実を鑑みると、
日本も沖縄の一部は中国に侵略されるだろう。
現実的には尖閣諸島は中国軍が実効支配し、
その付近では盛大に中国の海洋資源の開発が行われるだろう。
また今以上に中国船による乱獲漁業が始まる。
以前、日本の領土から大量の高価な赤珊瑚が中国船によって奪われたように、
日本の漁民はまたぞろ莫大な被害を被るだろう。
そして、国際的な批判をかわすために中国による歴史修正が行われ、
話し合いで紛争を解決するためにと、互いの歴史認識の議論が交わされるのみで、
中国の実効支配が続くであろう。
日本の子供たちはそんな日本国を受け継ぐことになるであろう。 自衛隊は優秀だが、法律がザルなので、行動を起こすことができない。
紛争地帯に派遣された自衛官が制服を脱ぎ、個人的に一般人として作業に当たることがある。
なぜなら日本の法律に認められていないから。
安保法案によっていくぶん緩和されたが、それでも日本の自衛隊は手足を縛られている。
自衛隊がふがいないとしたら、国民がそうさせているのである。 北朝鮮による拉致の現場らしきものを見て、
もしかしたらあの船の中にさらわれた日本人がいるのではないか、
というのが過去にあったらしいが、
日本の領海から出ていく船を見守ることしかできなかった。
法に縛られて何もできない自分たちの不甲斐なさを知る。
竹島に朝鮮人がやってきて占領したときも、日本の漁師たちは死傷したが、
日本の自衛隊は何もできなかった。
今まで平和だったから安保法案など要らないという者たちは、
そういった現実から目を背けている。
自分たちが平和を享受していれば、少数の犠牲者はどうでもいいのだろうか。
無知は罪である。 >>252
>無知は罪である。
「個別的自衛権」って知ってる? 自衛隊が武器を持たぬ限り行動は素軽い。
竹島はいらない。中国に譲ればよい。
北朝鮮は中国からはいれる。何なら国交復帰させよう。 僕はそれでもいいけど、中国に竹島を譲る必要はないし、北朝鮮と国交を結ぶべきでないという意見は理解できる。共産党ですら「竹島は日本固有の領土」と言っているし、少なくとも金正恩政権は打倒すべき。北朝鮮の人民のために。 >>254
例えばさ、北野武は「俺は映画観てない」とか言ってるけど、実際はめちゃくちゃ観てるんだよ。 勝てませんよ。キム将軍の息子会ったけど無敵。極東の
辺境の弱小国が夢を見るべきではない。 日本と他国の戦争の勝率の差知ってる?正確に換算すると日本は一割未満。 でも「金正恩死ね」とか思うよね。北朝鮮の人民の人権を守れ!! 僕は北朝鮮から密かに持ち帰られた映像の中に、幼い子供が道に落ちたものを拾って食べているシーンを見つけた。僕は絶対にそんな光景を許容しない。 >道に落ちたものを拾って食べているシーンを見つけた
懐かしいかつ進んだ文化だ。
相手が死ぬと思うことはカッコ悪いよ。 北朝鮮のすべての子どもたちが食卓でご飯を食べられる事を願っている。 マンコのことを
きれいなぼかした表現で表すのが純文学。
はっきり「オマンコ」とか「蜜壺」なんて書くのが大衆文学 純文学ではそんな語彙は必要ない。
和歌にそんな一首があるか? ないだろボケ。朝鮮人が日本の文化を語るな。 >>269
お前、日本の文化について、何か語れるほど知らないだろ? >>269
>268の例えも下品だが民族差別主義者はネトウヨ板にでも行って帰ってくるな。 >>271
横だが逆だ。おまえ自身が朝鮮人にたいする差別意識をもっているから、>>269を民族差別と感じる。もし
「日本人が朝鮮の文化を語るな!」
というレスがあった場合、日本人にたいする差別となるだろうか? いや、ならない。つまり、
このレイシストめ。失せろ。
おまえみたいな恥さらしが日本語を使うな! 日本語が穢れる。 >>272
横だが、「朝鮮人が日本の文化を語るな」とか言い出すのは、後で何をほざこうが差別的発言でしかないだろ。ネトウヨ星に帰れドアホが。 >>273
横だがそれは朝鮮の文学を知らないセリフだな。この無学無教養め。
日本の純文学と違って朝鮮の文学は性器の羅列だバカ。 文学板にもネトウヨがいるとは知らなかった。
こんな奴らは無職のくせにヘイトスピーチだけは一人前なんだろな。
もう二度と来るな。 「ネトウヨ」発言をするのは在日男か韓国人と結婚した女らしいが?
そもそも日本にネトウヨなんて存在しないよ。存在意義がない。 >>274
性器が出てこないと高尚なの?文学を知らない限り決して言えない台詞だな。 >>277
純文学は純粋な文学を意味し、いわゆる美的情操。美に反するものは純文学にあらず。
文学と純文学をゴッチャにするな。 >>278
純文学ほどチンコマンコがダメだということ? >>279
芸術と同じ。裸体の美しさそのエロティシズムは純文学に値するも、扇情的なチンコマンコは純文学を騙る不逞の輩のエセ文学いや糞学。 「山手線内回り」
柳美里
女は便器に腰をおろすと、タイトスカートを臍の上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内に籠っているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、
そしてなか指をクリトリスに押しつけて左右に強く――、快感がせり出し、おまんこがじんわりと熱くなってくる。おまんこっていってみな、いわないとちんちんしゃぶらせてやんないよ、とかいうヤツがけっこういたけど、ザーッツ・オーライ!
何度だっていってやる。おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこ、おまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこ、
歯を立てて根もとから食い千切ってやる! ごっくん、ちんちんはのどちんこをするっと抜けて、勃起したままのたうつように食道の奥へとすべり落ちて……おまんこ! フラッシュを焚いたようにぱっと飛び散った光が急速に萎えて真っ暗……
かぶと虫の終齢幼虫の死骸みたいに黒ずんでぶよぶよになったちんちんがフラッシュバックして……吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、吸ってぇ、すぅ、吐いてぇ、はぁ、痺れた脳に酸素が戻ってくる。
背中を丸めて股間を覗いてみると、おまんこはぐちょぐちょ。もっとからだが柔らかかったら、擦り剥いて赤チンを塗った膝をふうふうやるみたいに、濡れたおまんこをふうふう乾かしてあげられるのに……
女はゆらりと立ちあがった。センサーが作動して水が流れた。ねばついている指をグーにして〈開〉の青ボタンをパぁンチ! >>284
朝鮮文化というのがなぜバカにしたことになるんだ? >>286
当然、日本の純文学をリスペクトしている。 >>1
芥川賞→作家として活動しているが世間に埋もれて日の目を見ていない無冠におくる賞
直木賞→作家として世間に認知されている売れっ子だがベストセラーまでには届かない中堅におくる賞 >>281
これはどういう意図で引用したの?純文学の表現例として? そもそも文学って何よ? なんだか知らないがソレが純も不純もあるものか。
阿保な区別だな(冷笑) ふと思ったんだけど笑いの温度を書き分けることじゃないかな。 文学なるものが仮にあったとて、オレにとって、それは面白いか面白くないか
のどちらかさ。「純」だと! 「大衆」だと! バカじゃないか。 どちらが上とか下とか言うのはアレだけど読者が受け取る感動の質にも差はあるでしょ
大衆文芸は既知の情感を刺激し感動を与えてくれる
純文学は未知の何ものかを示して読者を揺さぶる
その未知なるものが人々に認知されて浸透すると次代のスタンダードになって
大衆文芸でもその手法が広まり読みやすく完成度の高い作品が書かれる >>295
何だか、よく理解できない理屈だな。
貴殿の理屈は、そもそも初めから『純文学』と『大衆文学』の存在を
前提にしている理屈で、オレは、其れを所詮認めないのだよ。
しかし、一歩ゆずって、『大衆文学』なるモノが初めからあった
として、その『文学』が、貴殿の言う『未知の何ものかを示して読者を
揺さぶる 』ことがあるのは現実に有りえるコトではないか?
(ここで、いわゆる「大衆」についても、これも厳密な定義が必要だが)
もし、そうだとすれば、その「大衆」にとって、そのとき読んだ「文学」
は貴殿の定義によれば『純文学』となるのではないか。
従って貴殿の理屈は破綻しているように見えるぞ。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::://ヽ:::::::::::::::|
l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::// ヽ::::::::::::::l
l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/:::「'ヽ:::::::::::// ヽ:::::::::::|
|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ノl:::ノ l:::::::/ ヽ::::::::|
ノ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ゙゙ ノ:::/ ,,;;;;;;,, ,,,,ヽ:::::l
):::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ノ/ __,'''i: ('''__):::l
)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ̄ ̄ン:. :「 ̄`ヾ
1:::::::::::::::::::::::「 `┤l:::::::::::::::::l  ̄ , ヽ ̄ l
`l:::::::::::::::::::::ヽ :l li:::::::::::::/ /´ `l | <ヴッ!!!
ヽ::::::::::::::::::::::\_」 lヽ::::/ !:-●,__ ノ /
ノ:::::::::::::::::::::::::::ノ | l `゙゙ ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;, /ヽ
,/ ヽ::::::::::::::::::::::( l l::::::::.. /.:''/´ ̄_ソ / `ヽ
ヽ:::::::::::::::ヽ | l:::::::::::... /::// ̄ ̄_ソ / \
ヽ:::::::\| l::::::::::::::::... / :::.ゝ` ̄ ̄/ / ヽ
ヽ:::l l:::::::::::::::::::..  ̄ ̄;;'' / ヽ
l l;;;;;;:::::::::::::::.....;;;;............;;;;;;''ノ l
l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l | |
https://www.youtube.com/watch?v=dFj6B-dIKY8 横だが、
小説のみで考えるからアホぬかすんだよ。
日本の純文学とはそもそも和歌だ。百人一首くらい知っているだろ。
歌の世界には人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている。それが純文学。
そういったものを小説で表現したのが純文学の小説。
で、支那人朝鮮人を芥川賞作家にするもんだから日本の純文学が廃れてきた。
下品なエロは大衆小説、大衆文学という位置づけでいいのにな。 和歌が宮廷人のお遊びだったように、純文学は精神的に高貴な人間の世界。
純文学が上で大衆文学が下というのは感覚的に理解できる。
しかし、貧乏人でも精神が尊いならそいつには純文学はふさわしい。ま、いわゆる清貧というやつ。 >>299
これも分からん理屈だな。要するに定義だけの問題だな。
貴殿の言う『人間の情操つまり高いレベルの複雑な感情が表現されている』
ものは何も百人一首に限るまい。「大衆」の文章にも、その「人間の情操」
とやらが無いとは言えまい。してみれば、その文章は「純文学」となる
ではないか。貴殿の理屈も破綻している。
要するにオレの言いたいことはこうだ。
ここにAとBなる2つ「文学」があったとして、お偉いさんたちが、勝手に、Aは
「純文学」だ、Bは「大衆文学」だと、のたまっているだけのことさ。
お偉いさんとは何を指すか言わなくも分かるだろう。蛇足すれば
つまり「権威者」さ。
少なくともオレには、AとBの区別は、面白いか、面白くないか、
そのいずれかさ。「純」も「不純」も、へったくれもない。お偉いさんが
どう評価しようが、オレの知ったことじゃぁない。
貴殿が、それは違うと言うなら、つまりは見解の相違だな。
ついでに言えばノーベル賞とやらもオレは大嫌い。こんなもん、ただの
お祭りさ。いわんや芥川賞。つまらん世俗のお遊びよ。 >>300
『純文学は精神的に高貴な人間の世界』。『清貧』
さようでございますか。こちとらにとっては莫迦莫迦しい戯言でござんすよ。
まぁ、これも見解の相違だな。 以上の此の話題は下らないからやめるぜ。 >>301
いや、限っているよ。
ようは何がメインかで決まるんだよ。
ここ重要だから、反芻してしっかり理解しろよ。
たとえば、人間の社会では、どんなものにも人間が出てくる。
だからといってみんな同じジャンルかといえば違うだろ?
人間が出てくる。それは百人一首に限るまい。
だからAVも百人一首も同じだ。
というのが、おまえの理屈。おまえの理屈が破綻しているんだよ。まずそのことに気づけ。
それに気づけないようなオツムレベルならそもそも話にならん。
気づけたら、気づけた、とレスを入れとけ。話はそれから。 >>302
見解の相違ではない。住む世界が違うんだよ。
まあだからこそ、純文学と大衆文学はぜんぜん違うってことの証明になる。
同じ景色を見ていても、感じ方が違う。
平たくいえば、花より団子。それが大衆文学。 モダニズムは必死に道徳と文学を切り離したけれどね
夏目漱石まで戻ると美とは関心を放り投げてなお残る没関心の美学
「現実生活にあいはかるとはいずくんぞ」論争が純文学論争の最初くらいか
そこから作品がそれだけで屹立する「何も語っていない小説」というフローベール的純芸術が成立する
容易にコンセプチュアルアートに堕落する芸術ではなく、そのコンセプトを作り出すところのみに芸術を見出す
これがフォルム批評であり、「方法」の芸術論
政治的に参加する180度展開した文学はこれらの延長にもあり、現実への「態度」こそを重視する
この批判もまた「倫理的態度」を重視した小説になるし、ポストコロニアリズムもこの「他者への倫理的自己省察」を要求する
独創から離れ、模倣から離れ、セリーヌの罵倒を模倣するのでなく彼の精神性を取り出す
言語への倫理的対峙は言葉遊びに堕落する危険を残しながら言語の分解、言語の創造的過負荷を連ね続ける翻訳困難な言語作品を提出する
そういう作家ばっかり好きだな、結局 >>297
そうだね。大衆文学として発表されたものが純文学として評価されることもあるし
逆もある。例えば花村満月はエンタメ出身だけど芥川賞、車谷は純文出身で直木賞
そもそも純文と大衆文学が分けられるようになったのは明治23年の
浮城物語論争の頃からで大正期には明確に制度化された
でも便宜的だし一人の作家が両方書いてる場合も多い。北杜夫とか井上靖とか
あと内容によらず出版社の方針でずれた扱われ方をする場合もある あと295で時間差のことを問題にしたけど、谷崎も芥川も今ならエンタメ的な
面白さが感じられるけど、当時は「新しい」世界だったんだと思う 違う違う。
当時は書き言葉ができたばっかり。
「〜である」という書き方さえ斬新だったというくらいだ。
ようするに、いまの日本語の文章をつくったのが、夏目漱石や芥川龍之介ら作家たちだ。
内容がどうこういう問題以前の話。
そういう時代のをもってきて、中身に言及し語ってもあまり参考にならない。
芥川賞か直木賞かどっちかわからないというのも、レベルが低くてどっちつかずってやつだ。
極めようとすればその区別ははっきりしてくる。
たとえば、アイドルを見てみろ。歌って踊ってドラマにも出てお笑いタレントみたいなこともする。
しかし、本物のミュージシャン、ダンスのプロフェッショナル、本格派俳優女優と競べてどうだ? 違うだろ。
本物は格が違うんだよ。その格をみて権威だ何だというのはお門違い。
日本の文学はまだまだ熟していない。マンガのせいであまり発展してこなかったし、
出版の既得権、新人賞という閉鎖的なシステムのせいで、才能ある作家が見出されなかった。育たなかった。
が、これからは違うだろうよ。 「である」は四迷、「です」は美妙ね。漱石より20年ほど前
言文一致は表記の問題であると共に思考法の問題でもあったから
内容にも関わっていたんだよ。漢文調だと儒学的価値観に引っ張られて
文学が自立できないと考えた逍遥は馬琴やロマンスなど波乱万丈の物語を
「古い」とし、人情を写す=内面を描くノベルを「文学」だとした
浮城物語論争では、魯庵は面白さを目指すのは文学ではない、人間を描け
と主張下。今日に至る「人間が描けていない」ってやつね >>309
その思考レベルがまだ低いってことだ。
1:00くらいから見てみろ。漱石を持ち上げているから。
https://www.youtube.com/watch?v=CcrtyPfLvCw >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 >>311
ここに書いたのは文学史上の経緯で客観的な真実といっているわけじゃないよ
詳しく知りたければ長山靖生「奇異譚とユートピア」とか読むといいよ
逍遥は「小説神髄」で文学の変遷を進化で説明しようとした
漱石は「文学論」で別のタ−ムを示した(そのキイワ−ドは知ってるよね?)。 純文学って広義の意味と狭義があると思う
広義は芸術的な小説
狭義は日本の日本自然主義の流れをくむ小説
例えば村上春樹は前者だけど後者ではない 芸術的=コンセプトがあるって事ちゃうかな
例えば百田尚樹は読者を泣かせるというのを目的にしてる=読者の生理的反応、情緒を目的にしてるから芸術ではない(悪口ではない 違う違う。
簡単にいえば、芸術とは信仰の対象となるものだ。
和歌や俳句の芸術性は、和歌や俳句という表現方法自体に思い入れをもつ人間がいるから、存在する。
下世話な言い方をすると、信者がいるから存在する。そこで信者同士、芸術性を語り合うことができる。
私小説という形が純文学として成り立つのも、私小説書く人間がいて、それが自身の魂の救済となるからだ。
書き手の魂の救済として書かれたものを、読者は自分の生き方と重ね合わせたりしながら読んで、自分の魂を救済する。
純文学を好む人間は、面白可笑しくしたストーリーには興味はない。
むろん波瀾万丈な生涯であってもいいが、じつはそれを目的として読むのではない。
自身の投影だ。肉体を離れた、意識の投影といってもいい。だから、こだわりが強くなる。芸術性を問いたくもなる。
こうでなければならない、こうすべきだ、といっぱしの主張をする人間が出てくる。研究をし、系統やなんやかんや分析して、学問として成立させる。
そこで「文学論」なるものが書かれ、今度はそれを読んで、文学論の信者になる者まで出てくる。
すべて信仰のなせるワザ。
大衆文学つまりエンタメ小説は、自分の人生を投影させた信仰の域にまでは達しない。まさに面白可笑しく読んで、ハイ終わり、だ。
たとえば、アニメを見て人生が変わったり、アニメのキャラを信仰の対象とする人間もいる。
そういう人間が増えてくれば、アニメの芸術性が認められ、いずれ世界的な芸術として認められる日が来るかもしれない。ようは信者の数だな。
そして何の信者にもなれない者には、芸術は一生理解できない。が、そいつには芸術は権威の象徴にしかすぎないのだから理解する必要もない。 漱石の門下生の森田草平は、夏目漱石の中で、
純文学を「本格的」な小説って言っていた。
彼的には大衆小説は本格的ではないってことなんだろう。 >>292
完全に同意。文学って何? それが理解できなくて漱石は苦悩したらしいぜ。
誰か、む文学って何? 定義してみろよ。それを誰かが定義したところで
恐らく別の誰かが反論するに決まっているのは目にみえている。
つまり定義不能なんだな、というより定義なんか出来っこない。
このスレの書き込みを、ざっと見ていると、むなしくなるな。
要するに暇人の戯言だな。「純」だの「大衆」だの、どうでもいい。
だからオレは文学部だの哲学科だのを軽蔑している。
ここの住人は工学部系の人間から見たら、アホに見える。バカバカしくてね。
注:此のスレ立てさん、失礼しました。 >>321
無粋な書き込みですな。
まぁ、学校の先生達用たち用のスレですから、せいぜい遊ばせてやって
下さいな。 純文学はあなたの心のなかにある、か
あると思ってる人がいるなら、きっとあるんだろう >>323
そうなんだよ。結局、各人の心のなかでのみのテーゼなんです。
この世の事象は全て各人の「心の中でのみ存在する」。
現代物理学も其のような見解もあるそうで。
尤も、こういうとミもフタもなくなるが・・・
(お遊びの邪魔してゴメンネ) このスレを全部流し読みしたら、同じような内容の繰り返し。
もう、そろそろ、The Endだね。 純文学=たいてい忍耐力が試される
大衆小説=忍耐力は必要とされない 自然科学が対象にしている自然界に存在している事物の解明とは違って
文学や哲学の対象は人間の創作物や精神活動(生物学的医学的なものにも関わるけど)
だから純粋客観的に定義付は出来ない。そもそも人間が作ってきたものなんだから
どのようにして生まれ、どのように発展してきたのか、先人がどういう意味で用いてきたのかを
歴史的に押さえないと独りよがりな解釈になってしまって議論の基礎が成立しないんだよ
法文みたいに国家権力が定義を規定するものでもないしね 純文学はその文章自体に価値を持たせる小説
文自体に価値があるから大衆に受けなくてもいい
大衆小説は多くの人を楽しませる為の小説
楽しんでもらわないと意味がない
逆に言えばパクリだろうがリアリティがなかろうが読んだ人が楽しめればいい また始まったよ。まぁ、いいけどな。
ただ、327の言明は、自然科学にも、そのまま、あてはまるんだよ。(笑) >>328
文章自体ではないよ。「文章表現」に価値があり、その文章表現されたものこそが、人々の脳に新しい概念を植え付ける。
たとえば、日本語には「愛する」という文章表現はなかった。翻訳語だが、日本人に新しい概念を植え付け、現代日本人の精神構造をつくっている。
それはたんに「LOVE」を翻訳したからというものではない。
言葉や文章という素材を使って、どれだけ創意工夫し、表現するか。純文学はまさに文章による芸術であり芸術作品だ。
わかりやすくいうと、彫刻に芸術的な価値があるのであって、素材の木や石に価値があるのではない。
そして純文学こそ日本語による芸術作品。
それはつまり日本語でしか表現できないものがあることを意味している。 具体的に言うと、ある登竜門的な賞を受賞する
か否かはひとつのポイントとなりますよね。
そしてその賞の選考委員たちは名の通った作家
たちである訳です。そのような賞はひとつの
権威であるとは言えるでしょうね。また、賞
を取らない場合でも有名出版社の雑誌の編集
者の眼にとまる、という事もある訳ですね。
このような具体的な場面でパスするか、スルー
されるか、が文学の定義に関係して来ると
思うんですけど。 >>331
芥川賞とったら文学と言いたいの?ずいぶん時代遅れのレスに感じるけど いえ、でも作家として世に出るためには、具体
的な関門のようなものがあり、そこを通ればま
た次回作を書くようにと出版社から頼まれると
いう事がある訳で、実際、出版された本が売れ
れば、と言うか大ヒットするかしないかという
ような具体的な幾つかの分岐点がある訳です。
そうして具体的に選別された作者が、純文学な
り、大衆小説なりの作家として認められて行く
というプロセスをもっと検証してみたほうが、
よいのでは? というひとつの提案をしている
訳です。 つまりみなさんのご意見がかなり、観念論的に
感じられ、もう少し即物的な視点もあり得るのではないか、と思ったものですから。
すみません。今日はこれ以後、発言はしません。 >>330
表現と感覚の問題ですか
言いたいことはわかるけど、それを特権的に扱うからなんか変なことになるような
変わった表現で変わった感覚を書くのが純文学だ、というのは良くも悪くも狭すぎる えーと、最近、森鴎外の『阿部一族』『護持院原の敵打』『安井夫人』
『雁』等等を読んだんですが、とても面白かった。特に『雁』は鴎外特有
の晦渋さがなく、すらすらと読めて特に面白かったです。
で、鴎外のこれらの作品は純文学でしょうか。大衆小説でしょうか?
私としては、どうでもよいと思ってるんですが、まぁ鴎外、漱石と言えば
純文学のイメージがあると思われますがねぇ。
ちなみに、私の最も好きな鴎外の作品は『百物語』と『空車』。
スレ違いでしたら、お許しください。尤も、ご回答は、ある程度、予想は
してるんですけど。 336ですが、先走って書くと、『「面白い」だけの感想しか書けないのか、
おまえは、その程度か』っという趣旨のレスが飛んできそうなので追記しておきます。
まぁ、「その程度」の人間と私が評されても、私は一向にかまいませんが、
「高尚な感想」なら、いくらでも私は書ける自信はありますがね、
ただ、それを此処に書く趣味もスペースも無い、ということを言っておきます。
やっばり、スレチかな。 ジュンク堂に電話かけて在庫あるかどうか聞いたがないってさ。こりゃ書店の在庫は見込み薄だな。
そうだ、ピースはもってるんだから、ピースに貸してもらうという手があるじゃないか!今頃こんなことを思いつくとは。 純文学。といってもいい。というのは、当時は、そういった文章表現が当たり前ではなかった。
いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章は、鴎外や漱石が創りあげてきた。
擬古文体や美文調などの段階を経て、現代の平易な日本語の文章に辿りついたにすぎない。
つまり、昔は文章を書くこと自体、特別なこと。芸術活動をするようなものだった。
いまは、書けて当たり前という時代なので、昔の作家たちの労苦、つまり文章表現による芸術活動というものがわからないだけ。 >>340
司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」によると、『我々がこうして何気なく書いて
いる日本語の文章』は正岡子規なんだそうで。まぁ、鴎外、漱石も、そうなんでしょうな。
だからと言って、それが「純文学だ大衆ぶんがくだ」と「議論」のは、失礼ながら、
あまりににも幼稚ですな。
ちなみに「ひとびとの跫音」では、『いま我々がこうして何気なく書いている日本語の文章』
については鴎外の「お」の「お」の字も出てきません。それは司馬遼太郎が
正岡子規が大好きだったからでしょう。
たぶん、司馬遼太郎が本スレのテーゼを聞いたら嗤うでょう。
悪い意味での素人の問題意識だとね。実は、私自身も、そう思う。
所詮、文学なるものも含めて芸術にとって、「純」も「不純」も、「大衆云々」
も虚しい言葉遊び。芸術とは何の縁のない言葉。
そう思いませんか? 芸術の評価は歴史によってコロコロ変わるじゃぁないですか。
このスレのテーゼは虚しいんですよ。スレ立てさんには申し訳ないですけど。
でも、2chらしいテーゼであることは私は勿論認めますよ。お遊びなんですから。
楽しみましょう。 341の文章で、だいぶ脱字等がありますが、補って読んでください。
流し書きしましたので。 なぜ新聞の投稿に、俳句や和歌があるのか考えてみるといい。
純も不純も現実として存在する。日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。
それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。 >>300
精神的に高貴な人間が「支那人と朝鮮人が純文学をダメにした」とか言うわけねーじゃん(笑) 純文学と大衆文学を学術的に分類するのは最終的に不可能だと思う。どちらも文学だとして、具体例を挙げるなら、「火花」が芥川賞を獲った際に「流」が直木賞を獲ったでしょ。僕はどちらもよんだけど、「流」の方が断然優れていると思った。 >>344
高貴なお方の怒りは尋常じゃない。逆鱗に触れぬよう自分を律しろ。 >>345
自分の考えと一緒じゃない、という話にすぎない。 確信は持てないけど、漱石は「大衆文学」として受容されていたんじゃないの? テレビもラジオもない、娯楽らしいものがない時代。
漱石の小説が朝日新聞に連載されることによって、朝日新聞の部数が飛躍的に伸びた時代。
それをイメージしてから語れ。 大江健三郎は「現代文学研究者になにを望むか」という講演でハンス・ローベルト・ヤウスの「挑発としての文学史」を引用して、通俗小説を「期待の地平にそっていてそれをこえないものである」と定義しているらしい。 70年代の話だよ。柄谷行人いわく、「私は"ピンチランナー調書"を読んで、この定義がそっくりあてはまると思った」と(笑) 少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
村上隆が、アメリカ現代美術はよくわからない扱いされるけどあれはアメリカの美術界の特定の人間が求めているものに沿った
作品を発表する一種のゲームで、自由な表現でもなんでもない
だが、世界最大の大国アメリカには美術界の最高の才能が集まるから、素晴らしい作品が出現するんだ
といったことを語っていたけど、
純文学もちょっと似てるのか
純文学のルールみたいなものがあって、そのルールを決めてる人がいる、感じはするな
ただ、純文学の大原則として、歴史的文脈は踏まえないとダメ、というのがあって
たとえば漱石や鴎外を純文学ではない、と否定するのはNG、と >>355
>少々ぶっちゃけると、文芸誌と文学賞とその周辺の人物がこれは純文学だと言えば純文学になるんじゃないのかな
これについては「そんな事はない」って言えないんだよね。その通りなんだよ。「文芸雑誌に載ってるわけわかんない小説の事を純文学って言うんでしょ」って言われたら、「まあ、そうだね」と言うしかない(笑) >>343
貴殿の書き込みについての疑問を下記するぜ。
疑問1.『純も不純も現実として存在する』
だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
結局、選者の手前勝手な主観なんでしょ。何か判定マニュアルでもあるの?
それがオカシイとオイラは言ってるのよ。
疑問2.『日本人の言葉にたいする繊細な感覚は世界一。』
オイラに言わせれば、これも貴殿の独断と偏見だな。
そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
疑問3. 『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
これも貴殿の勝手な独断と偏見だな。勝手に決めつけている。
どういう道順で、そう結論づけるのかサッパリ分からないよ、オイラにはね。
以上より、343の貴殿の言明は、少なくともオイラには何の説得力をもたない。 >>357
>だからさ、何を基準として「純」不純」と選者は判断してるの?
美醜の概念。
たとえば音痴は、歌に上手い下手はない、そんな判断は主観だ、オイラはスマップの歌は上手いと思っている! その証拠にだから売れているんだろ! 中居クンの歌が下手だというのはオカシイよ!と主張する。
音の美しさの概念がないため、売上でしか判断できない。売上は明確な客観的な基準だからそれを拠り所にする悪癖がついている。
言葉の純、不純の基準を学びたかったら、短歌教室や俳句教室に通うといいだろう。
>そう決めつける客観的な事実(or証明)はあるの?
当然ある。翻訳機。日本語の表現は多岐にわたるため翻訳が複雑になる。
たとえば「私は天才です。」という言い方は「オイラ、天才。」「俺は天才だぜ。」「僕は天才だもん。」「おれ、天才っす。」「あたしゃ、天才だよ。」「わしは天才じゃ。」
といくらでもつくれる。これは人称主語から書き手の性格がわかるという日本語の特性であり、ここに日本人の言葉にたいする繊細な感覚が発揮される。どれを使うか?
もちろん主語自体を省くこともできる。つまり主語だけが特徴ではなく、助詞の変化、その言葉の組み合わせが多種多様にあること。
なので、一つの英文でも、日本語訳にするとき、いくらで表情をつけることができる。この表情をどうつけるかが訳者の腕の見せ所である。
そして英文を翻訳機にかけると、汚いつまり不純な日本語の文章が出来上がる。
>『それを否定したがるのは、日本にそういった文化があること自体が気に入らない連中。』
日本語を扱うにはセンスが必要。だから英語、英語と喚く奴がいる。英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。
日本の文化自体を知らないで否定しているとしたらよっぽど始末に負えない輩だ。死ね。 >>358
1.貴殿の言う『美醜の概念』『音の美しさの概念がないため云々』について。
要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
オイラの考えさ。貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
2.貴殿の回答『翻訳機云々』には正直、あきれたぜ。そんな程度の根拠か!
器械の進歩というものも、まるで分かっていないな。べき乗の進歩たぜ。
べき乗も何のことか分からないだろう。文系は、たから駄目だな。
さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに
劣ると言えるのか。バカバカしくて話にならないぜ。
貴殿の回答『英語なら頭からっぽ考えなくてもいい。たとえば「I」という主語を使っていればいいだけだから。』
なんという単純というより幼稚な回答だな。これにもオイラは、あきれてしまった。
3.貴殿は、日本文化、日本文化と喚いているが、どの国にも文化があって、それを理解する には貴殿の言う『センスが必要』のは今更ここで書くまでもない。何も日本文化だけではない。
こんなアタリマエのことも分からんのか!!
ともかく貴殿の言明の程度の低さには、あきれるぜ。 顔を洗って出直してこい。
4.ついでに言うが『死ね』というもの言いは止めろ。小学生の小僧でもあるまいし。 この一言で貴殿の程度が分かるぜ。 >>356
現状だと基本的には文芸誌デビューだと純文学作家だね
最初にデビューした媒体で決まる
神林長平が文芸誌に書いてたら純文学作家と言われてたりして >>359
>要するに美醜も相対的なものだぜ。絶対的基準など有り得ない、というのが
>オイラの考えさ。
当たり前だ。だから人間は絶対的なものを求めようとするんだろ。真実とは何かを探すんだろ。それが文化の基本だ。
>貴殿は、よほど短歌・俳句が好きらしいな。しかし、所詮、そんなものも、 相対的基準しか有り得ない。
短歌・俳句がわかりやすいから出しているんだろ。バカか。
>『教室へ行け』とは嗤わせる。貴殿の職業は教師か。 まぁ、そんなところだろう。いかにも教師らしい発言だからな。
バカか。そこは、教室ではどんなことをしているのだろう、と想起させ、相手に考えさせる文章表現テクニックの基本だろ。字面通りしか読めないおまえはバカか。
この「バカか」というのもの同じだ。おまえがバカかどうかを聞いているのではない。
>さて、例えばショークスヒアなりゲーテなり、誰でもよいが、日本人より彼らが繊細さに劣ると言えるのか。
バカか。日本語に見られる日本人の繊細さだ。日本語がどれだけ繊細かを教え諭しているんだろ。だから短歌や俳句を出したり、翻訳におけるその差異を明示して説明しているんだろ。バカかおまえは。
おまえも「貴殿」と書いているが、それはなぜだ? おまえが、気の小さい、臆病な人間だからだろ? 日本人の繊細さとは裏を返せばそういうことでもある。
「あなた」と書くか「君」と書くか「おまえ」と書くか。それとも書かずにそれとなくわかる表現をするか。おちゃらけて「おぬし」と書くか「ユー」と書くか。
これが日本人の繊細な感覚であり、センスだ。そこから日本語が他の言語に競べ、曖昧で非論理的なものとして発達してきた。
それゆえに、純文学というものが日本には存在する。日本語だからこそ育まれた世界であり、日本人のセンスが生み出した文学だ。理解したら死ね。 >>361
あ〜言えば、こう言う。ばかばかしい。貴殿など相手にしてられん。
勝手にほざいておれ。貴殿は小学生だな。 別スレだが、大学に文学部が無くなる傾向があるようだ。
確か、昔、女子大生亡国論がはやったが(その女子大というのは大半は
文学部だろうが)、このスレでやっている議論・・・なんて高尚なものでは
ないが・・・しているようじゃぁ文学部なんて無用だ。 文学部が不要なわけじゃなくて、日本の大学そのものが危機的な状況なんだよ。少子化で子供の数が減って、全入時代。
大学の数を減らしたいが、いっぱしの矜恃をそなえた教授たちの雇用問題もあり、反対されて思うようにできない。
だから、学部を減らしていこう、ということになって、文学部に白羽の矢が立った。それだけのことで、文学の重要度をはかるものではない。しかしバカにはそれがわからない。
こういったことがすぐわかる、つまり、人の心理というか、その社会の行動の裏に隠された人間の思惑、心情などを見抜くには、まさに文学作品を読むことによって培うしかない。
理系の人間はできない。
といっても、理系文系は関係ない。純文学作品に触れているかどうかによる。数学のできる人間は意外と他人の行動が読める。原因を探るセンスがある。
教授らの職を守るためにも、大学までの教育費を無料にし、一度卒業した大人であっても、本当の知識と教養を身につけるために、入り直せる、勉強し直せるようにしたほうがいいだろう。
そのためにも老人扱いをするのは80歳をすぎてから。60や65で定年退職してブラブラしてたら病気になるか、せいぜいクレーマーになるだけだろう。こんな社会システムは無駄以外のなにものでもない。
老害、お荷物となったそいつらにももう一度学校で学んでもらい、資産運用なり、社会に役立つような仕事をしたり、リーダーになったり、起業したりして、もっと人生を十分にまっとうしてもらいたい。
そのためにもまずは純文学と大衆文学の違いくらい理解しような? ↑正論だろうが、面白くない「文章」だな。ここの住人はマジメ過ぎるよ。
もっと短く書けよ。それと此のスレ、もうスレ落ちろ。 正論じゃなくて暴論として書くけど、正論が嫌いってのは単なるクソサブカルなんだよな。今、何が正論かなんて本当はわからないでしょう、とか声高に主張してるのが最果タヒという作家なんだけど、ほんと下らない意見だと思う。そんな事わざわざ言葉にする必要ないよ。 浅田彰や中原昌也がそれを言うならわかるけどさ。最果タヒみたいな人がニヒリズムを隠そうとしないのは、僕にはものすごく幼稚に見える。 >>365は違うかも知れないけど、最果さんには「あなた本当は文化になんて興味ないでしょ」とか言いたいな。 ↑そりゃぁそうだろうよ。吾輩は名無しであるって書いてるんじゃぁないか。ハハハハ それでも、村上春樹のノーベル賞受賞が厳しい理由は、作品そのものにもあると小谷野はいう。
たとえば井上靖、遠藤周作、芹沢光治良などペンクラブ会長を務めながらノーベル賞受賞に至っていない作家もいる。
これについて、彼らの作品が通俗小説とみなされていたからではないか、と小谷野は推察している。
100年以上の歴史をもつノーベル賞なのでその受賞傾向を一概に語ることはできないが、
ひとつだけハッキリしていると小谷野がいうのが「通俗小説には与えられない」ということなのだ。
そして「春樹の作品は、ノーベル賞委員会が嫌う通俗小説なのではないかという気が私にはしている」。
とくに日本でミリオンセラーとなり海外でもヒットした『1Q84』の内容は、通俗恋愛冒険小説である、と。
純文学と通俗小説(エンタメ作品)との境界に意味があるのかというのは日本の文壇でよく議論されることだが、
海外でも純文学と通俗小説の区別はあると小谷野は断言する。
世界的に人気のあったフランソワーズ・サガンやグレアム・グリーンが受賞できなかったこと。
アメリカの作家で、フィリップ・ロスやドン・デリーロは候補になっても、ジョン・アーヴィングがノーベル賞候補として名が挙がらないこと。
それも純文学ではなく通俗小説あるいは中間小説とみなされているから。
そういう意味で、日本でも「春樹を飛ばして」多和田葉子や津島佑子、堀江敏幸のほうが可能性があるのではないかとも予測している。
http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/ ____
/ \
/ / \ \
/ (・) (・) \
| (__●__) |
\ ` ⌒´ ,/ ポストモダンのフランスの批評家にかぶれている日本の批評家を揶揄する言葉ですね。「ポモ」って言えば自分が彼らの言説を理解しているような気になれるから便利なのでしょう。そうじゃない人もいるのかも知れないけど。 ごめん、詳しくは知らないのにイメージで書きました(笑) 2月25日(木) 平成の「中間小説」
http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/02/25/100538.html
いやはや、驚いた。「中間小説の定義が変わってきているのを知っていましたか?」とある編集者に言われたのである。え、どういうこと?
中間小説とその時代、と副題のついた大村彦次郎『文壇栄華物語』には、
「中間小説はその発足時においては、純文学と大衆文学の中間にあって、
小説本来の面白さを追求する、というのが建前であった」と書かれている。
『新潮社100年』にはもっとひらたく、「中間小説とは純文学の作家が書く娯楽小説」という記述もある。
昭和二十年代から三十年代の前半にかけて小説新潮が部数を飛躍的に伸ばしたのは
その「中間小説」が当時の読者に圧倒的に支持されたからで、
それが昭和四十年代初頭、五木寛之、野坂昭如などの登場によって若者たちの支持まで集め、
小説新潮、オール読物、小説現代などの中間小説誌の全盛期を迎え、
やがて現代のエンターテインメントに繋がっていく──というのが私たちの共通認識だ。
今年古希を迎える私も、先日四十九歳になったばかりのその編集者も、同じように考えている。
ところが、最近の若い人にとっての「中間小説」とは全然異なるというのである。
彼らにとっての「中間小説」とは、ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説だというのだ。
その場にいた編集者諸君が全員、「嘘ーっ」と言った。「ほら、ここにも書いてあります」。
来年五十歳を迎える編集者が見せてくれたのは昨年の新聞記事で、それを見ると「平成の中間小説」という見出しのもとに、
ライトノベルとエンターテインメントの中間に位置する小説が現代の若者たちに支持されていると書かれていた。
具体的に言えば、新潮文庫nex、集英社オレンジ文庫、講談社文庫タイガなどの作品群である。
あれらはてっきりラノベを入れる叢書だとばかり思っていたが、ラノベではなく「平成の中間小説」だというのだ。
「受けるから各社が競って出しているんですよ」と言った。 小説を読んで「すっきりしない」とか「もやもやする」とかいうBBA 阿刀田高氏「純文学」という言葉が日本文学の発展阻害と指摘
http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14329.html
阿刀田高氏は1935年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、国立国会図書館に勤務。
『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。短編集『ナポレオン狂』で直木賞、『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。日本ペンクラブ会長を務める。
* * *
多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。
かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。
にもかかわらず二つの賞は厳然と存在している。極論すれば、ある種のセクト主義があるような気さえする。
これこそが日本の文学界が抱える大きな問題点の一つであろう。
私自身、意図的にエンターテインメントの書き手であることを選んで来たし、直木賞の選考委員という立場にもある。
したがって私の考えは一方的かもしれない。それでもなお、純文学という言葉は、日本の文学が広く親しまれることを阻害する要因だと思う。
純文学という言葉を使わなくなれば、日本の文学は世界に向かって大きく発展するはずだ。
※週刊ポスト2011年3月18日号 書店で平積みされてて気になったので図書館で予約。
やっと順番回ってきたのでワクワクと読んでみたけど
ナンジャコレ…
とにかく文章がつまらないし、取って付けたようなどんでん返し、それ必要だったの?というエピソードや登場人物…
作中に厨二病だと揶揄される登場人物も出てくるけど、この作者自身が厨二病なんだなと思わせる出来でした 批評家気取りの日本の負け犬マニアがジャンルをダメにしていく課程がよくわかるスレ。ロックも同じだし、たぶんこれから日本で生まれるジャンルもそうなっていく。ほんとにお前ら、バーゲン品みたいな大卒のダメな感じを出すのがうまいね 太宰治という大衆人気の純文学があるくらいだから、すでにもう区分け自体が無意味だよ。
純文的な読みと大衆的な読みがあるのでは。なんて考えてた時期もあるけど、活字はすべからく価値や思想の普及と固定のためにあるから、純文学だろうが大衆文学だろうが、大衆的な読みに収束する流れには逆らえない。
暴言混じりに引用で殴りあうような、読み手同士の議論なんて、10年前から猿のマウンティングとかわらなかったし、高校生のオモチャにもならないよ。 うちの近所の公民館にある図書館コーナー、小さいんだけど結構面白い本がおいてある。
お金払わずに済んだから節約したご褒美にへそくり増やす。主婦 純文学は作家自身のため、大衆文学は読者のために書かれる、以上。 >>399
ある奴のために書かれたら他の奴にはつまらなくもなる。だから面白いかどうかが基準になる。 _. -─‐-
/ ⌒ \
/ ⌒ (● ) \
/ ( ● ) 、_) ヽ
| (__ノ / |
ヽ  ̄ _ノ
>  ̄ \ >>402
納得するな。文学はすべて作家自身のために書かれている。
ただし、純文学は個性の強い作家。大衆文学は没個性だが型破りなキャラやストーリーを追求している作家。 「純文学」対「大衆文学」の違いなんて、もはや何の意味ももたないのに、ダラダラ続く空疎な「議論」の阿保くささ。
こんなバカなスレのスレオチを待ってるのだが、こんな書き込みすると、また生き返るか。矛盾だな。 何の意味もないというい奴には、何の区別もついていないのだろう。
日本人と朝鮮人の区別をするな、そこに何の意味もないのだから、みたいな。 史上最高傑作といわれるドン・キホーテは大衆文学?
シェークスピアも当時は大衆娯楽作品だったんだよね? >>404
その没個性がまさしく大衆に媚びているということでは?
読者のために書くとはそういうこと 大丈夫か?
庶民つーか大衆のほとんどが没個性だよ。
個性的な人間は100人に1人いるかいないか。だから純文学は売れない。
没個性の作家が自分の好むストーリー展開を考えて書けばそれが大衆に受ける。
だから自分が面白いと思うものを書け。てかそれしか書けないだろ。
読者に媚びて読者が面白いと思うものを書く? そんなことできるわけない。
もしそんなことが意図的にできたらそいつは神だ。まさに奇跡の人。この世界を乗っ取ることができる。 編集部が下手にそういうことをさせようとして全滅するw その没個性とやらとはなんだ?
仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか >>410
大衆文学が読者の娯楽の道具になってるのは現実にそうでしょ。手軽に感動できたり笑えたりするのを大方の読者は好む。そんな本が本当に読者の方を全く向いてないとでも思ってるの? >>412
>その没個性とやらとはなんだ?
価値観がほぼ同じということだ。
たとえば性欲があってそれに衝き動かされる。
金銭欲、物欲があってそれに目がくらみ考えや主張が変わることさえある。
>仮に大衆が没個性として、どうして純文学を読まないことになるのか
花より団子。純文学が花で団子が大衆文学。花を愛でるより団子を食いたい輩が多いってことだ。
またそういう輩が没個性の大衆の価値観だということだ。 大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる >>415
読者の花より団子というのは、作家にも当てはまるだろ。生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる >>414
それは作家自身が一番の読者だということだ。
作家といえど100パーセント他人を理解することはできない。
だから自分が読み手として面白いものを書く。作家にできるのはそれだけ。
「読者を意識しろ」というのはマヌケな編集者の方便。つまり読者ではなく、俺の言うことを聞いてくれ、みたいなところから来ている発言。
または、マヌケな作家志望者が、他の作家志望者に講釈を垂れるときの決り文句か。ようは、考えが浅い。 >>416
>大衆文学にラノベも入るよな?あれ見れば如何に読者に媚びてるかわかる
逆だろ。いかにラノベ作家の性癖、性的嗜好のためだけに書かれているかわかるものだ。
そこに担当編集者のそれも合わさる。つまり作家と編集者のオナニーごっこ。 >>417
>生活のために売れる本書いてるやつは沢山いる
いや、いないだろ。むしろ売れる本を書いてる作家こそ自分の好きにやれる。 >>416
おかげでラノベも衰退してきたね
一般文芸もそんな感じで、衰退し始めているところかな >>418
作家が一番の読者であって、ただ自分のために書かれた小説がある事は別に否定しないぞ。
ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
自分が面白いから相手も面白いとか考える時点で大衆に媚びてるんだよ。それが大衆文学だ。 >>422
>ただ、自分自身を癒すために切羽詰まった動機で書かれた作品は面白いとか面白くないとかの次元ではないだろう。それが純文学だ。
純文学は癒しが目的ではない。作家の自己肯定のために書かれている。
だからどんな最低な人間でも書くことで癒やされる。肯定されるから。
つまり、純文学とは、自己肯定。
そしてその作家の自己肯定に賛同できる人間は、それを読むことで癒やされる。 >>423
いや、それはまさにおまえ自身のことだよ。
自覚、あるだろ? >>424
それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
俺が癒しというは、初期の大江健三郎が衰弱して病んでその快復を目指して書いたことや、堀田善衛の何かわからないけども書かねばならぬのだという欲求、さらには北杜夫の躁鬱病からの救済のことを言ってる。 >>426
>それはお前の願望だろ。作家の苦しみは人それぞれ。
いや、人それぞれであってほしいというのが願望。
>>427
働いてみればわかる。仕事と奴隷の違いが。
老人たちはみな寿命を迎えた臥所で「もっとちゃんと自分と向き合えばよかった」と後悔して死んでいく。そうなるまえに向きになれ。
>>428
具体的な名前が出てもみな同じ方向に動いているのがわかる。つまり「生」とは自己肯定にすぎない。真実はシンプル。 >>429
402だが、俺は426の意見の方が説得力感じるわ。お前の「自己肯定」論は独断的でしっくりこない >>430
それは>>426程度に頭が弱いからだ。少しおまえのレベルを上げてやろう。
そのまえにアンカーを振るときは「>>」を番号の前に打て。それが読者を意識するということだ。
大抵の人間は「自己満足」のために生きている。まさにそれが大衆というものだ。
しかし自己満足だけでは高度な自己実現はできない。だから優れた人間は成長とともに我慢を覚える。その過程で、自分を見つめることになる。
何のために、我慢しているんだろう、何のために、こんなことをしているのだろう、何のために、生きているのだろう、と。
そういった自分に対する疑問はいずれ自己否定へとつながる。高すぎる理想ゆえに、最悪の場合、生きていてもしょうがないと思うようになり、自殺する。
自殺しなかった人間は「自己肯定」つまり生きる力を得て生きながらえている。
むろんただ薄ぼんやりと「自己満足」のみで生きているその他大勢には無縁のことだ。彼らは辛いことがあっても満足させるものを探し一時の快楽でストレスを解消する。
何をするにしても、どんな苦難にぶち当たろうと、抗いながら「自己肯定」することで、乗り切れる。逆にそれを失ったら、濁流に呑まれ、もう死んでもいい、となる。
論ずるまでもなく、これは高潔な精神世界での出来事だ。
「自己肯定」の「自己」とはまさに「個性」だ。他人に認められるものだけが、また他人に賞賛されるものだけが、個性ではない。
ときに個性は人々から忌み嫌われ、神からも見放され、全否定される。多くの天才たちの苦悩はそこにある。
どうせ理解できないだろうから、まとめておくと、
大衆とは自己満足で生きる者。それが大衆文学。
個性的な人間とは己肯定で生きている者。それが純文学。
と、まずはそういう括りで、自分の思索を深めていけ。他人に説得力を求めているうちはおまえはまだ自分の哲学をもっていない。お話しにならないレベルだ。 >>431
救えないぐらいのウルトラエゴイズムだな。僕は他人とは違う!と手放しに認めてほしいってことだろ。お前のコンプレックスに満ちた人生が透けてみえるわ。
ただ、そうやって大衆を見下せば見下すほど、お前の凡庸さ、没個性とやらが証明されるんじゃないのか?
なぜならお前は
天才でも純文学作家でもないからだ
お前のエセ哲学には決定的な矛盾がある。もっとよく考えてみろ頭でっかち。 >>431
細かいことを言えば、自己肯定は結果論だ。作家がペンをとっているまさにその瞬間は、自身の苦悩をなんとか癒そうとする過程だ。後々、それで救われるかもしれない。しかし、幾度となく訪れる自己否定の連続と戦うことこそ文学なんだよ。
むしろニーチェの言う超人のような奴は、そもそも文学など必要としない。お前の言葉を借りれば、純文学とは自己否定を否定する試み。それこそ癒しだ。 どいつもこいつも唯我独尊。恥ずかしくないのかねぇ。だから文学屋と俺は性が合わないんだな。 ./ \Yノヽ
/ ( )( )ヽ
/ ⌒`´⌒ \
| , -) (-、.|
l ヽ__ ノ l |
\ / 何が純文学か?なんて、時代によって変わるだろ
作品内容で純文学を定義するのは不毛だ
前にも書いたけど、文芸誌に載ってるのが純文学
文芸誌の新人賞で出てきた人が純文学作家
こんな感じの大雑把な括りで純文学ムラがあって
ムラの住人が書いてるものが純文学、でいいと思う
内容じゃなくて周辺事情で決まる いや純文学は日本だけの文学だから。
情感つまり情操が表現された小説。 純文学と大衆小説は神話と民話の違いと同じだ
前者は現実にあったことあり得ることとして語られ、
後者は現実とは別の世界の話として語られる
基本両端がこれで、中央あたりでは分けにくくなる ↑
と、自分の意見も言わず説得力なんてことを申しておるバカがおりますwww シェンロン
今日の上方講談、面白かったなあ。「〜とは申しません」という話運び、完全に後の司馬遼太郎が引き継いでるやつやなあ
純文学と大衆文学という区別が何でつくか、というのはよく言われるけど純文学が三遊亭圓朝の速記から産まれたのにたいし、
大衆文学が講談の速記というルーツをもつという比較はできると思う
2016年5月27日 >>440
カフカ、マルケス、ボルヘス、バロウズ、ベケット、ピンチョン、ヴォネガット、ディック、ブルガーコフ、グラス、安部公房、残雪、ロス、大江健三郎、村上春樹
非現実を描いた純文学なんて文学歴半年の俺でもこんだけ挙げられるんだが wake up TV君宣伝やめーや
芸術性か面白さ、どちらを優先するか、あと載る媒体 夏目漱石の『こころ』なんか純文学でも有名だけど、構造的にはミステリーで
どんどん読み進めたくなるよね?
でも大衆じゃないのは、重点を置いてんのが「謎」ではないから
どの小説にも、内容、表現、技法、構成、構造とかに双方の要素が混ざってるけど、重点を置いてる方はあるだろ
そうでなければ、ただの迷作
例えば『こころ』をミステリーにしたいなら、主人公の私がKの死の真相を求めようとするシーンをたくさん作ればいいし、ホラーにしたいなら、先生が幻のKの亡霊に怯えていればいい
どこに重点を置いて書いたかってこと
皆が惑わされてるのは迷作があるから 治癒しない心の傷に関わるのが純文学?
という意味のことを北原武夫が言ってたような。
これは純文学の一面に過ぎないが。
江戸時代の娯楽文学の伝統を継ぐのが大衆文学? 両者を区別して必要以上に純文学を高みに置く悪習はいい加減で止めなければ。 新潮社がたまに発作のように売り出す芥川賞(候補含む)作家の主観文学も十分大衆文学だと思うけどな
この点に関しては大宰治や宮沢賢治の時代から続く伝統と言えるかもしれない
作家を含めたキャラクター商売でなまじっか芸術として語れる分エンタメよりたちが悪い
定着しすぎた区分けだからどうしようもないけど
個人的には大衆文学純文学と区分けしてさらに位置してるジャンルだけで価値の優劣をつけてファン同士が争うのは関心しないな
推理小説だって近代的な人間悪の創造として語ることができるし
ラノベがマンガの小説版として売れてるならそれはそれで活字のスピード感という視点に立てば立派な研究対象じゃない?
活字というのは普及を担っているから純文学の批評を読んで名作だから名作と通俗的な読みに収束するのは自然な流れだけど
報われずに動物化したインテリとまでは言わないけど、純文的な読みを放棄したまま純文優位だと言ってる人を見てるとなんだかなあと思うときがある >>447
おれは440じゃないけど
440は、現実に即したものを純文学と定義してるのに
あなた現実に即してないものを純文学としてる時点で
既に議論になってないのでは?
おれとしては純文学だとなエンタメだとか、そんな分類はどうでもいいし興味ないんだけど
明らかなコミュニケーションの軋轢を感じたので気になりました 説明するのも嫌になりそうなやつに絡まれてるなw
土台がないと響くものも響かないし ドナルド・トランプ「プーチン、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 むかしは私小説=純文学、時代小説=大衆文学で、読者層も違っていたのだろう >>408
そのへんは純/大衆というカテゴリーではなく、古典になってると思う
俺個人はその2つは正しくエンターテイメントだと思ってるが でも真面目な話、純文学って何?
日本の日常生活を書くだけというなら純文学とは実につまらんものだけど 純文学:作家の身辺を書く。
大衆文学:チャンバラ。 スレタイの疑問があったからスレの1から読んできた。
>>388の、この部分で疑問が解消できた、というか疑問自体が消失した。
>多くの人が知るように、芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントから選考される。
>かつてはこうした分類が存在する意味もあったのだろう。しかし、近年は二つのジャンルの垣根が低くなり、分類する意味を持たなくなっている。 文学とエンタメは違うよ
リアル鬼ごっこが文学だというやつは殺されるからね 大衆文学も読まれ続けて古典になると、後世の評論家により、作者も考えてなかったような意味深い解釈が付け加えられて純文学と化す 例えば何?
ちなみにドンキホーテは当時から立派な作品だと思われてたからなしな >>467
横からだけど
ギリシア喜劇
シェイクスピア
「トリストラム・シャンディ」
「パミラ」
あたりは後代への影響を考えて芸術的な文学としての意義を獲得したと言えるんじゃないの SFとかは?
あとゴシックロマンス、パルプフィクションも最近は研究・再評価が進んでる印象
蛇足だけど東一派が良く言及してるしラノベが再評価される可能性も充分あると思う てかもうジャンル分け自体が無意味なんじゃないの?
サブカルに言及していて、キャラクターが非現実的で、文体が軽快
現代文学の最前衛筆頭のピンチョン「重力の虹」だって箇条書きにすればここまでラノベらしくなるしね >>469
東一派とやらが文芸の世界でまったく評価されてないので難しいね
少なくとも東一派とやらの文脈では無理無理
過去にヨーロッパやシナではやりまくったエンタメのジャナンルで生き残ったのは
その形式を借りてインテリが書いたもの
「妖精の女王」とか
そういう作品が出てくればラノベの中からも後生に残り評価されるものが可能かもしれない
でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理 >でも基本的な文章力をガン無視してマンガやアニメやゲームのイメージに頼り切ってるラノベには無理
パルプマガジンは? そもそもパルプマガジンも大衆文学てやつになり得てない
局所的なもの 純文学の定義は難しいだろうが新堂冬樹の「無限地獄」なんかは大衆文学の見本みたいな小説と言える。 パルプマガジンも局所的ならラノベも局所的じゃね?
そもそも現時点で舞城や筒井康隆(時かけもラノベみたいなもん)産み出してるのに無理と断言出来る理由が分からん でも今の純文学でラノベに勝るのって保坂と松浦理恵子だよね
阿部も町田も才能枯れたし フィリップ・k・ディックはジジェクやボードリヤールやに引用されたり、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと比較して絶賛されたりしてるけど
ポストモダニズム以降、ディックより影響与えた主流文学ってあるの?
ピンチョンやバロウズもSFとも言えるし、マジックリアリズムは内輪で受けただけだしフォークナー1人のがよっぽど大きな功績残してるし 文学は剣より強いのか??
いじめ殺しを許さない社会にしようぜ!!!!
↓
上松煌(うえまつあきら) 作
★「九月の葬奏」(1作目「友だちを〜」と共に、作者の出生の本懐です)★
https://slib.net/71188
『作品紹介から』
初作の『友だちを殺した』と共に、作者の出生の本懐といえるものです。
世間を震撼させた「多摩川・中学生虐殺事件」に衝撃を受け、日本社会に警鐘を鳴らし
たくて書きました。
時間のないかたは、後半〜末尾にかけての主人公の「独白」をごらんください。
社会のあり方、人間の人間たる倫理正義・矜持襟度・慈悲情愛の大切さを、死をもって
訴える場面です。 問題提起の性格上、過激・苛烈な表現があります。 2015年。
作順では5番目。
プロフィール ←作品けっこう意識高いぜ。命は大事にしろ。
http://slib.net/a/21610/
社会が傍観者ばかりになったら、コワイでぇ! >>468
俺も横だけど「パミラ」は逆パターンだ
最初、神のごとく絶賛されたけど今は正気じゃ読みきれない奇書 アンナ・カレーニナは今で言うNetflixのメロドラマくらいのものだと思う
わざわざアンナ・カレーニナを大衆文学と言い張るつもりはないけど、そこからの連想として言えるのは
大衆文学でも当時を知る資料になりさえすれば個人的かつ陳腐な美学の発露程度の純文学くらいなら軽く通りこして古典と称される可能性があるってことなんだよね
一方で現代の純文学や大衆文学と呼ばれるものに妙な垣根のなさを感じることがある
それを支える要素のひとつに通信機器の普及や変遷があると思う
「既読無視マヂムカつく」というセリフのある小説があったとして
それが世代、時代、時間のどれに強く属しているか計る術がなく、現代人が現代作品を古典に認定できない以上、この現象は後世の学者の選別眼の中にしかない
国会図書館って偉大だね >>480
典型になる作風と真似すると火傷する作風の違いじゃないかな
二元論や比較まではできてもそれを価値の上下にされても困る >>484
団塊じゃないし世代とキーワードだけってのはいただけない
なんか現実でイヤなことでもあったの? 団塊にしては文体若いかw
でも君500年前くらいの陳腐な当時の人気だった作品ちゃんと読んだことある?
陳腐なものはずっと陳腐だよ
「既読無視マヂムカつく」からなにか感じるものはあるかな?
名人芸や深い洞察がないとわざわざ人は手に取らないんじゃない >>487が言ってる手に取る基準こそが団塊ぽいと言うか現代人かつ純文読みに近い人が手に取る基準でしかないんだよ
大衆文学が古典や歴史的資料になる基準、どんな純文学がかえって陳腐化するかなんて現代人の常識の範囲をはるかに超えているってはなしをしてるんだ
芸で手に取る後世の研究者もいれば、そうじゃない研究者もいる
大衆文学は逆説的に純文より上って言いたいんじゃなくて、芸や人気だけが手に取る基準じゃなくなってしまう時間の残酷さを想像してほしいだけなんだよ >>487
ちょっと意地悪な事実だと
バッハがその当時三流作曲家だったことなら知ってる
ボルヘス誕生以前のメタフィクション作品が見つかったらそれがどんな駄文でもポストモダン文学の定義すらかえる
陳腐と呼ばれているものの中に陳腐じゃないものが混ざっている例もある ちがうなあ
ジャンルこだわってるのは君じゃない?
俺は素材なんてなんでも良くてそれをどう展開するかにかかってると言いたいわけ
>当時を知る資料になりさえすれば
これだけじゃ弱いんじゃねということ
あと研究者次元の話ならむしろ大概のものは読み継がれるだろうね
俺はアンナ・カレーニナの例でもうちょっと一般人に近い感覚を想像したけど >>489
バッハが三流扱いってロマンチックな伝説に過ぎないよ >>490
古典認定の話だから当時を知る資料ってだけじゃ重要度が弱いってことならそうかもな
しかも可能性の話だしね
自分の感覚だとここ10年前後の文学作品が古典になりうる可能性ってそうそうない気がするんだけどそこはどう思う? >>491
それはわかった
そしたら二段目についてはどう? >>493
文学に新しいものなんてないっていう文学研究者の言葉をどこかで見かけた
カフカの不条理な設定をエッダやトルストイの短編で見かけた
もちろん俺の勝手な読みかもしれんが
ボルヘス以前にポストモダンな記述を見つけたとしても
それはそれで価値あることだがボルヘスの功績は薄れないというのが俺の意見 >>494
いま噛み合わなかった理由がわかった
どのみち新しいものなんてないが前提だからどう運ぶかって芸での選択重視がすぐ出たんだ
人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど、この人よくニヒリズムに陥らないなって今ちょっと感心してる それはね大好きな作品があるからだよ
あと作品は結局いろんな要素が絡んだものだから目新しい技法ひとつで全てを塗り替えることはないんじゃないかな >>496
一番いい読者だ
俺さ自分の評価が時の洗礼だと思ってる人が大嫌いなんだよ
だからてめーらの価値づけなんざ意味ねえぞって釘を刺したくて>>483を書いたんだよね
そしたら素朴なお前が来て散々だわw
でも駄作が古典になる可能性だけは否定したくないんだよな ボルヘス以前にメタフィクション的な小説って『ドン・キホーテ』ってそうじゃねえの >>495
>人間そうは変わらないってことがわかってたら今後の文学作品なんて読む必要ない気もしないじゃないけど
こういう意見はたまに批評家なんかが言うけど、目的はきちがえてないか?
本を読むのは面白いから読むのであって、別に人間について知りたいとか副次的なものだろ
>>498
ルキアノス「本当の話」
もメタっぽい >>501
面白さと人間理解の両方かな
だからこそ純文大衆の区分けが無意味だと思ってるし好きなものは好きって世界を尊重してる
どうも、ビートルズを聴くようにサルトルをじゃないけれど
道徳の議論やら言語で統一理論が果たせると思ってるおじさんたちに耳を傾けすぎたかもしれない
やっぱり90年代の文藝春秋なんか小説目的以外で読むもんじゃないね
あんなものBLOGOSと変わらないストレス反応の墓場だ 横光利一曰わく
「いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。
純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。
しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、
しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘かんで分るではないかと人々はいう。
少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。
先まずあるなら、一般妥当と認められる理智の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない」
因みに純文学=私小説って大きな流れがあるなかでプロレタリア文学が台頭してきた時代だから横光もそれを前提に書いてる 「ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢こんていをなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。
思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、
しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。
先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人なんぴとにも思わせるのである。
また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。
それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。
しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ」 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ もともと純文学なんてジャンル分けは日本しか通用しないしね 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 歳くってきてからというもの、まどろむように物語に浸って読むのが好きになってきた
どきどきわくわくするようなストーリー展開がなくても
読後感がよければ満足感が強い>純文学 エンタメ小説や大衆小説はストーリー展開が激しくて読んでいてワクワクするような作品
純文学はストーリーは激しくないが、人間の感情や情緒に焦点を当てている
ような気がする 純文学ってなんで人気ないの?
大衆小説に客取られてるだけじゃないと思う >>516
ポプラ社なんちゃらよりははるかにマシだと思う 読んで作者の哲学や世界観を感じるのが純文学。退屈どころか、胸を掻き毟られる、
あるいは頭を抱えてしまう、なにかに心を打ち抜かれてしまう、そんな読後感。心を
とらえて離さない作品。それが純文学
だと勝手に思ってるんだけど違ってますか? 対する大衆文学は単におもしろいというだけの娯楽小説。司馬遼太郎など。
良くできていて読者の負担にならない作りをしている。 大衆文学は一つの決められた読み方しか出来ない
純文学は色んな観点から読むことができる
言語化以前の感覚をどう文字に置き換えて表現するかっていう作者の営みが高尚なものは純文学と言えると思う 純文学ってのは歴史的な産物に過ぎないんじゃないかな
18世紀の前半にはすでにノベル(純文学)とロマンス(英雄譚、魔法、超自然的物語)の対立があって、ロマンスの「荒唐無稽な想像力」を批判する
サミュエル・ジョンソンみたいな人もいるかと思えば、それを批判したジョン・ホークスワースみたいな人がいた。
ジョン・ホークスワースは叙事詩や古いロマンスに比べて最近のノベル(純文学)は現実に類似しているものの、狭い範囲の現実にとらわれて読者を楽しませる
力が弱いと指摘している。
「あらゆる文学作品のうちで、最も法外な、しかしおそらくは一般的に言って最も人を喜ばせるのは、超自然的な出来事が絶えず魔神や妖精によって
引き起こされる類のものである」
こうしてノベルにロマンスの要素が入った文学が流行し始めるつまりゴシックノベル。 人文学全般の方が純文学よりいいのに。
純文学たって日本の賞は異国外人移民が賞を取ることもまれな閉鎖性で、
僕は文学賞は選考推薦をたまにするけど、これからは前述それ以上の存在に
能えればいいのでは。 直木賞は個人の賞でないけれど、だいぶ進んでいると思うな。
賞金印税でくえない世界がおかしいな。日本で虚勢を張って
赤字など、残すべきじゃないよ。 文化人類学とか神話学における神話と民話の定義と一致しているので
伝統的なそれらのほぼ20世紀的なバリエーションと言えるのではないか 文学理論話だと思うので質問
吉岡実は自分の作品を古典主義と言ってたけど
これってどういう意味合いなの?
純文学とかの「純粋」を否定してる? このタイトルを考える場合、社会において芸術家とは何かというのがヒントになる。で、芸術家とは何かというのは、石川淳のエッセイ「芸術家の人間的条件」に明らかである。 語彙とテーマと言語空間の違いだよ。
申告制だからね基本的に。
黙ってると松本清張のように原稿が直木賞から芥川賞に回される事だってある 俺の感覚で言えば、不如帰や金色夜叉は大衆文学だな
当世書生気質も文学史上では大変意義あると認めるが、
内容は、森見の腐れ大学生を描いた話と変わらん 大衆文学と純文学って分ける意味あんの?
芥川賞か直木賞か区別しないといけないから? 小説は名作か駄文かの2種類ね。
または面白いかつまらんかの2種類。 話に明確なオチがあるのが大衆文学。
オチが曖昧でも許されるのが純文学...ていうか時にはそういう手法も取り入れるということか。 >>537
わりと明確なオチや、劇的な結末がないと納得しないのがエンタメファンだけど
泣く笑う怒る喜ぶというハッキリとした感情ばかりが人間の心ではなくて
本来人間は、もっと微妙な心の動きや葛藤があるとういうことまで表現するのが純文だと思う 書くための動機が違う。
大衆小説はよく売りたいという「希望」があるのにたいして、近代文学の傑作は「絶望」から出発している。
一見同じようだが、天と地くらい違う。 >>539
じゃ純文学は売るなよ
ブログにでも書いてればいいのであって ある物語に主人公がいて極悪非道の大ボスがいるとする
勧善懲悪的に主人公が悪党を倒すのが大衆文学、主人公が普通に悪に敗北するのが純文学
ご都合主義的に読者のウケを狙って通俗的な俗情に媚びず、
ネットミームで言うフラグみたいなあるあるな展開文脈を無視する
時には露悪的、胸糞的なリアリズムを活写する
大衆の評価や売れ行きを期待しない芸術のための芸術、文学のための文学、
それこそがピュアな文学、純文学じゃないかといえばそんなところ
>>7
川端の小説って退屈だから純文学
っぽく見えるだけの通俗小説じゃん
古都は特にそう その理由とは
どこを見て通俗小説としたのか
そこが肝要なスレ 明治から戦後まで小説を通じて人生を考えざるを得なかった日本独特の概念なんだろう
世界中どこでも小説に芸術性や思想的要素を求める少数派とエンタメとしての物語を求める多数派はいるだろうから
普遍的分類と思われがちだが 日本の純文学と大衆文学の違いは選考委員のメンツによって規定されていると言って間違いない
彼らをリスペクトした作品で有ればリスペクトした作家が選考委員している賞に与する文学
彼らを無視した作品は無視されるというね >>14
そうだと思う
古典に通じた人が書くと純文学
中国などでいう文人が書いたもの
そうでないのが大衆文学
だからと言って、純文学が優れているわけではないけど 問題提起をしても回答しない、読み手に任せる、伏線をはっても回収しない、読み手に委ねるのが純文学。答えは出ない、ドラマチックじゃない、完璧な人間はいない、それが現実だから。
問題提起に回答して伏線を回収するのがエンタメ。偶然の要素やご都合主義やチート設定や不幸てんこもりが多い。
支離滅裂なことを並べ立ててもそれが美的鑑賞に優れてるなら文学(芸術)として成り立つ
純文学はたしかに天性の才能がいるだろうけど、エンタメのほうが作業量は多くなりそう 人間は本質的に神話と民話という2種類のタイプの物語を求める生き物だ。
世界中、あらゆる時代にこれは当てはまる。
これが現代の日本においては純文学と大衆文学として展開されている。
それだけのこと。
両者の違いはリアリティーがあることと、フィクションを前提としていること。 >>549
神話にリアリティがあって、民話がフィクションだと
あんまり説得力ないですね >>550
チョット言い方が不味かったけど
神話は事実として語られるということ 大衆文学と純文学を対置させるなんてまだそんな古い価値観もってんのか >>553
民話は違うだろ
昔々あるところにって感じで
ストーリーの面白さが主眼になってる ウィキペディアで純文学を調べたら
英語版がない
これが実態
日本語にしかない概念
海外だとジャンル小説と普通小説が便宜上区別される感じかな
SFがカバーにサイエンス・フィクションとかかれ、普通小説がノベルとだけかかれるみたいな ストーリーを書けないやつが文章は上手いでしょと自慢したがるのが純文学
というイメージだな。 物語とは関係ない文字の並びから垣間見える美しさが文学の本質だからね >>554
世界大百科事典だとこうなってて、オイラも同様の認識:
〈民話〉には口伝えという前提があるので,創作民話という表現は,自己矛盾である。民話が含む範囲を具体的にいえば,昔話のほかに世間話,実話が多少口伝えされた伝聞実話,神話・伝説・昔話の一体となった話(沖縄などに多い),歴史的事実のようだが確認できない話などである。 小沢 俊夫 >>558
小沢健二の父親なんだな
民話が専門らしから、全部入るように見えるんじゃないの
でもそれだと神話との違いが出てこない >>560
神話には権威があるんじゃね
王家の起源とか、世界、国の起源とか
一方、民話はもっと周辺とか身近な出来事が基になってるかんじで、権威なく民間の伝承ってかんじ
どちらも何らかのもとねたはあると思う 神話は世界観・宇宙観を叙述する神聖なもの
民話は主に話の面白さを目的とする俗的なもの 神話民話
そんなものなんの関係もない
なにトンチンカンなこと言ってるんだ 神話的なもの民話的なものを人間は普遍的に求めるものであり
それが現代日本では純文学大衆文学に対応するのではという仮説 小説のセリフはどこか乾いた感じがする
ただの口述記録のような印象を受ける
それに比べて、ドラマは小説よりセリフに凄みがでるから感情移入しやすい気がする
文字の限界か 純文学=文學界新潮群像すばる文藝に載るもの
大衆文学=それ以外
で問題ない
例えば、三島由紀夫が週刊新潮で連載した作品は大衆文学、新潮に載せた作品は純文学、
松本清張も新潮に載せた作品は純文学、小説新潮や週刊新潮に載せた作品は大衆文学、とすればそれで良い。 純文学は売れなくても賞がとれればいい。
大衆小説は売れないと賞がとれない。 サリンジャーのナインズストーリーと
スティーブンキングの刑務所のリタヘイワースをどちらも原文で読んだけど、サリンジャーの独特の雰囲気のほうが勝ってる気がした
あくまでも個人的な意見 純ゲームとかはないし大衆ゲームとかもない
でも純文学と大衆文学の区別はある
時代による でも文章の芸術性を破棄してしまったら、
別に小説なんか読まずに漫画とか映画見てればいいんじゃねとは思う 今は境界は曖昧になりつつあるけど
60年代くらいの混ざりぐあいはすごいな
三島由紀夫の春の雪みたいのがある一方で、
松本清張の黒い画集なんかもあるんだからな
同時代にあったというのがすごい 昔は帝大出が書く西洋化されたものが純文学
江戸からの流れのものが大衆文学だったろうから 日本は西洋的近代文明を知識として取り入れたから
明治以降小説家や文芸評論家が知識人のトップランナーの位置づけだった
純文学をありがたがるのはその時の風習 >>575
だよね、オイラ的には漱石は知識も詩心も傑出してるけど、鴎外は知識だけの優等生に感じる
露伴、湖南あたりの西洋にあまり強くない人は評価されないのも残念 純文学という言葉を最初に用いたのは北村透谷だっけ
西洋の影響は否定できないね
西洋と漢籍の両方の教養を備えていたがゆえにかえって、鷗外漱石は西洋崇拝の終わった現代でもなお読むに耐えるのは皮肉 松本清張は娯楽小説のなかに純文学的な要素をとりいれた最初の作家って書いてあったけどなるほどなと思った 人は小説のなかに物語性を求めるのと同時に、人生に関わる重いテーマや文章の芸術性も求めるという強欲ぶり >>578
清張は松本文学と言ったりする人もいるが
完全なエンターテイメントだと思う 江戸川乱歩も最近岩波文庫に入ったりするけど、微妙だよね
たしかに初期作品は耽美派の意味で意欲的なのもあるけど、蜘蛛男以降は完全なエンターテイメントだし >>579
どっちもあればいいじゃない
物語の中に人間も社会的テーマも入っていて面白ければいいんじゃないの?
つまらないものを純文学だと保護する意味がわからない 夏目漱石はやはりA型か
理想主義なところが彼を破滅させた そもそも神話的な物ってどんな物なのか一ミリもわからん
なんかすごい物って感じで適当に言ってね? >>585
漱石先生はおっしゃいました
文学の基礎は「善」「美」「真」「荘厳」「知的好奇心」の五つでてきてる
このうち善や知が強くなればエンタメ寄りとなり
美や真が強なれば文学寄りとなる
どんな三文小説でもその作者のものの見方を内包した文学作品であり
どんな一流文学でも読者を楽しませるために書いたエンターテイメントである 今はたとえば古事記などの神話でも事実と思うやつはいないから
逆に神話という言葉の意味自体が不明確になっているのだろうが
もともとは世界の始まりとか人間の誕生とか、人間とはなんなのかとかを
シリアスに伝えるみたいなものだった
というようなことはウィキでも分かると思う 大衆文学は短期投資。今売れなくては話にならない。
純文学と言われるものは超長期投資。100年後に長く売れることが目的。 短期での利益回収を目的に投資するなら大衆文学で、
超長期での利益を目的に投資するならそれは純文学となる。
ちなみに文章の芸術性やら云々というのは、超長期での利益を狙うための手段にすぎないが、これを錯覚すると本質が見えなくなる。
ちなみに短期であれ超長期であれ、利益(ベネフィット)を全く考慮に入れない「文学」が存在した例はない。
そういう「文学」が存在すると信じているのは、得てしてロマン派の錯覚であり、転倒の産物である。 大衆文学は何が書かれているかが大事
純文学はどう書かれているかが大事
大衆文学は一回読んだら二度読もうと思わない
純文学はスルメのように何回でも読める だからやはり純文学は教育に向いてるし学問に近いと思う >>591
そりゃ単にあんたの好みだ
俺は大衆だろうが純文だろうが一回しか読まない >>591
むしろ話は逆で
純文学こそ何が書かれているかが大事、大衆小説はどう書かれているかが大事ではないかと思う
大衆文学はSF・歴史・ロマンス・ミステリ・ホラー等のジャンルの枠の中に収まる題材しか書くことができない
あくまでその枠内のバリエーションでしかないから何を書くかよりどう書くかが重要になってくる New Century New Cinema
ひとはイメージという病にかかった
2009/01/15
ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、
この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、
後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々は
ヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを
批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。
フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、
今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。
問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、
映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった
「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。
それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、
かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、
イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、
あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、
互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。
そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって
解き放たれることができるようにする現代映画は、
イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。
©Akasaka Daisuke 公募ガイド
書くために学ぶ文学史4:近代文学の潮流 大正・昭和編(鈴木信一先
生インタビュー)
2024/02/22
明治維新とともに印刷技術が普及し、世は新聞創刊ラッシュを迎えます。当時、新聞には二種類あり、
大新聞は政論中心のインテリ向け、小こ新聞は大衆紙で、食いっぱぐれた読本作家や戯作者は小新聞で
活躍しました。最初は雑報を書いていましたが、のちにこれが新聞連載に発展、明治10年代の人気は毒
婦物と白浪物、つまり悪女と怪盗でした。
明治20年代は黒岩涙香の海外探偵小説翻案物が流行。尾崎紅葉の硯友社は小説大衆文学の台頭に娯楽性
を求めていましたが、涙香のせいで本が売れなくなり、探偵小説人気にあやかって『探偵小説叢書』を
出版、しかし、結果は惨敗だったそうです。
また、三遊亭円朝などの速記講談、立川文庫などの書き講談、講談倶楽部の新講談など庶民の娯楽が人
気を博し、なかでも明治44年創刊の講談倶楽部(現「小説現代」)は昭和10年当時、発行部数50万部と
いう怪物に成長します。
文学史で言う上の文学は、それまではこれら下の文学を別種のものとし、自分たちに対抗するものとは
見なしていませんでしたが、大正時代には純文学×大衆文学という構図ができ始めます。
大正15年、芥川龍之介は中央公論誌上で、「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込
んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」と言い、昭和10
年、横光利一は『純粋小説論』の中で「純文学にして通俗小説」の実現以外に文芸復興はないと説きま
す。
戦後は通俗性やストーリー性のない純文学はますます売れなくなり、各出版社は危機感を覚えます。
昭和22年、林房雄は「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」と発言、久米正雄
はこれを中間小説と言い、日本初の中間小説誌『小説新潮』が創刊。『オール讀物』『講談倶楽部』も
中間小説誌になり、活況を呈します。
現在、中間小説という言葉はほとんど使われません。それは中間小説がなくなったからではなく、市販
されている小説の大半を占めているからかもしれません。
そして、中間小説の中には、今では純文学より遥かに重いテーマを扱ったものがあると言われていま
す。 現代ビジネス
2023.12.21
芥川賞作家・市川沙央さんが語った「結婚観」「大学へのコンプレックス」「日本の
教育」「理想の作家像」
市川 沙央 , 村嶋 章紀
市川:いわゆるキャラクター文芸というジャンルのものですが、
・世紀転換期ウィーン。建築家志望の伯爵令嬢が失踪した姉を探すうち、恩師の遺し
たオカルティックな設計図に絡み、昔マイヤーリングで死んだルドルフ皇太子を生き
返らせようとする諸民族独立連邦化構想カルト集団の企みに巻き込まれていく話。
・戦間期イギリス。かつてMI5に両親を殺されて拉致された公爵令嬢が正体不明の男
に救出されてスパイ教育を受け、嘘を判別できる共感覚を武器にドイツ諜報機関アプ
ヴェーアのスパイとなって母国に赴き過去の真相を探る話。
・ある日突然お前は天才人形師が作った文楽人形の生まれ変わりだと祖父から告げら
れた帰国子女の主人公(女子高生)。人形師の生まれ変わりらしい無口なくろごの少年
とともに各地に散らばって呪具化している人形のパーツを回収せよと命じられ……。
ラブコメ。
市川:怒りの作家のままでいてほしいというお声はちらほらいただいています。私、
もともとエンタメではハッピーエンドのラブストーリー専門だったんですけどね。
(笑)あれはスピーチに恨み節で起伏をつけてからのポジティブな〆はやっぱりラヴだ
ろうと思いまして……。ただ「愛の作家」は難易度が高いんですよ。芸術性と愛は両
立が難しく、通俗の烙印を押されがちなので。だから将来的にはその難しいことをや
るんだという、向上心が込められています。
市川:作風はオールラウンダーを目指したいです。また、難病・障害者というと命を
削ってとか燃やしてとか大袈裟な形容がつくイメージもありますが、削らず燃やさず
普通にやっていきたいです。 「直観を磨くもの ―小林秀雄対談集―」[小林秀雄ほか著, 新潮文庫]
「例えばフランスですと、近代になっても文学運動の先端を切るとか、革新的なことをやる
とか、そういう事は詩人がやった事が多いのです。二十世紀になってもそうなのですが、日
本では外国文学が入って来て詩人の権威というものが近代文学の中になくなって了ったので
す」
「だから文学の先端を切るのは小説家という事になった。ところが小説という形式は、もと
もと社会的な大衆的な形式なのだから、そこにいろいろ日本独特な動きが現れたわけです。
純文学と大衆文学との異常な対立という事も日本でなければ考えられぬ現象です。日本で
は、文学の指導性というものを小説家が握っているという事になったから、そうならざるを
得んのです」
「純文学なんていう言葉も妙な言葉です。純文学運動は小説の運動というより、寧ろ西洋流
に言えば詩の運動なのです。小説の形式で詩を書いているのです。それが日本の純文学」